2017年11月18日 (土) 11:57:00

今週の読書は経済関連の本も多く計9冊!

今週の読書は経済や経営関係も多く、また、正面切っては健康問題を取り上げながらも、実は経済社会的な不平等とか貧困が健康の背景に存在する、といった指摘の鋭い本を含めて計9冊です。私の読書のベースは少し離れた図書館に、スポーツサイクリングの趣旨も含めて、週末に自転車で乗り付けて本を借りる、というスタイルですので、先週末のように3連休がいいお天気だったりすると、こんなに数を読むハメになったりします。逆に、今日のように土曜日が雨がちだと、来週の読書はショボいものになりかねません。

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まず、白井さゆり『東京五輪後の日本経済』(小学館) です。著者はエコノミストであり、1年半ほど前まで日銀政策委員を務めていたんですが、白川総裁のころの政策委員でしたので黒田総裁になってから金融緩和策に賛成票を投じないケースもあったりして、再任はされませんでした。もともとは国際通貨基金(IMF)のエコノミストなどをしていて、私の専門分野である開発経済学や政府開発援助の分野にも詳しく、私も何度かお話した記憶があるんですが、今はすっかり金融専門家のような立場で日銀政策議員経験者としての価値をフルに活かそうという姿勢をお持ちのようで、それはそれでいいことではないかと思います。ということで、ほぼ1年前にこのブログでも取り上げた前著の『超金融緩和からの脱却』が、その読書感想文でもお示ししましたが、日銀事務局から提示された日銀公式文書をきれいにエディットすれば、前著のような仕上がりになる、という意味で、黒田総裁の指揮下にある現在の日銀金融政策についての適確な解説書になっていた一方で、本書については、よくも悪くもエコノミストとしてのご自分の見方が示されているような気がします。例えば、本書の冒頭、黒田総裁の下での日銀の異次元緩和で景気がよくなった点については、不動産はアパート建設などでバブルっぽい雰囲気を感じつつも、株価についてはピーク時に遠く及ばないのでバブルではない、と直感的な判断を下しています。そうかな、という気もします。そして、これも根拠をお示しになることなく、東京オリンピック・パラリンピックの開催前に金融正常化が始まる、と予言しています。これもそうかもしれません。少なくとも、テイパリングは始まるような気もします。他の論点もいくつか拾おうと試みましたが、どうも雑駁な内容に終止している気がして、前著との差を感じずにはいられませんでした。まあ、その昔の日曜早朝のテレビ番組の「時事放談」くらいの内容であると、期待値を高くせずに読み始めるにはいいかもしれません。

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次に、八代尚宏『働き方改革の経済学』(日本評論社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁出身の経済学者なんですが、何と申しましょうかで、今ごろこんなネオリベラリズム=新自由主義的な労働市場観を露わにした経済書はお目にかかれないような気がします。私はマルクス主義に見切りをつけて長いんですが、それにしても、ここまでむき出しで企業の論理に従った労働観もあり得ないような気がします。基本的に、労働市場改革は雇用の流動性をさらに増進させるものであるというのは判っていますが、本書ではもっぱらそれは資本の論理で企業の利益を高めるためのもののようです。例えば、女性雇用の促進や女性の管理職への登用にしても、女性の能力を活かし女性の生産性を高め幸福感の増進を図るのではなく、本書の著者の考えでは、企業の意思決定に偏りの内容にするためらしく、まあ、男性経営陣に彩りを添えるための方策のような位置づけなのかもしれません。何よりも、景気変動に対する雇用の調整という企業の論理が丸出しにされており、景気変動の際に雇用を守って労働者のスキルの低下を防止するという観点は本書にはまるでありません。特に私が懸念するのは、単なる景気循環における景気後退の期間だけでなく、何らかのショックの際に雇用をどうするかです。本書の著者のように企業の論理を振り回せば、雇用者を簡単に解雇できる制度がよくて、再雇用の際は政府の失業対策や職業訓練でもう一度スキルアップを図ってから企業に雇用されることを想定しているんではないかとすら思えてしまいます。いわゆる長期雇用の下でOJTによる企業スペシフィックなスキルの向上はもう多くを望めないにしても、企業は労働者のスキルアップにはコストをかけずに即戦力の労働者を雇用し、そして、景気が悪化すると、これまた、できるだけコスト小さく解雇できる、という点が本書の力点だろうと思います。そういった企業の論理むき出しの雇用観に対して、労働者のスキルを守り企業とともに労働者が共存共栄できる雇用制度改革の必要が求められているんだと私は思います。それにしても、繰り返しになりますが、企業の論理丸出しのレベルの低い経済学の本を読んでしまった後味の悪さだけが残りました。その昔に、消費者金融の有用性を論じたエコノミストもいましたが、決して消費者金融会社の利益を全面に押し出した論理ではなく、借りる方の流動性制約の緩和などの観点も含まれていて、一見するとそれらしく見えたものですが、本書については労働サイドの利益については、まったく省みることもなく、すべての労働市場改革を企業の利益に向けようとする意図があまりに明らかで、私にはうす気味悪くすら見えます。

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次に、テオ・コレイア『気まぐれ消費者』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社であるアクセンチュアの消費財・サービス業部門の取締役であり、30年超のキャリアがあるそうです。英語のタイトルは The Fluid Consumer であり、邦訳タイトルはかなり意訳しつつもよく意味を捉えているような気もします。なお、タイトルでは "Fluid" を「気まぐれ」と訳し、本文中では「液状」の語を当てています。2017年にドイツで出版されています。ということで、デジタル時代の消費者へのマーケティングについて論じていて、その特徴として、ブランドに対する忠誠が低い点を強調し、何かあれば、すぐにブランドを乗り換える、と主張しています。その原因を精査せずに論を進めていて、それはそれで怖い気もするんですが、インターネットが発達したデジタル時代に、ブランド・ロイヤルティの低い消費者となった大きな原因は情報の過多であろうと私は考えています。すなわち、消費の選択肢が多くなり過ぎているわけです。でも、この消費の選択肢の多さについては個別の企業ではどうすることも出来ませんから、まあ、何か政府の産業政策で強引にブランドの集約が出来ないわけでもないんでしょうが、取りあえず、企業に対する経営コンサルタントとして、ブランドン・ロイヤルティの低い消費者への対策を考えているんだろうという気がします。ただ、デジタル時代の消費者については、リアルな店舗での買い物からネット通販へのシフトを考えると、選択肢の大幅な増加に加えて、ロジスティックへの過度の依存も観察されると私は考えています。すなわち、消費者の選択肢が広がり、今までになかった消費生活が楽しめる一方で、運輸会社の負担が高まり、運輸会社はそれを運転手個人個人に転嫁している気がします。それが、アマゾンが大儲けをして、ヤマト運輸が価格改定に熱心で、運転手への未払い給与がかさんでいる原因のひとつではないでしょうか。そして、もうひとつの問題は、消費のための所得が不十分な水準に低下して行く可能性です。リアルな店舗で在庫を維持するコストよりも、大規模な倉庫で在庫を集中管理してロジスティック会社に輸送を請け負わせる方がコストが安いゆえにネット通販が繁盛しているわけですが、逆から見て、コストが低いということは賃金支払いが小さく消費者の所得が低くなってしまう可能性があるわけで、コストを切り詰めて消費の原資を小さくするという形で、現在の日本で見られるような合成の誤謬がネット時代には大きくなる恐れがあります。

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次に、ダニエル・コーエン『経済成長という呪い』(東洋経済) です。著者はフランスのパリ高等師範学校経済学部長であり、『ル・モンド』論説委員も務めていますが、エコノミストとしての基本はマルクス主義経済学者であり、私は何冊か読んでブログの読書感想文にもアップした記憶があります。フランス語の原題は Le Monde Est Clos et le Désir Infini であり、2015年の出版です。直訳すれば「世界は閉じており、欲望は無限」ということになります。邦訳タイトルは私にはややムリがあるような気もします。今まで私が読んだこの著者の本は作品社から出ているケースが多かった気がしますが、この本は東洋経済という経済のシーンではかなりメジャーな出版社からの発行です。ということで、マルキストにしてはかなり観念的な叙述が多い気もしますが、第1部と第2部と第3部に分かれており、第1部で大雑把な経済史をおさらいした後、第2部では理論的な側面も含めて経済学的な概括を行いつつ、最後に結論に至らず悲観的な結末が提示される、という構成になっているように私には見受けられました。テーマはポスト工業社会の進歩の方向であり、ケインズが予言したような1日3時間労働の社会がやって来そうもない中で、先進国では成長が大きく鈍化し、これから先の生活がどこに向かうのか、という点が関心の中心になります。私も同意しますが、本書ではいわゆるデジタル革命がポスト工業社会の画期的な生産性向上や高成長をもたらさなかったのは、どうやら事実ですし、先進国の多くのエコノミストが長期停滞 secular stagnation を話題にしているのも確かです。私にはよく判らないんですが、成長を諦めて何らかの別の価値観を基にした生活に「大転換」すべき、ということなんでしょうか。本書の著者は、定住と農業の開始といわゆる産業革命を2つのカギカッコ付きの「大転換」と考えているようですし、次の3番目の「大転換」はマルクス主義的な社会主義革命だったりするんでしょうか。それとも、デジタル革命ですらなしえなかった「大転換」が、とうとう、AIやロボットによるシンギュラリティで実現されるんでしょうか。そこまで本書の著者は踏み込んでいませんが、本書のような観念的で結論を明示することなく、悲観的っぽい方向性だけを示す本は日本人が大好きな気もします。

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次に、マイケル・マーモット『健康格差』(日本評論社) です。今週の読書ナンバーワンです。著者は英国生まれの研究者であり、世界医師会長を務めたり、女王から叙爵されたりしているエスタブリッシュメントの医師です。英語の原題は The Health Gap であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳です。2015年の出版です。一応、医学博士が書いた健康格差に関する論考ながら、ほとんど経済書と考えてもよさそうな気がします。すなわち、本書でも強調されているように、決して病原菌やウィルスへの対処も健康維持に必要であり、銃刀などの規制を強化すれば死者やけが人が減る、といった事実を否定するつもりは毛頭ありませんが、健康に関しては経済社会的なバックグラウンドが重要である点をもっと我々は知るべきだと強く強く実感しました。開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、大いに共感する部分がある本でした。喫煙はもちろん、過度の飲酒や運動不足などは健康を損ねるという認識は、かなり一般に広まっていることと思いますが、じつは、禁煙し飲酒を適度な範囲でおさめ、栄養バランスのよい食生活とストレスの少ない職業生活・家庭生活を送り、適度な運動を定期的に行うためには、それが途上国の国民ではなく、先進国においてであっても、それなりの所得の裏付けもしくは何らかの補助がなければ不可能だという事実から目を背けるべきではありません。その意味で、健康格差のバックグラウンドには所得の格差が存在し、あるいは、不健康の裏側には貧困が潜んでいると考えるべきです。もちろん、本書の著者は所得の格差を許容しないとは主張しませんが、所得が不平等であっても健康状態に関しては格差のない政策を探るべきであると強調しています。そして、本書の表紙見開きにあるように、世界中を巡り回っていろいろな健康に関する実例を収集し、判りやすく本書でひも解いています。エコノミストとしては、健康と富の因果関係について、p.111 で展開されている議論、すなわち、健康は富への投資である方が、その逆よりも方程式でモデル化しやすい、というあまり高尚ではないイデオロギーを少し恥ずかしく思わないでもないんですが、グレート・ギャッツビー曲線による貧困の世代間の継承、失業の健康への悪影響などなど、経済学を本書では後半に応用している点も忘れるべきではないと考えています。最後に、気になる点をひとつ。著者のグループは英国ロンドンのホワイトホール研究で、数多くの公務員を対象にした健康調査を実施しており、やはり裁量が大きい上級公務員は健康になりやすいバイアスがあると確認していますが、逆に、私のように出世できなかった公務員は裁量が小さい分、もっと出世した上級公務員よりも寿命が少し短かったりするんでしょうか?

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次に、スヴェン・スタインモ『政治経済の生態学』(岩波書店) です。著者は米国の政治学者なんですが、かなり経済学の分野でも有名で、その際は、公共経済学ということになるのかもしれません。実は、私が2008-10年に地方国立大学の経済学部教授として出向していた折に同僚だった財政学の先生との共著がこの著者には何本かあります。何と申しましょうかで、その同僚財政学の先生が准教授から教授に昇格なさる際の資格審査委員を、誠に僭越ながら、私が末席を占めていたものですから、その先生から提出された、か、あるいは、私か誰かが独自にネットで調べたか、の業績リストにあったような気がします。官界から学界に出向の形で経済学部の教授ポストに就いて、准教授の先生の教授昇格の資格審査をするなんて、今から考えると、誠に僭越極まりなく恥ずかしい限りです。本題に戻って、本書の英語の原題は The Evolution of Modern State であり、2010年の出版です。ということで、大きく脱線してしまいましたが、本書は英語の原タイトル通り、進化生物学をスウェーデン、日本、米国の3国に応用し、制度歴史学派の立場から政府や公共経済などを解き明かそうとの試みです。どちらかといえば、私はその試みは成功しているとも思えないんですが、少なくとも、学術初夏ならとても平易で判りやすい内容です。大雑把に、スウェーデンは北欧の高福祉国であり、その財源の必要性から高負担でもあると考えられています。そして、米国はその逆で、政府が社会保障により格差是正や最低限の国民生活を保証するのではなく、自己責任で生活するように求めるワイルドな国であり、日本はその中間という考えは必ずしも成立しませんが、税金を社会福祉ではなく土木と建設で国民に還元する土建国家、と本書ではみなされています。日本の高度成長期から続く二重経済とその解消に関する見方は秀逸であり、バブル経済崩壊後の1990年台の「失われた10年」についても的確に分析されており、まさに、進化生物学的な解明が判りやすくなされています。ただし、私の核心なんですが、本書でも、米国はもちろん、日本もスウェーデンにはなれない、という点は忘れるべきではありません。進化論的に日本とスウェーデンはもう分岐してしまったんですから、日本は独自に経済危機からの脱却や政府債務の解消などの問題解決の道を探らねばなりません。スウェーデンがどこまで参考になるかについては、大いにポジティブに考えるエコノミストもいますし、私も何人か知っていますが、私自身は疑問であると受け止めています。最後に、学術書なんですから、出版社のwebサイトに索引とともにpdfで置いてあるとはいえ、本文や注にある参考文献のリストは欲しかった気がします。

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次に、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』(みすず書房) です。著者は米国カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者であり、政治学者です。英語の原題は Undoing the Demos であり、2015年の出版です。なお、訳者あとがきで Demos とは「『市民』『人民』あるいは『民衆』」とされているんですが、私の不確かな知識によれば、むしろ、家族よりは大きくて部族くらいの自治単位ではなかったかと記憶しています。違っているかもしれません。ということで、経済のひとつの考え方だと思われてきた新自由主義=ネオリベラリズムが民主主義を破壊するか、という論考です。その中心論点は、要するに、すべてを経済に還元する、というのが著者の結論のように見受けましたが、基本となるのがフーコーの考え方ですので、まあ、何と申しましょうかで、フランス的なポスト構造主義の影響なども残っており、非常に難解な部分がいくつか見受けられ、政治学という私の専門外の領域でもあり、必ずしも正しく解釈したかの自信はありません。マルクス主義の考えも色濃く反映されています。私のような開発経済学をひとつの専門とするエコノミストには、新自由主義といえば、ワシントン・コンセンサスが思い浮かびますし、一般的な経済学にとっても、規制緩和などで政府の市場介入を縮減するという意味で、あるいは、まったく逆に見えるものの、知的財産権の強烈な保護という別の経済政策も含めて、リバタリアンに近いような経済政策を、というか、経済政策の欠落を主張する考え方です。本書の例をいくつか引けば、教育投資で教養教育=リベラル・アーツから職業的な実務教育を重視してリターンを考えたり、人的資本として人間を稼ぎの元と考えたりするわけです。私はかなりの程度に本書の考えを理解するんですが、ひとつだけ大きな疑問があり、本書では新自由主義がいかに民主主義を破壊するかという点はいいとして、どのようなルートで破壊するかについて、ガバナンスと法の秩序と人的資本及び教育の3点を柱と考えているようなんですが、私は新自由主義的な経済政策の帰結としての格差の拡大が民主主義を破壊する点も考慮に入れるべきだと考えています。この点がスッポリと抜け落ちているのが不思議でなりません。

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次に、川端基夫『消費大陸アジア』(ちくま新書) です。著者は関西学院大学の研究者であり、アジア市場論などの専門家です。経済学というよりは経営学なのかもしれません。アジアでの工場立地などの生産活動ではなく、日本企業をはじめとするアジア市場での消費財やサービスの提供をテーマとしています。マクドナルドのようなマニュアルに基づいた世界中すべての国や地域での同一の消費財やサービスを提供する標準化戦略=グローバル戦略とともに、世界各国の実情に適合させた適応化戦略ローカル戦略を提唱しています。ですから、インドネシアでは日本市場におけるスポーツ時の喉の渇きを癒やす飲料としてのポカリスエットの販売戦略ではなく、デング熱に罹患した際などに準医療的な目的での渇きを緩和する飲料としての販売戦略での成功などの実例が本書には集められています。私も倅どもが小さいころに一家そろってインドネシアはジャカルタに3年間住まいし、ジャカルタに限らず、シンガポールやタイやマレーシアやと、東南アジア一帯を見て回った記憶がありますので、とても共感しつつ読み進むことが出来ました。マクドナルドの例を敷衍すると、年齢がバレてしまうものの、マクドナルドが京都に出来た、というか、京都で流行り出したのは、私が大学生になってからくらいだと記憶しており、同志社大学の斜向かいの今出川通り沿いのマクドナルドによくいったことを覚えていて、今では日本はマクドナルドは中高生が気軽に入れて食欲を満たすことのできる場でしかありませんが、たしかに、所得水準の違うインドネシアではマクドナルドに行くというのは、記念日とまではいわないにしても、ちょっと気取った出来事だと受け止められていた気がします。また、本書にもありますが、サンティアゴで外交官をしていた折にランチで行った日本食のお店で、ラーメンは明らかにスープの一種と現地人に認識されていたのも記憶しています。ですから、日本とは明らかに異なる意味付けを持って、日本と同じ消費財やサービスが受け入れられている、という実感があります。また、発展途上国から新興国に進化したアジア諸国で、中間層の拡大が広範に観察され、それに伴う消費活動の変化も実感できるのも事実です。私は経営には疎くて、どうすれば現地で受け入れられて売れるのかは判りかねますが、本書で指摘するように、確かに、日本とはビミョーに異なる意味づけでローカライズすれば、それにより受け入れられる余地は大いに広がるのだろうという点は理解できます。

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最後に、秋吉理香子ほか『共犯関係』(角川春樹事務所) です。5編の短編、もちろん、「共犯」をキーワードにした短編が収録されています。すなわち、秋吉理香子「Partners in Crime」、友井羊「Forever Friends」、似鳥鶏「美しき余命」、乾くるみ「カフカ的」、芦沢央「代償」です。なかなかの人気作家の競作です。中でも、3番目の似鳥鶏「美しき余命」が出色です。両親と妹を交通事故で亡くし、自身もその交通事故で余命のハッキリした障害、というか、病気に罹患した中学生の少年を主人公に、その中学生を引き取った親戚一家を舞台にしています。余命がハッキリしていた時には、とても親切で優しかった親戚一家なんですが、少年が奇跡にあって病気から回復したら、徐々に熱狂が覚めた、というか、最後は手のひらを返したようになってしまい、ラストはよほど鈍感でない限り読者にも想像できるものの、なかなか衝撃の締めくくりです。ほかの作品も、粗削りだったり、ミステリというよりはホラーだったりしますが、なかなか楽しめます。すなわち、W不倫が思いがけないラストで終る「Partners in Crime」、夏祭りの重要な役目をほっぽり出して少女が少年とともに街を出てしまう「Forever Friends」、高校時代の友人と再会した挙句に交換殺人を持ちかけられるホラー仕立ての「カフカ的」、自信作を書き上げたミステリ作家が妻に読んでもらうと意外な事実が判明する「代償」、といったラインナップです。
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2017年11月11日 (土) 10:13:00

今週の読書も経済書は少ないながらも教養書や小説をがんばって計8冊!

今週は少し仕事の方に余裕があり、夜はせっせと読書に励んでしまいました。経済書らしい経済書は読まなかった気がしますが、地政学をはじめとして教養書・専門書の方はそれなりに読みましたし、小説と新書も2冊ずつ借りて読みました。計8冊、以下の通りです。

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まず、山田謙次『社会保障クライシス』(東洋経済) です。著者は野村総研で社会保障や医療・介護関係のコンサルタントを務めています。まあ、社会保障については、もっとも大口で所得に直接に影響を及ぼす年金ばかりが注目を集めていますが、本書では医療や介護に目を配り、2025年にはいわゆる団塊の世代がすべて75歳超になって後期高齢者になることから、現在の歳入構造のままでは政府財政が破たんするリスクがある、と警告を発しています。本書の冒頭で、そもそも、として、現在の政府の歳入と歳出の総額を上げていて、要するに、歳入、というか、国民の側から見た税負担はかなり低く抑えられている一方で、歳出は社会保障を中心に北欧などの高福祉国並みの規模になっている点を明らかにしています。一時、政府財政について「ワニの口」と称されていましたが、現在でも歳入と歳出のギャップは縮小しておらず、さらに、2025年には団塊の世代がすべて75歳超となり、医療と介護を中心に大きな公的負担の増加が見込まれる、と結論しています。200ページ余りの短い論考ですから、要約していえばそれだけです。本書の特徴のひとつとして、かなり判りやすく数字をキチンと上げている点があり、例えば、75歳超の後期高齢者になると、医療・介護費用がこれまでとは段違いに多くなる点については、医療費は全国民の平均は年間30万円程度である一方で、70歳で80万円、80歳になると90万円に上昇したり、加えて、介護が必要になる人の比率は、65歳では3%程度だが、75歳を過ぎると15%に上がり、80歳で30%、90歳で70%となる、などと解説を加えています。そして、恐ろしいのは、バブル崩壊後の就職氷河期・超氷河期に大学卒業がブチ当たり、正規の職を得られずに不本意非正規職員にとどまっている世代に、この大きな負担がシワ寄せされることです。そして、その上で、本書の著者はいくつかの解決策を提示しており、最大の解決策として国民負担率上昇の容認を上げています。明示的に、国民負担率をGDP比で60%まで許容すべきであると主張しているわけです。この負担サイドの解決策に加えて、給付サイドでは、現在のように自由に医療機関を選んで受診することを止めて、かかりつけ医の指示で受診する医療機関を指定するなど、医療提供体制の縮小を受忍する必要がある、としています。私の従来からの指摘として、マイクロな意思決定の歪みがマクロの不均衡につながっている点があり、それを付け加えておきたいと思います。本書とは直接の関係ありませんが、例えば、日本人は勤勉でよく働いて、統計には表れない生産性の高さを持っている一方で、企業サイドの資本の論理から非正規雇用を拡大して、個人及びマクロの労働力のデスキリングが進んでいるのは明白なんですが、少子高齢化についても、かなり近い減少を感じ取ることができます。すなわち、少子化の一員として、子どもや家族に対してはとても政府は厳しくて、社会保障の分け前もほとんど及ばないという事実がある一方で、高齢者にはとても手厚い社会保障が給付され、高齢者にオトクな経済社会体系ができ上がっています。子どもを出産して子育てするのに不利な社会経済である一方で、高齢者には優しい社会経済であるわけですから、少子高齢化がゆっくりと進むのは当然です。統計などでエビデンスを求めるのはムリなんですが、若者が東京に集まるのと同じ原理で、国民が子どもを産まなくなって高齢者に突き進む現象が観察されるわけですから、シルバー・デモクラシーに抗して社会保障のリソースを高齢者から子どもや家族に振り向ける政策が求められていると私は考えています。

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次に、高橋真理子『重力波発見!』(新潮選書) です。著者は東大理学部を卒業した朝日新聞の科学ジャーナリスト、なんですが、定年近い私よりもさらに年長そうなので、かなりのベテランなんだろうと思います。タイトル通りの内容で、約100年前にアインシュタインの一般相対性理論から予想された波である重力波についての解説です。そして、その前提として、ニュートンから始まる古典物理学や天文学、もちろん、アインシュタインの相対性理論から時間や暦の理論まで、一通りの基礎的な知識も前半部分で展開され、私のような専門外のシロートにも判りやすく工夫されている気がします。科学ジャーナリストとして、一般読者の受けがいいのは宇宙論と進化論であるとズバリといい切り、私もそうかという気がしてしまいます。重力波がどんなものかが分かれば、宇宙の成り立ちが理解できるといわれている点は理解した気になっていますが、誠に残念ながら、私には重力波の観測がどこまで重要な科学的事業であるかは判断できず、せいぜい、ノーベル賞に値する事業なんだと受け止めるくらいです。でも、重力波の基となる時空の歪み、そして、その時空とは何かについて、少しは理解が進んだ気がします。時間については、本書にもあるように、その昔は世界中で不定時だったわけで、日本の例なら、夜明けとともに日付が変わり、日暮れまでを等分していたわけです。もちろん、夜は夜で等分されていましたから、日の長い夏と逆の冬では時間の長さが違っていたわけですが、それは相対論的な違いではありません。それから、暦については、まさに権力の賜物であり、『天地明察』にある通りで、ユリウス暦とはローマ皇帝の権力の象徴でしょうし、グレゴリオ暦からは欧州中世における教会の知性と権力をうかがい知ることができます。なお、どうでもいいことながら、何かで読んだ不正確な記憶ながら、その昔は、というか、ローマ時代の前は月は1年に10か月だったところ、ひと月30日くらいにそろえるために、無理やりに1年12か月にしたらしいといわれています。2か月不足するので、7月にはジュリアス・シーザーの名が、8月にはアウグストス・オクタビアヌスが入れ込まれています。英語にも名残りがありますが、9月のSeptemberは明らかに「7」ですし、10月のOctoberも「8」です。タコをオクトパスと英語でいうのは足が8本だからです。さらにどうでもいいことながら、日本の数字の数え方は中国の影響で10進法ですが、英語は12進法で13からは10+3、というか、3+10のように表現しますが、ラテン語では15進法です。16から10+6で表現します。1年の月数を12としたのはひと月の日数が30日という区切りなんでしょうが、それをローマ時代に決めた後、その当時としては後進地域だった英語圏で数字の数え方が固まったような気がしないでもありません。たぶん、それまで英語圏では数字の数え方はとてもいい加減だったのではないかと勝手に想像しています。最後の最後に、私が知る限り、世界のかなり多くの言語圏で日本語でいう「新月」が誕生の意味、まさに「新しい」という意味で捉えられています。英語ではNew Moonといいますし、ラテン語でもご同様です。私はこの年になってもまだ知りませんが、満月を「新しい」と受け取る民族がどこかにいるような気もします。最後に、本書の書評に立ち戻って、なかなか私のようなシロートにも判りやすい良書だと思います。何かの折に触れた著名な物理学者、典型はニュートンとアインシュタインですが、も頻出して親しみを覚えるのは私だけではないような気がします。

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次に、ジェイムズ・スタヴリディス『海の地政学』(早川書房) です。著者は米国海軍の提督であり、NATO最高司令官も務めた海軍軍人出身です。もう一線を引退していますが、さすがに国際機関でも活躍しただけあって該博な地政学的センスは引けを取りません。どこまでホントか私は知りませんが、ヒラリー・クリントン上院議員が大統領候補となる際の副大統領候補最終6人にまで残り、また、トランプ新米国政権からは、国務長官ないしは国家情報長官のポストをと打診されたが断った、とのウワサもあったりするようです。ということで、本書は、まず、太平洋と大西洋から始まって、いくつかの地政学的に重要な海洋について歴史をたどっています。すなわち、地中海の覇権をめぐる古典古代におけるトルコとギリシア、あるいは、ギリシア諸国間、また、ローマとカルタゴなどの海戦、コロンブスやマゼランらに代表される大航海による新大陸などの発見、前世紀における太平洋を舞台にした日米の艦隊戦、台頭する中国や核・ミサイル開発を進める北朝鮮の動向などなど、古今東西の海事史に照らして地政学の観点から現下の国際情勢を見定め、安全保障にとどまらず、通商、資源・エネルギー、環境面にも目を配りつつ、海洋がいかに人類史を動かし、今後も重要であり続けるかを説き明かそうと試みています。地政学的な観点からは、いわゆるシーパワーとランドパワーがあり、日本はほぼほぼ後者になろうかと思うんですが、私なんぞも知らないことに、本書の著者によれば、日本は陸上自衛隊の支出を減らし、海上自衛隊の支出を増やしているそうです。また、専門外の私には及びもつかなかった視点として北極海の地政学的な重要性、特に、単純にこのまま地球温暖化が進むとすれば、2040-50年ころのは北極海がオープンな海になる可能性も否定できず、その地政学的な位置づけも論じています。そして、最後はシーパワーの重要性を強調するわけですが、「海を制するものは世界を制する」という安全保障の観点一点張りな論調ではなく、海を「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」と捉えて、世界全体のネットワーク協力を勧めて締めくくっていたりします。基本的に、老人の回顧録的なエッセイなんですが、語っている内容は豊富です。ただ、最後に、基本的に米国の相対的な国力が低下し、平和維持活動などの「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」を提供することが難しくなった現状を踏まえているんでしょうが、米国が関与したベトナム戦争は「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」の提供だったのかどうかの視点はありません。当然ですが。

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次に、日本安全保障戦略研究所[編著]『中国の海洋侵出を抑え込む』(国書刊行会) です。著者は何人かいますが、防衛相や自衛隊関係の人ではないかと思います。タイトル通りに、いかにして中国の海洋進出を抑えるか、がテーマなんですが、決して日本単独ではなく、安保条約を結んでいる同盟国の米国はもちろん、自由と民主主義や法による統治などの価値観を同じくするオーストラリアやインド、さらには、ASEAN諸国も含めて、東アジアないしアジア広域の問題として取り上げています。そして、結論を先取りすれば、要するに、米国や世界の国連軍などの介入を待てる短期間は持ちこたえられるように軍備を拡大するとともに、有利な地政学的状況を作り出しておく、ということで、当然といえば当然の肩すかし回答なんですが、それに至る事実関係がそれなりに参考になるような気もします。例えば、世界とアジア・太平洋・インド地域の軍事バランス、中国周辺主要国の対中関係の現状、米国の対中軍事戦略および 作戦構想、さらに、中国の東シナ海と南シナ海における軍事力と戦略などに関して、私のような専門外のエコノミストには初出の気がします。お恥ずかしい話ですが、米国のリバランスとピボットが同じ意味で、欧州からアジアに戦略的リソースをシフトすることだとは私は知りませんでした。ただ、単に中国のことを考えればいいというものでもなく、自由と民主主義のサイドにいないロシアと、何といっても北朝鮮がかく乱要因として存在しており、なかなか先を読み切れないのも困りものです。最後に、現象面としては、尖閣諸島の例なんかを目の当たりにして、中国の海洋進出はとても判りやすいんですが、さらに突っ込んだ分析として、予防のためもあって、どうして中国が海洋進出するのか、という謎にも取り組んで欲しい気がします。本書では、中華帝国の再興くらいの誠に心許ない観念論で乗り切ろうとしているんですが、唯物論的に何の必要があって中国が海洋進出を試みているのか、エネルギーをはじめとする資源なのか、あるいは、他に経済外要因も含めて何かあるのか、私は興味があります。それにしても、専門外の私にの能力・理解力不足から、とても難しげな本だった気がします。

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次に、長岡弘樹『血縁』(集英社) です。著者は警察を舞台にしたミステリが人気の売れっ子作家です。私はこの作者の代表作のひとつである『傍聞き』や『教場』などを読んだことがあります。ということで、この作品は血縁や家族に関する短編ミステリ7編、すなわち、「文字盤」、「苦いカクテル」、「32-2」、「オンブタイ」、表題作の「血縁」、「ラストストロー」、「黄色い風船」が収録された短編集です。3作目の「オンブタイ」は何かのアンソロジーに収録されているのを読んだ記憶がありますので、今回はパスしました。冒頭作のタイトルである「文字盤」とは、言語障害者が意思表示のために使うコミュニケーション支援道具だそうで、コンビニ強盗の解決に役立ったりもします。次の「苦いカクテル」と「32-2」は、どちらも法律問題を題材にしており、前者はかつて読んだことのある三沢陽一の『致死量未満の殺人』とおなじようなストーリーで、後者は相続に絡んで推定死亡時刻を定めた民法の条文です。「オンブタイ」を飛ばして、「血縁」はミステリというよりホラーに近く、交換殺人を取り上げています。でも、姉が妹を亡きものとしようとする動機が私にはイマイチ理解不能でした。最後の2作「ラストストロー」と「黄色い風船」はいずれも刑務官、ないし、刑務官退職者が主人公で、なかなか含蓄鋭いストーリーです。「32-2」、「オンブタイ」、「血縁」をはじめとして、どうもイヤ味な人物が続々と登場し、読後感はそれほどよくなかった気がしますし、いつものことながら、いわゆる本格ミステリではなく、状況証拠の積み上げで確率的に犯人を指し示すのがこの作者の作品の特徴のひとつですから、やや物足りない読後感も同時にあったりします。殺人事件については、現実社会で観察される殺人は、この作品にあるように、血縁、というか、家族内での事件がもっとも、かつ、飛び抜けて多いといいます。まあ、座間の事件のようなのはレアケースなわけですので、この作品はかなり現実に即した、とはいわないまでも、現実的なプロットなのかもしれませんが、家族で殺し合う作品がいくつか含まれている分、読後感は悪いのかもしれません。

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次に、相場英雄『トップリーグ』(角川春樹事務所) です。著者は売れっ子のエンタメ作家です。そして、この作品では、役所の名前以外はすべて仮名、というか、架空の名前なんですが、テレビのニュースや新聞の報道にそれなりに接していれば、読めば自然と理解できるようになっています。三田電気という仮名で東芝の経理操作事件を取り上げた『不発弾』と題された前作から続いて、総理大臣は芦田首相ということなので、まあ、何と申しましょうかで、同じシリーズといえなくもありませんが、この作品では、戦後最大の疑獄のひとつであるロッキード事件が題材に取られています。田中元総理が渦中の人となり、商社のルートや右翼のルートなどの3ルートがあり、米国発の汚職事件で我が国の内閣が吹っ飛んだ事件でした。そのロッキード事件を背景に、2人のジャーナリストを主人公に、そして、現在の安倍内閣の官房長官を政界の要の人物に据え、物語は進みます。軽く想像される通り、ロッキード事件で解明され切らなかった右翼のルートが現在の政府首脳まで連綿と連なっている、という設定です。そして、タイトルのトップリーグとは、決して、ラグビーのリーグ戦ではなく、政治家に食い込んでいくジャーナリストの中でも、特に便宜を図ってもらえるインナーサークルの構成者と考えておけばよさそうですが、ラストでそのトップリーグにも、政界らしくというか何というか、表と裏があることが理解されます。命の危険まで感じながら取材と裏付けを続けるジャーナリストとアメとムチで迫る政界トップ、さらに、癒着といわれつつも情報を取るために政治家に密着するジャーナリスト、どこまでホントでどこからフィクションなのか、私ごときにはまったく判りません。まあ、キャリアの国家公務員でありながら、いわゆる高級官僚まで出世も出来ず、霞が関や永田町の上っ面だけしか私は知りませんのでムリもありません。そして、この作品の最大の特徴のひとつは、作者がラストをリドル・ストーリーに仕上げていることです。ストックトンの「女か虎か?」で有名な終わり方なんですが、取材と裏付けを進めた主人公のジャーナリストがアメとムチで迫る政府首脳に対して、報道するのか、あるいは、握り潰すのか、ラストが明らかにされていません。まあ、報道する道が選ばれれば、現実性に対する疑問が生じますし、逆に、握り潰す道が選ばれれば、ジャーナリストとしての矜持の問題が浮上します。いずれにせよ、どちらの結末にしようとも、一定割合の読者から疑問が呈されることになる可能性があり、その意味で無難な終わり方なのかもしれませんが、小説の作者として、何らかの結末を提示する勇気も欲しかった気もします。評価の分かれる終わり方と見なされるかもしれません。

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次に、古谷経衡『「意識高い系」の研究』(文春新書) です。著者は論評活動をしているライターのようで、多数の著書があるらしいですが、私は初めて読みました。なかなか、簡潔かつ的確に要点を把握しており、それを、実例に即して展開していることから、私のような意識の低い読者にもよく理解できた気がします。ただ、私は「系」という感じ、というか、言葉は、英語でいうシステムであって、太陽に対する太陽系のように理解しており、本書のように何かの接尾辞として「もどき」を表現するのは慣れていなかったので、最初は少し戸惑った気がします。本書では「意識高い系」の生態や考え方を批判的に分析していますが、まず、その特徴として、いわゆるリア充との対比を試みていて、リア充がスクール・カースト上で支配階級に属し、それゆえに、土地を離れる必要もなく、地元密着の土着系(この「系」はシステムであって、もどきではない)であるのに対して、意識高い系はスクール・カーストでは中途階級であったのが最大の特徴で、それゆえに、リセットのために上京したり、あるいは、もともと東京であっても大学入学を機にリセットする下剋上的な姿勢がある、というもので、さらに加えて、意識高い系は具体的なものを忌避して抽象的なイメージに逃げ込み、泥臭く努力する姿勢を嫌う、という点を上げています。そして、当然のことながら、事故に対する主観的な評価が、周囲からの客観的な評価に比較してべらぼうに高い、という点は忘れるわけにはいきません。もともとは、2008年のリーマン・ショック後の2009年の就職戦線に出て来た一部大学生のグループらしいんですが、私の周囲の中年に達したビジネスマンにも同じような傾向を持つ人物は決していないわけではないような気もします。私自身は世代的にSNSで自分のキャリアを盛るようなことを、SNSがなかったという意味でそもそも出来なかったわけですし、一応、小さな進学校の弱小とはいえ運動部の主将を務め、成績は冴えませんでしたが、スクール・カーストの中途階級ではなかったように思います。かといって、生まれ育った京都の地から上京して就職して、そろそろ定年を迎えようというわけですから、リア充でもありません。ただ、泥臭く努力することはもう出来ない年齢に達した気もします。たぶん、我が家の本家筋で、私と同じ世代の従弟が京大医学部を出て医者をやっているんですが、彼なんぞが本書でいう土着リア充の典型ではないかという気もします。それにしても、ハイカルの文学やエッセイだけでなく、サブカルのマンガや映画、もちろん、SNSをはじめとするネット情報など、とてもたんねんに渉猟して情報を集めた上での、なかなか鋭い指摘をいくつか含む分析を展開した本だった気がします。私は新書は中途半端な気がして、あまり読まないんですが、こういった本はとても興味深く読めました。

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最後に、旦部幸博『珈琲の世界史』(講談社現代新書) です。著者はバイオ系の研究者であり、この私のブログの昨年2016年5月14日付けの読書感想文で取り上げたブルーバックスの『コーヒーの科学』の著者でもあります。ということで、タイトル通りに、コーヒーの歴史をひも解いています。何となくのイメージながら、緑茶や紅茶などのお茶、あるいは、お酒という名称で一括りにしたアルコール飲料などに比べて、コーヒーはかなり歴史が浅い印象があります。本書でも起源はともかく、歴史としてはせいぜい数百年、アフリカのエチオピアを起源に、欧州からインドネシアや米州大陸をはじめとして世界各地に広まっています。Out of Africa というタイトルの映画がありましたが、ホモ・サピエンスの我々現生人類と同じでアフリカから世界に広まった飲み物です。タイトルは世界史なんですが、高校の社会かよろしく、1章を割いて日本史も語られています。著者によれば、日本におけるコーヒーはガラパゴスのように独自の進化を遂げているようです。そして、前世紀終わりから21世紀にかけてはスターバックスなどのスペシャルティ・コーヒーの時代に入ります。私はコーヒーはかなり好きで、京都出身ですのでウィンナ・コーヒーで有名なイノダがコーヒーショップとして馴染みがあるんですが、いわゆるチェーンの喫茶店としては、ドメなチェーンとして古くはUCC上島珈琲、今ではコメダ珈琲や星乃珈琲など、我が家の周囲にもいくつか喫茶店があります。もちろん、海外資本としてはスターバックスが有名で、青山在住のころには徒歩圏内に3-4軒もあったりしました。こういった喫茶店、カフェに入ってひたすら読書したりしています。また、子供達がジャカルタ育ちなもので、温かい飲み物を飲むのは我が家では女房だけで、よく見かけるタワー型の魔法瓶すらなく、子供達や私は冷たい飲み物限定だったりするんですが、少なくとも私はオフィスではホットのコーヒーを飲みます。1日2~3杯は飲むような気がします。本書の著者も冒頭に書いていますが、歴史だけでなく、好きなコーヒーのうんちく話を少し知っていれば、プラセボ効果よろしくコーヒーがさらにおいしくなるような気がします。
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2017年11月04日 (土) 12:19:00

今週の読書はなぜか大量に8冊を読み切る!

台風が来なかった週末に、久し振りに自転車で図書館を回りました。今週の読書はなぜか大量に8冊に上っています。以下の通りです。

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まず、ポール・メイソン『ポストキャピタリズム』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストです。かなりの年輩ではないかと読んでいて感じました。英語の原題は POSTCAPITALISM であり、邦訳タイトルはそのまんまです。原書は2015年の出版です。ということで、当然ながら、資本主義を生産様式として捉え、単なる市場における資源配分という経済学的な側面だけではなく、生産を中心とする社会的なシステムとして考えれば、資本主義の後釜はすでに250年ほど前にマルクスが提唱したごとく社会主義であり、さらのその先には共産主義が控えている、と考えられなくもありませんが、1990年代に入ってソ連が崩壊し、中国は社会主義なのか、という疑問がある中で、もはや、マルクス的な社会主義、というか、その移行過程についてはかなりの程度に否定されたと考えるべきです。ただし、本書では、古典派経済学のスミスやリカード、あるいは、マルクス的な労働価値説を援用しつつ、最終第10章で提唱されているように、「プロジェクト・ゼロ」=資本主義以後の世界として、限界費用ゼロに基づく新しいポスト資本主義の経済を描き出しています。すなわち、機械や製品の製造コストは限界的にゼロであり、労働時間も限りなくゼロに近づくことから、生活必需品や公共サービスも無料にし、民営化をやめ、国有化へ移行した上で、公共インフラを低コストで提供し、単なる賃金上昇よりも公平な財の再分配を重視し、さらに、ベーシック・インカムで最低限の生活を保障するとともに、劣悪な仕事を駆逐し、並行通貨や時間銀行、協同組合、自己管理型のオンライン空間などを促しつつ、経済活動に信用貸しや貨幣そのものが占める役割がずっと小さくなる社会の実現を目指す、としています。資本論全3巻をその昔に読破し、その他のマルクス主義文献もいくつかはひも解いた私から見て、かなりユートピアンな内容だという気もします。少し前に流行った単なるインセンティブによって、このような経済社会が資本主義に続いて自然発生的に実現するハズもなく、だから、マルクスは暴力革命とその後のプロレタリアート独裁を主張したわけで、要は、移行の問題ではなかろうかという気もします。私の歴史観からしても、歴史は円環的ではなく一直線に進み、生産力の向上の結果、かなり多数の財・サービスの価格がゼロになる経済社会は、確かに、近い将来に見通せる段階まで来ています。マルクス的な世界に近い気もします。ただ、それをどのように実現し、資本主義からポスト資本主義にどう移行するか、私はまだ決定打を持っていません。

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次に、朱寧『中国バブルはなぜつぶれないのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、中国の上海交通大学の研究者であり、行動ファイナンス、投資論、コーポレートファイナンス、アジア金融市場論を専門としているようです。原典は中国語で書かれており、邦訳書は英語版からの翻訳だそうです。中国語の原題は『剛性泡沫』であり、2016年の出版です。シラー教授が序文を寄稿しています。ということで、現在の中国経済のバブルについて、株式市場、土地神話に始まって、その他の金融資産市場及び実物資産市場における通常の価格決定メカニズムでは合理的な説明の出来な異様な資産価格形成について、そして、その広がりについて概観しつつ、そのバブルの原因について分析を加えています。すなわち、共産党が指導する中央政府が主導し、地方政府、国有銀行、国有企業、民間経済界も加わって、合成の誤謬を含みつつも各地方政府における経済成長を最大の目標とし、たとえ資産市場でバブルが発生していたとしても、それを政府が暗黙に保証し、しかも、「大きすぎてつぶせない」仕組みまで動員して、バブルがどんどん膨らんで行く様子が活写されています。特に、私の印象に残ったのは、事業や組織を生産することは「悪」であり、倒産・破産したり、債務支払いをデフォルトするのは大きな恥であり、メンツが潰れる、と捉える前近代的な経済観がまだ中国で主流となっている点です。西欧でも実際に存在したとはいえ、前近代的な債務奴隷の世界を思い起こさせます。事業や企業の健全な発展のための破産法制、チャプター11がもっとも整っている米国などとは大きく異なります。実は、今世紀はじめに私がジャカルタに駐在してODA事業に携わっていた折にも、インドネシアに破産法制を導入しようとしているJICA専門家がいました。私は専門外ですので、横からチラチラと眺めていただけですが、途上国では破産法制はまだまだ未整備であることは事実ですし、中国もその例から漏れないんだろうと思います。著者の見方では、経済成長最大化のために、バブルが崩壊しないように政府が暗黙の保証でサポートしていて、本来破裂するはずのバブルがなかなか崩壊しないのが現在の中国バブルの特徴、ということなんですが、それでも、その強靭なバブル、本書の中国語タイトルである「剛性泡沫」であっても、決して永遠にサステイナブルであるわけはなく、いつかはバブルが崩壊せざるを得ず、それは時間の問題である、と警告するのが本書、というか、著者の主張なんだろうと受け止めています。結論は平凡ながら、中国経済のバブルの現状について把握するのに適当な本ではないかと思います。

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次に、アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う』(早川書房) です。邦訳者のあとがきによれば、著者は英国生まれのIT系企業家、著述家、コメンテータだそうで、現在は米国在住です。英語の原題は The Internet Is Not the Answer であり、ハードバック版が2014年の出版なんですが、邦訳は2015年出版のペーパーバック版を底本としています。ということで、やや邦訳タイトルは本書の全貌を網羅しているとはいえず、かなり狭い分野に限定しているようなきらいがあるんですが、要するに、インターネットに対するアンチな本です。もともと、インターネットについては民主的な幅広い参加が望めるメディアとして注目され、格差解消などに役立つ可能性が指摘され、本書では何の注目もされていませんが、私の専門分野である開発経済学などでは、世銀が「世界開発報告」2016年版で「デジタル化がもたらす恩恵」を取り上げたりもしています。しかし、同時に、勝者総取りのスーパースター経済学により格差が逆に拡大したり、プライバシーをはじめとして個人情報を含めた巨大なデータベースがかつての冷戦下での東独の秘密警察にたとえられたりと、逆に経済社会にマイナスの影響を及ぼしていると本書の著者は主張しています。そして、それらのマイナスの影響の解消のため、私が今まで接したことのない解決策が提示されており、歴史を待って人類の側でデータ量を積み上げる、という主張です。私が今まで何かにつけて接してきた中で、金融経済の弊害やインターネットをはじめとする情報化社会のマイナスの面などについて、それをさらなる技術進歩で乗り越えようという考えは、今までなかったような気がするだけに、かなり新鮮でした。ただ、それがホントに解決策になるかどうかは歴史が進まないと判りません。メディアの例を引くと、新聞などの印刷物に対して、音声で伝えるラジオ、さらに動画で伝えるテレビなどが技術進歩の結果として現れましたが、それが何らかのソルーションになったかどうかは評価の分かれるところかもしれません。まあ、本書でも指摘されているように、地道に反トラスト法なんぞをテコに、かつてのAT&Tに対峙したように巨大企業の分割、というのもアジェンダに上るのかもしれません。

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次に、スディール・ヴェンカテッシュ『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』(東洋経済) です。著者はコロンビア大学の社会学教授であり、本書に従えば、潜入中に終身在職権=テニュアを取得しています。アーバン・ジャスティス・センター(UJC)におけるセックス・ワーカー・プロジェクトの一環でのフィールドワークです。著者はコロンビア大学に移る前のシカゴにおいて、全米一の規模の公営団地であるロバート・テイラー・ホームズでの麻薬密売人に密着したフィールドワークで一躍有名になっています。邦訳書は『ヤバい社会学』として、同じ出版社から2009年に出ています。本書は、タイトルから明らかな通り、舞台をニューヨークに移し、ターゲットも売春婦としたフィールドワークの結果に基づくノンフィクションのリポートであり、学術書ではありません。英語の原題は Floating City であり、2013年の出版です。なお、英語の原題の "floating" は本書では「たゆたう」と邦訳されています。ということで、私はこの著者の前著は読んでいませんが、ホンワカと認識していた社会学のフィールドワークの結果を興味深く拝読しました。おそらく、前著の麻薬の密売人と違って、売春婦はかなりグローバルな存在であり、世界中のほぼすべての国や地域で少なくとも同じような性風俗産業は観察されるのではないかと思います。売春婦の中でも、下層の立ちん坊からデートクラブのコールガールまで、社会階層、というか、少なくとも所得においては決して下層とはいえず、中流以上の稼ぎのある売春婦も含めて、その実態を社会学の見地から明らかにしようと試みたフィールドワークの記録です。私自身はエコノミストですから、社会学と経済学の違いもわずかながら理解しているつもりですが、本書では pp.282-83 にかけて展開されています。いかにしてマイクロな人が階級、特に所得階級を決定するかについて、学歴とか、経験とか、何らかの知識やノウハウなんかを特定すべく、出来ることであれば統計的な検定に耐えられるサンプル、本書で「n」と称されている人数を確保し、特定化を試みることでしょう。著者は本書で社会学の2大派閥について同じような視点から触れており、エコノミストのやり方は著者の命名によれば科学派、ということになります。それに対して、著者のようなフィールドワークが配置されているわけです。そして、著者が明らかにしているように、経済学の中でも私の専門とする開発経済学の対象である発展途上国ではフィールドワークも大いに有効であろうと思います。誠に残念な点は、私自身が開発経済学の専門でありながら科学派に属していることです。比較的最近、というか、今年になってから読んだ中で、割合と同じような傾向のある本としては、1月28日付けの読書感想文で取り上げた『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』があるんですが、上から目線で、救ってやる、助けてやるといったエラそうな手柄話もなく、ニューヨークの売春婦に寄り添う、とまではいいませんが、同じ目線で何らかの出口を探る学究的なまなざしが好感持てます。

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次に、フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(紀伊國屋書店) です。著者はオランダ生まれで、博士号の学位取得の後に米国に移った進化認知学の専門家です。英語の原題は Are We Smart Enough to Know How Smart Animals Are? であり、邦訳タイトルはほぼ直訳気味です。冒頭に、二派物語と題する章が置かれており、行動学派のように、動物には人間のような感情・認知・情動といったものはなく、ひたすら本能に従って生きている、と考える一派がある一方で、著者のように認知学派的に、霊長類はいうに及ばず、動物や、無脊椎銅動物、さらに、昆虫にすら何らかの認知行動や情動があると考える一派があるようです。そして、著者は p.351 において、エコノミストにもおなじみのヒュームの言葉を借りて「動物の内面も私たちの内面と似ていると判断する」として、多くの動物には認知や情動があるものとして、その例をしつこいくらいに上げています。同時に、我が母校の京都大学霊長類研究所の今西教授他の研究成果も数多く肯定的に引用されています。シロートながら私の考えるに、キリスト教的な魂の救済という宗教的バックボーンと、東洋的というか、日本でいうところの山川草木悉皆成仏のようなアニミズムに近い宗教観の差ではないかという気がします。すなわり、キリスト教的には魂を持って行動している生き物は人間だけであり、それゆえに、最後の審判では魂が救われるわけですが、日本では人間に限らず、妖怪のような存在まで含めて、生き物はすべて何らかの意義ある存在であり、決して人間を澄天とするヒエラルキーで世界が構成されているわけではない、と考えます。ですから、そして、現在の科学界の見立てでは、東洋的な人間を特別視しない世界観、宗教観がむしろキリスト教よりも科学的である、ということなんだろうという気がします。日本人には何をいまさら、という感がありますが、論旨が明快で判りやすく好感を持てる教養書です。専門外の読者にも一読の価値があります。ただ、神経系を含めて、そもそも人間にどうして認知や情動があるのかが完全には解明されていない現状で、どこまで動物の認知や情動を認めることに意味がるのか、という疑問は残ります。

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次に、佐々木彈『統計は暴走する』(中公新書ラクレ) です。著者は東大社研教授であり、専門は経済学だと思うんですが、やや期待外れの悪書でした。とてつもない上から目線で、要するに、統計を基礎にして論じている、あるいは、説得しようとしている内容について、それが著者の気に入らない主張であれば、論難する、という著書であり、著者が論難している議論よりさらにムリのある主張がツッコミどころ満載で取り上げられています。要するに、著者がこの本でいいたいことは、世論調査や統計の裏付けがあろうとなかろうと、著者の気に入った常識であればOKである一方で、どんな統計処理をシていても著者が気に入らなければNG、ということに尽きるような気がします。それ以外の論点はありえません。およそ、雑でガサツで特段の根拠ない議論が堂々巡りで展開されています。いくつか例を上げておくと、第4章で展開されているような二酸化炭素と地球温暖化の関係、喫煙と発がんの関係などは、どの等な統計を持ってどちらからどちらの方向の相関ないし因果を論証しても、著者が気に入る唯一のルート、すなわち、二酸化炭素は地球温暖化を促進し、喫煙は発がん確率を高める、という因果関係意外はすべて否定されるべきもののようです。そして、その著者の考えるカギカッコ付きの「正しい因果関係」は本書では何ら論証されていません。どうも、著者の考えはアプリオリに正しいと前提されているようです。私が本書を読んだ限り、「暴走」しているのは統計ではなくて、本書の著者のような気がします。よくこんな内容を東大社研の連続セミナーで取り上げたもんだと感心しています。十分批判的な目で読書できる自身がない場合はパスするのが賢明のような気がしますが、怖いもの見たさの読書を否定するつもりはありません。

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次に、日本再建イニシアティブ『現代日本の地政学』(中公新書) です。見ての通りの地政学と地経学に基づき、13章に渡って日本が直面するリスクについて、各専門分野の著者が解説を加えています。すなわち、第1部では安全保障について、米国のアジア太平洋戦略、中国の海洋進出、不安定な朝鮮半島のリスク、中国外交、ロシア、トランプ政権下の米国、そして第2部では地球規模のリスク要因として、エネルギー、サイバー攻撃、気候変動、トランポ政権の経済政策、中国の一帯一路戦略とAIIBの展開、ポストTPPの通称戦略、地政学と地経学などなど、興味あるテーマが並んでいます。現時点での日本のリスクは、何といっても、安全保障面では、いわゆる核の傘を含めて、全面的に米国に依存しつつ、経済学的には中国への依存をじわじわと強めている点です。米国の安全保障政策・戦略についても、オバマ政権期にピボットとか、リバランスと称して、アジア太平洋の重視に戦略を転換しましたが、トランプ政権における安全保障についてはまだ不明な点が多く残されています。安倍総理との首脳間の信頼関係は強いように見受けられますが、政府としての組織の間での協力関係はどうなんでしょうか。この方面の知識は私には皆無に近く、まったくのシロートなのがお恥ずかしい限りなんですが、北朝鮮は本書では「すぐ崩壊しそうにない」(第3章冒頭のp.47) なんでしょうか。私はすでに末期症状に入っているような気になっていたんですが、謎が深まる限りです。TPPについては、私はまったく先行きの見通しをもてません。ただ、本書ではTPPにまだご執心で、日EUの経済連携協定については無視されていたりします。どうしてもこういったテーマになると、米中に加えて朝鮮半島には注目するものの、なぜか、欧州は軽視されがちになるような気がします。

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最後に、若竹七海『静かな炎天』(文春文庫) です。この作者の葉村晶シリーズの最新刊の短編集です。10年余振りのシリーズだと思ったんですが、2014年に『さよならの手口』と題する長編が出版されていたらしく、大慌てで併せて読みました。いずれも文春文庫からの出版です。なお、本作『静かな炎天』の前に出版されている同じシリーズについては、『さよならの手口』も含めて、『プレゼント』、『依頼人は死んだ』、『悪いうさぎ』はすべて私は読んでいます。主人公の葉村晶は女性探偵なんですが、シリーズ物としてとてもめずらしいことに、ほぼほぼ実際の出版と整合的に年令を重ねて行きます。最初の短編集は『プレゼント』であり、小林刑事シリーズの短編と交互に並んでいた記憶があるんですが、葉村晶のデビューは20歳代半ばか後半でした。そして、読み逃していて大慌てで読んだ『さよならの手口』では40代に入っており、この作品では40代も半ばの設定で、40肩で苦しんでいたりします。この短編集では5話目の「血の凶作」が私は一番おもしろかったです。そして、改めて、このシリーズの場合は、長編ではなく短編がいいと強く感じました。長編最新作の『さよならの手口』の文庫版解説にも明記されていたんですが、長編だとついついややこしい、というか、いくつか複数の謎を織り込まれてしまい、通常のミステリなら3-4作品くらいの謎が『さよならの手口』には詰め込まれています。それを評価する読書子もいるんでしょうが、少なくともミステリの場合は「オッカムの剃刀」よろしく、単純な謎解きの方が私は好きです。単なる好き嫌いのお話なんですが、複雑な謎を長々と解き明かされて喜ぶんではなく、シンプルな謎解きを、まさにカミソリのようにスパッと提示される方がミステリの醍醐味だと思います。最後に、このシリーズの主人公の女性探偵である葉村晶は、出版社の謳い文句によれば「不運な探偵」ということになっており、特のこの作品の最終話の「聖夜プラス1」が典型なんですが、私はこういうのを不運とはいわずに、単なるお人好しではないか、と受け止めています。ご参考まで。
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2017年10月28日 (土) 10:14:00

今週の読書は話題の小説を含めて計6冊!

今週は経済書を含めて、計6冊でした。それなりのボリューム感だったんですが、先週末に台風21号の関東接近で自転車で図書館を回れなかったため、予約しておきながら引き取りに行けずにキャンセルされてしまった本が何冊かありました。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ/ブルース C. グリーンウォルド『スティグリッツのラーニング・ソサイエティ 生産性を上昇させる社会』(東洋経済) です。著者の1人とタイトルに冠されたスティグリッツ教授はノーベル経済学賞受賞のリベラル派の経済学者です。英語の原題は Creating a Learning Society であり、2015年の出版です。完全版と縮約版があるような書き振りですが、邦訳は後者のようです。というのは、完全版にあるハズのパートがいくつか見受けられないからです。ということで、本書にいう「ラーニング」というのは、日本では馴染みのない用語かもしれませんし、私も戸惑っているんですが、まあ、正規の学校教育ではなく、むしろ、企業内におけるOJT、あるいは、イノベーションの基となるようなR&Dも含めた幅広い概念のような気がします。そして、読み始めは先進国における経済成長の底上げに関する議論かと思っていましたら、最後の方では、著者自身も「すべての国にあてはまるが、おそらく特に関係するのは発展途上国」(p.426)であろうと認めていて、ほぼ、私の専門分野である開発経済学とも重なります。すなわち、新自由主義のようなトリクルダウン経済学を否定し、かつてのワシントン・コンセンサスが機能しなかったと結論し、包括的(たぶん、inclusive)な経済発展・成長を目指すものとなっています。その対象は工業(あるいは、製造業?)であり、農業ではないとし、現在の自由貿易への過度の信頼、過重な知的財産権保護、金融の自由化をはじめとする行き過ぎた規制緩和、などなどを構成要素とする市場による経済問題の解決への期待をかなりの程度に否定して、より積極的な政府の市場への介入を求めています。その上で、ラーニングという動学的な比較優位の理論を再定義し、スピルオーバー(外部性)を十分考慮しつつ、開発戦略や成長戦略の練り直しを議論しています。例えば、かつての日本のもあった幼稚産業論ではなく、より動学的な意味でスピルオーバーの大きな幼稚産業保護論を展開し、為替政策や産業政策の導入を正当化し、また、景気変動を安定化させることによるラーニングの強化とイノベーションの促進の重要性などを論じています。そこに、独占の功罪の再考察も含まれます。それらの考察の結果として、米国型の競争的市場経済ではなく、北欧型の政府が大きな役割を担い、競争ではなく社会的な保護を提供し、その結果として格差が小さく寛大な経済モデルの優れた点を強調しています。500ページ近いボリュームがあり、しかも、かなりレベルの高い内容を含む質・量ともに上級のテキストですので、なかなか、短い読書感想文では書き切れませんが、pp.419-21の箇条書きされたサマリーを立ち読みして、買うか、借りるか、諦めるか、を決めればいいんではないでしょうか?

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次に、板坂則子『江戸時代 恋愛事情』(朝日新聞出版) です。著者はややご年配の専修大学の研究者であり、専門分野は江戸後期小説や浮世絵、江戸期のジェンダー論だそうです。ということで、タイトル通りの本なんですが、上の表紙画像を見てもある程度は理解できるように、カラーを含めてかなり図版、おそらくは半分近くが浮世絵、が挿入されており、かなり豪華本の印象を受けます。しかし、中には、電車などの不特定多数から覗き込まれる可能性ある場合には、やや気まずさを覚えるものも含まれていたりするので注意が必要です。というのは、著者が冒頭に書いている通り、江戸期の恋愛とは、いわゆる「惚れた腫れた」ばかりではなく、ほとんどが肉欲に基づく性愛、すなわち、セックスだからです。しかも、ヘテロの男女間だけでなく、ほぼ同等に近いスペースを割いてホモセクシュアルの男色についても本書では取り上げています。著者は明記していませんが、おそらく、江戸期のしかも将軍のおひざ元である江戸という当時の世界でもまれな大都会における恋愛事情ですしょうから、どこまで日本全国に拡張できるのかは不明、というか、疑問なんですが、私のような極めて無粋な田舎者には理解できない世界が展開されていたようです。私は関西人ながら、浅草近くの下町に住んでいた経験もあって、やむなく、それなりの江戸趣味、すなわち、相撲や歌舞伎などのたしなみを身につけているつもりだったんですが、とうていかなわないと感じました。単なる興味本位では読み解けない謎かもしれません。でも、私のような一般人には決して表芸にはならないような気もします。むしろ、BLに興味を示す「腐女子」向けかもしれません。

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次に、宮部みゆき『この世の春』上下(新潮社) です。著者はご存じの売れっ子作家であり、我が国でも五指はともかく、十指には入りそうな気がします。出版広告に「作家生活30周年記念作品」と銘打たれており、それなりのボリューム、重厚な内容であることはいうまでもありません。現代を舞台にしたミステリからゲームの原作、あるいは、時代小説なども含めて、幅広い作品を執筆していますが、まず、表紙画像でも理解できる通り、この作品は時代小説です。しかも、非現実的な要素を含むという意味でファンタジーに近く、その意味では、『孤宿の人』が同じ作者の作品の中で、というか、私が読んだ宮部作品の中では最も近い気もします。なお、出版社では「ファンタジー」ではなく、サイコ&ミステリーと称しています。でも、最近の作品の中では、『荒神』のように、非科学的な要素がそれほど大きな役割を果たしているわけではありません。ということで、舞台は江戸時代の比較的初期であり、八代将軍吉宗のかなり前で、北関東の小藩を舞台に、若い藩主の押し込め、すなわち、家臣・重臣による藩主の強制的な隠居、代替わりに始まり、その前藩主の闇の部分の究明、すなわち、ネタバレですが、隠居させられた藩主の多重人格の原因探しとなります。御霊繰と呼ばれる死者の霊との交信を司る一族の皆殺し、10歳を超えたあたりの少年のかどわかし、英明な名君主とされている押し込められた前藩主の父親に対する疑念、そして、藩内に暗躍する忍者、というか、闇の集団の存在とその悪意、そして、それらを利用するつもりで逆に祟られ呪われていた藩主一族、などなど、この作者の作品に特徴的なストーリーの運び、すなわち、1枚1枚の薄皮をむいていくように、決してどんでん返しなどなく、ほぼ一直線に一歩一歩謎の解明に向かいます。ですから、謎解きという点では途中でほぼほぼ明らかになりますので、その点では物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、このような謎の解明プロセスはこの作者の作品の特徴のひとつと私は受け止めています。それにしても、ボリュームにふさわしい複雑怪奇なプロットを易々と書き上げている作者の筆力、力量には相変わらず敬服しかありません。素晴らしい作家としての能力だという気がします。売れっ子作家の安定した作品ですし、私を含めたこの作者のファンは買って読む読書子が多そうな気がしますが、時代小説という点を加味しても、私はこの作者の最高傑作は『模倣犯』であるという信念は揺らぎませんでした。

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次に、伊坂幸太郎『AX アックス』(角川書店) です。同じ著者の『ホワイトラビット』も新潮社から出版されたばかりですが、出版順従って、コレから読んでみました。たぶん、『ホワイトラビット』も読むんではないかと思います。ということで、著者の人気シリーズのひとつの殺し屋シリーズの流れの作品です。すなわち、『グラスホッパー』や『マリアビートル』に連なる作品です。ただし、以前の殺し屋シリーズで登場した殺し屋の中で、この作品にも登場するのは槿だけで、そういえば、私のような記憶力に難のある読者にはやや複雑すぎるストーリーなのですが、最初に登場した蝉や鯨はもう死んでしまっているのかもしれません。なお、この作品の主人公は兜といい、子煩悩な恐妻家だったりします。これも、同でもいいことなのかもしれませんが、シリーズ前作の『マリアビートル』では槿が最強の殺し屋、と宣伝されたいたように記憶している一方で、この作品では新登場の兜が最強と宣伝されています。まあ、どうでもいいことです。それから、内科の医者が黒幕、というか、ストーリーに登場しないホント黒幕からの連絡者の役割を果たしており、兜は殺し屋の業界から引退したがっている、という設定です。アルファベットのAからFで始まる6章から成る連作短編のような仕上がりで、繰り返しになりますが、主人公の殺し屋である兜は引退したいんですが、他方、引退するにはもう少し義理を果たして、引退に必要な金を稼ぐため、仕方なく仕事を続けねばならないという、まるで、芸能プロダクションの移籍問題のような展開があり、兜は仕方なくいくつかの仕事を請け負い、同時に、別の殺し屋からターゲットにされたりして、お話は進みます。同時に、ひとり息子を愛する子煩悩な父親であり、かつ、恐妻家である家庭人としての顔も余すところなく作品に盛り込まれており、それはそれで興味深く、殺し屋と恐妻家の2つの人格を使い分けている主人公のキャラの立て方には感心すると同時に、さすがの作者の力量をうかがわせます。ただ、主人公が殺し屋ですので仕方ないんでしょうが、一介の公務員である私から見て、世の中にはやたらと殺し屋がいるんだという誤解をしてしまいそうな密度で殺し屋が登場します。兜の家族以外の一般人の登場も望みます。ラストはさすがに伊坂流の心温まる(?)終わり方をします。

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最後に、天野郁夫『帝国大学』(中公新書) です。著者は東京大学教育学部をホームグラウンドとする研究者の大先生で名誉教授だったと記憶しています。2009年に同じ中公新書で『大学の誕生』上下を出版しています。そして、この本ではタイトル通りに戦前を中心に少しだけ戦後も含めて帝国大学を取り上げています。もちろん、帝国大学以外の大学や大学予備門としての旧制高等学校にも触れています。東京、京都に続いて、各地域の事情に応じて設立・拡充される歴史、帝大学生の学生生活や卒業後の就職先、教授たちの研究と組織の体制、大学入学準備の予科教育の実情、太平洋戦争へ向かう中での帝大の変容など、「学生生徒生活調査」などの豊富なデータに基づき活写しています。明治期から昭和戦前期にかけての建学から戦後、「帝国」の名称を外して国立総合大学に生まれ変わるまでの70年間を追い、大正期の大学令で確立し現在まで続くエリート7大学の全貌を描いています。はばかりながら、私もその7大学のうちのひとつの卒業生ですし、それなりの興味はあります。私の学生時代まで明らかに東大は官僚養成の一翼を担っていましたし、官界だけでなく、政財界、教育・文化界に多くの卒業生を送り出し、「近代日本のエリート育成機関」だった戦前期の帝国大学を明らかにしています。米国東海岸にはハーバード大学やイェール大学をはじめとして、いわゆるアイビーリーグと呼ばれる一群の大学があり、集合的な大学の存在とみなされていますが、日本でも「早慶」という呼称があったり、入試の偏差値のくくりでMARCHと呼ばれる一群の大学がありますが、現在の日本の大学で集合的に取り扱われるのは東京6大学とこの本で取り上げられている旧制帝国大学7大学くらいではないかと思います。前者は地域的な集合体、後者は学術レベルも含めたエリート排出機関としての集合体、という特徴があります。卒業生のひとりとしては、先輩方のご活躍を含めて興味深く読めました。
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2017年10月21日 (土) 12:11:00

今週の読書は経済書のほかに話題の新刊ミステリなど計7冊!

今週は、経済書は大したことのないのを1冊だけで、売れっ子作家によるミステリの新刊書を2冊ほど読みました。新書も入れて計7冊、以下の通りです。

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まず、ジョン・ケイ『金融に未来はあるか』(ダイヤモンド社) です。著者は英国のエコノミストであり、金融関係で政府のレビューなども執筆したこともあるそうですが、私はよく知りませんでした。英語の原題は Other People's Money であり、直訳すれば「他人のおカネ」ということになるのかもしれません。2015年の出版です。2008年から始まる金融危機とそれに伴う景気後退(Great Recession)について論じており、今さらながらの金融本なんですが、ハッキリいって、期待外れです。金融に限らず複雑に絡まり合った需要供給構造は経済の発展に即した現状の歴史的経緯を反映しており、もちろん、いわゆるグローバル化が複雑怪奇さを一層促進したのはいうまでもないとして、かつての小さな地理的商圏を発想の原点として、いわゆる「顔の見える範囲」での大昔の金融取引に戻れ、的な志向はややうんざりします。歴史認識の違いとしかいいようがないんですが、私は西洋人的に一直線に進む歴史を念頭に置いており、グルッと回って元に戻る円環的な歴史観を持っているのであれば、あるいは、ビッグデータの活用などから個人や企業に関する詳細情報をかつての「顔が見える」に代替して活用することも可能かもしれません。人工知能(AI)が現状のように金融スコアを機械的に弾き出すだけでなく、より詳細な個別情報を分析できるようになれば、あるいは可能かもしれないと思いつつも、本書で著者自身が防衛線を張っているように、かなりナロー・バンクに近いような銀行業務の縮小とか、フィクスト・インカムなどの債券に特化したカストディアンに近い決済専業に近い業務体系とか、時計の針を逆回しにするような処方箋であるとしか思えません。それほど指摘される点ではありませんが、少なくとも、too big to fail というのは、同時に、too complexed to be regulated であり、複雑すぎて規制できない、というのも単純化し過ぎている点を別にすれば、ほぼほぼ真実に近いような気もします。その上で、金融正常化の主体となるのが政府から企業へのラインであるというのは、余りにも発想が古いというか、従来通りであり、ムリがあります。注目したがるのは規制当局の金融庁くらいのものだという気がします。せめて、政府から消費者に情報が伸びて、消費者自らが市場で選択が出来るような情報の流れを想定するくらいの発想は出来ないものでしょうか?

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次に、ジョーン C. ウィリアムズ『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』(集英社) です。著者は米国の大学の法律の研究者なんですが、長らく女性の地位向上に携わって来たらしいです。英語の原題は White Working Class であり、今年2017年の出版です。ということで、昨年2016年の米国大統領選挙でトランプ政権誕生の原動力のひとつと見なされている白人労働者階級について論じています。出版社のサイトなどで章別の構成を見れば明らかなんですが、白人労働者階級の特徴を章別に解説しています。14章から成る構成のうち、10章超を白人労働者階級の特徴の解説に当てています。そして、その前提として、米国をザックリと3つの階層に分類しています。すなわち、エリート、労働者階級、貧困層です。そして、エリートはさらに専門職と富裕層に大雑把に分けています。白人の労働者階級はエリートの中でも専門職には反感を持っている一方で、富裕層にはそれなりの敬意を払っているという特徴も指摘されています。続いて、仕事のある場所に引っ越さない、大学に行こうとしないし子供の教育には熱心ではない、人種差別や性差別の傾向がある、製造業の仕事が増加しないことを理解していない可能性がある、看護師などの女性向のピンクカラーの仕事に就こうとしない、政府の福祉政策に対して極めて無理解であ利自身が恩恵を受けていることを知らない、などと行った白人労働者階級の特徴を論じつつ、その要因についても分析を行っています。英語の原題も class ですし、邦訳でも階級と明確に訳しているように、日本以外の国ではそれなりの階級らしき構造があることは明白であり、それは貴族や王族のいない米国でも同様です。私が米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころも、おそらく本書では専門職のひとつに分類されるんでしょうが、ビールは日本でも有名なバドワイザーは労働者階級のビールであり、エコノミストはクアーズを飲む、といった違いがありました。そして、酒を飲んだ席のジョークながら、その昔のニクソン大統領の最大の功績のひとつは、クアーズをロッキー山脈を越えさせたことである、などといい合っていたモノです。日本ではクアーズよりもバドワイザーの方が圧倒的に知名度が高いので、私は少しびっくりした記憶があります。本書でも、p.50あたりから記述しており、買い物をするスーパーマーケット、視聴するテレビ番組などなど、目には見えにくいながら明確な階級的な特徴があります。こういった階級の特徴を、とてもステレオ・タイプながら、本書ではなかなかよく捉えていそうな気がします。ただ、私には実態をどこまで自分自身で理解しているかが不明ですので、本書の記述についてもどこまで正確なのかは十分な把握ができません。ただ、少し前に『ヒルビリー・エレジー』や『われらの息子』などを読みつつ感じたのは、ポピュリズムの交流は、確かに、米国トランプ政権誕生がもっとも画期的だったかもしれませんが、英国のBREXITや大陸欧州のいくつかの選挙でも実際に観察されることですし、こういった欧米諸国の現状を総合的に分析する必要があるような気がします。強くします。米国が典型的でドミノの倒れ始めかもしれませんが、さらに、国別ではなく世界的なポピュリズムの台頭を分析するべきではないでしょうか。かつて、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の国粋主義など一連の思想的な流れの中で戦争に行きついてしまって、こういった流れを止められなかっただけに、世界的な分析の必要を強く感じます。

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次に、古市憲寿『大田舎・東京』(文藝春秋) です。社会学者である著者が、東京の都バス100路線に乗ってエッセイを綴っています。著者の発見というわけでもないんでしょうが、都バスは東京23区の東部でよく走っており、新宿から西ではそれほど見かけません。もちろん、バスはそれなりに走っているんですが、都バスではなく私鉄会社などが走らせているバスが増える気がします。ですから、都バスに乗るということは、いわゆる下町やウォーター・フロントを回る確率が高くなります。著者の表現では、そこに「昭和」を見ることになります。世界に冠たる大都会の東京ではなく、高齢化が進み、場所によってはシャッター商店街と化しているところもありで、花の都東京というよりも地方の印象に近いのかもしれません。私が都バスを通勤に利用したのは、1990年から91年に在外公館に出向する前に外務研修所に通うのに都02の都バスを使っていました。外務研修所は現在では相模大野だか町田だかに移転しましたが、当時は茗荷谷にあり、私は大関横丁近くの荒川区と台東区の境目あたりに住んでいました。御徒町、というか、春日通りまで地下鉄で出て、そこから大塚車庫行の都02の都バスで半年近く通勤していました。通勤はそれだけですが、都バスで馴染みあるのはやっぱり都01です。なぜか、年末12月のベートーベン第9のコンサートに何年か続けて聞きに行くことがあり、なぜか、サントリー・ホールでしたのでこの都バスで行った記憶があります。後は、都バスとの連想ゲームで、私の場合は「統計局」という回答が飛び出したりします。その昔、副都心線や大江戸線の地下鉄が出来る前、霞が関から若松町の統計局に行くのには都バスを使っていました。そのころ、私自身が統計局勤務になるとは思っても見なかったんですが、統計局勤務になって驚いたのは、朝夕の通勤時に都バスが統計局のビルに横付けされることです。本書でも、いくつか片道180円で短距離の通勤・通学バスの紹介がありますが、私は乗ったことはないながら、たぶん、新宿と統計局の間の直通の都バスが平日の朝夕に運行されていました。通勤途上で追い抜かれたり、役所の建物に都バスがデンと駐車されているんですから、なかなか壮観だったと記憶しています。

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次に、東野圭吾『マスカレード・ナイト』(集英社) です。シリーズ第3作最新作です。日本橋のホテルコルテシア東京を舞台に、ホテルのコンシェルジュである山岸尚美と警視庁の刑事である新田浩介のコンビがホテルでの犯罪を未然に防止します。しかも、事件が起こる確率がもっとも高いのは大晦日から新年を迎えるカウントダウンパーティの会場であり、しかもしかもで、そのカウントダウンパーティが仮装で行われますので、まさにこの作品のタイトル通りのマスカレード・ナイトになってしまうわけです。関西弁をしゃべる若い夫婦に、金に糸目をつけずにサプライズでプロポーズをもくろむ米国在住の日本人男性、夫婦2人を装いつつも女性1人でしかも予約時と苗字の異なるクレジットカードを使おうとする女性、ネームプレートのないゴルフバッグを持ち込んだ暗い感じの男性、家族連れで宿泊した一家の亭主の浮気相手が突然鉢合わせ、などなど、怪しさ満点の宿泊客に加えて、ホテルのスタッフは山岸尚美と総支配人の藤木は前作からのお馴染みとしても、新田をサポートする氏家の頑迷固陋な融通の利かなさとホテルへの愛情から生じた警察への非協力的な態度もあり、時刻の経過とともに、いろんな事実が明らかになる一方で、同時に複雑怪奇な様相も混迷を深めて真犯人にはたどり着かない、という結果になります。もともと、大衆瀬包摂というか、エンタメ小説ではミステリの東野圭吾と企業小説の池井戸潤が、キャラ設定やストーリ・テリングの点で、読者に訴えかける筆力といったものが抜群の双璧と私は考えていたんですが、さすがに、ミステリですので、この作品についてはプロットがやや複雑怪奇に過ぎる気がします。黙秘を続けていた犯人が、最後に新田に対してだけ自白するわけですが、何と申しましょうかで、その犯罪に対する犯人の解説がやたらと長い気がします。犯行の動機や実行の経緯などについて、しっかり読めば判らないでもないんですが、冗長というよりは長々とした説明の必要なプロットなんだろうと思います。私はエコノミストとして経済の現象について説明する場合、「オッカムの剃刀」を念頭に置きますが、どうもその観点からは、この作品はどこまで評価できるか疑問です。ただ、シリーズ第2作の『マスカレード・イブ』はもちろん第1作の事前譚の短編集でしたし、第1作の『マスカレード・ホテル』も連作短編のような構成でしたので、第3作の本作品『マスカレード・ナイト』がシリーズ初めての本格長編である、という見方も出来ます。長編ファンにはいいんではないでしょうか。

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次に、道尾秀介『満月の泥枕』(毎日新聞出版) です。作者は『月と蟹』で直木賞を受賞した売れっ子、というか、私の注目のミステリ作家であり、この作品は1年に渡って毎日新聞夕刊に連載されていたものを単行本をして出版しています。ということで、幼い娘を亡くして離婚も経験した30代半ばの主人公の男性が、姪に当たる兄の娘の小学生が母親から捨てられた際に引き取り、とともに貧乏アパートに暮らすわけありの仲間とともに、よく実態の知れない冒険を繰り広げます。アパートの仲間はバイオリン趣味の老夫婦、物まね芸人、アパートの大家の倅、売れない画家などで、この小説でマドンナ役を演じる女性がアパートの外から参加します。どういう冒険家というと、町内の剣道場の小倅から行方不明の祖父について、実は殺害されて池に沈められている恐れがある、というか、その確率が高いとして、一計を案じて1年の準備期間を経て、夏祭りの時期に町内の人々を池を浚う役割に引き込みます。案の定、池からは頭蓋骨が発見されるんですが、その後、それを持って剣道場の師範親子孫とアパート住人の面々が岐阜県に行ったりと冒険が続きます。何となく、『透明カメレオン』に似たストーリーで、わけありで過去のやや暗い主人公に対して、同じ色彩を持ちつつ、じつはかなり嘘で固めた、とまではいわないまでも、決してすべての事実を明らかにすることなく、かなりの程度にうそや隠し事を持った周囲の人が主人公を巻き込んで、何らかの事件が展開して、でも、かなり際どいご都合主義によりハッピーエンドで終わる、というミステリです。この作者の場合、初期の作品はかなり本格的な謎解きミステリ、あるいは、ホラーやサスペンスの作品が多かったような気がしますが、受賞作品が増えるに従って、わけありの登場人物がうそを交えつつ事件を進行させ、人物や事件をていねいに描写する、という作品が多くなっている気がします。別の表現をすれば、だんだんと重松清の作品に近づいている気がしてなりません。その意味で、少し私の好みから外れつつあるのが残念です。

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次に、銀座百点[編]『おしゃべりな銀座』(扶桑社) です。銀座百店会が発行するタウン誌「銀座百点」に掲載されたエッセイ50篇を収録しています。最近、とはいうものの、2004年から2016年までの掲載です。見事に、執筆者の50音順で収録されており、どうしても、私の苗字である「やゆよ」の行とか、和田さんなどは日本語の50音順でも、アルファベット順でも最後の方になります。ということは別として、執筆者は作家やエッセイストなどのライターが多いんですが、それ以外にも映画や演劇、あるいは、建築家や画家・デザイナーなどの広い意味での文化人です。もちろん、銀座がお題ですので東京の人が中心になりますが、関西人をはじめとして地方在住者も何人か見受けられます。銀座ですので、どうしても、お酒を含む食べ物のエッセイとか、ファッション関係が目立った気がします。でも、なぜか、音楽関係はほとんど出て来ませんでした。山野楽器にヤマハもありますし、私自身はヤマハでスコアを買い求めた記憶もあります。それから、食べる方では竹葉亭を取り上げた執筆者が何人かいますが、やっぱり、竹葉亭はウナギではないだろうかと思います。銀座に興味ある方には何かしら参考情報になりそうな気がします。

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最後に、小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書) です。著者は日本中世宗教史の研究者だそうで、タイトル通りに浄土真宗にフォーカスしていますが、あくまで著者ご専門の中世史からの視点であり、明治以降の清澤満之などの宗教論もなくはないですが、より近代的・現代的な浄土真宗についてはフォローし切れていないように見受けました。哲学、というか、宗教論からの解明ではありません。ということで、浄土真宗の信徒として少し不満の残る内容ではあるんですが、まずまず、よく取りまとめられています。ただ、本書では否定されていますが、キリスト教になぞらえて、浄土真宗や日蓮宗などの鎌倉新仏教を宗教改革以降のプロテスタント、それまでの南都北嶺の国家鎮護仏教をカトリックになぞらえるのは、もちろん、決して全面的ではあり得ないものの、部分的ながらかなりの程度に当たっていると考えていいと私は考えています。それと、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の違いは、確かに本書で指摘されている通り、神道などの他宗教や仏教の他宗派に対する寛容性もありますし、それはそれでとても大衆的な理解ではあるんですが、実は、俗の部分ではなく聖の部分の違いが大きいと私は考えており、要するに、浄土宗では僧が受戒する必要があり、僧と信徒の区別が厳格であるのに対して、浄土真宗は戒がなく、従って、僧と信徒の差はかなりの程度にあいまいです。もちろん、他宗派との違いも浄土真宗の場合は大きく、死ぬことを往生というのは同じような気がしますが、戒名ではなく法名ですし、従って、仏壇に位牌は置きません。卒塔婆を立てないのは追善供養を否定するといいつつも、七回忌くらいまでは営んだりもします。でも、冥福という言葉を浄土真宗の信者に用いつことはかなりの程度に失礼に当たりますし、呪術はもちろん、霊という言葉も使用を避けます。ほぼほぼ一神教に近いのは同じながら、浄土真宗の方がその程度は強く、しかも、かなり天上天下唯我独尊で独善的というか、排他的な色彩が強いですから、織田信長ではありませんが、戦国武将にはそれなりの脅威だったのかもしれません。
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2017年10月14日 (土) 09:14:00

今週の読書は経済書から小説までいろいろ読んで計7冊!

今週の読書は、なかなかにして重厚な経済学及び国際政治学の古典的な名著をはじめとして、以下の通り計7冊です。がんばって読んでしまいました。

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まず、オリバー E. ウィリアムソン『ガバナンスの機構』(ミネルヴァ書房) です。著者はノーベル経済学賞を授与された世界でもトップクラスの経済学者であり、専門分野はコース教授らと同じ取引費用の経済学です。本書は、 『市場と企業組織』と『資本主義の経済制度』に続く3部作の3冊目の完結編であり、英語の原題は The Mechanism of Governance であり、邦訳書のタイトルはほぼ直訳です。原書は1998年の出版ですから、20年近くを経て邦訳されたことになります。本書の冒頭でも指摘されている通り、取引費用の経済学は広い意味での制度学派に属しており、その意味で、同じくノーベル経済学賞を受賞した経済史のノース教授らとも共通する部分があります。そして、いわゆる主流派の経済学の合理性では説明できないながら、広く経済活動で観察される事実を説明することを眼目としています。少なくとも、経済史における不均等な経済発展は主流派の超のつくような合理性を前提とすれば、まったく理解不能である点は明らかでしょう。その昔は、合理的な主流派経済学で説明できないような経済的活動については、独占とか、本書では指摘されていませんが、外部経済などに起因する例外的な現象であるとされていましたが、現在では、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授の専門分野である行動経済学や実験経済学にも見られるように、個人の合理性には限界があり、この限定合理性の元での現象であるとか、ウィリアムソン教授やコース教授の取引費用の観点から、一見して非合理的な経済活動も合理性あるとする見方が広がって来ています。ということで、本書では取引費用から始まって、ガバナンスについて論じているのはタイトルから容易に理解されるところです。しかしながら、本書のレベルは相当に高く、おそらく、大学院レベルのテキストであり、大学院のレベルにもよりますが、大学院博士後期課程で取り上げられても不思議ではないレベルです。それなりのお値段でボリュームもあり、そう多くはありませんが、モデルの展開に数式を用いている部分もあります。書店で手に取って立ち読みした後で、買うか買わないかを決めるべきですが、読まなくても書棚に飾っておく、という考え方も成り立ちそうな気がします。だたし、最終第14章はそれほど必要とも思いませんでした。

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次に、フィリップ・コトラー/ヘルマワン・カルタジャヤ/イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング 4.0』(朝日新聞出版) です。著者のうちのコトラー教授はノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の研究者であり、私でも知っているほどのマーケティング論の権威です。英語の原題は Marketing 4.0 であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。今年2017年の出版です。私は専門外なので知らなかったんですが、コトラー教授によれば、マーケティング1.0は製造者の生産主導のマーケティングであり、2.0は顧客中心、3.0は人間中心とマーケティングが進歩して来て、本書で論じられる4.0はデジタル経済におけるマーケティングです。ただし、本書でも明記されている通り、従来からの伝統的なマーケティングが消滅するわけではなく、併存するという考えのようです。もちろん、インターネットの発達とそれへのアクセスの拡大、さらに、情報を受け取るだけでなく発信する消費者の割合の飛躍的増大からマーケティング4.0への進歩が跡付けられています。といっても、私の想像ですが、おそらく、グーテンベルクの活版印刷が登場した際も、あるいは、ラジオやテレビが普及した際も、それをマーケティングと呼ぶかどうかはともかくとして、こういった新たなメディアの登場や普及によりマーケティングが大きく変化したんではないかという気がします。基本的に、経済学では市場とは情報に基づいて商品やサービスが取引される場であると理解されており、その意味で、市場で利用可能な情報が多ければ多いほど市場は効率的になるような気がします。ただ、それに関して2点だけ本書を離れて私の感想を書き留めれば、まず、本書では注目されていないフェイク・ニュースの問題があります。消費者のレビューにこれを当てはめれば、日本語でいうところの「やらせ」になり、いくつか問題が生じたことは記憶に新しいところです。こういったフェイクな情報とマーケティングの関係はどうなっているのでしょうか。フェイクな情報は市場の中で自然と淘汰されるのか、そうでないのか。私はとても気にかかります。こういったコトラー教授なんかの権威筋のマーケティング論の本を読むにつけ、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らの行動経済学や行動経済学における意思決定論は、おそらく、企業が市場でしのぎを削っているマーケティングにはかなわないような気がします。理論的な実験経済学や行動経済学よりも、理論化はされていないかもしれませんが、市場の場で鍛えられた実践的なマーケティングの方が、よっぽど的確に選択や意思決定を明らかにしているような気がします。いかがでしょうか。

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次に、フランソワ・シェネ『不当な債務』(作品社) です。著者はフランスのパリ第13大学の研究者であり、同時に、社会活動にも積極的に取り組み、近年では反資本主義新党NPAの活動に携わり、トービン税の実現を求める社会運動団体ATTACの学術顧問も務めているそうです。フランス語の原題は Les Dettes Illégitimes であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。2011年の出版です。ということで、私の目から見て、フランス国内で主流のマルクス主義経済学的な観点である蓄積論からの債務へのアプローチであり、同時に、ケインズ経済学的な観点も取り入れて、マイクロな経済主体の経済活動をマクロ経済への拡張ないしアグリゲートする際の合成の誤謬についても債務問題に適応しています。特に、この観点を日本経済に当てはめる場合、資本蓄積が先進諸国の中でももっともブルータル、というか、プリミティブに実行されており、かなりあからさまな賃金引き下げ、あるいは、よりソフィスティケートされた形である非正規雇用の拡大という形で、先進国の中でも特に労働分配率の低下が激しく、その分が実に合理的に資本蓄積に回されているわけです。最近時点での企業活動の活発さと家計部門の消費の落ち込みを対比させるまでもありません。その上で、かつての高度成長期から現在まで、債務構造が大きく変化してきているわけです。別の経済学的な用語を用いると貯蓄投資バランスということになりますが、高度成長期や、そこまでさかのぼらないまでも、バブル経済前で日本経済が健全だったころは、家計が貯蓄超過主体であり、家計の貯蓄を企業の投資の回していたわけですが、現在では、「無借金経営」の名の下に、企業はむしろ貯蓄超過主体となっており、一昔前でいえば月賦、現在ではローンを組んで、あるいは、クレジットカードによる支払いで、家計が債務を負った形での消費が進んでいるわけです。教育すら奨学金という過大な債務を学生に負わせる形になって、卒業後の雇用に歪みを生じていることは明らかです。加えて、政府債務についても、銀行やその他の金融機関、あるいは、民間企業を救済するための債務を生じている場合が多いのも事実です。こういった債務をいかにして解消するか、貯蓄と債務のあり方について、資本蓄積の過程から分析しています。かなり抽象度が高くて難しいです。私は一応、京都大学経済学部の学生だったころに『資本論』全3巻を読んでいますが、それでも、理解がはかどらない部分が少なくありませんでした。

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次に、秋元千明『戦略の地政学』(ウェッジ) です。著者は長らくNHKをホームグラウンドとして活動してきたジャーナリストです。アカデミックなバックグラウンドは明確ではありませんが、実際の外交や安全保障に関する情報には強いのかもしれません。本書では、最初の方で歴史的な戦略論、すなわち、マッキンダーのランドパワーとシーパワーの特徴やハートランドの重要性の強調、さらに、スパイクマンのリムランドからハートランドを取り囲む戦略論、マハンのシーパワー重視の戦略論、ナチスの戦略論を支えたハウスホファーなどなど、まったく専門外の私でも少しくらいなら聞いたことがあると感じさせるような導入を経て、最近の世界情勢を地政学的な観点から著者なりに解釈を試みようとしています。その基本的な考え方は、日本はシーパワーの国であり、その点から米英と連合を組み、特に、米国と同盟関係にあるのは安全保障の観点からは理由のあることである、ということについては、本書の著者以外も合意できる点かもしれません。その上で、第8章冒頭にあるように、著者は現在の安倍政権を安全保障に関する考え方が地政学に立脚しているとして大いに評価しています。吉田ドクトリンとして米国に安全保障政策を委ねて、日本は経済復興に重点を置く、という戦後の基本路線を敷いた吉田総理以来の地政学的な基本を共有していると指摘しています。その上で、やや外交辞令にようにも聞こえますが、米国をハブにしつつ、大昔のように日英同盟も模索するような視点も見られます。ただ、本書では明確に指摘していませんが、民主党政権下で米国との同盟重視から中国に方向を変更しようと模索した挙句、結局、虻蜂取らずというか、中国も袖にしてメチャクチャな反日暴動や日中対立の激化を招いた経験から、羹に懲りて膾を吹くような態度は判らないでもないものの、米国が世界の警察官を降りる現状では視点を大きく変えて、米国との同盟をチャラにする仮定での我が国の安全保障政策も、あるいは、そろそろ考える段階に達したのかもしれません。もちろん、その場合は、米国に指揮権を委ねている自衛隊の軍事行動の自律性というものも考慮する必要があります。私は専門外のシロートですので簡単にいってのけてしまうんですが、難しい問題なのかもしれません。

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次に、佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社) です。私はこの作者の作品読んだのは、前作の江戸川乱歩賞受賞作『QJKJQ』が初めてで、この作品が2作目なんですが、当然の進歩がうかがえて、この作品の方が面白く読めました。前作はデニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』の焼き直しのような気がして、どうも、オリジナリティが感じられなかったものの、本作は、おそらく、パニック小説に分類されて、高嶋哲夫の作品などと並べて評価されるような気がしますが、作品の出来としてはともかく、オリジナリティにあふれていたような気がします。以下、ネタバレを含みます。未読の方は自己責任でお願いします。ということで、要するに、アフリカで保護されたチンパンジーが「京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト」、通称KMWPなる霊長類の研究所、これは我が母校の京大の霊長類研究所とは違って、天才的なAIの研究家で大富豪となったシンガポール人によって設立された民間の研究機関ですが、そのKMWPに収容され、ふとしたきっかけで警告音を発してしまい、その警告音がヒトを含む霊長類を同種の生物の殺戮へと向かわせる、というものです。ただ、主人公の霊長類研究者とキーパーソンの1人であるシャガという若者など、鏡像認識の特殊な要因により軽微な影響もしくはほとんど影響を受けないヒトもおり、主人公がそのチンパンジーを始末する、というものです。警告音に対する遺伝子的な対応の違い、鏡像認識と警告音によって引き起こされるパニック現象との関係、さらに、シンガポール人大富豪がAI研究を手終いして霊長類研究に乗り換えた理由、などなど、とてもプロットがよく考えられている上に、タイトルとなっているankと名付けられたチンパンジーの警告音が引き起こすパニックの描写がとても印象的かつリアルで、さすがに作者の筆力をうかがわせる作品です。舞台を京都に設定したのも、霊長類研究とパニックが生じた際の人口や街の規模、さらには、外国人観光客の存在などの観点から、とても適切だった気がします。ただ、難点をいえば、現在から約10年後の2026年10月に舞台が設定されているんですが、AIとか霊長類研究とかの、かなりの程度に最新の科学研究を盛り込みながら、ソマートフォンとか、SNSとか、動画のアップロードとか、現状の技術水準からまったく進歩していないような気もします。このあたりは作者の科学的な素養にもよりますし、限界かもしれませんが、ここまで進歩内なら現時点の2017年でいいんじゃないの、という気もします。でもいずれにせよ、この作者の次の作品が楽しみです。

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最後に、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』上下(集英社文庫) です。著者は米国を代表する国際政治学者だった研究者であり、2008年に亡くなっています。英語の原題は The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order であり、邦訳タイトルは必ずしも正確ではなく、原題の前半部分だけを抜き出している印象です。英語の原点も邦訳もいずれも1998年の出版です。何を思ったか、集英社文庫から今年2017年8月に文庫版として出版されましたので、私は初めて読んでみました。よく知られた通り、第2章で文明を8つにカテゴライズしています。すなわち、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明です。その上で、これらの文明と文明が接する断層線=フォルト・ラインでの紛争が激化しやすいと指摘しています。さらに、1998年の出版ですから冷戦はとっくに終わっており、以前は脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、もっとも深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突である、と結論しています。このあたりまでは、あまりにも有名な本ですので、読まなくても知っている人も少なくないような気がします。もちろん、西欧文明=西洋文明中心の分析なんですが、エコノミストとしては西洋文明が覇権を握ったバックグラウンドとしての産業革命をまったく無視しているのが最大の難点のひとつだろうと感じています。専門外であるエコノミストの私ごときがこの個人ブログという貧弱なメディアで語るのはこれくらいにして、あとは、もっと著名な評論やサイトがいっぱいありますから、google ででも検索することをオススメします。何よりも、実際に読んでみるのが一番のような気もします。
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2017年10月08日 (日) 14:41:00

先週の読書は経済書や人気の時代小説など計7冊!

米国雇用統計で1日ズレて日曜日になった先週の読書は、経済書をはじめとして計7冊です。かなりよく読んだ気がします。でも、先週の読書界の話題はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞だったと思います。村上春樹はどうなるんでしょうか?

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まず、小川英治[編]『世界金融危機後の金融リスクと危機管理』(東京大学出版会) です。編者は一橋大学の国際金融論を専門とする研究者であり、編者以外の各チャプターの著者も一橋大学を中心に、学習院大学、中央大学、早稲田大学のそれぞれの研究者であり、出版社も考え合わせると明らかに学術書であると理解するべきです。ですから、読み進むのはそれなりにハードルが高くなっています。でも、マクロとマイクロの両方の観点から、タイトル通りの金融リスクや金融危機管理を論じており、2007-08年のリーマン・ショックをはさんだ金融危機から、ほぼ10年を経て、やや時が経ち過ぎて気が抜けた気もしますが、それなりの分析を披露しています。ただ、繰り返しになりますが、学術書ですので読み進むのはそれほど容易でもなく、特に、本書冒頭第1章の金融危機後のリスク分析の新しい流れの解説については、数式を中心とするモデル分析であり、モラル・ハザードという聞きなれた概念からモラル・ハザードに限定されない逆選択などの情報理論、あるいは、ネットワーク効果なども含めて、従来からの、というか、リーマン・ショック以前に主流であった金融リスク分析モデルである無裁定価格アプローチの限界を明らかにしつつ、決定論と確率論を比較する試みなどは、かなり理解が難しいといえます。第1章の結論として、モラル・ハザードの理論的な分析として、ブラウン運動に基づく正規分布からの乖離、下方へのジャンプ確立を服ネタ確率密度の変更可能性の考慮、それに、いわゆるファット・テールの問題など、そういった従来にない前提の変更などを行えば、シャープ比の引下げに伴うリスク資産価格の適切な評価、あるいは、リスク効用を投資者の限界効用と逆方向にヘッジさせるように動かす可能性など、極めて興味深い指摘がいくつも込められているだけに、今後の実証が楽しみながら、金融の専門家ならざる通常のビジネスマンには理解が難しそうな気もします。ほかに、私の目から見て興味深いテーマは危機時の流動性、とくに、世界経済レベルでの流動性の最終的な供給者、すなわち、Internationa Lender of Last Resort の議論なんですが、国際的な流動性が米ドルであるならば米国連邦準備制度理事会(FED)にならざるを得ないが、世界経済の必要性と米国経済の環境が必ずしも一致するとは限らない、という指摘も可能性は低いながらあり得ることだと受け止めました。2008年リーマン・ショック後の金融危機に際しては、世界経済の観点からも、米国経済の観点からも、FEDが大幅な金融緩和、量的緩和を含みレベルの金融緩和を行うべき経済情勢の一致が世界経済レベルと米国国内経済レベルで見られましたが、特に、物価上昇率の水準次第で、必ずしも世界経済の必要と米国国内経済の必要がFEDの金融政策レベルで同じになるかどうかは保証されていうわけではありません。そうなると、国際通貨基金(IMF)はどうなのか、私が3年間暮らしたインドネシアでは、少なくとも、IMFに対する信任が高かったとはいえないと思いますし、果たして、国際流動性の最終的な供給者はどの機関が担うべきか、まだまだ国際金融の問題が解決されるには時間がかかるのかもしれません。

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次に、西川祐子『古都の占領』(平凡社) です。著者は仏文の研究者から、女性史などの研究もしているようで、京都的には、私の記憶ではその昔に寿岳章子先生がいらっしゃいましたが、その後継かつ小型版といったところなんだろうかと受け止めています。ということで、本書は、読んだ私の目から見て、京都における戦後占領の歴史の研究書というよりも、ジャーナリスト的にトピックやキーパーソンをインタビューした結果を取りまとめたものであり、逆から見て、著者である取材者のバイアスは当然に反映されています。すなわち、占領軍の兵士に着目する場合でも、京都の地域住民の生活に貢献し、市民から感謝されるような兵士もいれば、占領軍の治外法権などの特権的優越的な地位を悪用して強盗強姦などの犯罪行為そのもので地域住民を苦しめた兵士もいたんでしょうし、統計的なマクロの把握と比較であればともかく、どちらに着目するかは取材者のバイアスです。その意味で、私は本書がどこまで意味ある労作なのかは判断しかねます。同時に、戦勝国から進駐してきた占領軍と敗戦国の地域住民ですから、俗に表現しても、仲良く協同して占領目的である非軍事化と民主化を進められれば、それに越したことはないものの、決して対等な関係であるハズもなく、もしも、仮にもしもですが、本書でいくつか取り上げているような交通事故や売買春などでは、加害者と被害者に分かれるとすれば、占領軍が加害者的な立場になり、京都の地域住民が被害者的な役回りになる、というのはある意味で自然かもしれません。そして、それは大昔の京都だけではなく、現在の沖縄でも生じている関係であることはいうまでもありません。もちろん、大昔の京都と現在の沖縄の重要性を論ずるつもりはありませんし、すでに戦後長らくの期間が経過し、記録や記憶が失われつつあり、あるいは、意識的か無意識的かは別にして、決して意図的に思い出したくもないと考える日本人が少なくない中で、こういった資料の歴史を何らかの形で残しておく作業は貴重なものといえます。

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次に、マイケル L. パワー/ジェイ・シュルキン『人はなぜ太りやすいのか』(みすず書房) です。著者2人は産婦人科の医師、というか、研究者であり、邦訳者も医学の研究者です。英語の原題は The Evolution of Obesity であり、直訳すれば、「進化する肥満」とでもするんでしょうか、2009年の出版です。ということで、タイトルから明らかなように、肥満をテーマにしており、肥満とはBMIで体重との関係を測ったりはしているものの、基本的に、脂肪の過剰と定義しています。そして、もちろん、肥満については健康への阻害要因として、好ましくないものと捉えられています。しかし、人類の長い長い歴史からして、肥満が問題となり始めたのはせいぜいが20世紀からの100年間であり、肥満がほぼほぼ存在しない前史時代や人類史の初期段階を別にしても、19世紀くらいまでは肥満が問題視されることはなかったと指摘しています。まあ、人類の寿命がそれほど長かったわけでもないことから、肥満が問題視されることもなかったんではないかと考えられます。でも、人類の寿命が長くなるに従って、肥満が死亡率の高さと相関していることが注目されたようです。そして、本書では肥満に対して進化生物学的アプローチを中心に迫っており、結論として、肥満の増加はヒトという種の適応的生物学的特性と現代という時代環境との間のミスマッチに起因する、というものです。すなわち、種としての誕生以来、人類は生命維持に必要な食物獲得のために身体を動かさねばならず、現在のようなあり余る食物に恵まれることが稀な環境で数十万年を生き延びて来たわけであり、生存のための適応は、当然、食物というエネルギー摂取の効率を高める方向に働いたんですが、20世紀以降のここ100年ほどの期間では、高カロリー食料が市場に溢れ、例えば、ピザが自宅の玄関まで宅配され、身体活動は余暇のスポーツという贅沢に変わった一方で、身体は過去の進化の刻印をとどめているため、食物摂取を通じたエネルギーの過剰蓄積への歯止めが弱いまま人類は飽食の時代を迎えた、その結果が肥満である、ということになります。加えて、進化の過程で大型化した脳を支えたのが脂肪だったこと、また、脳の発達のために赤子が脂肪を豊富に蓄えて生まれてくることも、太りやすさの背景にある、と指摘します。そして、最後の結論として、「肥満の回避も何かひとつによって達成できるわけではない」ということになりますので、とても学術的な内容ながら、当然、実践的ではないわけです。私のような専門外の者の読書としては、ともかく難しかったです。一定の前提を必要とする本のような気がしますので、決して、多くの方にはオススメできません。私自身も半分も理解できたとは思えません。でも、興味あるテーマを取り扱っていることは事実です。

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次に、三浦しをん『ぐるぐる♡博物館』(実業之日本社) です。著者はご存じの通りの直木賞作家です。ミステリ作家以外で、私のもっとも好きな作家のひとりです。ですから、余りにも当たり前ですが、文章はとっても達者です。訪れた、というか、本書の表現では、ぐるぐるした博物館は、東京の国立科学博物館をはじめとして、計10館です。本書で取り上げている、というか、同じことですが著者が訪れた順に、長野の茅野市尖石縄文考古館、東京の国立科学博物館、京都の龍谷ミュージアム、静岡の奇石博物館、福岡の大牟田市石炭産業科学館、長崎の雲仙岳災害記念館、宮城の石ノ森萬画館、東京の風俗資料館、福井のめがねミュージアム、大阪のボタンの博物館、となっており、番外編としてコラムで取り上げられているのが3か所あり、熱海秘宝館、日本製紙石巻工場、和紙手すきの人間国宝である岩野市兵衛さんの工房、となっています。だいたいにおいて、名は体を表していますので、何の博物館か明らかではないかと思いますが、石ノ森萬画館の「萬画」はマンガの意味ですし、京都の龍谷ミュージアムは龍谷大学という大学があり、浄土真宗のお寺が母体となっていますが、ご同様に龍谷ミュージアムも西本願寺が母体となっていて、でも、浄土真宗に限定されず幅広く仏教を中心にコレクションを行っているようです。私は三浦しをんのエッセイは何冊か読んでいて、やや年代は異なるものの、酒井順子のエッセイについては、調べがよく行き届いていて、お利口な大学生や大学院生が提出するリポートのような印象があるのに対して、三浦しをんのエッセイは、バクチクの追っかけをやっているとか、電車に乗っている際に耳をダンボのようにして聞き及んだ街の話題とか、かなりエッセイストの生活に密着した話題が多かったような気がしていたんですが、最近では、キチンとした取材に基づいてジャーナリストのような、というか、雑誌に連載されるに堪える調べの行き届いたエッセイになっているようです。本書の博物館訪問記のエッセイも、とてもよく取りまとめてあり、ページ数の関係か何か、ボリューム的にもう少し詳細な情報が欲しいと思わないでもありませんが、楽しく読める達者な文章のエッセイに仕上がっています。テーマも博物館ですから、目からウロコの知識も得られて一石二鳥ではないでしょうか。ただ、マンガに関する石ノ森萬画館訪問の際に、とても興奮した文章が見受けられますが、マンガに関しては10年ほど前に開館した京都国際マンガミュージアムを取り上げて欲しかった気がします。それだけが残念です。

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次に、畠中恵『とるとだす』(新潮社) です。昨年15周年を迎えた「しゃばけ」シリーズの最新第15話です。長崎屋の跡継ぎの若旦那である一太郎を主人公とし、次の「まんまこと」シリーズとは違い、妖がいっぱい出て来るファンタジーです。今年2017年1月号から5月号までの「小説新潮」に連載されていた5話を収録しています。すなわち、「とるとだす」、「しんのいみ」、「ばけねこつき」、「長崎屋の主が死んだ」、「ふろうふし」です。5話が続きものになっており、一太郎の父親である長崎屋藤兵衛が広徳寺での薬種問屋の寄合で倒れてしまいますが、その原因は他の薬種問屋さんたちに勧められるまま、沢山の薬を一度に飲んでしまったことで、昏睡状態になってしまいます。藤兵衛旦那の意識を回復させるべく一太郎は奔走することになります。それが「とるとだす」とそれに続く5話で語り尽くされます。「しんのいみ」では、一太郎は江戸の海に現れた蜃気楼の世界へと紛れ込んでしまいます。さらに、「ばけねこつき」では、一太郎は奇妙な縁談話を持ちかけられ、騒動に巻き込まれます。「長崎屋の主が死んだ」では、詳細不明ながら長崎屋に恨みを持って死んだ狂骨という骸骨の亡霊のような妖もどきが現れ、次々と人を襲い、中には死に至るものも出てしまいます。最後の「ふろうふし」では、神様の大黒天が現れて長崎屋藤兵衛の本復のためのヒントをくれて、一太郎が常世の国に渡ろうとしますが、結局、お江戸の中で騒動に巻き込まれてしまいます。でも、最後は、父親の藤兵衛が回復し、めでたし、めでたしで終わります。

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次に、畠中恵『ひとめぼれ』(文藝春秋) です。人気シリーズ「まんまこと」最新刊第6話です。町名主の跡取りであるお気楽者の麻の助とその友人を主人公にし、お江戸を舞台にするシリーズで、「しゃばけ」のシリーズと違って、妖が登場しません。普通の人間ばかりです。その上、時が流れます。子供は大きくなり、老人は死んだりもします。このシリーズ第6話は、『オール読物』に2015年から16年にかけて掲載された6話を収録しています。すなわち、札差の娘と揉めて上方へ追いやられた男の思わぬ反撃に端を発する「わかれみち」、盛り場で喧伝された祝言の約束が同心の一家に波紋を呼び起こす「昔の約束あり」、麻之助の亡き妻に似た女にもたらされた3つの縁談の相手が目論むホントの目的を探る「言祝ぎ」、火事現場で麻之助が助けた双子から垣間見える家族や大店の内情とそれを原因とする騒動に巻き込まれる「黒煙」、大店次男坊が東海道で行方不明となり店の内情が明らかとなる「心の底」、沽券が盗まれた料理屋に同心一家と雪見に行ったから麻の助がその料理屋の隠された暗部を明らかにする「ひとめぼれ」の6話です。町人の営む大店や料理屋などで、一見して外からはうかがい知れない何らかの暗い部分が、麻の助の巻き込まれる騒動により明らかとなって行く短編が多く収録されており、町人や武士の商売や一家の内情に深く切り込んだ内容となっています。もちろん、楽しいことばかりではなく、暗い部分の方が圧倒的に大きいんですが、それなりに明るく乗り越えようとする麻の助とその仲間たちを微笑ましく応援できる好編です。

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最後に、木俣冬『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書) です。著者は、ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポ、インタビュー、レビューなどを得意とするライターです。この新書では、タイトル通り、NHKの朝ドラについて、特に2010年前後くらいからSNSなどで拡散し、再び大きな盛り上がりを見せていると分析しています。朝ドラが人口に膾炙し始めるのは、1966年の「おはなはん」からであるのは衆目の一致するところであり、1983年のバブルの走りのころの「おしん」がもっとも注目を集めたのもご同様です。しかし、年末大晦日の紅白歌合戦と同じで、朝ドラも長期低落傾向にあったんですが、2007-09年くらいにほぼ底を打ち、2010年度上半期の「ゲゲゲの女房」から再び上向きに転じています。最近では「あさが来た」や「とと姉ちゃん」などがヒットといえますが、かなり全体的にいい出来栄えではないかと思います。というのは、私は実はほとんどの朝ドラを毎日のように見ているからです。2003年の夏の人事異動でジャカルタから一家で帰国して、その2003年度後半は「てるてる家族」でした。本書の著者によれば、低迷期入りの第1陣を飾った作品だそうですが、石原さとみは決して悪くなかったと記憶しています。最近お作品で私が途中で見るのを止めてしまったくらいにひどかったのは「まれ」でした。本書でもややキツい評価になっています。「てるてる家族」の後は低迷期に入り、「ゲゲゲの女房」の後もいくつか駄作はありましたが、本書では2011年下半期の「カーネーション」が史上最強の朝ドラと評価されています。そうかもしれません。先週月曜日から下半期の「わろてんか」が始まりました。期待は膨らみます。
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2017年09月30日 (土) 14:26:00

今週の読書は経済書から京都本まで計6冊!

今週の読書は計6冊です。1週間単位で4-5冊で抑えたいところですが、今週は新書が2冊あり、冊数から判断されるほどのオーバーペースではありません。すなわち、私はついつい新書は読み飛ばしてしまう方なので、モノにもよりますが、2時間ほどで読み終える新書もめずらしくありません。今週読んだ新書のうちの1冊は京都本でしたので、特にスラスラ読んでしまった気がします。

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まず、ロバート・プリングル『マネー・トラップ』(一灯舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、Central Banking という雑誌の創始者で、その発行会社の会長だそうです。同時に、金融評論家・経済記事編集者・企業家でもあるそうです。英語の原題は The Money Trap ですから、邦訳書のタイトルはそのまま直訳です。2011年にハードカバー版が、2014年にペーパーバック版が、それぞれ発行されています。ということで、いわゆるリーマン・ショック後に世界経済にあって、経済成長を回復し、金融危機が残した諸問題を解決することへ向けた各国の政府や中央銀行の努力が、極めて限定的な効果しかもたらさなかったのかについて、本書では、弾力的な信用供給・機能不全に陥っている銀行システムと未改革の国際通貨制度の相互作用に求め、これをマネー・トラップと呼んでいます。いずれも同じ経済や金融の解説書なんですが、本書でも、経済や金融の歴史をひも解き、リーマン・ショック後に行われた対応策、そして、いろいろと提案されている政策を広い範囲にわたって分析しています。要するに、アレが悪かった、コレが気に入らないと、いろいろと政府や中央銀行の失政を指摘し、銀行経営者などの行動を批判しているわけです。その意味で、極めてありきたりな経済・金融書といえます。加えて、2011年までの情報で執筆されていますから、サマーズ教授らの secular stagnation の議論は踏まえていません。しかし、とてもユニークなのはその解決策であり、ブキャナン的な意味で米ドルを憲法化することにより国際通貨制度を固定化させ、さらに、銀行をナロー・バンク化して、英国でいうところのユニット・トラスト、米国のミューチュアル・ファンドで運用する、逆にいえば、銀行の資産運用先を限定して勝手な資産運用を禁じる、というものです。国際通貨制度をカレンシー・ボード的に米ドルにペッグさせるというのは、東南アジアなどでもいくつも例がありますし、その昔は北欧の国の中には独マルクにペッグした金融政策運営をしていた国もありました。ようするに、トリフィンの国際金融のトリレンマのうち、固定為替相場と自由な資本移動を認めて、各国独立の金融政策を放棄する、ということです。しかしながら、本書では否定していますが、これは形を変えた金本位制にほかならず、おそらく失敗するものと私は予想していますし、何よりも、こういった金融政策の放棄に積極的に応ずる国は、ユーロ圏がかなりそれに近いとしても、そう多くはないものと認識しています。

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次に、樫原辰郎『帝都公園物語』(幻戯書房) です。著者は大阪ご出身の脚本家、映画監督、フリーライターだそうですが、少なくとも本書に関してはしっかり下調べが行き届いている気がします。冒頭の有栖川宮記念公園などから始まって、上野公園はそれほどではないとしても、本書の中心は日比谷公園と新宿御苑と明治神宮、というか、明治神宮を含む代々木公園となっています。明治期になって放棄されたお江戸の武家屋敷を新政府が接収して、その中から、霞が関の官庁街を設計し、銀座の煉瓦街を作り出し、練兵場や弾薬庫などの軍事施設を置き、それらとともに公園が計画されていった歴史的な経緯もなかなか興味深く読ませます。本書が指摘する通り、公園は建造物とは異なり、造園や園芸に時間がかかります。先々を見通して、小さな苗木を植えれば、開園当初は物足りなく感じる人々もいますし、当時の技術的水準では大きな樹木を移植するのは難しかったかもしれません。大きな樹木の移植ということでいえば、日比谷公園の首かけ銀杏の由来も明らかにされています。また、本書や類書で見強調されている通り、明治期は欧風文化を摂取したわけで、その中心はお雇い外国人と留学帰りの人々だったわけですが、当然に、我が国と欧米とでは違いがあるわけで、特に、公園作りの植生に関しては差が大きかったのかもしれません。東京都のシンボルになっている銀杏については、本書ではアジアでしか見られず、欧州では氷河期に絶滅したとされていますし、逆に、欧米では適した樹木でも我が国ではうまく根付かない、といった場合も少なくないような気がします。また、本書では公園を舞台にした社会現象や風俗などにも目配りされており、日露戦争の終結に反対して集会参加者が暴徒化した日比谷焼打ち事件が特に大きく取り上げられています。私のような公務員のホームグラウンドである霞が関からの地理的な距離の近さから、また、吉田修一の芥川賞受賞作である「パークライフ」を思い出しつつ、ついつい、日比谷公園に興味を持って読み進みましたが、新宿御苑も農業試験場として始まった歴史なども知りませんでしたし、なかなかオフィスやご近所の井戸端会議でお話しできるトピック満載、という気がします。

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次に、京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館) です。著者は滋賀県立大学教授であり、平安時代を中心とする中世史の研究者です。ということで、タイトル通りに、牛車についての解説書です。次の『荷車と立ちん坊』が幕末から明治期の東京を中心とする物流を取り上げているのに対して、本書は牛車ですから平安時代を中心とする中世の貴族などの人の乗り物にスポットを当てています。現在の自動車になぞらえれば、輸入高級車から大衆車まで、牛車のランクは当然にあり、上級貴族にしか許されなかった種類の牛車と、買い貴族が用いだ牛車は違います。女性が乗る牛車と男性向けも違うらしいです。私はまったく知らなかったんですが、牛車は後ろ乗りの前降りだそうで、それを間違えて都の物笑いになった田舎での木曽義仲がいたりします。ただ、当時から乗馬の習慣はあったわけで、スピードを必要とし、また、手軽に乗れる馬に対して、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示し、いわば、社会的なステータスを表現するひとつの手段でもあったと解説されています。ですから、より上位者の乗ったと思しき牛車とすれ違ったら、下位の牛車は道の脇に止めて、牛を車から離すことにより車全体で前傾姿勢を取って、お辞儀のような姿勢を示す必要があったとされています。ただ、畳が敷いてあるとはいえ、木製の車輪でサスペンションもあったとは思えず、乗り心地がさほどよかったとは考えられないと指摘されています。また、室町期にはすっかりすたれたものの、歴史上、著者が確認できた範囲で、最後の牛車は江戸時代終盤に降嫁された和宮ではなかろうか、とひも解かれています。本書はこういった牛車に関する歴史的な基礎知識を読者に示すだけでなく、それを基に、幅広く古典文学や資料に加えて、絵巻物なども動員しつつ、失敗談などのエピソード、ただし、『源氏物語』などのフィクションありなんですが、かなり実態に近いと見なせるエピソードをはじめ、牛車をめぐる悲喜劇をかなり大量に引用している点も魅力ではないでしょうか。

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次に、武田尚子『荷車と立ちん坊』(吉川弘文館) です。著者は早大教授であり、専門分野は歴史ではなく、社会学のようですから、出版社の特色として歴史書が多いものの、著者の専門分野の社会学の視点からの歴史書と考えておいた方がよさそうです。明治維新後の近代日本において、まだ荷車は人力で動かしており、それを助けるべく、上り坂などでたむろする立ちん坊と呼ばれるアシスト要員がいたりしたわけです。典型的には、「車夫馬丁」と蔑みの目で見られるなど、けしからぬ風潮がありますが、本書ではそれに疑問を呈しつつ、近代日本で激増した物流を支える人々の仕事と生活を明らかにします。とはいえ、こういった車引きの生活は苦しく、社会の下層をなしていたことも事実です。私は高校のころからしばらく読んでいた『ビッグコミックオリジナル』に連載されている「浮浪雲」を思い出してしまいました。「浮浪雲」は幕末期の品川の物流を支配する夢屋の頭を主人公にしたマンガであり、勝海舟、清水次郎長、坂本龍馬など歴史上実在する著名な人物も多数登場して、主人公と親交を持ったりしています。主人公は東海道の物流を支配し、その意味で、絶大な権力を持ちながら、ひょうひょうと遊び歩き、女性を見れば老若美醜を問わず、「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞を向ける好人物です。このマンガの主人公である雲が絶大な権力を握るのは、要するに、私の考える物流、本書でスポットを当てている分野が、とてもネットワーク的な分野であり、いわゆる歯車的なパーツがびっしりと詰まっているからです。すなわち、世界はもとより、日本全国すべての物流をカバーしきれる組織はそれほどなく、何らかの意味でいわゆる荷物をリレーしなければなりませんから、どこかの歯車がうまく回らないと、すぐに物流全体がダメになりかねません。しかし、他方で、日本、というか、日本人の得意な分野でもあり、例えば、コンビニの品揃えなどは物流のバックアップがなければ、どうにもなりません。明治期の物流は移動手段が機械化される前の段階では人力に頼る部分が大きく、それなのに、決して実入りはよくなく社会的な地位も高くない、といった階層により支えられてきていました。本書では、そういった社会階層の仕事と生活を明らかにしつつ、私のような専門外のシロートにも判りやすく解説してくれています。

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次に、矢部宏治『知ってはいけない』(講談社現代新書) です。著者は、よく判らないんですが、博報堂勤務を経て、現在は著述業、といったところなんでしょうか。本書では、我が国の対米従属の基礎と実態を明らかにしようと試みています。どこまで評価されるかは読者にもよりますが、最近では、日本が米国のポチである事実はかなりの程度に理解が浸透しており、特に、本書でも指摘されている通り、2012年の孫埼享『戦後史の正体』からは、日本がホントの意味での独立国かどうかすら疑問視する向きも出始めたりしています。本書では、著者は、対米従属の対象は米国政府ではなく米軍であり、日米合同委員会が我が国権力構造の中心に据えられて、米軍が我が国の高級官僚に直接指示を下す体制になっている、と主張しています。私は公務員ながら高級官僚とされるエリートに出世できなかったわけで、どこまで本書の主張が真実かは請け負いかねますが、かなりの程度に否定できない部分が含まれているような気がすることも確かです。例えば、本書の主張にひとつに、自衛隊は米軍指揮下で軍事行動を行う、というのがありますが、これはかなり真実に近い、と私は考えています。ですから、その昔の『沈黙の艦隊』のように、米軍が自衛隊を攻撃することはあっても、その逆なないんだろうと考えています。p.94 にあるように、アメリカへの従属ではなく米軍への従属であり、精神的な従属ではなく、法的にガッチリ抑え込まれている、というのはかなりの程度に正しい可能性があると受け止めています。その意味で、本書が矛盾する主張、すなわち、日本は法治国家ではない、と主張しているのは間違っていますが、明確に間違っているのはこの1点だけかもしれません。最後に、9章構成の9点の主張の各章の扉に4コマ漫画を配しています。これもなかなかよく出来ています。

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最後に、大野裕之『京都のおねだん』(講談社現代新書) です。年に1-2冊読む京都本です。本書の著者はチャプリン研究科にして、脚本家、映画・演劇プロデューサーです。大阪出身で、京都大学入学とともに京都に引っ越し、現在でも京都在住だそうです。ということで、私の専門分野なんですが、タイトル通り、京都のおねだんについて調べています。第3章では絶滅危惧種のひとつとして京都大学が取り上げられています。それから、京都大阪の夏の風物詩として地蔵盆にスポットを当てています。地蔵盆が京都と大阪くらいしかないのは、何となく知っていましたが、お地蔵さんを貸し出すサービスがあるのは知りませんでした。それから、季節の風物詩ということで、団扇や扇子について論じられていますが、私の子供のころには、子供だったので詳細は知りませんが、毎年、福田平八郎先生の野菜や花の絵を団扇にして配っているお店がありました。我が家にはナスや朝顔を描いた福田平八郎先生の絵の団扇があった記憶があります。もちろん、コピーなんですが、それなりの値打ちモノだったように感じないでもありませんでした。また、名曲喫茶柳月堂のことが取り上げられていますが、私はクラシックではなくジャズをもっぱらに聞いていましたので、荒神口のしあんくれーるの方が記憶に残っています。どちらも会話を交わすことは出来ません。本書にもある通り、柳月堂はそもそも会話が禁止されており、しあんくれーるでは余りの大音響でジャズがかかっていて、人間の出す大声の限界を超えているような気がしました。それから、花街のお話がありますが、京都の西の方にある島原は忘れられているようです。私のが大学のころに属していたサークルではイベントの招待状の発送準備を島原の歌舞練場で作業する伝統がありました。冒頭で作者は本書が京都本であることを否定していますが、それなりに立派な京都本だという気がします。
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2017年09月23日 (土) 19:26:00

今週の読書は話題の経済書をはじめ計5冊!

今週は話題の経済書をはじめ、以下の計5冊とかなりペースダウンしました。これくらいが適当な読書量ではないかという気もしますが、さらにもう少し減らすのも一案ではないかと思わないでもありません。

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まず、 アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』(文藝春秋) です。著者は東独生まれで、アマゾンのチーフ・サイエンティストの経験もある人物です。科学者というか、起業家というか、そんな感じです。英語の原題は Data for the People であり、今年2017年の出版です。そして、英語の原題よりも興味あるのは上野表紙画像の右下に見える英語のサブタイトルであり、post-privacy economy をいかに消費者のために作り上げるのか、といった問題意識のようです。ということで、私は従来からプライバシーには2種類あって、片方が市場である消費生活で何を買ったとかのプライバシーは、もはや成立しない、と考えています。ただ、もうひとつのプライバシー、典型的にはベッドルームのプライバシーは守られるべきだと思います。タダ、ビミョーなのは片方が市場であって、市場でないような、政府による大きな規制のもとにある市場との取引、典型的には医療や教育などの場合は、個別に考えるべきだという気もします。ただ、本書の著者の見方は、私のべき論ではなく、事実として、ベッドルームのプライバシーすらも守られていない、という考えが第4章以下で強く主張されています。例えば、ベッソルームとはいわないまでも、在宅か不在かはスマート・メーターの電気の使用状況により判断できる、とか、町中の至る所に設置されている監視カメラとか、スマホのGPSにより個人の位置情報はほぼほぼ完璧に把握されている、とかです。その上で、英語表現的にいえば、get even だと思うんですが、一方的に消費者から企業に情報を提供するだけではなく、企業が収集し蓄積している自分に関する情報の開示を求める必要を論じています。あるいは、企業と対等な情報を収集するため、例えば、コールセンターへの電話は消費者サイドの承諾を得た上で録音されていますが、消費者には録音データは開示されませんから、同時に消費者の方でも企業サイドの承諾を得た上で録音するとか、といった消費者サイドでの対応も必要と論じられています。確かに本書を読むと、私のように2種類のプライバシーを分けて論じるのは、現実問題として、もはやその段階を超えているのかもしれないと感じさせられます。最後に、タイトルがよろしくありません。アベノミクスのように、アマゾンの経営上のポリシーとか、アマゾン的な新たな経済学を思い浮かばせるようなタイトルですが、中身はプライバシー情報に基づく企業と消費者の緊張関係を論じています。

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次に、坂野潤治『帝国と立憲』(筑摩書房) です。著者は東大社研の歴史学者であり、ご専門は日本近代政治史です。ですから、私はかなり楽しみに読み始めたんですが、読後は少し失望感もありました。すなわち、本書の主眼は帝国主義と立憲主義のせめぎあいの中で前者が優位を占めて、結局、日本が侵略戦争に突入してしまった、という反省から、戦争回避の可能性を歴史から探る、というものだったハズなんですが、サブタイトルにも見られる通り、日中戦争の開戦回避というかなり局所的な話題に終始したきらいがあります。実は、私も歴史の大きな流れには興味があり、例えば、地方大学に出向していた際に学生諸君に質問し、コロンブスが1492年の新大陸を発見しなかったら、現時点まで米大陸は発見されていなかったかどうか、を問うたところ、当然ながら、あのタイミングでコロンブスが米大陸を発見しなくても、誰かがいつかは発見していただろう、という見方が圧倒的でした。同じことは昭和初期の中国との開戦にも当てはまるような気がします。ですから、あおのタイミングで、あの場所で日本が中国に侵略戦争をしかけていなかったとしても、大きな歴史の流れとして日中戦争は起こっていた気がします。その根本的な歴史の流れの解明を私は期待していたんですが、1874年の台湾出兵に始まる日中戦争への大きな歴史の流れを解き明かす試みは、少なくとも本書ではそれほど明らかにはされなかったと受け止めています。私の専門分野ではないので、著者が別の学術書か何かで明快な解答を与えてくれているのかもしれませんが、残念ながら、本書ではクリアではありません。というか、私程度の読解力と歴史に対する素養ではクリアに出来なかったのかもしれません。圧倒的な大国、あるいは、歴史上の先進国として仰ぎ見ていた中国に対する侵略行動については、もっとさかのぼらなければ解明できない可能性がある、としか私には考えようがありません。侵略や植民地化で特徴つけられる帝国主義を防止するものとして立憲主義を対置した時点で、少し問題意識が違っていたのではないか、という気もします。また、立憲は立憲主義ではなく、帝国は帝国主義とは違う、とする著者の言葉遊びにもなぞらえられかねない主張も私の理解を超えていました。

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次に、新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房) です。著者は図書館情報学を基礎に、日本近世史を専門分野とする研究者です。著者のおかげなのか、編集者が優秀なのか、構成がとてもシンプルかつ明解で、読み進むに当たってヘンにつっかえたり戻ったりする必要もなく、とても助かります。我が国の古典古代である飛鳥時代の聖徳太子のころから説き起こして、近代的な西洋文化に基づく図書館が出来る大昔からのわが国特有の図書館的な機能を持った施設の歴史をひも解いています。さすがに、第1章の古代から中世にかけての図書館はそれほど史料もないのか、大雑把にしか概観できていませんが、第2章と第3章の江戸時代が本書のタイトル通りにメインとなる部分であり、第2章の幕府の図書館、第3章の地方の藩校などの図書館などなど、興味深いエピソードが満載です。特に、私のような東京都内各区立図書館のヘビーユーザとして、毎週最低でも3-4冊は借りるタイプの読書をする人間には、とりわけ身に染みる部分もあって興味深く読めました。私のようなヘビーユーザでなくても、図書館や読書に対する関心が高まるような気がします。特に、我が国の図書館や読書の歴史を考えると、欧州中世にキリスト教の教会が知識や情報を独占し、そのために庶民が理解できないラテン語を大いに活用した歴史があり、それをルターの宗教改革やグーテンベルクの活版印刷が大きな変革を準備したのとは違い、決して識字率などが高かったわけではなかったものの、それなりに地方でも教養ある教育が実施されており、しかも、漢字だけでなくかな文字の普及もあって、読書の普及も見られたような気がします。本書本来のスコープである江戸幕府期に紅葉山文庫が整備充実され、系統的な収集と管理が行われて、しかも、改革者たる8代将軍吉宗が大いに利用したくだりなど、やや吉宗が借り出した書籍のリストがウザい気もしますが、それなりに興味深いものがあります。加えて、江戸時代に小山田与清が商人として築いた財を投じて江戸の町で解説した私設図書館など、当時の文化水準の高さを象徴する新発見、というか、私にとっての新発見もありました。ただ、図書館についての本ですので、例えば、グーテンベルクの活版印刷に相当するような蔦屋の印刷出版業に関して少し情報が不足するような気もします。図書館は図書を収集・管理するわけですから、出版される本と借りる読書人から成立していることは忘れてはならないと思います。

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次に、岡本和明・辻堂真理『コックリさんの父』(新潮社) です。タイトルの人物は一世を風靡したスプーン曲げのユリ・ゲラーとともに、1979年代の我が国オカルト界を席巻した中岡俊哉という人物です。実は、私は1970年代のそのころに、いかにもオカルトに興味を持ちそうな中高生だったんですが、まったく記憶にありません。なお、著者のうち、最初の著者はこの中岡俊哉のご令息で、後の方の著者は放送作家だそうです。ということで、主人公の中岡俊哉は「オカルト」というよりは、ご本人は心霊科学の研究者などと称していたようなんですが、本書はその生い立ちから始まって、戦争期に渡満し、その後もしばらく中国大陸にとどまって、北京放送のアナウンサーをしたりした後、我が国に帰国し、中国大陸の怪奇物語などを少年誌に寄稿しつつ、次第に超常現象の第一人者の1人とされ、テレビ番組で活躍したり、といった人生を概観しています。2001年に亡くなったそうです。10代で満州に渡ったあたりもそうですが、かなり冒険的な人生観をお持ちだったのかもしれません。ユリ・ゲラーのスプーン曲げには終始懐疑的だったようですが、クロワゼットの透視力を信頼してテレビでも取り上げたりした後、本書のタイトルであるコックリさんの体系的な解明に努めたりしています。コックリさんについては、私の中高生のころに流行ったりしていましたが、私はまったく信じておらず、やったこともありませんし、親しい友人がやっているかどうかも知りませんでした。そして、中岡俊哉はコックリさんの後、心霊写真やハンドパワーの方に向かいます。心霊写真については、ちょっと違うかもしれませんが、例の「貞子」の元になった『リング』のビデオテープへの念写などがオカルト界では有名かもしれませんが、私は可能性あると考えているのは、限りなく医療行為に近くて胡散臭いんですが、ハンドパワーの方です。というのは、医学の世界では、経済学のような因果推論というものはほとんど重視されておらず、単なる統計的な有意性で病気やケガを治しているように私には見えるからです。例えば、統計的にはセックスと妊娠はほぼ無相関なのだそうですが、明らかに因果関係をなしているのは、高校を卒業したレベルの知性を持った日本人であれば理解していることと思います。同様の知性があれば、喫煙と発がんの間に一定の相関があることも情報として知っている可能性が高いと私は考えますが、不勉強にして、その因果関係はどこまで明らかになっているかは私は知りません。おそらく、単に統計的に有意な発がん率の差が喫煙者と非喫煙者の間にある、という事実だけではないかと想像しています。その昔は、ナイフでケガをしたら、傷口とともにナイフの方にも塗り薬を塗布していたらしいですから、このあたりはオカルトに近いのかもしれません。

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最後に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書) です。著者は紛れもなくバッタの研究者です。バッタの中でも、アフリカで数年に1度大発生し、農作物に大きな被害を与えるサバクトビバッタだそうです。エコノミストの私はもちろん専門外であり、相変異を示すものがバッタ(locust)、示さないものがイナゴ(grasshopper)というのも知りませんでした。当然に実感ありませんが、日本人研究者がサハラ砂漠のバッタを研究することもあるんだ、というくらいの感想です。そして、人工的な研究室で飼育実験ばかりで野生の姿を見たことがなかったバッタの研究のため、ポスドクで研究資金を獲得してモーリタニアの研究所に2年間の予定で滞在し、本書はその間の研究とともに生活などを中心に取りまとめられています。新書としては異例のぶ厚さなんですが、読んで驚いたのは、バッタという昆虫に対しても、アフリカ途上国に対しても、著者がまったく上から目線を示していない点です。同じ高さの目線で、というよりも、ひょっとしたら、著者の自虐趣味かもしれませんが、さらに低い視点からバッタやモーリタニアを詳しく描写しています。私も開発経済学の専門家として、途上国に入ることもありますし、「指導」と称する業務を担当したこともありますが、こういった現地事情や現地人はもとより、研究対象に対する真摯な姿勢は見習いたいものだと感じました。ただ、現地語に対する学習意欲が異様に低い点は気にかかりましたが、私もジャカルタ滞在の折にマレー・インドネシア語を勉強しようとも思わなかったですし、スペイン語圏の大使館勤務をしながら、せっせと英語を勉強していたクチですから、大きなことはいえません。バッタに関する研究については何の基礎知識なくとも、モーリタニアやバッタに関して、とても実態に迫ったノンフィクションが楽しめます。
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2017年09月16日 (土) 11:49:00

今週の読書もついつい読み過ぎて計7冊!

今週の読書はぶ厚な経済書をはじめとして、以下の7冊です。先週も『戦争がつくった現代の食卓』と『世界からバナナがなくなるまえに』の食べ物関係2冊を読んだんですが、なぜか、今週も歴メシと和菓子の2冊が入っています。食欲の秋なのかもしれません。

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まず、 エドワード P. ラジアー/マイケル・ギブス『人事と組織の経済学 実践編』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国の労働経済学者であり、ラジアー教授なんぞはノーベル経済学賞に擬せられたりもしているような気がします。英語の原題は Personal Economics in Practice, 3rd Edition であり、2015年の出版です。そして、学術的な水準は大学院博士前期課程くらいに使えるテキストです。学部生ではやや難しいでしょう。ただし、1998年にラジアー教授は邦訳で同じ出版社から『人事と組織の経済学』を出版しており、やや英文タイトルに変更あったものの、中身は半分以上同じだという気がします。というのも、私は労働経済学とかのマイクロな分野はほとんど専門外なんですが、数年前に勤務上の都合で国際共同研究を担当し、まったく専門外ながら労働や雇用に関する研究のグループの研究取りまとめをせねばならなかったことがあり、その際に1998年出版の旧版を読みました。旧版の方がややページ数が多かった気はしますが、冒頭の採用に関するチャプターなんか、安定した生産性を示す労働者よりも、リスクある労働者を雇うべし、といった結論も旧版から同じだと思いだしてしまいました。すなわち、野球でいえばアベレージ・ヒッターではなく、ホームランか三振か、といったバッターを雇用すべきであるという結論で、安定性を重視する日本人としては不思議に思ったんですが、本書の結論のひとつとしては、リスクある労働者が結果を出せない場合、すなわち、野球でいえば三振ばかりしている場合、解雇すればいいじゃないか、という、いかにも米国流の考え方だったのを思い出してしまいました。米国的なCEOの超高給と一般労働者との給与格差については、職階による給与の差が大きいほどスキルアップのインセンティブが大きくなる、と旧版と同じ論理を展開している部分が多いんですが、IT化の進展により意思決定の中央集権化が進む可能性を指摘していたりと、当然のように版を重ねている部分もあります。第2版を見ていないので何ともいえませんが、適切にアップデートしている気もします。ただ、人事管理に関しては、合理的なホモ・エコノミカスを対象とするインセンティブの体系ですので、合理的といえば合理的なんですが、資本と異なるモビリティの問題とか、個々人による異質性の問題とか、まだまだ解明されていない点は多いと考えさせられます。加えて、現時点では実験経済学は消費の場などにおける選択の問題が中心に据えられていますが、労働経済学が分析対象とする雇用や業務遂行の際の選択を実験で明らかにできれば、さらに経済学は進歩しそうな気もします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、すでにそういった研究は進められていそうな気もします。

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次に、淵田康之『キャッシュフリー経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研のベテラン研究員であり、著者が野村総研から出している主要なリポートの一覧が野村総研のサイトに示されています。本書のテーマは、今年5月27日付けの読書感想文で取り上げたロゴフ教授の『現金の呪い』の理論的な面を背景に、日本の現状に合致するように取りまとめてあります。というのも、買い物の決済でキャッシュが占める比率は日本ではとても高く5割ほどに達します。銀行預金が大好きな点と併せて、日本人のひとつの嗜好を示しているような気がします。米国では買物のキャッシュ支払比率は2割に届かず、カード払いが半分ほどに上ります。また、1000ドル札のような超高額紙幣はないものの、日本で1万円札が市中で何の問題もなく流通するのもやや不思議です。名目値でほぼ等価の米国の100ドル札は、少なくとも私の経験では、首都ワシントンのスーパーマーケットでとても使い勝手が悪いです。もちろん、米国の100ドル札はいわゆる法貨ですから、受け取ってもらえないことはあり得ないんですが、ホンモノの100ドル札であることをチェックするのに、やたらと手間取り時間もかかります。ロゴフ教授の主張するキャッシュレス化の利点はマネー・ロンダリングなどの不正対策や金融政策の効率化だったんですが、本書では4点指摘しており、第1にそもそも紙幣やコインを製造するコストの削減、あるいは、偽札や盗難などのリスクの減少、第2に銀行ATMでの現金引き出しやスーパーの支払いの場での小銭の勘定などに費やす時間の短縮、第3にストレスない快適な買い物の実現、第4にマネー・ロンダリングや不正送金の防止などを上げています。さらに、日本の現状にかんがみて、例えば、インバウンド消費の支払いにおけるキャッシュフリー化などの利点も論じていますし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた課題ともいえます。キャッシュ大国である、当然に、その逆から見て、キャッシュフリー後進国である日本の実情に即して、どのようにキャッシュフリー化を進めるかにつき、政府や日銀の政策面も批判的に紹介しつつ、現実的な対応を議論しています。

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次に、大島隆『アメリカは尖閣を守るか』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。国際報道のキャリアが長く、米国駐在経験もあるようです。ということで、本書のタイトル通りの内容について、米国のサイドから公開されている公文書などを渉猟して明らかにしようと試みています。というのも、オバマ前政権も現在のトランプ政権も、尖閣諸島における我が国の施政権を認めていて、我が国の施政権の及ぶ範囲は米国の防衛義務が及ぶと明らかにしていますので、本書のタイトルに対する回答は yes でしかあり得ません。そして、その yes である根拠を時代をさかのぼって明らかにしようと試みているわけです。もちろん、その背景には米国ファーストで、同盟国に対して応分の負担を求める発言を繰り返すトランプ大統領の存在があります。さかのぼるのはサンフランシスコ平和条約と同時に署名された日米安保条約です。でも、沖縄返還時の交渉経緯も重要です。ただし、この沖縄返還までは日米のほかのもう1国の当事者である中国とは、台湾の中華民国政府を意味していたのに対し、現在では北京の中華人民共和国の共産党政権となっています。そして、忘れてはいけない点は、本書でも何度も繰り返されている通り、尖閣諸島の領有権については米国は態度を明らかにせず、関係国で話し合いをすべき、という原則であり、尖閣諸島についても領有権に対する態度があいまいです。ただ、尖閣諸島の施政権については日本が有していることを認めており、従って、日本の施政権の及ぶ範囲で日米安保条約に基づく防衛義務が発生する、という立場です。ですから、本書では明記していないものの、竹島については韓国が実効支配していることから、日本の施政権を米国が認めない可能性が大いにある点は留意しておかねばなりません。おそらく、バックグラウンドで大量のドキュメントを消化している割には、出て来た結論はありきたりな気もしますが、バックグラウンドの確認努力を評価すべきなのかもしれません。

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次に、遠藤雅司『歴メシ!』(柏書房) です。著者は歴史料理研究家だそうで、本書では、最古のパン、中世のシチュー、ルネサンスの健康食、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会などなど、オリエントから欧州にあった8つの時代の歴史料理を検証し、現代人向けのレシピにまとめています。第1章 ギルガメシュの計らい では古代メソポタミアを、第2章 ソクラテスの腹ごしらえ ではいわゆる古典古代のギリシアを、第3章 カエサルの祝勝会 ではローマ帝政期を、第4章 リチャード3世の愉しみでは中世イングランドを、第5章 レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房 では中世イタリアを、第6章 マリー・アントワネットの日常 と 第7章 ユーゴーのごちそう会 ではでは革命期のフランスを、第8章 ビスマルクの遺言 では統一期のドイツを、それぞれ取り上げています。フランス革命までは料理人といえば、我が国の「天然平価の料理人」ではないですが、王宮や貴族のお抱えで料理を作っていたものの、革命により貴族が没落し、その料理人がパリ市内でレストランを開いた、ということのようです。私は料理はまったくせず、しかも、つくるほうだけでなく食べる方でも、グルメでも何でもなく、食事とは栄養の補給くらいにしか考えていません。ですから、長崎大学経済学部の教員として単身赴任していた折にも、鍋釜はもちろん、コップや皿などの食器すら宿舎に持っておらず、朝食の際にパンをミルクで流し込むほかは、大学生協などでの外食か、そうでなければ、弁当を買い求めていました。不健康な食生活でしたので、よく体を壊していましたし、2009年にメキシコ発の豚インフルエンザが我が国でも流行した際には、しっかりとり患して長崎でも流行の最先端ではなかろうかといわれたくらいです。ですから、いろんな料理のレシピを見ても実感が湧かないこと甚だしいんですが、お料理の好きな人は実際に作ってみようかと考える向きも少なくないような気がします。次の『和菓子を愛した人たち』と同様に、フルカラーの写真が満載です。

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次に、虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』(山川出版) です。虎屋のサイトで2000年から連載されてきた歴史上の人物と和菓子の内容を書籍化したものです。どうでもいいことながら、オールカラー300ページほどで税込み2000円弱というのは安いと思います。もっと、どうでもいいことながら、我が家の倅たちが幼稚園くらいのころに、絵本を買う場合、イラストだと安かったんですが、写真だととたんに高価になった記憶があります。上に見える表紙画像は川崎巨泉の饅頭食い人形なんですが、こういった写真がフルカラーで収録されています。ということで、もともとのサイトからの転載が中心ですから、タイトル通りに、原則2ページくらいの細切れながら、歴史上の著名人と和菓子の関係を明らかにしています。冒頭は紫式部から始まっています。フルカラーですから、和菓子の色彩上の利点なども手に取るように明らかで、谷崎潤一郎が引用している夏目漱石の言葉で、羊羹の色に対比して洋菓子のクリームの色は「あさはか」と表現されています。ただ、やや勘違いもあるような気もしますし、虎屋文庫がおおもとになっているので、虎屋で扱っていないタイプの和菓子が含まれていないという恨みもあります。上の表紙画像にしても、私は和菓子というよりは中国風の印象なんですが、どうでしょうか。また、本書冒頭の紫式部にしても、当時の文化を背景に考えれば、洋菓子のシュークリームがあるわけではなく、国風文化の下で中国の影響すら薄いわけですから、和菓子が好きだったというよりは、甘いもの、現在の言葉でいえばスイーツが好きだった、ということなんでしょう。鎖国下の江戸時代もチャプターひとつを占めていますが、同様だという気がします。また、唐菓子がよく取り上げられている気がして、和菓子との境界につきやや疑問が残ります。

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次に、本格ミステリ作家クラブ[選・編]『ベスト本格ミステリ 2017』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブの創設が2000年で、その翌年の2001年から編まれている短編集の2017年版です。収録作品は、天野暁月「何かが足りない方程式」、青崎有吾「早朝始発の殺風景」、西澤保彦「もう誰も使わない」、似鳥鶏「鼠でも天才でもなく」、井上真偽「言の葉の子ら」、葉真中顕「交換日記」、佐藤究「シヴィル・ライツ」、青柳碧人「琥珀の心臓を盗ったのは」、伊吹亜門「佐賀から来た男」、倉狩聡「もしかあんにゃのカブトエビ」の短編と評論が1編となっています。極めて論理的に謎が解き明かされる「早朝始発の殺風景」、また、なかなか上手に騙してくれる「交換日記」などが私の感性に合致した気がします。2段組みの小さな活字で、資料編も合わせれば500ページ近いボリュームなんですが、さすがの作家陣の短編作品ですので、私はとてもスラスラ読み進むことができました。

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最後に、米澤穂信ほか『短編学校』(集英社文庫) です。このブログでも読書感想文に取り上げた記憶がありますが、同じ集英社文庫から出版されている『短編少女』や『短編少年』といったシリーズの最新刊ではないかと思います。収録作品は、米澤穂信「913」、本多孝好「エースナンバー」、中村航「さよなら、ミネオ」、関口尚「カウンター・テコンダー」、井上荒野「骨」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」、吉田修一「少年前夜」、辻村深月「サイリウム」、山本幸久「マニアの受難」、今野緒雪「ねむり姫の星」の10作品となっています。 短編集にもかかわらず、なかなか深い作品が多かったような気がします。でも、こういったアンソロジーの常として、10本もの収録作品があれば、2-3は既読である可能性があります。まあ、既読の作品数が多いということは、それだけ残念という意味ではなく、読書家の証なのかもしれません。
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2017年09月09日 (土) 13:27:00

今週の読書は直木賞受賞の佐藤正午『月の満ち欠け』ほか計7冊!

今週もまたまたオーバーペースで、やや読み過ぎた気がします。話題の経済書もありますが、今週の読書の目玉は何といっても直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』です。私は村上春樹の好きなハルキストですが、最近の小説ではダントツだった気がします。以下の7冊です。

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まず、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋) です。著者はオランダ人のジャーナリストであり、広告収入にまったく頼らない「デ・コレスポンデント」の創立メンバーの1人だそうです。2014年に出されたオランダ語の原書は自費出版に近かったらしいんですが、アマゾンの自費出版サービスで英語に訳されると、今年2017年には世界20か国での出版が決まったといいます。英語のタイトルは Utopia for Realist となっています。ということで、本書の邦訳の副題は『AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』となっていますが、決してAIやロボットとの競争だけを視野にしているわけではなく、特に格差についてその解消を目指していると考えるべきです。英国の有名なスピーナムランド制をはじめとして、カナダやインドなどで実施され、社会実験レベルのものまで含めたベーシック・インカムの効果に関する文献をひも解き、ベーシック・インカムが決して勤労を阻害したり、怠惰を招いたり、といった事実は観察されず、むしろ、貧困や格差の是正に役立っている点を強調しつつ、その上で、産業革命期から1980年代まで一貫して減少を示した労働時間が上昇に転じ、しかし、そういった中でも労働生産性は上昇を続けている、という事実を説得力ある方法で示しています。また、ありきたりな国民総幸福量、ブータンの例を引きつつ、こういった幸福度指標については明確に否定しています。ケインズの週15時間労働の予言にも触れつつ、正統派の経済学に基づいた方法でベーシック・インカムの利点を展開し、同時に、本書の終盤では国境を開放して自由な個人の行き来を推奨しています。決して、グローバル化を格差の原因として排除する議論には与していません。これも、正統派の経済学に立脚した議論といえます。ラッダイト運動の歴史に言及しつつ、AIとの競争には勝てないことを明言し、その意味では「敗北主義」っぽく見えなくもないんですが、私から見ればリアリストなんだろうと思えます。マルクス・エンゲルスのような左派経済学者に加えて、ケインズなどの正統派エコノミスト、さらに、ハイエクやフリードマンなどの右派まで幅広く引用して、左右両派のどちらからも支持されているベーシック・インカムの利点を浮き彫りにしています。AIによる職の代替可能性からベーシック・インカムが議論されることが多いんですが、あくまで私の信頼厚い左派からする議論かもしれませんが、格差是正まで含めて幅広い議論に資する良書だと思います。

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次に、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大社研教授であり、専門分野は労働経済学や人事制度などであると私は認識しています。私は景気循環や開発経済などの中でも、マクロ経済を専門分野とするエコノミストであり、労働経済学とか、人的資源管理論とかのマイクロな分野は専門外なんですが、本書でも紹介される初歩的なミンサー型の賃金関数は推計して研究成果として取りまとめたことがあります。ということで、タイトルから勝手に想像して、マイクロな人事制度、すなわち、人事評価やそれに基づく人事異動による個々の労働者・雇用者の配置、さらに、評価に基づく職階とそれに連動する賃金水準の決定に関する議論を期待していたんですが、私の期待は裏切られました。わずかに関連するテーマは第4章の人事採用、それに、中間管理職の貢献の計測に関する議論だけでした。まあ、そうなんでしょうね。今話題の女性活躍推進、働き方改革、高齢化対応などのほか、定着率の向上などの人的資源管理に関するトピックが中心で、その前提として統計的・計量的な分析手法に関する簡単な解説などがあります。本書冒頭では、人事についてはいわゆるPDCAが回っていないと断言されており、人事に集まるデータを統計的・計量的に分析することにより、人事の過大に対応しようと試みています。ただ、先月8月26日付けの読書感想文で取り上げた山口一男『働き方の男女不平等』についても同じことを書きましたが、個々人の能力や生産性、あるいは、家庭環境などもひっくるめて人事で評価し最適な人事配置を行うことは、現在のシステムでは不可能と私は考えています。だからこそ、役所ほど典型的ではないとしても、大手企業などでは入社年次で管理されて来たわけであり、別の言葉でいえば、横並びで人事管理され、特に、大卒総合職の場合はゼネラリストとして、会社や役所などの組織にメンバーシップ参加し、無限定に指定された役割をこなす、という人事制度がまかり通って来たわけです。しかし、他方で、本書の p.237 で指摘されている通り、ゾクセイ、ニーズキャリアなどが大きく多様化し、単純な相対比較が難しくなった現時点で、どのような人事評価制度の下で評価を下し、各個人の適性や能力や生産性やその他の属性に従って、職階を上らせたり、あるいは、下らせたり、また、どういった役割でどの職場に配置するか、の労働力の最適配置論を考え直すべき時期に来ている気がします。もちろん、マイクロな人的資源管理論から派生して、マクロの経済社会全体の生産性やその生産性に基づくマクロ経済の成長や、さらにさらに、で、人口問題の緩和・解消などまで視野に収めた議論は華々しくていいんですが、人的資源管理論の本来の役割である個々人の処遇のあり方をすっ飛ばして、いきなりマクロの議論をしても合成の誤謬を生じるだけのような気がします。従って、もう20年近くも前の邦訳出版ですが、ラジアー教授の『人事と組織の経済学』などと比べるとかなり見劣りします。もっとも、比較対象の相手のレベルが違い過ぎるかもしれません。ただ、人事部局に集まるデータをもっと活用した方がいい、という点については一般論としては大賛成なのですが、実際のデータ管理の運用は困難がつきまとうような気もします。すなわち、役所の人事部門などは「身内に甘い」との指摘を受けることがあったりするんですが、人事に関するデータや各種情報が人事部局には集まるわけで、それをどう使うかは考えどころです。「身内に甘い」といわれても従業員を守る姿勢を貫くのか、それとも、次は誰をリストラ対象としようか、という視点で活用するのか、人事としての情報活用の方向性も考えどころかもしれません。

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次に、ロバート H. フランク『成功する人は偶然を味方にする』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国コーネル大学ジョンソンスクール経済学教授であり、長らくニューヨーク・タイムズ紙で経済コラムを執筆しています。本書の英語の原題は Success and Luck であり、2016年の出版です。私もそうですが、うまく行けば自分の努力や能力を要因として上げ、逆に失敗すれば運が悪かったとか、他人の責任にする、というとても立派な人格的な傾向がある人は少なくありません。現在および少し前の阪神の監督について私の評価が芳しくないのはそういったところで、試合後の感想で、打たれた投手について「あそこは抑えて欲しかった」とか、打てなかった打者に対して「あそこは打って欲しかった」とかいう監督は私は決して評価しません。逆に、選手起用に関する監督自身の責任をアッサリと認めると潔さなんぞを感じます。同様に、本書では成功したケースでもご本人の能力や努力だけではなく、運の要素がかなりあることを認めつつ、失敗したケースでも成功のケースとの差は紙一重であり、運の要素で失敗に終わるケースが少なくない、という点を明らかにしています。同時に、政府などの公的部門が個人の効用や企業の生産活動に対して補完的なインフラを提供している点も強調しており、例えば、スピードの出る高級車を買っても道路が凸凹ではスピードを出してのドライブができないわけで、これらの点を総合して、成功した高所得者から累進的にガッポリと税金を取るべきである、と主張しています。そして、エコノミストの目から見てとても特徴的なのは、累進消費税を提唱している点です。私は不勉強にして知りませんでしたが、第2次大戦中にフリードマン教授も戦費調達の観点からその導入を提唱していたらしく、現在の我が国の消費税のように財サービスの購入時に税抜き価格に上乗せして消費者が業者に支払って、そのために、益税が出来たりする制度ではなく、収入と支出と貯蓄のバランスから支出額を算定して、それに対して累進的に課税するというシステムのようです。いずれにせよ、成功と不成功の間の差は大きくなく、しかも、現在のような勝者総取り方式で、小さな努力の差に対して大きな格差が生じかねない経済社会では、何らかの格差是正策が求められるのは当然です。最後に、成功と不成功を分ける要因として能力や努力ではなく、本書のように運を強調し過ぎると、努力しようとする意欲を阻害する可能性がありますが、現在の日本のように努力し過ぎて過労死したりするような社会では、もっとゆったり構えるというか、私は少しくらい努力を推奨しない意見があってもいいような気もします。ダメですかね?

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次に、アナスタシア・マークス・デ・サルセド『戦争がつくった現代の食卓』(白揚社) です。作者は編集者であり、本書のために2年半を調査に費やしたフードライターでもあります。ご亭主がキューバ人、ということはラテン人であり、お姑さんも本書に登場し、私の大使館勤務時の南米生活に照らしても食生活は豊かではないか、という気がします。本書では、特に、ネイティック研究所なる米軍ご用達の軍人向けの糧食などの開発研究所をはじめ、米軍と通常の我々一般人の食卓の関係をひも解くんだろうと期待して借りてみたんですが、もっと食品学、化学や生物学などの食品に関する学問、日本でいえば女子大にあるような食物学科のような学術的な内容が中心となっています。少し脱線すると、我が国の明治期に軍と食料ということでいえば、彼の文豪森鴎外も軍医として横槍片手に参加した脚気論争があります。白米だけで十分なカロリーが摂取できる一方で、脚気は何らかの病原菌に起因すると主張する森鴎外などの陸軍一派に対して、海軍は麦飯や白米まで精製しない玄米などにより、実証的に脚気を回避した論争です。もちろん、米軍でもその昔には同じような事件があったのかもしれませんが、少なくとも本書では関係ありません。軍人に供する食品に関しては、シュンペーター的なイノベーションの観点からして、食材、調理、包装を含めた輸送、などなどのイノベーションが考えられ、一般人食卓に供される食品と共通する部分も少なくありません。例えば、食材については米国人大好きなステーキについては、Tボーン・ステーキのような骨付き肉ではなく、成形肉の利用が始まったり、調理は保存食として従来からの塩漬け、燻製、干物などに加えて、宇宙食にも応用されたフリーズ・ドライの製法が発達したり、包装についてはナポレオン戦争期に開発された缶詰に加えて、レトルト・パウチのような空気を通しにくい包装が開発されたり、輸送については、もちろん、冷蔵・冷凍での輸送が可能になったり、と軍民共通のイノベーションがさまざまに紹介されています。ただ、第12章のスーパーマーケットのツアーで紹介されているように、軍民で共通している食品は30~70%にも上る一方で、具体的にそれほど一般読者向けの楽しく理解できる例が多くありません。私は女子大に設置されている食物学科が理系だということを大学に入ってから知って、少なからぬショックを受けたんですが、そういった理系の人向けの本だという気もします。私は国際派の公務員ですから、売国出張はついつい首都のワシントンDCが多くなるんですが、倅たちへの土産にはスミソニアン博物館の宇宙食のアイスクリームを買う場合が多いです。軍ではありませんが、こういった新しい食品のイノベーションが一般家庭の食卓に並んだりするんでしょうから、そういった楽しい実例がもっと欲しかった気がして残念です。

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次に、ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社) です。訳者あとがきのよれば、著者は米国ノースカロライナ州立大学の研究者であり、専門分野は進化生物学だそうです。英語の原題は Never out of Season であり、2017年今年の出版です。邦訳タイトル通り、プランテーション栽培されるバナナの話から始まって、ジャガイモ、キャッサバ、カカオ、というか、チョコレート、コムギ、天然ゴムなどなど、企業収益性の観点から植物や生物としての多様性を損なう形でのモノカルチャー化が進み、結果として、緑の革命などのように多くの人口のための食料生産には資することとなった一方で、病原菌やネズミなども含めた病害虫の侵食には弱くなり、極めて短期間のうちに緑の農場が茶褐色になってしまう被害をもたらす可能性が高まったリスクを指摘しています。繰り返しになりますが、緑の革命により、スーパーマーケットで消費者の食料の入手は容易になった一方で、殺虫剤や除草剤などの化合物に対する依存が強まったり、灌漑の必要が高まったりしたため、農村は収穫が増加して収益が増大した一方で、種子や農業機械や肥料などの化学品を購入する必要が高まり、同時に、支出も増加するという経済モデルに組み込まれる結果となった、と著者は指摘します。まあ、私のようなエコノミストからすれば、経済学が農学を支配するようになってめでたい、と考えられなくもありませんが、他方で、完全に人為的な世界である経済と自然との共存の思想が不可欠な農学との乖離に目をつぶらねばならない必要も生じたわけです。どちらが好ましいかは基本的な世界観、人生観、哲学によります。先の『戦争がつくった現代の食卓』にもありましたが、食品工業が生み出した加工食品にもそれなりの合理性はありますし、すべての食料生産を近代資本主義的に短期的な効率性だけを優先させて行うことは問題があるとしても、農業を自然のままにして餓死する貧困層を放置するのには忍びません。ということで、人類のそのコンポーネントのひとつであるところの多様な生態系の維持と、人類そのものの生存や種の維持と、両者が矛盾なき場合は問題ないものの、両者が両立しない場合には悩ましい問題が生じる可能性があります。そういった意味で、世界観や人生観などの哲学的な見方も含めて、考えさせられる本でした。

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次に、佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店) です。ご存じ、第157回直木賞受賞の話題作です。タイトル通り、生まれ変わり、あるいは、輪廻転生の物語ですが、そのバックボーンは明らかに熱烈なる恋愛小説です。ということで、私はこの60歳超のキャリアの長い人気作家の作品については、『鳩の撃退法』くらいしか読んでいないんですが、おそらく、この『月の満ち欠け』クラスの小説は日本文壇ではそうそう出ないような気もします。それほどの大傑作といえます。私の場合、読書の中でも小説の比重はそれほど大きくなく、経済書をはじめとする教養書や専門書の方が大きな比率を占め、さらに、小説の中でも好みで時代小説やミステリが多いものですから、純文学やこういった現代ものの大衆小説はそれほど読みませんが、完全にノックアウトされました。論評の前に、まず、私は自然の摂理のひとつとして、輪廻転生や生まれ変わりはあり得る可能性を否定しません。すべての生き物が生まれ変わって輪廻転生する、なんてことを主張するつもりは毛頭ありませんが、この小説にあるような動機も含めて、何らかの強烈な思いがあれば、生まれ変わりになって生命をつなぐこともあり得ますし、生命をつなげなければ幽霊になることもあり得る、とその可能性を全否定することはしません。まあ、レアケースなんだろうとは思います。他方で、私自身はそれほど強烈な思いを持っているわけではないので、生まれ変わりや輪廻転生をしないとは思いますが、さらに積極的にこれらを否定するために、浄土真宗の信者となって念仏を唱えるわけです。なお、一般的な用語ながら、輪廻転生から抜け出すことを解脱と定義しているのは広く知られた通りです。宗教から小説に戻ると、この作品と似た小説に東野圭吾の出世作である『秘密』があります。広末涼子主演で映画化もされました。これも、特定の人物の記憶をはじめとする人格が親しい他の人物に転移する、というストーリーです。しかし、『秘密』の場合は転移された方がその思いを振り払って自立して行くのに対して、この『月の満ち欠け』は何と4代に渡って思いを遂げるために生まれ変わりを繰り返します。というか、初代を別にすれば、生まれ変わりとしてこの世に現れるのは3代と数えることも出来ます。そして、原則として、同じ名前を引き継ぎ、とうとう東京ステーションホテルに現れなかった三角くんを思い続け、ラストにはその思いを成就するわけです。加えて、生まれ変わりはこの流れだけではなく、もう1人いることが強く示唆されます。ハッキリいって、これが衝撃のラストです。また、人間でない生まれ変わりの可能性も示唆されています。映画化されたら、私はぜひとも見たいと思います。

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最後に、NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』(講談社現代新書) です。昨年2016年9月25日に放送された同名のNHKスペシャルの取材結果です。タイトルからして、いかにも人口減少の問題点に着目しているように思ったんですが、どうも、原因が人口減少とは言い切れず、ハッキリしない現状の問題点もひっくるめて、地方の衰退全般を取り上げているように感じられ、やや焦点がボケているように受け止めました。日本創成会議が取りまとめて中公新書で出版された消滅可能性都市の中に東京23区で唯一登場した豊島区への取材から始まって、財政再生団体に指定された北海道の夕張市、夕張市がやや極端な例であるとして、一部の地方公共団体にて行政サービスの提供が放棄された例として、島根県雲南市、浜田市、京都府京丹後市などの取材の結果が明らかにされ、こういった行政サービスの提供停止は、決して一部の例外的な地方だけの問題ではなく、タイムスパンの長さは別にして、日本全体の問題に拡大しかねない、とのトーンで取りまとめています。注目の本であり、図書館の予約からかなり待たされましたが、どうも私には気になる点があります。繰り返しになりますが、人口減少だけでなく、あらゆる社会的な日本の問題点を、かなり恣意的な取材により極端な例を持ち出して誇張しているような気がしてなりません。京都出身で、長らく東京で公務員をしてきた私ですので、かなりバイアスのかかった見方しかできませんが、それでも、人口問題も含めて社会的に、あるいは、経済的には市場にて、政策の必要なく解決できる問題も少なくありません。おそらく、人口減少問題も政策の手当なしで反転する可能性が十分あると私は考えますが、問題は時間的な余裕です。人口減少が反転するにはとてつもなく長期を要し、その期間をもっと短縮するために有効な政策がある、という点については私も合意します。本書のタイトルの問題意識では人口を増加させれば解決できるような、誤った印象を持たされかねませんが、人口だけでなく、もっと根源的な問題があることを明らかにすべきではなかろうかという気がします。
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2017年09月03日 (日) 14:29:00

先週の読書はかなりオーバーペースで経済書など計8冊!

先週の読書は、米国雇用統計が土曜日に割って入って、読書日で1日多かった一方で、ケインズものが冒頭に2冊並んでいますが、やっぱりマクロ経済学や開発経済学などの専門かつ好きな分野の読書が多かったものですから、かなりオーバーペースで8冊に達しました。以下の通りです。今週はもう少しペースダウンしたいと思っています。でも、直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』とか、昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていた東大社研の大湾教授の『日本の人事を科学する』なんぞが借りられたりしたもんですから、やっぱり、かなりのボリュームを読んでしまうかもしれません。

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次に、大瀧雅之・加藤晋[編]『ケインズとその時代を読む』(東京学出版会) です。著者はチャプターごとに大量にいたりするんですが、大雑把に、東大社研と日本政策投資銀行設備投資研究所とのコラボとなっているように受け止めています。例えば、政策投資銀行のサイトでは本書が研究成果として取り上げられていたりします。4部構成を取っており、第Ⅰ部 第一次世界大戦の帰結と全体主義勃興の危機 では、J.M.ケインズ『平和の経済的帰結』、J.M.ケインズ『条約の改正』とケインズ自身の2冊の後、E.H.カー『危機の二十年』とF.A.ハイエク『隷従への道』が取り上げられています。ハイエクの著作については、ケインズと比較対照される形で注目される場合もあるんですが、本書では西欧リベラルの同じグループの中に属し、やや左派と右派の違いだけ、といったトーンで並べられています。ただ、ケインズに着目した本ですので、ハイエクが後景に退いている印象はあります。当然です。第Ⅱ部 理論の展開 では、T.B.ヴェブレン『企業の理論』、A.C.ピグー『厚生経済学』、L.ロビンズ『経済学の本質と意義』がケインズ『一般理論』前史として、そして、J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から始まって、R.F.カーン『ケインズ「一般理論」の形成過程』、A.P.ラーナー『調整の経済学』、J.E.ミード『理性的急進主義者の経済政策』が『一般理論』と並んで紹介されています。『一般理論』前史のピグーについては、古典派経済学から脱して、何らかの経済的厚生を高めるための政府の介入に道を開いた、と評価されています。続く第Ⅲ部 1930年代の世界と日本 では世界的なファシズムの台頭と日本に着目し、J.M.ケインズ『世界恐慌と英米における諸政策1931~39年の諸活動』、高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』、石橋湛山『石橋湛山評論集』が取り上げられており、どうでもいいことながら、現在のリフレ派エコノミストの先達となった昭和初期の我が国エコノミストを取り上げながら、現在のリフレ派経済学を否定して、財政赤字削減をサラッと主張しているチャプターの著者もいて、少し笑ってしまいました。最後の第Ⅳ部 ケインズの同時代人 では、J.M.ケインズ『人物評伝』、フランク・ラムジーのいくつかの論文と著書、E.H.カーのソ連史研究が取り上げられています。ご本人のケインズを別にすれば、複数のチャプターで取り上げられているのはカーだけなんですが、リアリストの立場から国際政治における権力=パワーを軍事力、経済力、合意形成力の3要素から論じており、私のようなシロートにもなかなか参考になります。また、ソ連型の経済が崩壊した現時点からでは理解が進まないものの、中央集権的な指令型の計画経済という面ではなく、男女間を含めて平等の実現、自由と民主主義の新しい形、などなど、本来のマルクス主義的な社会主義の明るい未来に憧れていた20世紀前半期の西欧の雰囲気がよく伝わります。各チャプターの最後に参考文献が数冊明示されています。唯一疑問なのは、シュンペーターがまったく取り上げられていない点です。ハイエクも含めて、いわゆるブルームズベリー・グループやケンブリッジ・サーカス以外のエコノミスト・文化人も取り上げているんですが、なぜか、シュンペーターだけは無視されている印象です。ケインズと立派な同時代人だと思うんですが、理由はよく判りません。

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次に、根井雅弘『ケインズを読み直す』(白水社) です。著者は私の母校である京都大学経済学部の研究者であり、入門書をはじめとして何冊かの著作があると記憶しています。私の在学中は木崎先生が教えていた経済学史の担当ではないかと思います。ご出身大学が早大ですので、若田部先生と同じコースかもしれません。ということで、タイトル通りに、ケインズの足跡をたどったケインズ経済学の入門書です。通常の理解の通りに、ケインズ卿については卓越した経済理論家であるとともに、同時に政治的なアジテータでもあり、また、国内外を問わずに国際金融などの制度論に立脚した実務にも精通していた、ということになります。ケインズ卿については最初に取り上げられるべき『平和の経済的帰結』が第1次世界大戦後のドイツ賠償問題ですから、ケンブリッジ大学卒業後のキャリアはインド省で始めたとしても、エコノミストとしての活動は割合と地味なドイツ経済の分析から賠償能力を積み上げ、それを英国内外にパンフレットとして明らかにする、という活動でした。同時に、金本位制への復帰に際しての平価の設定、さらに、その後、第2次世界大戦では英国の戦費調達のために米国を説き伏せたり、戦後は現在IMFと世銀で結実した国際金融体制の整備に努力しましたが、実際には英国のケインズ案は、ことごとく米国のホワイト案に凌駕されつつも、重要な骨格はいくつか残した、という結論ではないでしょうか。その後、実際にケインズ経済学が実践され花開いたのはケインズの死後であり、国としても1960年代のケネディ政権以降の米国なんですが、この実務的なケインズ革命について本書では終章で「『未完』に終わった」と結論しています。すなわち、1970年代に入ってのインフレ高進からケインズ経済学への不審が高まり、特に、決定的だったのは、ノーベル経済学賞も受賞したシカゴ大学のルーカス教授によるケインズ反革命であり、貨幣数量説の装いを新たにしたマネタリズムなどとともに、先進国の経済政策のシーンからケインズ経済学をかなりの程度に駆逐した、との印象かもしれません。しかし、私の印象ながら、今はもう死語となった「混合経済」、すなわち、古典派的な自由放任経済を終えて、経済政策が積極的に雇用の拡大、完全雇用を目指す体制を整え、戦後の社会福祉を重視して国民の経済厚生を政府が積極的に支援するような経済政策運営に舵を切ったのは、何といってもケインズ経済学の功績です。ケインズ卿の意図したような政策運営にはならず、右派的・古典派的な経済学の巻き返しに何度も遭遇したという意味では、確かに、ケインズ革命は未完かもしれませんが、私のような官庁エコノミストの目から見て、政府が何とか経済成長を加速し雇用を増大させるという方向で国民の経済的厚生の向上に努めるようになったのはケインズ経済学を基礎とする政策論の功績であると考えます。

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次に、森田朗[監修]/国立社会保障・人口問題研究所[編]『日本の人口動向とこれからの社会』(東京大学出版会) です。著者人はまさに国立社会保障・人口問題研究所の研究者で固めていて、専門家がズラリと並んでいます。出版社から判断しても、学術書と考えるべきですが、最後の方の第12章のシミュレーションなどの方法論のごく一部を除いて、人口問題ですから少子高齢化以外の何物でもなく、それなりに理解ははかどりやすいんではないかと思います。ただし、研究所の攻勢からして、社会保障や財政との関係をホンの少しだけチラリと論じているほかは、ほぼほぼ人口問題をそれ単独でユニラテラルに論じていますので、逆に判りにくい気もします。フランスのアナール派やジャレド・ダイアモンド教授のように病原菌と論じてみたり、あるいは、地理学と関連付けたりといった工夫は見られません。ひたすら過去のトレンドから投影された未来を垣間見ようと努力している様子がうかがえます。経済はかなりの程度に循環するんですが、人口動態はかなりの程度にトレンドに沿って動きます。もっとも、第Ⅱ部のライフコースの議論では、ヒトの個体たる人口だけでなく、社会的な構成要素のもっとも小さい単位である家族のあり方、さらに、人口高齢化に従って高齢者に有利な政策選択が行われがちなバイアス、などなどについても取り上げていますし、第Ⅲ部では日本に限らずシンガポールや韓国、台湾などのアジア諸国における猛烈な高齢化の進展についても解き明かそうと試みています。まあ、私の個人的な感想では、マルサス的な人口問題は人口と農地や耕地の比率が人口を養う上でやや厳しいアジアにこそ当てはまる可能性が高いんではないか、という気がしますし、従って、中国の一人っ子政策をはじめとして、シンガポールなどでも厳しい人口抑制作を採用していた歴史があるのも理解できるところです。日本もそうかもしれません。そういったアジアからの移民が欧米で黄禍論を引き起こしたりしたわけなのかもしれません。ただ、日本の場合はマクロとしての人口の総数ではなく、子供や若年者に厳しく、高齢者に甘い政策を意図的に取り続けてきましたので、中国やシンガポールなどとともに、明らかに政策的に人口の高齢化、さらに、人口減少がもたらされている点は見逃すべきではありません。せも、そういった議論を国立の研究所が展開するのも難しい、という点についても、公務員として理解していたりします。最後に、私も大学教員として出向中に書いた紀要論文「子ども手当に関するノート: 世代間格差是正の視点から」でも引用した Lutz et. al. (2006) による Low-Fertility Trap Hypothesis に関する論文が複数のチャプターで引用されていました。私は紀要論文で p.175 の Chart 1 を引用した記憶があります。

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次に、マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋) です。昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者はノンフィクション・ライターであり、特に売れたのは『マネー・ボール』ではないでしょうか。映画化もされましたし、私も読んでいたりします。本書の英語の原題は The Undoing Project であり、邦訳書の p.348 で「事実取り消しプロジェクト」と訳されています。2017年の出版です。ということで、その『マネー・ボール』に関する書評から行動経済学に関する関心が芽生えたようで、本書では主としてトヴェルスキー&カーネマンを中心に据えて行動経済学の歴史を、特に黎明期の歴史をひも解いています。記憶の不確かさ、あるいは、記憶の操作可能性から始まって、判断や意思決定の際の心理的アルゴリズムの解明、そして最後は有名なプロスペクト理論の発見のきっかけや平易な解説を展開しています。その前段として、トヴェルスキー教授も、カーネマン教授も、どちらもユダヤ人ですから、ナチスによるホロコーストにも触れていますし、中東戦争の記述もかなり生々しく感じられます。また、特にセンセーショナルな書き方ではなく、エコノミストであれば誰もが知っている一般的な事実ではありますが、トヴェルスキー教授の攻撃的だが水際立った知性とカーネマン教授の重厚だが慎重かつ少し進みの遅い知性を比較していて、さらに、愛煙家であり1日2箱の煙草を灰にしたカーネマン教授が生き残ってノーベル賞を授賞された一方で、嫌煙家であったトヴェルスキー教授が悪性腫瘍で早くに亡くなった事実も、それほど対比を鮮明にさせることなく淡々と跡付けています。そして、2人の心理学的な発見が、まず、医学に応用され、その次に経済学で注目され、結果的に、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したわけです。終章のタイトルが「そして行動経済学は生まれた」とされていて、ある米国ハーバード大学教授の言葉として、「心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者のことをばかだと思っている」というフレーズを引用しています。最後は、カーネマン教授にノーベル委員会からと思しき電話がかかる場面で終っていますので、セイラー教授らによるその後の行動経済学の発展は、それほど重視されていません。まあ、経済学史の本ではないんですから、そうなのかもしれません。私自身は何らかの理論や実証で功績あった経済学者の生まれや育ちや性格などについては、それほど大きな興味あるわけではありませんが、映画にもなった『ビューティフル・マインド』のナッシュ教授の生涯などとともに、経済学に多くの人々の関心を引きつける効果がある、という意味で、こういった本の効用も十分評価しているつもりです。

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次に、ショーン B. キャロル『セレンゲティ・ルール』(紀伊國屋書店) です。著者はウィスコンシン大学マディソン校の進化生物学の研究者ですが、本書は進化生物学の本ではなく、むしろ、生物多様性に関する食物連鎖・栄養カスケードに関する理論と実践に関して、ポピュラー・サイエンスとして取りまとめられています。舞台はアフリカはタンザニアにあるセレンゲティ国立公園です。タンザニアの北部、ケニアとの国境に近い地域で、従って、ビクトリア湖のすぐそばに位置する哺乳類の多様性に富む地域です。世界遺産に指定されています。そして、本書の第Ⅲ部第6-7章において、本書のタイトルであるセレンゲティ・ルールを6点に渡って取りまとめて提示しています。専門外のシロートである私なりの解釈なんですが、一般的に食物連鎖と呼ばれている流れを本書では栄養カスケードと称していて、要するに、ネコ科の肉食獣がシカなどの草食獣を捕食し、そして、草食獣は草木を食べる、という構造です。そして、本書では二重否定の構造を持ち込みます。すなわち、イエローストーンでヘラジカが増えすぎた場合、日本でもよくありますが、シカやイノシシが増えて農作物が被害にあうケースでは、日本ではヒトが猟銃をもってイノシシなどを直接に駆除する一方で、イエローストーンではシカを捕食するオオカミを放った、という例が紹介されていて、そうすると、当然に、オオカミはヘラジカの一種であるエルクを捕食しますから、エルクそのものが個体数を減少させる一方で、エルクが食べつくしていたポプラの成長が促進される、という2段階目の効果が発現します。これを本書では二重否定と呼んでいます。そして、本書のもうひとつの特徴は、こういったオオカミエルクとポプラといったマクロの連鎖、もちろん、地球規模のマクロではないにしても、日本でいえば都道府県くらいの大きさの地域のマクロの栄養カスケードや生態系に見られる現象を、何と、マイクロのレベルのガンになぞらえている点です。物理学などでマクロの宇宙論とマイクロの原子や分子に関する理論に類似点を見出す方法論も見かけたりしますし、生物学でも生物の集団であるマクロとマイクロな個体にそういった類似点を例示しることもあり得るんでしょうし、何よりも、それなりにポピュラー・サイエンスとして私のようなシロートの一般大衆の理解を促進もするんでしょうが、私の目から見て、少なくともマクロの生態系の攪乱をマイクロな生物個体や遺伝子レベルのガンに例えるのは、ややムリがあるような気もします。少なくとも、エコノミストの世界では合成の誤謬があり、マイクロな世界を足し上げて行ってもマクロな世界にはなりません、というか、ならない場合があります。たっだ、エコノミストの目から見て興味深かったのは、マルサス的な『人口論』の世界が密度依存調整により否定されていることです。p.204 あたりです。マルサス的なくらい将来像は技術革新により克服される、というのが私のような平凡なエコノミストの一般的理解ですが、そもそも、個体密度が増加すれば個体数の増加率はマイナスに転化する、というのは、それはそれとしてあり得ることですし、生物学的に明らかにされていることは、とても参考になりました。

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次に、又吉直樹『劇場』(新潮社) です。話題の作者の芥川賞受賞後第2作目の小説です。東京を舞台に演劇人である主人公の永田と、永田の恋人の沙希、さらに、中学のころから永田とともに演劇を続けてきた野原、さらに、永田・野原の劇団からスピンアウトしてライターとしても一定の成功を収めた青山という女性、さらにさらにで、別の注目劇団を主宰する小峰などなど、かなり限られた登場人物なんですが、永田と沙希の愛の行方がストーリーの中心となります。なお、永田・野原のコンビは関西人で、この作者の前作「火花」と同じで関西弁でしゃべります。そして、主人公である永田の行動のターニング・ポイントとなる感情は嫉妬です。嫉妬が怒りに転じて、そして人間関係が壊れて行くような気がします。「本音と建前」という言葉がありますが、決して本音を隠してうわべだけの建前で人間関係を築いて、大人の付き合いを進めるのが上品だとは決して思いませんが、本音をさらけ出して人間性の底の底まで理解し合えないというのも、少し問題ではなかろうかという気もします。その意味で、本書の主人公の男女関係、劇団や演劇関係者との人間関係については、私も理解できる部分と理解を超えている部分があります。ただ、前作と違って嫉妬というテーマがかなり露骨に現れていて、その分、決して上品ではない可能性もあるものの、作者の魂の叫び、とまではいわないまでも、誠に正直に書き綴っている気もします。何かのメディアで報じられていましたが、「火花」よりもこの作品の方を先に書き始めていた、という情報もあり、ある意味で、作者の第1作のようでもあり、言葉は悪いかもしれませんが、第1作目のつたなさのようなものが感じられるかもしれません。また、純文学ですから、文体や表現力はかなり上質といえますが、ストーリーを追うものではありません。主人公である20代の男女間の恋愛の進行はかなりつまらない、と感じる読者も多そうな気がします。

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次に、タンクレード・ヴォワチュリエ『貧困の発明』(早川書房) です。私はよく知らないんですが、作者はフランスのエコノミストであり、小説家だそうです。私はフランス語には決して詳しくないんですが、スペルは Voituriez であり、もしも、最後が z で Voiturier であれば、英語でいえば Valet Parking の意味であり、私はフランスはパリしか知りませんが、パリ市内でも何度か見たことがあります。ということは別にして、本書はあくまでフィクションの長編小説であり、ピケティ教授が「今までに読んだいちばん可笑しな小説」と評価したと出版社のサイトでは紹介されています。フランス語の原題は L'Invention de la Pauvreté であり、邦訳タイトルはそのまま直訳されています。タイトル通りに貧困をテーマにしていますが、先進国内の貧困ではなく、途上国の貧困、あるいは、経済開発を主題にしています。主人公は世銀チーフエコノミストにして、国連事務総長の特別顧問でもあるプリンストン大学教授のロドニーです。誠に僭越ながら、私と専門を同じくする開発経済学者です。ここまでの肩書からは、ノーベル経済学賞も受賞したスティグリッツ教授が強く連想されるんですが、そうでもないようです。フィクションのフィクションたるところです。でも、国連事務総長ドン・リーは韓国人の設定で、そのモデルは、明らかに、前国連事務総長の潘基文ではないでしょうか。そのほか、国連、世銀、国際通貨基金(IMF)、また、組織ではなく会議名ですが、ABCDE会議など、ほぼほぼ実在の名称をそのまま流用している印象です。エロ・グロ・ナンセンスの部分は別にして、開発経済学を専門分野のひとつとする私から見ても、確かに開発経済学にはいくつかの考え方があり、『エコノミスト 南の貧困と闘う』の著者であるイースタリー教授のように市場メカニズムを活用して、途上国の国民のインセンティブに基づく行動に期待するエコノミストもいれば、サックス教授に代表されるように、先進国からの開発援助などを活用しつつ、公的部門も関与した形でのビッグ・プッシュを重視する開発経済学者もいっぱいいます。実は、私は後者の考え方に近かったりします。冒頭のバレー・パーキングは別にしても、開発経済学のいくつかの考え方を背景知識として持って読めば、さらにこの小説が楽しめるかもしれません。あるいは、私のように、少しだけ不愉快さが増すかもしれません。

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最後に、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書) です。著者は証券会社のエコノミストから学会に入り、埼玉大学から法政大学教授に転じているようです。ということで、相変わらず、独特の長期的な歴史観を披露しているんですが、ヒストリアンとしてその歴史の底流に流れる法則性が感じられずに、私はいつも戸惑っています。従来と同じように、1970年代のルイス的な二重経済の消滅と石油ショックなどにより、我が国を含めて戦後先進諸国の高度成長が終了し、1970年代からゆっくりと時間をかけて低成長と低金利に象徴されるように資本主義が終焉する、そして、中世的な停滞の定常状態の時代が来る、というのが著者の見立てです。ただ、資本主義の勃興については大航海時代のイノベーションにより、世界が広がり英蘭が覇権を掌握した、ということに本書でもなっているんですが、それがなぜなのか、そして、成長率や金利が低下して資本主義が終焉するのはなぜなのか、加えて、産業革命の位置づけについてもほとんど無視されており、私には疑問だらけです。資本主義が終焉して中世的な定常状態に戻る、という史観ですから、基本的には循環史観だと思うんですが、おそらく、著者の歴史学に関する素養からして、そういった歴史観の確立があるのかどうか疑問であり、歴史的な事実を跡付けて、室町幕府の後は戦国時代になって、全国統一を果たした織豊政権から徳川が江戸幕府を確立する、それはなぜなのか、よく判らないながら、そうなのだ、といっているに等しい気もします。蒐集=コレクションについては、その基礎となっている生産活動について何も見識がないので、どこかで湧き出た蒐集対象品を持ち出す、という以外の感触はありません。基本的に私の歴史観はマルクス主義に近いんですが、ほぼほぼ一直線に生産力が増加するという単純な歴史観で、その生産力の桎梏となる生産システムが革新される、場合によっては土地や生産手段=資本の所有制度の変更も歴史を動かす原動力になる、という意味で、ノース教授らの制度学派にも近いかもしれない、受け止めていますが、この著者の歴史観はまったく理解できません。その上、閉じたvs開いた、資本主義、帝国などの用語がかなり感覚的に、そして、キチンと定義されずに並べられていて、もう少し読者の理解を助ける工夫も欲しい気がします。
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2017年08月26日 (土) 13:41:00

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!

今週は夏休みからお仕事に復帰して、それでも8月ですので、やや時間的な余裕もあり、7冊とついついオーバーペースになってしまいました。新書や文庫を含みますので、それほどのボリュームでもないんですが、来週はもう少しセーブしたいと思います。

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まず、山口一男『働き方の男女不平等』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国シカゴ大学社会学教授ですが、研究内容はほとんど経済学といって差し支えありません。本書では、タイトル通り、男女間の労働市場における差別についてモデルを用いた理論分析と実証分析を行っています。基本的には、労働供給サイドではなく、企業側の女性労働の需要サイドの研究なんですが、途中で少し私も混乱を来してしまい、時間当たり賃金率なのか、時間当たり賃金率に労働時間を乗じた所得なのか、もしも後者であれば、単に女性を長時間働かせればOKということかもしれません。ただ、最終第8章で著者の考えが最後の最後に明らかにされるんですが、生産性と比較した賃金の機会の平等を考えるのであれば、統計的な差別を含めて、企業サイドの女性労働値の差別的取扱いに従って、機会の平等を確保しつつ結果の平等を達成できない事態が考えられるとした上で、結果としての平等を追求すべき著者の考えが明らかにされます。ホントの適材適所を実現し、性的な差別のない雇用環境を整え、各人が生産性や適正に従った労働を実行し、その労働に応じた賃金を受け取る、というのは確かに理想かもしれませんが、現在の制度学派的な思考の下では、ハッキリいって、労働や雇用の課題ではありません。所得はもちろん、ワークシェアリングを含めた分配の課題と考えるべきです。そして、理想の所得の分配が、理想的な労働や仕事の配分に基づいて実行されるかは、マルクス主義的に考えなくても、現行の制度下では実行可能かどうかは疑問です。ケインズの1日3時間労働とともに、のっとも理想的な雇用や労働の配分と所得の分配を実現するためには、現在の市場による資源配分ではない、別のシステム、ひょっとしたら、社会主義や共産主義かもしれませんが、たぶん、違うだろうと私は想像しています。そういった、別の次元を考える必要があるような気がしてなりません。

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次に、香取照幸『教養としての社会保障』(東洋経済) です。著者は厚生労働省、というか、厚生省出身の公務員で、現在はどこかの大使に転出していますが、小泉内閣のころに長らく官邸に詰めていたことを記憶しています。私もそのころ官邸勤務でした。ということで、タイトルからも理解できる通り、社会保障という場合、著者のように実務として関係する場合、そして、アカデミックな世界などで学問として関係する場合が多く、制度的に複雑なこともあって、身近な割には教養として接することはないような気もします。平易な表現とともに、国民各層が身近に接するマイクロな社会保障の面だけでなく、政府財政への影響なども含めたマクロの社会保障の両面を取り上げています。なかなかの良書だという気がしますが、難点もいくつかあります。まず、冒頭に社会保障に対する批判については教育の責任として文部科学省に責任を転嫁しています。私は冒頭のこの部分だけでかなり評価を落としているんではないか、と受け止めてしまいました。それから、ここまで社会保障を展開しているんですから、最近の話題としては人工知能(AI)やロボットの活用に伴うベーシック・インカムについてほとんど触れないのは、やはり、現時点での社会保障論としては物足りない気がします。

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次に、塚崎公義『経済暴論』(河出書房新社) です。著者は興銀の調査部から学界に転じたエコノミストのようです。実務家ご出身で大学院などのアカデミックな経歴ではありませんから、経済学部卒業ではなく法学部卒業だったりします。ということで、少し常識登攀するようないくつかの事実を平易に解説しています。ただし、私の目から見て、経済合理性に基づいて世間一般の常識と反する結果を導き出しているケース、例えば、埋没原価サンクコストの問題とか、組織への忠誠心と仕事のプロ意識のトレードオフとか、が取り上げられている一方で、行動経済学的な検知などから人間の非合理的な決定が世間一般の常識と反するケースを、特に区別せずに同一の「世間一般の常識と違う」というカテゴリーでくくっていますので、経済学的な素養があれば、逆に疑問に感じる場合もありそうな気がします。でも、本書の結論たる最終第6章の、特に、最後の数点の論点、すなわち、日銀が債務超過に陥っても問題ない、また、日本政府は破綻しない、あるいは、日本経済は労働力不足で黄金時代を迎える、などの論点は私もまったく同意します。ただ、黒田日銀の金融政策を「偽薬効果」と称しているのは、何らの根拠が示されておらずレッテル貼りに終わっているのが残念です。期待に働きかける金融政策に対する無理解が背景にあったりするんでしょうか?

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次に、有栖川有栖『濱地健三郎の霊なる事件簿』(角川書店) です。作者はご存じ関西系の新本格派ミステリの代表的な作者の1人です。法月綸太郎や綾辻行人など私の出身の京都大学ではなく、同志社大学のご出身だと記憶しています。この作品は作者あとがきによれば怪談という位置づけのようですが、依然、『幻坂』に2話ほど収録されてうぃた主人公を心霊探偵として前面に押し出して、事件解明に当たるミステリ風な短編を収録しています。オカルトものとして怪奇現象の解明や除霊などをするものとしては、櫛木理宇「ホーンテッド・キャンパス」がありますが、それほど心霊現象を全面に押し出したものではなく、心霊現象をヒントに実際の人間の犯罪行為を解明するというパターンが多かったような気がします。また、オカルト探偵といえば、エドワード D. ホックの作になるサイモン・アークがいますが、サイモン・アークは超常現象に見える事件ながらm実は物理法則に即した、というか、決して超常現象ではない事件を解明しますので、かなり違います。ということで、本書は、決して、殺された被害者の例から犯人を聞き出すという安直なミステリではなく、新本格の旗手の手になるミステリです。それから、次の真梨幸子のイヤミスとついつい読み比べて比較してしまうんですが、やっぱり、法月綸太郎とかこの作者の作品は文体がとても上品です。それだけ読みやすいともいえます。

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次に、真梨幸子『祝言島』(小学館) です。作者はイヤミスの女王のひとりであり、主として女のいやらしさを盛り込んで読後感の悪いミステリを書く作家です。とはいいつつ、私はかなりこの作家は評価しており、出来る限り新刊書を読もうと努力しています。本書は、作中では小笠原諸島の南端付近にあって、すでに地図からは抹消されているタイトルの島にまつわる物語ですが、主たる舞台は東京です。1964年の東京オリンピックの直前に祝言島の火山が噴火し、島民は青山の都営住宅に避難した、という設定になっています。そこから、40年余の後の2006年12月1日に東京で3人の人物が連続して殺され、未解決となっている「12月1日連続殺人事件」をからめて、独特の異様なストーリを紡ぎ出しています。ミステリである限り、殺人などの違法行為は当然に物語に含まれますが、この作品ではかつてのロボトミー手術などの集団による不法行為が盛り込まれており、その点にやや違和感を覚えました。また、トランスセクシュアルの存在も盛り込んでいますが、真梨作品としてはそれほどの出来とは思えませんでした。たしかに、グロテスクでエロの要素もあるんですが、私自身の読書の傾向として、ややロボトミーで読む気をなくした気がします。

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次に、吉川洋・八田達夫{編著}『「エイジノミクス」で日本は蘇る』(NHK出版新書) です。著者・編者は高名なマクロ経済学者ですが、野村総研や三菱総研のスタッフも執筆陣に加わっています。高齢化が進展して経済の将来に悲観的な見方が広がる中で、敢然とこの見方に挑戦し、高齢化をイノベーションの好機と捉え、日本経済の明るい先行きを示しています。具体的には、本書のp.30の図用に従って、財・サービスのイノベーション+制度のイノベーション×病弱な人+健康な人、2×2の4つのマトリクスに従って、以下第2章から5章まで4章に渡って各論が展開されます。基本的には、ベンチャー資本などによる新たな革新の方向性をかなり拡大解釈しているだけなんですが、やっぱり、こういったイノベーションに関するケーススタディでは、当然ながら、成功例ばかりがクローズアップされ、成功例の裏側にその数倍数十倍数百倍の失敗例が隠されていることが忘れられていることは覚悟しておくべきです。まあ、統計の分析とケーススタディの違いです。本書で取り上げられているイノベーションのシーズがどこまで現実に開花するかは私にも不明ですが、高齢化が決して経済成長にマイナスばかりではない、という点は特に強調されるべきであろうと思います。

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最後に、泡坂妻夫・折原一ほか『THE 密室』(実業之日本社文庫) です。推理小説の中でも、密室をテーマとしたアンソロジーです。収録作品は、飛鳥高「犯罪の場」、鮎川哲也「白い密室」、泡坂妻夫「球形の楽園」、折原一「不透明な密室」、陳舜臣「梨の花」、山村正夫「降霊術」、山村美紗「ストリーカーが死んだ」の7つの短編であり、作者の氏名の50音順で収録されています。それほどレベルは高くありませんが、それぞれに特徴的な密室事件の解明が図られています。江戸川乱歩などのその昔から、縁の下や屋根裏などのある日本家屋の特徴として、密室が成立しにくいといわれ続けていますが、それなりにバリエーションに富んだ短編ミステリを収録しています。ただし、繰り返しになりますが、それほどレベルは高くない上に、それほど新しくもないので、もっと本格的に密室を読みたい向きには、ナルスジャックと組む前のボアローの編集になる『殺人者なき6つの殺人』の方がいいかもしれません。もっとも、コチラもそれほどレベルは高くありません。
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2017年08月21日 (月) 21:27:00

集英社文庫の『明智小五郎事件簿』全12巻を読む!

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このお盆の夏休みまでに、集英社文庫から出版されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻を読みました。作者の没後50年を記念して、昨年2016年5月から刊行が開始され、今年2017年4月に完結しています。ひとつの特徴として、発表順ではなく、シャーロッキアンよろしく、事件発生の年月を特定し、その順番で並べてあります。ただし、戦後の少年探偵団モノは含まれておらず、戦前までの事件しか収録されていません。やっぱり、怪人二十面相や黒蜥蜴などとの対決作品が読ませどころです。ほとんど現実味のない荒唐無稽な犯罪行為などもありますので、小説向きというよりはテレビや映画向きのストーリーかもしれません。なお、最初の画像は12巻セットですが、私は近くの区立図書館で借りて、週末ごとに2-3冊ずつ読み進みました。
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2017年08月19日 (土) 10:08:00

今週の読書はややセーブして計5冊!

今週の読書は新刊書で以下の通り5冊です。ギリギリいえば、経済書はゼロのような気がします。なお、それほど新刊ではないところでは、集英社文庫から5月に全12巻が完結した江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』も読み切りました。これについては日を改めて取り上げたいと思います。

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まず、リー・ギャラガー Airbnb Story (日経BP社) です。著者は「フォーチュン」をホームグラウンドとするジャーナリストです。英語の原題そのまま邦訳のタイトルとしており、2017年の出版です。ということで、タイトル通りに、エアビー創業者3人、すなわち、美大出身者2人とエンジニア、というか、プログラマの3人です。推進派と抵抗派の葛藤にも十分な紙幅を割き、決して、新ビジネスを礼賛するにとどまらない内容で、バランスもよくなっていますが、まあ、基本は肯定派の立場だという気はします。シェアリング・エコノミーを考える場合、いわゆるシリコンバレーの4強、すなわち、グーグルとファイスブックとアップルが従来にないまったく新しいビジネスを立ち上げているのに対して、従来からあるビジネスをリファインしたアマゾンとも違って、その中間的なビジネスと私は考えています。ただし、従来からあるホテルに代替するエアビー、タクシーに代替するウーバーですから、アマゾンに近い形態かもしれません。まったく新しいビジネスを始めたグーグルやファイスブックは既存の抵抗勢力は殆ど無い一方で、アマゾンは従来の街の本屋さんをなぎ倒して成長しているわけですし、エアビーはホテルから競争相手と目されています。すなわち、かつてのスーパーマーケットのようなもので、パパママ・ストアからの反発はものすごいものがあった一方で、消費者からのサポートがどこまでられるかも成長の大きなファクターです。そして、グーグルやフェイスブックのようにブルーシーに悠々と漕ぎ出すのではなく、ロビイストを雇ったり、抵抗勢力に対抗する新興勢力を組織したりと、政治的な取り組みも必要とされかねません。そして、最後はマーケットを独占できるわけではなく、本書ではホッケー・スティックのような成長曲線と表現されていますが、実は、ロジスティック曲線で近似される成長曲線であろうと私は考えており、成長が鈍化するポイントはいつかは訪れます。現時点では1次微分も2次微分もプラスでしょうが、2次微分がゼロからマイナスになり、そして1次微分もゼロになる時期が訪れるかもしれません。当然です。その時にこれらのシェアリング・ビジネスがどう成熟しているかを知りたい気がしますが、私の寿命は尽きている可能性もあります。

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次に、豊田正和・小原凡司『曲がり角に立つ中国』(NTT出版) です。著者は経済産業省OBと海上自衛隊OBで、それぞれ経済や通商、さらに、安全保障の観点から現在の中国について現状分析と先行きの見通しを議論しています。安全保障の観点は私の専門外ですので、主として経済や通商の観点を見てみると、本書と同じように、私も中国はルイス的な転換点を越えて、従って、日本の1950-60年代のようないわゆる高度成長の時期を終えた可能性があると考えています。それを Gill and Kharas のように中所得の罠と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも、海外から技術単独かもしくは資本に体化された技術を導入し、資本の生産性を向上させるとともに、ルイス的な用語を用いれば、生存部門から資本家部門への労働の移動がほぼ終了し、従って、少し前までの低賃金の未熟練労働力が内陸部から無尽蔵に湧き出てくるわけではなく、労働の限界生産性と等しい賃金を支払う必要が出てきたため、チープレーバーに基礎を置く製造業が採算を悪化させている時期に達しています。ただし、ここは私は議論あるところではないかと思いますが、中国の現時点での政権の最大の眼目が共産党政権の存続であることから、すなわち、国民の最大福祉ではないことから、大きな矛盾を抱えることとなります。そして、実際にその矛盾が激化し始めたのは天然モン事件の後の江沢民政権であり、広範な支持基盤のなかった江沢民政権が党や軍などに汚職を許容したり、あるいは、国内問題から国民の不満の目をそらせるために日本などに無理筋の要求をしたりという筋悪の政治が始まります。そして、江沢民-朱鎔基コンビ、胡錦濤-温家宝コンビに比較して、現在の習近平-李克強コンビは習主席に大きな比重がかかりすぎている気もします。もちろん、いわゆる核心については、温家宝主席以外はみんな核心だったわけですから、大騒ぎする必要はないかもしれませんが、少なくとも経済と外交まで総理の李克強から取り上げるのは行き過ぎだという気がします。毛沢東と周恩来んのコンビよりもバランスが悪そうに見えます。そして、ひょっこりひょうたん島のように動けないわけですから、我が国は地理的にどうしようもなく中国の隣国であり、無理筋にも対応させられているのもどうかという気がします。米国のトランプ政権がほぼほぼ中国に無力なのも情けない気がします。

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次に、酒井順子『男尊女子』(集英社) です。定評あるエッセイストによる男女同権、もしくは、男尊女卑的な目線からのエッセイです。相変わらず、よく調べが行き届いた大学生のリポートのようにスラスラ読め、決して、それほど為になるわけではないものの、あるある感がとても強い気がします。もっとも、著者や私のようなベビーブーマーの後の世代くらいまでで、私の倅どものようなミレニアル世代には理解がはかどらない可能性もあるような気がします。ということで、男性に比べて女性が戦略的に、先より後、前より後ろ、上より下のポジショニングを取って、男尊女卑的な因習に従うふりをしつつ、実は、モテを追求しているんではないか、という視点を本書は提供しています。そうかもしれません。私は男尊女卑も男女同権もいずれも興味なく、というか、どちらにも与せずに、ケース・バイ・ケースで経済学的な比較優位の基礎に立って役割分担をすればよい、という能天気な考え方ですので、世の中の男性の平均ほどは男尊女卑的な考えに凝り固まっているわけではないと認識しています。ただ、同しようもないのが妊娠能力であり、これは生物学的な性別に依存します。それ以外は、絶対優位ではなく、比較優位に基づいて役割分担すればいいと考えています。もっとも、実は、最大の制約要因は時間の有限性、というか、平等性であって、等しく各人に1日24時間が与えられています。生産性や性別に何の関係もなく24時間なわけで、これが最大の役割分担の制約条件となります。ですから、ホントに比較優位に基づいて役割分担をすると、場合によっては1日24時間では不足する可能性もあります。最後に、どうでもいいことながら、私はマッチョでレディ・ファーストを女性に対して極めて慇懃無礼に実行しているラテンの国に3年余り赴任していた経験があり、逆に、フツーにアジアな国にも3年間の経験があります。どちらもどちら、という気がします。日本に生まれ育った私には日本の男女間がもっとも自然に接することができるのは当然かもしれません。でも、歴史の流れとして男尊女卑の程度が弱まって、男女同権の方向に変化する歴史的な流れは止められないと覚悟すべきです。

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次に、青山七恵『ハッチとマーロウ』(小学館) です。著者はご存知芥川賞作家であり、私は彼女の大ファンです。基本的に、清純派の純文学作品が多いんですが、『快楽』などで少し背伸びをしようとした跡も見られる一方で、この作品では児童文学に近い仕上がりとなっています。タイトル通りの通称で呼ばれる2人の小学5年生の双子姉妹を主人公に、小学5年生から6年生にかけての12か月をほぼほぼ毎月1章で語り切っていて、ハッチとマーロウが交互に1人称で語っています。大晦日にシングルマザーのママが、大人を卒業してダメ人間になると宣言し、お正月からウダウダしてパジャマを着替えることもなく過ごします。ミステリ作家のママは仕事はもちろんしませんし、家事はすべて双子がこなさねばならなくなります。なお、舞台はほぼ長野県穂高のようです。そういった中で、お正月を過ごし、バレンタインデーを過ごし、4月には風変わりな転入生を軸に物語が進み、7月にはママと双子は東京でバカンスを過ごしたりします。小学5年生や6年生が1人称で語っているんですが、さすがの芥川賞作家ですので表現力はバッチリです。私くらいのスピードで読んでも隔月で1人称の語り口を交代する双子姉妹の個性、というか、俗にいうところのキャラがとても明瞭に読み分けられます。タイトルの順番ですから、おそらむハッチが姉でマーロウが妹なんだろうという気がしますが、勝ち気でシーダーシップに富み、自分のポニーテールも切り落とすくらい行動的なハッチに対して、ややハッチからは後方に退き妹らしくハッチについて行くマーロウ、ただ、ママがダラダラしたダメ人間ですので、ややキャラが立ってない気すらしてしまいます。双子姉妹の父親探しが迎える結末もとても興味深く仕上がっていますが、エンタメ小説ではなく純文学ですので、オチは明瞭ではありません。それでも、作者の表現力の豊かさには驚かされます。

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最後に、伊坂幸太郎ほか『短編少年』(集英社文庫) です。7月9日付けの読書感想文で取り上げた三浦しをんほか『短編少女』の姉妹短篇集です。収録作品は以下の通りです。すなわち、伊坂幸太郎「逆ソクラテス」、あさのあつこ「下野原光一くんについて」、佐川光晴「四本のラケット」、朝井リョウ「ひからない蛍」、柳広司「すーぱー・すたじあむ」、奥田英朗「夏のアルバム」、山崎ナオコーラ「正直な子ども」、小川糸「僕の太陽」、石田衣良「跳ぶ少年」です。これは私が男性だから、そう感じるだけかもしれませんが、『短編少女』と比べて、少年の方はまっすぐで、少なくともホラー的な作品はなかったような気がします。ただ、『短編少女』と比べて、読んだことのある作品は少なかったように思います。新鮮な気持ちで読んだ差なのかもしれません。
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2017年08月12日 (土) 13:26:00

今週の読書は話題の書を含めていろいろあって計7冊!

今週の読書は、経済書のほか、話題のビル・エモット『「西洋」の終わり』などの教養書、専門書も併せて、計7冊です。山の日の休日が私の読書を促進したとも思いませんが、ついつい読み過ぎてオーバーペースです。来週こそ強い決意を持ってペースダウンする予定です。それから、お盆休みには集英社から文庫本で出されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻が完結しましたので読んでおきたいと予定しています。

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まず、池尾和人・幸田博人[編著]『日本経済再生 25年の計』(日本経済新聞出版社) です。慶応大学経済学部の看板教授陣とみずほ証券のエコノミストのコラボによる日本経済活性化への提言書です。冒頭の3章、金融政策、財政政策、債務問題を慶大グループが担当し、後の4章の意識改革、情報開示、エンゲージメント、イノベーションをみずほ証券のエコノミスト人が担当しています。タイムスパンの25年というのは、例のカーツワイルのシンギュラリティの2045年を意識したものではなく、高齢者が絶対数でピークに達する2040-45年くらいを念頭に、現時点から25年くらい、といった算定のようです。金融政策では、従来からの池尾教授の主張と同じで、日銀の金融緩和は潜在成長率を高めなかったので評価できない、という点に尽きます。そして、金融政策ながら章の後半は人口動態論を主体とする中期見通しに切り替わってしまいます。私くらいの頭の回転ではついて行けませんでした。財政政策についても土居教授の従来からの主張から大きく出ることないんですが、キャッシュフロー課税というテーマは斬新だった一方で、社会保障について高齢者への過度の優遇についてもう少し明らかにして欲しい気もします。債務問題については過剰債務が成長を阻害するという理論モデルの解説が中心となっていて、それはそれでとても私には興味深かったと受け止めています。ただ、直観的には過剰債務が長期停滞をもたらすというのは、そういったモデルを構築することは可能だろうとは理解しつつも、やや強引な立論かもしれないと感じてしまいました。後半4章については、よく判りません。ただ、日本居企業価値向上を阻害する何らかの構造的な要因があるとすれば、市場経済化で自立的にそれを取り除けないのはどうしてか、政府に勤務する官庁エコノミストとして、もう少していねいな方法論が欲しかった気がします。基本的に、資金調達に関するモディリアーニ=ミラー理論からの逸脱が生じているわけですし、証券会社や銀行はまさにそれをビジネス・チャンスにしているわけですから、基本となるモディリアーニ=ミラー理論に立ち返って、その基本モデルからの逸脱を論じて欲しい気がします。特に、モデル分析をていねいに展開している小林教授の章に続いての4章の後半部分ですから、やや気にかかってしまいました。

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次に、ビル・エモット『「西洋」の終わり』(日本経済新聞出版社) です。経済書っぽくないので2番手に配置しましたが、話題の書です。著者はながらく英国エコノミスト誌の編集長も務め、日本駐在もした知日派のジャーナリストであり、『日はまた沈む』で我が国のバブル経済崩壊を予言して当て、『日はまた昇る』我が国の復活を予言して大いに外したのは記憶の読者も少なくないことと思います。英語の原題は The Fate of the West であり、2016年の出版です。ということで、昨今のポピュリズムの台頭、特に、フランス人民戦線のルペン党首の人気だけでなく、エコくもUE離脱、いわゆるBREXITや米国大統領選でのトランプ大統領の当選などを背景に、移民排斥をはじめとする閉鎖的な政治経済の風潮を考慮し、リベラルな西洋の立場から世界の進むべき方向性を論じています。もちろん、西欧のほか米国や日本も本書でいうところの「西洋」のカテゴリーに入っています。自由と民主主義、さらに開放的な政策などを基調とする社会という意味なんでしょうから当然です。なお、ポピュリズム的な政治傾向と併せて、新自由主義的な経済政策の下での不平等の拡大や金融経済化の進展なども論じているんですが、特に、雇用についてはさらに規制緩和、わが国で称されているところの「岩盤規制」をさらに緩和する方向を示していたりして、やや疑問に感じないでもありません。さらに、私が疑問を強く感じているのは、特に大陸欧州で移民排斥をはじめとするポピュリズムの傾向が経済に先行き不透明感や、いわゆる長期停滞に起因している点を見逃しているような気がします。ただ、さまざまな経済の問題点を解決するのに成長を持って充てているのは当然としても、経済でないポピュリズムや移民排斥についても、国民の特に中間層といわれる中核をなす階層が、経済的に恵まれないことから、財政の社会保障を中心に大陸欧州で、いわゆる「国民」の枠を広げる移民受け入れに反対している点は明らかだと私は考えており、成長はかなり多くの現時点での政治経済社会の問題解決に資するんではないかと思います。もちろん、経済成長以外で西洋的な価値観を取り戻すのに有益・有効な手段についても本書では論じていますが、エコノミストの私にはやや専門外と受け止めています。私が従来から何度も繰り返している通り、現時点で、本書が言うところの「西洋」が世界的に覇権を握り、自由で平等な民主主義に基づく経済社会を実現しているのは、イングランドを起点とする産業革命に成功したからであり、ありていにいえば、その過去の遺産で現在まで食いつないでいると考えています。ですから、別の見方をすれば、その過去の遺産を食いつぶしつつあるともいえます。いずれにせよ、開かれた自由な民主主義、さらに、より平等な経済社会を基礎とする「西洋」の再構築のために、とても重厚な思考実験を展開している教養書といえます。

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次に、J.H.エリオット『歴史ができるまで』(岩波現代全書) です。著者は英国人のスペイン近世史の専門家です。私は数年前に、ひょっとしたら、本書の出版時かもしれませんが、BBCに著者が出演していたのを見かけたことがあります。当時でも80歳を超えていただろうと想像しますが、悪くいえば「痩せ衰えた老人」といった印象を受けました。英語の原題は History in the Making であり、2012年の出版です。ということで、著者が専門とするスペイン近世の歴史を題材に歴史学の方法論まで含めて議論を展開しています。なお、「近世」という用語は、決して日本に独特のモノで、単に江戸時代を指すだけでなく、封建制後期から産業革命までの期間を指す場合が多い気がします。英語では、"early modern"を当てます。著者自身は、いわゆるオーソドックスな歴史家であり、その対極、とまではいいませんが、マルクス主義的な歴史観を基本とした歴史家もいます。そして、マルクス主義の影響を強く感じさせるものの、少し距離を置いたフランスのアナール学派もあります。アナール学派の中心が『地中海』で有名なブローデルです。エリオット卿はブローデルとの交流も含めて、歴史に対する把握の方法を論じています。歴史の重ね合わせという言葉を著者は使っていますが、ある国あるいは地域のある時点だけを取り出しても、比較対象がなければ研究のしようがありません。そのため、世界横断的に同じ辞典の世界各国・各地域の比較対象を行うのが、少し違いますが、地理学に近く、時系列的に同じ国や地域を時間の流れの中の変化を見るのが歴史学ともいえます。ブローデルが為政者や権力者中心の歴史観ではなく、細菌や病気も含めて人口動態などを重視したのに対し、エリオット卿の歴史学は我々が通常目にする歴史書に見られる政治や外交や経済の出来事を並べる歴史観に基づいています。私は高校を卒業した直後に岩波文庫から出版されていたランケ『世界史概観』を読んで感激して経済史を志した記憶がありますが、著者のエリオット卿は本書にも見られる通り、美術史と連携した宮殿の復元、大西洋史といった比較史へと研究を広げる歴史学の大御所です。それから、先日取り上げた本では翻訳がひどいと明記しましたが、本書はとりわけ翻訳がていねいで素晴らしい出来に仕上がっている気がします。

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次に、ジョセフ・メイザー『フロックの確率』(日経BP社) です。著者は米国の数学教授であり、英語の原題は Fluke、2016年の出版です。 基本的に、世の中で起こる、あるいは、実際に起こったフロック、まぐれ当たりや巡り合せについて、数学的に解明を試みています。本書でも取り上げられていますが、人数が一定数集まると、本書の計算によれば、23人以上が集まると、同じ誕生日、生年月日ではなく、年なしの月日だけですが、同じ日付の誕生日の人がいる確率が50%を超えます。これらのほかに、マイアミで呼んだタクシーが3年前にシカゴで呼んだタクシーと同じ運転手だった女性、ロト宝くじに次々に4回当たった女性、被疑者2名にまったく同じDNA鑑定結果が出てしまった事件、などなど、現実に起こった事象について、認知バイアスなどによる確率の過大評価や過小評価も含めて、エピソードごとに著者がていねいに解説を加えています。ただ、良し悪しなんでしょうが、現実に起こったケースを基に議論を進めていることから、決定論的な確率に関する議論ですので、いわば、確率が決まってしまっているケースの議論に終始しています。ですから、発生するエピソードが、起これば事後的な確率が1で、起こらなければゼロという世界です。現実の世界では何らかの事象が確率分布に基づいて発生するケースも少なくなく、例えば、金融市場における資産価格決定などは議論から抜け落ちています。もちろん、シュレディンガーのネコのようなお話はカバーできていません。この点は、現実のケースを取り上げる判りやすさとトレードオフだと思いますので、何とも判断の難しいところですが、エコノミストや量子力学関係者からはやや物足りないという意見が出る可能性はあります。カジノにおけるギャンブルなどに通じる確率論であり、どうでもいいことながら、そういった方面からは歓迎されそうな気もします。

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次に、ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社) です。著者はオスロ出身で「平和学の父」と呼ばれているそうです。英語の原題は People's Peace であり、2017年の出版です。英語タイトルはともかく、中身はかなり邦訳タイトルに近く、確かに、日本人向けに書かれている気はします。例えば、本書冒頭のはじめにで、ニホンを苦しめている問題の根本原因は米国への従属と明記しています。しかし、他方で、米国への従属を断ち切る方策について、本書は何も触れていません。というか、対米従属の基本となっている安保条約については、改正とか破棄・廃棄ではなく、手を触れずに店晒しで無意味化させる、というまったく私には理解できない議論を主張しています。やや無責任な気もします。しかし、この能天気な無責任さは本書の貴重をなすトーンでもあります。決して理想主義ではないんですが、単に出来もしないことを羅列しているとみなす読者もいるかもしれません。私もそれに近い読み方をしてしまいました。でも、キリスト教的に極めて許容度の広い本であり、まったく反対のいくつかの観点をすべて許容しそうな勢いで議論が進みます。無責任の極みかもしれません。北方領土や尖閣諸島については、領有権を主張する両国の共同管理を主張していて、まさに、両国はそれを排除しようと試みている点を無視しています。私は大江健三郎のノーベル賞講演ではありませんが、日本人の特性のひとつは曖昧さであると感じていたんですが、本書の著者は白黒をハッキリつけすぎると受け止めているようです。国際常識も通用しません。まあ、私の専門外ですので、私の方で誤解しているのかもしれませんが、ほとんど参考にも何にもならない本です。最後に、日本における沖縄後について考える際に、呼んでおく基礎的な文献は、実は、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ K. ル=グインの『風の十二方位』に収録されている短編「オメラスから歩み去る人々」です。10年ほど前に話題になったサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられています。

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次に、堂場瞬一『1934年の地図』(実業之日本社) です。著者は、警察小説とスポーツ小説を得意としたエンタメ小説家です。まずまずの売れ行きではないでしょうか。本書は、地理学の大学教授を主人公に、戦後1960年の日本を舞台にしています。そして、大戦前夜の1934年暮れにベーブ・ルースらとともにオールスター野球チームの一員として来日した大リーガーであり、その後、主人公と同じ地理学の専門家として研究者となった友人が来日します。主人公は1934年の米国野球オールスター来日の際に通訳を兼ねて接待に当たっており、26年振りの再会でした。しかし、主人公が学界に出席するため渡米した折に、思いもかけない事実が判明します。米国人の友人が1934年に来日した目的は必ずしも野球だけではなく、戦争開戦前の日本の実情を探ることも目的とされていたようであり、その情報収集から結果として大きな悲劇がもたらされることとなります。戦争当時の悲劇ですので、およそ、原爆被爆はもちろん、空襲を始めとする悲惨な戦争被害の中で埋もれがちな事実が明らかになるわけです。以下、私の個人的な感想ですが、ハッキリいって、イマイチです。主人公と米国人元大リーガーにとっては、それなりに重要な結果をもたらしたのかもしれませんが、そうであれば、もっとキチンと書くべきです。さらに、フィクションのエンタメ小説とはいえ、背景となる日本国内及び世界の政治経済情勢、特に、それが戦争につながるわけですから、そういったバックグラウンドも視野に入れるべきです。1934年の直前の1933年にはドイツのヒトラーが首相となり、米国のローズベルトが大統領に就任しているわけですし、日本と中国の関係では、1931年9月に柳条湖事件が起こり、翌年1932年には満州国が建国されています。そういった時代背景にも目を配って欲しかった気がします。そうでなければ、単なるスポーツをからめたメロドラマになってしまいかねません。

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最後に、首都圏鉄道路線研究会『駅格差』(SB新書) です。先月7月15日付けの読書感想文で同じシリーズの前書『沿線格差』を取り上げたばかりなんですが、その続きで沿線ではなく駅に着目した格差論です。『沿線格差』のように、勝ち組と負け組を明記したりしていないので、それなりにインパクトは低下しているような気もしますが、一般に理解されている点も、あまり理解されていない点も、それぞれにコンパクトによく取りまとめられています。住宅を中心に駅や沿線を考える場合が多い気もしますし、本書でもそうなっていますが、あとは観光地というのは大げさにしても、買い物などの訪問先的な観点は含まれているものの、本書で欠けている勤務先という観点も欲しかったと私は考えています。なお、総合ランキングや勝ち組と負け組はないんですが、いろんな観点からのランキングは各種豊富に取りそろえています。特に、男女別に見たトイレ事情のランキングは、それなりに実用的な気もしました。数年前に公務員住宅を出て住まいを探した折に、マンション名が駅名になっていて、必ずしも行政的な住所表記と一致しない例があったのを思い出してしまいました。まあ、一戸建てなら関係ないんですが、本書で指摘している通り、多少のごまかしやハッタリを含めて、必ずしも行政上の住所表記ではないイメージのいい街を自分の住まいに当てはめる例は少なくないと思います。そして、大いに理解できるところかという気がします。最後に、五島家が東急経営で鉄道や商業そして、住宅開発などで総合的な手腕を示したのに対して、西武の堤家は鉄道と商業を兄弟で分担して失敗した、かのように示唆する部分がありますが、西武の鉄道と商業、それも、西武百貨店とスーパーの西友、さらに住宅開発の国土計画などを分割してしまったのは米国投資ファンドのサーベラスです。海外ファンドに株式を買い占められて短期的視野で経営に圧力をかけられるとこうなる、という悪い見本のような気がします。
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2017年08月06日 (日) 15:02:00

先週の読書は話題の経済書など計7冊!

先週の読書は、イングランド銀行の総裁を務め、サブプライム・バブルの崩壊を乗り切った中央銀行総裁のの1人であるマービン・キング卿の話題の書ほか、人工知能に関する日仏の学術書など、以下の通り計7冊です。キングの『錬金術の終わり』は、昨日の日経新聞の書評で取り上げられていました。米国雇用統計で1日営業日がズレて、やや多くなってしまいましたが、週5冊くらいにペースダウンしたいと希望しています。

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まず、マーヴィン・キング『錬金術の終わり』(日本経済新聞出版社) です。著者はご存じの通り、2003年から2013年まで10年間イングランド銀行の総裁を務めたエコノミストです。学界からチーフエコノミストとしてイングランド銀行に入り、総裁まで勤め上げた人物です。リーマン・ショック後の混乱を収拾した中央銀行総裁の1人であり、著者のことを錬金術師と称した向きもありました。英語の原題は The Endo of Alchemy であり、邦訳はこのタイトルそのまま直訳のようです。昨年2016年の出版です。ということで、何度か繰り返して、著者は本書のことを回顧録ではないと言明しています。そして、タイトルの錬金術とは、預金者から調達した資金が長期投資のために使われ、新たな経済的価値を生み出すという、歴史的に続いてきた現代金融の仕組みについて名づけられており、ところが、この金融の錬金術は、ハイパーインフレから金融破綻や銀行危機まで、経済に大きな厄災も同時にもたらしてきたわけで、悪い意味での錬金術を終わらせて、健全な金融と経済を築くにはどうすればよいのか、について考察を進めています。そして、金融危機や銀行破綻のひとつの原因が、高レバレッジと将来の不確実性にあると指摘していますが、ナイト流のリスクではない不確実性については、私はどうしようもないんではないか、と諦めの心境です。高レバレッジ、というか、それを逆から見た薄い自己資本については、単にバーゼル規制をもって対処するのか、それとも、強烈に100パーセント準備を必要とする単なる決済機能の提供者たるナロー・バンキングに移行するのか、後者は現実的ではないような気もします。そして、中央銀行の役割として、「どんなときも頼りになる質店」を提唱しています。また、究極の問いとして、著者は、銀行は政府の延長なのか、それとも市場の延長なのか、と問うています。いろいろと知的好奇心を満足させる本ではありますが、ひとつだけ、銀行に対比させるに個人や家計の預金者を想定しているような書き振りがいくつか見受けられます。およそ規模が違うんですから、せめて企業一般、そして、可能な部分については金融機関を対比させてほしい気もしました。

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次に、三橋貴明『生産性向上だけを考えれば日本経済は大復活する』(彩図社) です。作者はマーケット・エコノミスト系の活動をしてきた人だと思うんですが、私は余りよく知りません。あまりご著書を拝読したこともないような気がします。本書は、基本的に、著者なりに経済を解説しようと試みている気がするんですが、さすがに、『錬金術の終わり』に続けて読むと、ややキワモノっぽさが目立ってしまいました。通説を批判するという形で議論を始めながら、最終的には通説に収斂しているような気もしますし、中身でかなり矛盾も散見されます。例えば、期待についてはエラいエコノミストでも適応的期待、すなわち、合理的期待に近いフォワード・ルッキングな期待形成を否定して近い過去から現状の状態がこの先も続くという現状維持バイアスに近い見方を示したかと思えば、メディアの誤った見方をそのまま受け入れているかのごとき見方が示されていたりもします。何より、タイトルの生産性という言葉について、本書の冒頭では労働生産性、すなわち、労働者1人当たりのGDPで定義して、通説の供給サイドよりもむしろ需要により変動する部分が大きく、我が国の低生産性の原因がデフレにある点を指摘したりしている一方で、結局、供給サイドの議論に回帰したりしています。私は生産性については需要サイドの影響も決して無視できないと考えていて、デフレが低生産性の原因との見方も含めて、本書冒頭の見方に大いに賛成なんですが、著者の腰が定まらず、本書の議論では、結局、通説の供給サイドに立ち返ってしまいます。ただ、低生産性の原因がデフレである点を含めて、私と意見が合う部分もかなり多く、潜在成長率とは現実の成長率を大いに繁栄しているという点、完全雇用失業率は現在の3%前後ではなく、さらに低下して2%台前半であるとする点、などなどです。もっとも、タイトルに関する議論だけでページが埋まらなかったものと見え、第4章以下はタイトルとの関係に疑問が残ります。まあ、高齢の方のお話が長くなる原理を垣間見た気がします。要するに、お話しのトピックとは関係なく、自分の持論を延々と展開するということなのだと思います。

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次に、松田雄馬『人工知能の哲学』(東海大学出版部) です。著者はNECのキャリアが長いエンジニアで、決して哲学者ではありません。東北大学とのブレインウェア(脳型コンピュータ)の共同研究プロジェクトを経験し、その経験が本書にも活かされている気がします。そして、出版社からも理解される通り、本書は純粋に学術書であり、一般向けの判りやすい解説書ではありません。例えば、第4章なんぞは難解な数式が頻出します。ただ、現時点での話題の的である人工知能に関する哲学ですので、私のような専門外のエコノミストでもそれなりの一般的な基礎知識が蓄積されつつありますので、それなりに判りやすく読めました。そして、論点は、人工知能の前半の人工は問題ないとしても、人口でない神の作り賜いし生命とは何か、そして、その生命の持つ知能とは何か、に関する哲学的な議論を進めています。そして、本書の結論として、神の作り賜いし生命が発揮する知能とは、そういった用語は用いていませんが、私なりの理解として、合目的的な行動を支えるものであり、その目的の設定は人工知能には出来ない可能性が高い、ということなんだろうと受け止めました。さらに、2045年のシンギュラリティを主張しているカーツワイルが基礎としているムーアの法則が今後も継続される可能性も低い、と予想しています。まず、後者について、私は指数関数的な成長については、今後も継続する可能性の方が強いと思っていますが、伸び率が低下する可能性は否定しません。前者に戻ると、目的設定については、これが明らかな将棋や囲碁については、何の問題もなく人工知能が人間を上回ったのは、広く知られている通りです。そして、本書の著者は羽生三冠の言葉を引用して、人間が勝てなくなれば桂馬が横に跳ぶとか、ルールを変更すればいい、として、まさに人間の知能が人工知能を上回る点を明らかにしています。もちろん、目的が設定され、情報を処理しつつ評価関数がアップグレードされる段階になれば、人工知能の方に分があります。そういう意味では、目標を設定する人間の知能とそれを最適に遂行する方法を見出す人工知能という組み合わせで歴史は進むのかもしれません。錯覚を並べた第2章の観念論的な見方、脳が世界を主観的に作り出している、という見方に少し違和感を覚えますが、全体としてとても参考になるいい本だという気がします。

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次に、ジャン=ガブリエル・ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(早川書房) です。著者はパリ第6大学の哲学者であり、コンピュータ・サイエンスを専門と知る教授を務めています。フランス語の原題は Le Mythe de la Singulatité ですから、シンギュラリティを神話として、疑いの目で見ているカンジでしょうか。2017年今年の出版です。ただ、この直前で取り上げた『人工知能の哲学』と並べて読むと、かなり見劣りがします。訳者あとがきで、シンギュラリティについては楽観派と悲観派と中立派の3者があるとしていますが、本書は4番目の否定派です。私も基本的にはシンギュラリティは、少なくとも2045年までにはやって来ない確率が高いと考えていますが、何分、専門外のエコノミストですので。シンギュラリティが来ないと思いつつも、来たら何が困るかを考え、やっぱり、人工知能やロボットの導入に伴う失業問題だろうということで、それならベーシック・インカムを導入する、という論理構成になるんですが、本書ではホーキングやビル・ゲイツなどの悲観派の論調を否定派で押し通している印象です。ただ、コンピュータの演算能力と知性については直接の関係はない、というか、別物であるとの主張は私も同意します。ただ、情けないと私が感じたのは、コンピュータの能力の量的な向上が質的な変化をもたらす可能性、まさに、ヘーゲルの弁証法的な量的変化が質的変化に転化する、を理解していない点です。先の『人工知能の哲学』でも取り上げられていた中国語の部屋のエピソードについては、チューリング・テストとの関係で正しく論じて欲しかった気がします。本書と先の『人工知能の哲学』の評価の違いはアマゾンのレビューでもうかがえます。『人工知能の哲学』の評価が星5ツがとっても多いのに対して、本書の評価は星5ツ星1ツの両極端に分けれています。最後に、コンピュータや人工知能の進歩の末にある恐怖は、本書が否定するような人工知能の自律的な人類への反逆ではなく、どこかのマッド・サイエンティストが発達して人類の能力を超えかねない人工知能やロボットの能力を悪用することだと私は考えています。その点については、まだマジメに考えている科学者は少ないのだろうと思います。

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次に、ジョシュア・ハマー『アルカイダから古文書を守った図書館員』(紀伊國屋書店) です。著者は「ニューズウィーク」などで活躍してきたジャーナリストです。そして、邦訳タイトルだけからでは判りにくいんですが、英語の原題は The Bad-Ass Librarian of Timbuktu であり、アフリカ西部のマリを舞台にしたノンフィクションです。原書は2016年の出版です。内容は邦訳タイトルそのままで、トンブクトゥの古文書をマリの内戦で蜂起したアルカイダからいかに守ったかをリポートしています。上の表紙画像で古文書を手にしているのは、本書の主人公とでもいうべき図書館員ハイダラ氏です。時期としては、2012-13年にかけてであり、まさに、訳者あとがきにある通り、2013年1月にアルジェリア東部の天然ガス精製プラントをイスラム過激派が襲撃し、日揮から派遣されていたエンジニアなど日本人10人を含む外国人37人が犠牲になった事件と大雑把に流れを同じくするアフリカにおけるイスラム過激派のテロの動向を背景にしています。トンブクトゥは12世紀から16世紀くらいまで、交通の要衝としてアフリカにおけるイスラム宗教文化の中心として栄えた文化都市、学問の都であり、盛んに写本が作成され、写本の記述された中身も宗教以外にも天文学や医学や幾何学など広範な分野に渡るだけでなく、金箔の装丁など一級の美術品としても価値もある古文書が数多く残されているらしいです。そして、本書の主人公は、一族・一家に伝わる古文書を基に私設図書館を設立したり、その前は、古文書の研究機関・図書館に勤務して古文書を収集したりしていたことがあり、先ほどの2012-13年のアルカイダ系のイスラム過激派の武装蜂起でトンブクトゥの古文書が焼失の危険にさらされることを見抜き、3万冊余りの古文書をより安全なマリの首都バマコに運び込んだ物語です。前半は、主人公が父親から一家や一族に伝わる古文書を受け取り、決して売ったり譲渡したりしてはならないと今わの際に言い置かれ、古文書の研究機関兼図書館に勤務して多数の古文書の蒐集に当たったり、あるいは、この研究機関兼図書館から独立して、父親から引き継いだ古文書を基に私設図書館を開設する、といった、それはそれで興味深いストーリーなんですが、何といっても本書のハイライトは終盤にあり、アルカイダから逃れ、政府軍からも追われ、そして、当時のオランド大統領の決断により介入したフランス軍にも足止めを食らいながら、大量の古文書を運送するところです。もちろん、私のような開発経済学を専門とするエコノミストから見れば、トンブクトゥの人々にとっては、古文書は先進国からの援助を引き出すための、いわば「メシのタネ」なわけで、あだやおろそかにはできないんですが、文化の香りも手伝って、とてもいい物語に仕上がっています。映画化されれば、私はたぶん見に行くと思います。

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次に、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(インターシフト) です。著者はサイエンス・ライターということのようです。ポーランド人でフランス在住らしいです。ほとんど肉食をしないベジタリアンのようです。英語の原題は Meathood ですから、接尾時の -hood については、いろんな意味があるんでしょうが、brotherhood と同じと考えて、直訳すれば「肉への愛情」くらいのカンジかもしれません。ということで、1か月ほど前の7月9日付けで取り上げたウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』によれば、食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということだったんですが、結論を先取りしていえば、本書では食事は文化だということになります。そして、肉食は権力、成功富、男らしさ、などなどを象徴していると著者は考えています。ただし、最近時点では、肉食に反対する一定の勢力が台頭し、大雑把に、健康の観点から肉食に反対するベジタリアン、そして、動物を殺すという倫理的観点からのベジタリアンです。後者は前者をやや軽蔑しているかのような記述も本書にはあります。また、当然ながら、宗教的観点から何らかの肉食を禁じる場合もあります。イスラム教やユダヤ教の豚は忌み嫌われて食べませんし、逆に、ヒンドゥー教の牛は神聖な生き物であり、やっぱり食べません。また、明治の近代世界に入る前の日本などでは、仏教的な観点から殺生を禁じて肉食は極めて稀だったといわれています。本書でも、日本では動物の肉をさくら、もみじ、ぼたんなどと呼んで、肉食っぽくなく感じさせる技を紹介しています。英語でも牛肉をビーフ、豚肉をポークと読んだりして、肉は生きている動物から切り離された名詞で呼ばれています。誠についでながら、私は関西人ですから、東京に出て来て宗教由来の言葉が少ないと感じた記憶があります。関西では「そら殺生でっせ」とか、「往生しましたわ」といった表現は日常的に使いますが、東京では聞いたことがありません。でも、肉食は関西の方が盛んな気もします。気ままに書き連ねましたが、私の年齢とともに肉食が減った気がします。

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最後に、阿川大樹『終電の神様』(実業之日本社文庫) です。著者は私よりさらに年長くらいな小説家なんですが、誠に不勉強にして、私はこの作者の作品を読んだことはありません。この作品は、かなり独立性の高い短編から編まれた連作短編集です。必ずしもタイトル通りの終電に限らないんですが、ある駅の近くで電車が人身事故や何らかのトラブルでしばらく止まることから生じる関係者の人生の変化を追っています。収録された7編の短編すべてが心温まるハッピーエンドではありませんが、何らかの人生に対するヒントは得られそうですし、読後感は悪くありません。女装の男性がキーワードになっている気がします。ただ、いくつか弱点もあります。作者の年齢から派生するような気もしますが、現在ではその昔ほど電車が止まる機会も少なくなりましたし、実感がどこまで読者と共有できるかは不安があります。それから、最後の短編などはとても話を作り過ぎてあざとい気もします。
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2017年07月29日 (土) 11:53:00

今週の読書は不平等に関する経済書など計7冊!

いろいろあって、今週の読書は、不平等に関する経済書をはじめ、話題の小説なども含めて計7冊です。今年上半期の芥川賞と直木賞が決まりましたが、私は芥川賞は今日取り上げる今村夏子『星の子』で、直木賞は柚木麻子の『BUTTER』と予想していました。候補作をまったく読まない予想でしたので、当然ながら、みごとに外しました。

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まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等』(みすず書房) です。著者は、アトキンソン教授らとともに不平等研究の先頭に立つの1人であり、長らくの世銀勤務の後、現在はルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)の研究者を務めています。なお、私は同じ著者が邦訳については同じ出版社から出した『不平等について』も読んでおり、2013年3月23日付けの記事で取り上げています。どうでもいいことながら、前著の邦訳書の表紙にもゾウが出ていたような記憶があります。英語の原題は Global Inequality であり、ビミョーに邦訳タイトルと違っていて、グローバル化による不平等の進行についてもテーマのひとつとしています。2016年の出版です。ということで、本書の著者は、1980年代以降くらいに進行した現在の不平等化について、原因として、右派的なスキル偏重型の技術進歩についても、左派的な政策的な平等化努力の放棄についても、いずれも否定せず、さらに、勝者総取りについても、その昔の1980年代初頭のローゼン論文によるスーパースター経済、すなわち、拡張性の議論も否定せず、ひたすら淡々と現状分析を進めています。どうしてかという原因のひとつは、理論的な根拠が薄弱な経験則であるクズネッツ曲線を基に議論しているからではないか、と私は受け止めています。そして、対象としているのは、intra-nation な国内の不平等と inter-national な各国間の不平等であり、前者を階級に基づく不平等、後者を場所に基づく不平等と名付け、19世紀では前者の方が大きく、階級闘争というマルクスの主張にも一定の根拠があったが、20世紀以降、特にグローバル化が進展した20世紀後半では後者の方が圧倒的に影響力が大きくなっていると結論しています。つまり、良家に生まれるよりも先進国に生まれる方が格差の観点からは有利である、ということです。繰り返しになりますが、本書が基礎としているのはクズネッツ波形であり、大雑把に、緩やかなエコノミスト間の合意として、クズネッツ波形とは逆U字曲線として理解されており、横軸に時間または経済的豊かさを取り、縦軸に不平等の度合いを取ったカーテシアン座標において逆U字となり、資本主義の発展の前期には不平等の度合いが高まり、資本主義の後期には不平等は緩和される、というもので、1時点における多くの国のクロスセクションで実証されたり、いくつかの国のタイムシリーズで実証されたりしています。しかし、本書の著者はクズネッツ曲線を単に逆U字で終るものではなく、サイクルとして繰り返されるものと認識しており、資本主義経済に即していえば、クズネッツ波形の第1の波は平等化の進展であり、第2の波は現在のようなグローバル化による不平等化の進展、ということになります。そして、本書の最後の最後に、著者はグローバル化による利益は均等に分配されることはなく、ブローバリゼーションにより不平等化が消滅することはない、と結論しています。理論的・解析的であるより実証的であるのが本書の特徴といえます。したがって、有力な政策インプリケーションは出て来ません。それでも、現在の不平等化を理解する上で、とても参考にあるいい分析書だという気がします。ただし、右派的な機会の平等や不平等を論じた経済書ではありません。徹頭徹尾、結果の不平等を論じています。長々と書き連ねましたが、、最後のひとつ前に、英語の原題になく邦訳のサブタイトルだけに現れるエレファントカーブとは、邦訳書のp.13やp.34でお目にかかれますが、横軸に世界の所得の20分位や100分位を取り、縦軸に10年とか20年とかの間の実質所得の累積増加率を取ったグラフで、それに基づくと世界の所得分布の100分位でいうと80-90パーセンタイルのあたり、すなわち、先進国の中間層の実質所得がここ10年とか20年で伸び悩んでいて、そのあたりが米国のトランプ大統領の当選とかの現在のポピュリズムの原因のひとつである可能性が示唆されていますが、本書の主張の重点ではない気がします。なお、このエレファントカーブの実物を見たい向きは、今週木曜日7月27日付けの日経新聞の経済教室で、米国カリフォルニア大学バークレイ校のデロング教授が引用しています。ご参考まで。最後の最後に、私なんぞの読書感想文ではなく、全国紙などの書評に興味ある向きは、私が読んだ範囲で以下の通りです。7月23日付けの読売新聞でも見かけたんですがサイトが見つかりませんでした。悪しからず。


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次に、新田信行『よみがえる金融』(ダイヤモンド社) です。著者は、みずほ銀行常務から第一勧業信組理事長に転任した銀行マンです。第一勧業信組は、例の無担保・無保証の芸者さんローンで有名になったんですが、もともと、東京都下でもかなり規模の大きな信組ではないかと思います。著者はすでに叙勲も受けて、本書の内容はほとんど自慢話なんですが、信組であれば数百人の規模の組織ですし、本書の第一勧業信組も200人とか300人とあったような気がしますから、それくらいの規模であれば、トップがほとんどすべてのメンバーと面識があり、その意味でもトップがすべての組織となってもおかしくはありません。役所関係で想像すれば、警察署、独立行政法人などです。私は警察官ではありませんから警察署勤務の経験はありませんが、独立行政法人、その昔の特殊法人も含めて勤務経験があり、例えば、所管官庁の事務次官なんぞを経験した天下り理事長がワンマン体制を敷いていることもめずらしくないような気がします。それは別として、本書では東京ながら小規模な信組で、芸者さんローンをはじめとして事業性のローンを開拓したり、あるいは、地域の創業支援をしたりと、地域経済に密着した金融機関のいい面が取り上げられているんですが、その際、無担保無保証のローンも少なくなく、従って、「目利き」ということばがキーワードとして頻出します。この言葉に、デフレとともに「失われた20年」の原因があります。すなわち、日本経済は特別の能力を持った人材を育てることなく、また、評価することなく、ひたすら作業をマニュアル化して非正規社員に代表されるような未熟練労働を雇用してコストカットすることに企業経営の努力を傾けて来たわけです。外資系企業では日本企業の10倍、文字通りの桁違いの報酬を得ている高スキル人材も少なくない中、我が国企業では、ひたすた未熟練の低賃金雇用を進め、そして今やデスキリングを生じてしまっているわけです。本書でもインプリシットにその点を認めており、p.267では、農業がもうからないのは農業事業者に価格決定権がないからであると喝破しています。まさに、我が国の労働市場では農業生産者と同じことが起きており、高スキルの労働力にキチンと報いて高賃金を提供することなく、ひたすら低スキルの非正規労働者に高スキル労働力を切り替えやすくすることをもって「岩盤規制」と称しているわけです。さらに未熟練でさらに低賃金の労働者を雇いやすくするという意味で、現在の労働市場改革がまったく逆方向を向いていることを本書を読んで実感しました。

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次に、冨島佑允『「大数の法則」がわかれば、世の中のすべてがわかる!』(ウェッジ) です。著者は、金融機関やヘッジファンドで運用を担当するなどの経歴の後、現在は生命保険会社でリスク管理などのお仕事をしているようです。生保の機関投資家としての運用については、関係ないことながら、伝統的に、セルサイドが強い日本ですから、バイサイドはややツラいかもしれません。ということで、本書のタイトルとなっている大数の法則とは、個別には、あるいは、試行が少ない場合は結果がランダムとなり予想が難しい物事も、それらが多く寄せ集まると、全体としての振る舞いは安定する、というものであり、ランダムな変動を持つ系列を集めて正規分布を当てはめる中心極限定理につながる法則です。そして、本書ではこの大数の法則から出発して、それが成り立つための独立の仮定と同一性の仮定を明らかにし、単なる確率論から始まって、投票などに左右される裁判の陪審制や民主主義までお話を拡張しています。要するに、コイントスやさいころなどのランダムで独立性が確保されており、ウェイトが微小で各試行の同一性が確保されるのであれば、大量の嗜好により理論的な確率が実践の場で観察されるということですから、本書でも後半で強調されている通り、一発勝負で大きなゲインを狙うよりも、日々の努力を積み重ねて行くという地道な努力が重要であることに気づかされます。また、本書では本格的に展開せずに軽く示唆しているだけなんですが、非常に小さな確率の差が試行を重ねることにより結果として大きな開き、とまでいわないとしても、結果に十分な影響を及ぼすことが明らかにされます。例えば、テニスのラリーを取るか取らないかについて、わずかに見える1%の確率の差というのは結果に対してとても大きな差を生じさせます。ただ、本書で触れられていない大数の法則の弱点は分布にあります。大数の法則はあくまで平均値に収束するという事実を確認できるだけであり、分布でテールがファットな場合のダメージ、というか、大きな影響力を十分に評価できていない気がします。すなわち、生命保険や自動車事故に対する損害保険などであればともかく、原発に対する津波の影響については大数の法則は十分な力を発揮できません。まあ、これは大数とよべるほどの試行回数の積み重ねが出来ませんから、大数の法則とは別物、というか、本書でも取り上げられている少数の法則のカテゴリーかもしれませんが、平均値に収束するものの、分布からテールファットな事象に対する大数の法則の適用には慎重であるべき、との結論も重要かという気はします。

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次に、ルチアーノ・フロリディ『第四の革命』(新曜社) です。著者はローマ生まれで、英国オックスフォード大学の研究者だそうです。専門分野は哲学や情報倫理学であり、従って、作者のはしがきで、「本書は哲学の本である」と記されています。英語の原題は The Fourth Revolution であり、邦訳タイトルはこれをそのまま直訳しているようです。本書では独特の勘弁な歴史区分を用いており、一般に先史時代と呼ばれるプレヒストリー、歴史が記録されるようになって以降のヒストリー、そして、現在のようにICTで歴史が記録されるようになったハイパーヒストリーの3区分です。ついでながら、第4の革命に先立つのは、コペルニクス革命、ダーウィン革命、フロイト革命ないし精神科学革命だそうです。そして、第4の革命は情報通信革命であることはいうまでもありません。この含意は、人類は、コペルニクス革命によって宇宙の中心ではなくなり、ダーウィン革命によって特別な種ではなくなり、フロイト革命によって自らの主人でもなくなったわけですが、現在の第4の情報革命が人類をどこに導くのか、ということです。このため、本書では第1章から第3章で時間、スペース、アイデンティティの基礎について等々と記し、その先の第4章の自己理解以降で、プライバシー、知性、エージェンシー、政治、環境、倫理をひも解いていきます。まず、細かい点ではプライバシーについて、著者はいくつかの区分を示していますが、何度かこのブログで示した通り、私はベッドルームのプライバシーと買物のプライバシーは扱いを違えるべきだと考えています。すなわち、ベッドルームのプライバシーは個人の秘密として公開を避けて守られるべきであるのに対して、買い物や雇用なアドの片側が市場である場合はプライバシーは保護されないと覚悟すべきです。そして、著者のもうひとつの独特の考えが第9章の環境に示されていて、「善の前の悪」という見方です。すなわち、先々の善を獲得するためには、いったん悪い状態に落ち込む必要がある、というものです。エコノミストとして、先行きの好調な経済のためには、現時点では大いにがまんして、痛みを伴う構造改革を実施せねばならない、という考えがいまだに一部に見受けられるのを、とても不思議に感じているんですが、まさに、こういった思考から出ているんだろうという気がします。経済学的に、いわゆる迂回生産というのがあり、現在の消費を我慢して貯蓄して資本蓄積に励み、その後の生産増につなげる、という考えはとてもプピュラーなものですが、それとのアナロジーで、痛みを伴う構造改革が持ち出されるのが、私にはとても不思議だったんですが、こういった考えが日本人以外にもあるんだと知ることができて、それはそれで参考になりました。なお、訳者あとがきで、本書をトフラー『第三の波』になぞらえているのは、余りに厚顔無恥な気がします。本書は300ページ余りから成りますが、最初の3章120ページほどが特に難解です。そこを超えられなければ途中で挫折するしかありませんが、そこをクリアできれば残りの200ページほどはすんなりと読めるんではないか、と思います。ただし、翻訳上の誤訳とタイプミスが気にかかります。私くらいのスピードで読んでいても目につくくらいですから、ていねいに読んでいる人にはかなり目障りかもしれません。

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次に、今村夏子『星の子』(朝日新聞出版) です。作者は売出し中の純文学の小説家です。私も『こちらあみ子』『あひる』の2冊を読んでいて、『あひる』の読書感想文は今月7月1日付けでこのブログに収録しています。なお、前作の『あひる』とこの作品はともに芥川賞候補作でしたが受賞は逃しています。ということで、この作品では出生直後から病弱だった主人公を救いたい一心でうさん臭い宗教団体が出している「金星のめぐみ」という特殊な水を使い、たまたま、なんでしょうが、主人公がすっかり健康になったことから、両親がこの宗教にのめり込んで行きます。主人公の姉はこれに反発して高校1年生の時に家出して行方不明となり、主人公の叔父も姉の協力により「金星のめぐみ」を公園の水道水に入れ替えたり、あるいは、本作の最終段階で中学3年生の主人公が高校に上がったら叔父の家に引き取る心づもりを明かしたりと、宗教にのめり込む両親とそうではない家族や親族との葛藤もあります。父親が定職を離れたり、引っ越すたびに小さい家になったり、両親の服装などがみすぼらしくなったりと、いかにも新興宗教らしく信者がお金を巻き上げられている様子も示唆されています。そして、主人公の学校生活とともに、どう見ても異質な宗教の力を軽々と描き出す作者の筆力、表現力に脱帽します。そして、最後は宗教団体の研修所のようなところで親子3人で流れ星を見続けて物語は終わります。純文学ですから、エンタメ小説と違って落ちはありません。落ちはないんですが、この作者に共通するポイントとして、子どもが純粋であるがゆえに、実は社会性ある大人とのズレを感じさせ、悪意とまでは呼ばないとしても、一種の居心地の悪さ、不安定さを感じさせる小説でした。この作者の持ち味かもしれません。私のようなパッパッと読み飛ばす読み方ではなく、行間を読み込める読者には、短い物語ながら、より実り多い作品ではないかと感じさせるものがありました。なお、どうでもいいことながら、その昔に私が京都大学に進学する前に、父親が学生生活の注意として上げた3点を思い出してしまいました。実は、上の倅が大学生になる前に同じことを私から倅に伝えた記憶があります。すなわち、第1に、宗教の勧誘は相手にせず、我が家は有り難い一向宗(浄土真宗)の門徒であること、第2に、マルチ商法には手を出さないこと、第3に、学生運動には加わらないこと、です。だたし、京都の家らしく、第3の点については、自分自身の良心に問うて確信があるのであれば、何らかの政治運動に身を投じるのは妨げない、ということでした。最後の最後に本題に戻って、この作品の著者は、そのうちに芥川賞を受賞する、と私は本気で信じています。とても楽しみです。

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次に、瀧羽麻子『左京区桃栗坂上ル』(小学館) です。少し前に同じ作者の『松ノ内家の居候』を取り上げましたが、我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生です。不勉強な私の知る限りでは、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか読んだ記憶がないことについてはすでに書いた通りです。ということで、左京区シリーズ、というか、左京区3部作の完結編です。本書の最終第6章を読めば、明らかに、作者は本書をもって左京区シリーズを終了する意図であることが理解できると思います。例の学生寮トリオの龍彦、山根、と来て、本書では安藤を主人公としており、このトリオをはじめとして、最終第6章で周辺登場人物も含めてその後の彼らの行く末を取りまとめています。後は、スピンオフ作品が出るかもしれませんが、明らかに、作者の意図としては左京区シリーズ、あるいは、左京区3部作は終了しました。前作の、というか、第1作の『左京区七夕通東入ル』では龍彦と花の出会いを、第2作の『左京区恋月橋渡ル』では山根の悲恋を、そして、この作品では学生寮トリオで残った安藤の幼なじみ、というか、正しくは、安藤の妹の幼なじみとの再会と大学生活と恋愛、さらに結婚・出産までを跡付けています。龍彦が大阪出身、山根が神戸出身、そして、本書の主人公である安藤が奈良出身でしたが、私は中学高校と奈良まで通っていて、大学が京都大学ですから奈良と京都にはなじみ深く、安藤を主人公とするこの3作目の左京区シリーズ、左京区3部作の3作目を特に楽しみにしていました。加えて、関西弁の中でも京都弁と奈良弁と大阪弁と神戸ことばと、微妙に使い分ける作者の筆力も大したものです。ただ、惜しむらくは、小説としてはさほどの水準ではありません。人物キャラもそれほどクッキリというわけでもありませんし、プロットもとてもありきたりです。ハッキリいって、京都大学出身の作者による京都大学と思しき大学を舞台にした青春小説、というジャンルでなければ、私も読まなかったんではないか、という気がしますし、恋愛小説というジャンルには独特のモノがあり、かなりの人気ジャンルだと思いますが、私は恋愛小説である、というだけでは必ずしも評価しません。いろんな条件が重なり合って読んだんだという気がします。文学作品としては、芥川賞候補に上げられた『星子の』とは比べるべきではありません。最後に、その純文学の『星の子』と違って、この作品はエンタメ小説ですから落ちがあります。どうでもいいことながら、割と最近、私が読んだフィリップ K. ディックのSF小説、たぶん、『死の迷路』か何かで、翻訳した山形浩生さんがあとがきか解説で、その昔はSF小説は落ちで分類されていた、なんて書いていたような気がしますが、SF小説に限らず、エンタメ小説は落ちがある場合が少なくありません。そして、もちろん、読書感想文で落ちを明らかにするのはルール違反です。最後の最後に、webきららのサイトにpdfファイルがアップロードされており、本書の第1章の連載時の試し読みが出来ます。ご参考まで。

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最後に、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫) です。2005年の出版ですが、最近時点で文庫化されました。朝日新聞の書評読売新聞の書評で見かけて思い出し読んでみた次第です。作者は米国のセント・ルイス生まれで、現在は日本に定住し早大教授を務めています。ということで、そのものズバリのタイトルについていくつかの観点から論じていますが、映画に関しては石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」を取り上げています。「おいらはドラマー…」で始まる例の歌については、私はどこをどう聞いてもジャズには聞こえないんですが、当時の観衆はジャズに聞こえていたかもしれないと思わせるものがありました。文学については五木寛之のデビュー作「モスクワ愚連隊」を取り上げ、当時のソ連文化部の高官が、いかにもありきたりではありますが、高級な音楽であるクラシックと低俗な娯楽であるジャズを対比している様子が明らかにされます。本書では1980年代以降はジャズも「過去の音楽」になった、として、エスタブリッシュされたかのような結論を引き出していますが、実は、今でもこういった対比は消滅したわけではなく、21世紀の時点でも生き残っています。例えば、私の好きなクラシック音楽のピアニストの1人でベートーベンの名手であるフリードリヒ・グルダには、ジャズっぽい即興演奏を収録したレコードがあり、実際に1970年代にジャズに転向しようとして周囲に止められたらしい、という噂すらありますが、私の知り合いには人類の宝ともいうべきベートーベンのピアノ曲とジャズの俗っぽい娯楽作品を対比させてしゃべる男がいたりします。音楽だけでなく、ひょっとしたら、純文学を有り難がって、エンタメ小説を小馬鹿にするような人もいたりするのかもしれません。それはさて置き、本書の白眉のひとつは第5章のジャズ喫茶に関する論考です。上の表紙画像の真ん中右はしは京都のジャズ喫茶であるしあんくれーるではないかと思います。私の学生時代にはまだありましたが、もうないのかもしれません。フランス語で Champ Clair と綴り、明るい場所、あるいは、明るい田舎、という意味だったと記憶しています。河原町荒神口の府立病院の南側にあり、名前とは裏腹に暗い店内で大きなJBLのスピーカーでもって大音量のジャズを流していた記憶があります。私は東京に出て来てからも、渋谷の道玄坂を上ったあたりにあって、名をすっかり忘れたジャズ喫茶にも通った記憶がありますが、同じようなものだった気がします。本書のジャズ喫茶の掟の中に、おしゃべりはするべからず、というのがありますが、これらのクラスの大音量ではとても有益な会話は出来なかろうという気がします。私は注文はメニューを指さしていたと記憶しています。それから、最後に、ジャズメンとドラッグに関して、チャーリー・パーカーなどのコカイン中毒ほかについて記述がありますが、やや偏った印象です。確かに、ジャズメンでコカインにおぼれた人は少なくないでしょうし、バド・パウエルのようにアル中もいます。でも、ジャズに限らず、音楽家の中には感覚を研ぎ澄ますためにドラッグに手を出す人は少なくないだろうという気も同時にします。ローリング・ストーンズが長らく来日できなかった原因もドラッグです。まあ、他のミュージシャンがドラッグに手を出しているから、ジャズメンもやっていいとは思いませんが、少し配慮して欲しかった気もします。
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2017年07月22日 (土) 13:11:00

今週の読書はかなり経済書があって計6冊!

今週の読書は経済書もタップリと計6冊。以下の通りです。

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まず、藤井聡『プライマリー・バランス亡国論』(育鵬社) です。著者は都市社会工学専攻の京都大学教授ですが、現在は内閣官房参与として、ご専門の防災・減災ニューディール担当だけでなく、幅広く公共政策に関して現在の安倍内閣をサポートしているようです。本書ではタイトル通り、財政政策から幅広く経済ア制作一般について取り上げ、特に、基礎的財政収支=プライマリー・バランス(PB)を2020年度に黒字化との財政政策目標について、この目標は2010年の民主党政権の菅内閣のころのものであり、過度に財政を黒字化することから日本経済にはマイナスであり、もちろん、デフレ脱却にも逆行し、財政再建の目標と相反して、財政赤字を増加させかねないと主張しています。リフレ派のエコノミストである私の考えともかなりの程度に一致しており、実際に、民主党政権下で与野党合意した10%への消費税率引き上げについては、第2段階目の10%への引き上げが何度か先送りされたものの、第1段階での2014年4月時点での8%への引き上げで大きなダメージがあり、まだ消費が消費税引き上げ前の状態に戻っていないのも事実です。もちろん、放漫財政に堕することは避けねばならないとしても、現時点で、日銀の異次元緩和の下で量的緩和のために国債が大量に日銀に市場で買い上げられている状況では、我が国政府債務のサステイナビリティには特に問題もなく、過剰に消費税率を引き上げてまで財政再建に取り組むのは行き過ぎであり、従って、フローとしてのプライマリー・バランスの黒字化ではなく、ストックとしての政府債務残高のGDP比を安定させることをもって政府目標とすべき、というのは本書の主張です。ついでに、企業や政府の債務によって経済が成長する、とも主張されています。まったく私のその通りだと考えます。私の基本的な経済政策スタンスとして、ほぼほぼ100%本書の趣旨に賛同する、という前提の下で、いくつか指摘しておきたい点があります。というのは、第1に、1947年の第1回経済白書で「家計も企業も政府も赤字」という有名な表現がありますが、マクロ経済学的に家計部門、企業部門、政府部門、海外部門の4セクターの貯蓄投資バランスを純計するとゼロになります。データの制約がなければ、世界各国の貿易収支の純計がゼロになるのと同じ理屈です。ですから、政府や企業が債務を発生させて投資を行い、経済を成長させるためには何らかの貯蓄の原資が必要になります。第2に、私もその昔に大学の教員で出向していた際に、財政の持続可能性に関する紀要論文を取りまとめ、政府の目標とすべきはフローの財政バランス化、あるいは、ストックの政府債務残高か、と考えを巡らせましたが、やはり、ストックの政府債務残高の方が内生性が高く、すなわち、政府が政策変数として操作できるのはフローの財政バランスであって、その結果としてストックの政府債務残高が内生的に決まる、としか考えようがありませんでした。まあ、金融政策では、通常の場合、オペレーションを操作して金利を目標にするわけですから、本書のように内生性が高くても政府債務残高を目標にすべきという議論は十分に成り立ちますが、まずは、毎年の予算における財政バランスに目が行くのもあり得ることだという気はします。

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次に、田代毅『日本経済 最後の戦略』(日本経済新聞出版) です。著者はよく判らないんですが、経産研の研究者ということのようです。博士号の学位は取得していないのでポスドクでもなさそうですし、大学の教員でもないようです。よく判りません。とはいうものの、本書の主張もかなり幅広いものの、現在の政府の経済政策を多くの点でサポートしている分析を展開しています。特に、浜田教授がシムズ論文に触発されて、デフレ脱却における財政政策の役割を主張し始めていますが、本書の著者は明確に物価水準の財政理論 (Fiscal Theory of Price Level, FTPL)を支持しています。ただ、私も本書のタイトルにひかれて読み始めましたが、実は、日本経済の現在のパフォーマンスの低さは政府債務の累積から生じていると、私の目からは論証希薄でアプリオリに前提した上で、いかに債務の負担を軽減するか、というお話に終始しているようです。債務以外の成長論や金融財政政策以外の幅広い経済政策を取り上げているわけではありません。逆に、債務の重責からの脱却についてはとても幅広く考察を巡らせています。例えば、金融抑圧、資産課税、民営化などの政府資産売却、デフォルトや債務再編、インフレなど、普段あまりメディアや学界などでは議論されない選択肢があることを提示しています。官庁エコノミストとしては、実際の政策としては、手を付けにくい選択肢であるといわざるを得ません。また、ほぼ政府債務だけを成長の阻害要因としていますので、それ以外の人口動態とか通商政策などには目が向けられていません。ですから、第6章の財政余地の使い道などについても明確ではなく、子育てや少子化対策、あるいは、家族の支援などの高齢者への社会保障ではない社会保障、あるいは、インフラ整備などへの使途が考えられるんですが、そのあたりの分析は物足りないものがあります。また、債務危機に関してギリシアが何度か取り上げられていますが、私は内国通貨で発行されている国債については、日本の場合はサステイナビリティにはほとんど問題ない、と認識していますので、やや的外れな印象もありました。ただ、経済成長と財政再建はトレードオフではないと主張し、タブーを恐れず、あらゆる政策手段・目標を総動員して長期停滞から脱出すべく、クルーグマン教授の用語でいえば「脱出速度」を上げ、同時に、債務問題を解決するための手立てを探るという知的な取り組みはなかなかのものがあります。債務整理以外の問題が何も取り上げられていないのはやや物足りませんし、結論がややありきたりかもしれませんが、それなりにあらゆる選択をを考慮する頭の体操にはよさそうな気がします。繰り返しになりますが、官庁エコノミストには議論すらムリそうな主張も数多く含まれています。

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次に、 谷口明丈・須藤功[編]『現代アメリカ経済史』(有斐閣) です。アメリカ経済史学会のメンバー17人が序章と終章を除く17章のチャプターごとに執筆した本です。タイトルそのまんまなんですが、副題は『「問題大国」の出現』とされています。17章をズラズラと並べるわけにもいきませんから、4部構成となっていて、第1部 経済と経済政策、第2部 金融市場と金融政策、第3部 企業と経営、第4部 社会保障・労働と経済思想、となっているんですが、最後の第17章のように、苦しい配置になっているチャプターもあります。年代の範囲は1929年の大恐慌やニュー・ディールあたりから、2008年のリーマン・ショックまでをカバーしています。ハッキリいって、チャプターごとに精粗まちまちで、マルクス『資本論』やレーニン『帝国主義論』が参考文献に出るようなチャプターもあれば、歴史かどうか疑わしい、例えば、第17章などもあります。チャプターごとに読者の方でも参考になったり、興味を持てたりするかしないか、いろいろとありなんだろうと思いますので、私のようにそれなりの時間をかけて通して読むというよりも、ひょっとしたら、興味あるチャプターを拾い読みするべきなのかもしれません。なお、私の場合、第1部では反トラスト政策の変遷が興味ありましたが、スタンダード・オイルの成立などを考えると、1929年からではなく1880年ころから追って欲しかった気もします。第2部の金融は概ね出来がよかったです。第3部はともかく、第4部は経済史のカテゴリーに収まり切らない気もしましたが、現在の米国の経済的な格差を考えると、もっと注目していい分野かもしれません。伝統的なマルクス主義的経済史の考えによれば、原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして、近代以降のブルジョワ資本主義から、革命があるとすれば、社会主義や共産主義に歴史は進むんでしょうが、米国の場合は、おそらく、近代資本主義からいきなり始まるんではないかという気がします。最後に、経済史の範疇ではありませんが、教育についてはもっと掘り下げた歴史的な分析が欲しい気がします。500ページを超えるボリュームで、さすがの私も読み切るのにかなり時間がかかってしまいました。ただ、悲しいながら、ノートを取りながらていねいに読むタイプの学術書ではありません。これも、ハッキリいって、学術書としての出来はそれほどオススメ出来ません。

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次に、小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社) です。著者はよく判らないながら、金融機関でエコノミストをしていたようです。もう定年近い私よりもさらに年長の方のようです。10年ほど前に『超・格差社会アメリカの真実』というタイトルの本も出版されているようですから、米国における格差について長らく着目されているようです。ただ、経済学的な鋭い分析はありませんので、一般読者には判りやすい可能性がある一方で、例えば、エコノミストの目から見たりすれば、ややデータに基づく検証が少なくて情緒的な印象が残るかもしれません。出だしが、「0.1%」対「99.9%」ですから、ウォール街を占拠せよのオキュパイ運動の1%をさらに情緒的に細かくした印象を私は持ちました。こういった経済学的ではなく、単なる表現上の強調には私は感心しません。現在の米国で所得や富が一極集中しているのは、エコノミストでなくてもかなり多くの人々がすでに知っている、というか、少なくとも日本人でも知識としてはあるわけですから、本書のようにその実態を伝えないのであれば、著者のようにメディアから知ることのできる一般論を羅列するのではなく、ジャーナリスト的にもっと取材に基づく確固たる事実を、たとえバイアスがあったとしても、もっと個別の事実を集めるべきだったような気がします。昨年お米国大統領選挙で、あるいは、民主党の予備選挙でサンダース候補があそこまで食い下がった要因、そして、何よりもトランプ米国大統領が当選した背景など、格差とどのような関係にあり、本書のチャプターのタイトルを用いれば、ウォールストリートの強欲資本主義、あるいは、シリコンバレーの技術革新、などなどとどのような関係を見極めるべきか、知りたいところです。私自身は本書の著者の主張と相通ずるところがあり、現在の米国の混乱や不安定、典型的にはトランプ大統領誕生を支えた移民に対する排斥感情など、こういった考えは現在までの政治の怠慢、ないし、不作為から生じており、政治がキチンと向き合えば、そして、政府が適切な政策を採用すれば、完全なる解決とまではいわないにしても、それなりの緩和措置は可能なハズだと、本書の後半の底流をなしていますし、私もそう考えています。しかし、現時点では、英国がEU脱退を国民投票で決めたり、米国にトランプ大統領が誕生した一方で、フランスのマカロン大統領の当選のように、ポピュリズム一色で反民主主義的な傾向が一直線に進むわけではありません。米国だけを見ていれば、本書のように「メガトレンド」と感じてしまうのかもしれませんが、まだまだ先進国の中にも捨てたものじゃない国は残っています。

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次に、野中郁次郎『知的機動力の本質』(中央公論新社) です。著者は、旧日本軍の敗因を分析したベストセラーである『失敗の本質』の著者の1人であり、一橋大学の名誉教授です。本書は中公新書で出版された『アメリカ海兵隊』の続編だそうですが、私は余りにも専門外なので読んでいません。ということで、タイトルがとても魅力的だったので借りて読みましたが、要するに、米国海兵隊の提灯持ちをしているだけのような気がします。米国海兵隊のどこが知的であり、どこが機動的なのかはまったく理解できませんでしたし、当然、知的であったり、機動的であったりする要因も見当たりませんでした。まあ、米国海兵隊が世界水準からみても最強の軍隊のひとつである点は、専門外の私でもほのかに理解できる気がしますし、その強さについて歴史的な観点も含めた分析も有益かもしれませんが、これが我が国の企業経営に役立つ、米国海兵隊が我が国企業のロールモデルになる、とは私のようなシロートからは考えられません。せいぜいが、精神論的な役割くらいではないでしょうか。まずもって、私が奇異に感じるのは米国海兵隊というのは戦闘や武力行使を行う集団であって、政治や外交の一部としての戦争を行う集団ではない、と私は考えています。シビリアン・コントロールを持ち出すまでもなく、クレマンソーではないですが、「戦争は将軍に委ねるにはあまりに重大な問題だ」ということであり、戦争を遂行するのはあくまで政治家であり、戦争の中の戦闘行為を行うのが軍隊である、と私は考えています。そういった観点は本書にはまったく見られません。逆に、とぼけたことに、消防士がいるから火事があるのではないとうそぶいていますが、戦争は軍隊があるから誘発される場合があり、なぜなら、戦争は単なる戦闘行為ではなく、武力をもって行う政治や外交の延長だからです。繰り返しですが、米国海兵隊が最強の軍隊のひとつである認めるにやぶさかではないものの、知的であるのは戦闘行為の基になる戦争を遂行する政治や外交レベルが知的なのだからであり、機動的なのは先進工業国である米国の製造業が軍隊を機動的に運送する手段を提供するからです。いずれも米国海兵隊に付属する特徴かもしれませんが、本書のように米国海兵隊を政治や外交、あるいは、国内産業から切り離して論ずるのは意味がないと私は考えています。昨日金曜日夜の時点でアマゾンの書評も意見が分かれており、星5ツが2人、途中がなくて、星1ツが1人です。私は星1ツの書評に同意する部分が多いような気がします。

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最後に、荒居蘭ほか『ショートショートの宝箱』(光文社文庫) です。30のショートショートが収録されています。作者もほぼほぼシロートに近い駆け出し作家から、それなりに名の知れた小説家まで、とても幅広く、もちろん、作品の傾向も星新一もどきのSF、あるいは、ホラー、ちゃんと完結していないもののミステリ、さらに、青春や家族や恋愛やといったフツーの小説のテーマまで、極めてバラエティ豊かに収録しています。たぶん、涙が止まらないといった泣けるお話はなかったように思いますが、心温まるストーリー、思わず吹き出すような滑稽さ、ほっこりしたり、ジーンと来たり、やや意外な結末に驚いたり、1話5分ほどで読み切れるボリュームですから、深く感情移入することはできない可能性もありますが、ごく日常の時間潰しにはもってこいです。電車で読んだり、待合わせや病院の待ち時間に楽しんだり、夜寝る前のひとときなど、私のような活字中毒の人間が細切れの時間を有効に活用するためにあるような本だという気がします。スマホではなく、読書で時間潰しする人向けです。また、私はごく平板に読み切ってしまいましたが、お気に入りの作品を探すのもひとつの手かもしれません。
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2017年07月15日 (土) 11:56:00

今週の読書は小説中心に計5冊にペースダウン!

今週の読書は先週から少しペースダウンして、小説もあって計5冊です。以下の通りです。

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まず、米倉誠一郎『イノベーターたちの日本史』(東洋経済) です。著者は一橋大学などの経営誌の研究者ですが、すでに第一線を退いています。本書では、明治期からの我が国の近代史におけるイノベーターを跡付けています。そして、その上で、日本や日本人がクリエイティブではなく、いわば猿マネで経済発展してきた、とまではいわないまでも、独創的なイノベーションには弱くて、欧米で開発された独創的なイノベーションを日本的システムに適用する場面で強みを発揮する、という見方を否定し、独創的なイノベーターが我が国にもいっぱいいた事実を発掘しています。典型的には、財閥という経済組織をどう考えるか、なんですが、本書の著者はマネージメントに秀でた人材が希少だった点を重視し、そういった人材をいろんな産業分野で活用するという点で財閥はイノベーティブであった、と結論しています。確かにそうだったがもしれません。優れたマネージャーという希少な人材を財閥本社で雇用し、必要な場面に応じて銀行や商社や石炭や繊維やといったコングロマリット内の各産業でその希少な人材の活躍の場を与える、という点では財閥という経済組織も合理的かもしれません。しかし、他方で、当時の日本では優秀なマネージメント能力ある人材もさることながら、やっぱり、資本が不足、というか、希少だったんではないかという気がします。技術を体化させた資本、といってもいいかもしれません。その点は理研コンツェルンの大河内所長の研究室制をGMのスローン社長が始めた事業部制と同じ理念であると指摘し、技術のイノベーターとして取り上げています。まあ、経営のマネージメント能力と、そのマネージメントの対象となる生産現場の技術、この両者がそろって初めて物的な生産能力に体化させることができるわけですから、こういった面で秀でたイノベーターが存在する点は歴史上でも重要な観点ではないかと思います。ただ、そういったマネージメントや技術が世界経済の中において、生物学的なニッチを探す点も重要かと思います。生物学的なニッチは経済学的には比較優位の観点で発見されるわけですので、日本のイノベーターが本書の指摘するように世界的な視野で活躍していた事実は大いに注目すべきであろうと思います。

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次に、鈴木荘一『明治維新の正体』(毎日ワンズ) です。著者はすでに一線をリタイアした民間の歴史研究家です。特に、アカデミックなバックグラウンドがあるわけではありませんから、新たな資料を発掘して歴史の別の面や新たな面にスポットを当てるというよりは、ご自分の独自解釈で歴史を見直す方向のようです。まあ、根拠はそれだけ薄弱かもしれませんが、個人の独創性に応じてかなり大きな解釈の幅ができそうな気がします。それはいい点かもしれません。ということで、著者の問題意識は、現時点における教科書的な明治維新の歴史解釈は、「勝てば官軍」の通り、戊辰戦争で勝った薩長の側の歴史解釈であって、ホントに正しいかどうかは再検討の余地がある、ということのようです。幕府や敗者の側からの見方を提供しようとするものであり、まあ、その点はいわゆる時代小説の小説家と共通した問題意識のような気がします。典型的には、NHKの大河ドラマになった「八重の桜」みたいなものだと考えておけばいいんではないかと思います。ですから、薩長の西郷や大久保や公家では岩倉などを重視するんではなく、最後の将軍である徳川慶喜の足跡を追ったりしています。しかし、問題点は2つあり、ひとつは、例えば国際法の解釈などのように、現時点での常識から150年前の歴史を解釈しようとしており、当時の常識とは決定的にズレを生じています。アヘン戦争は今から思えば英国のゴリ押しだったのかもしれませんが、例えば、日清戦争語の三国干渉のような他の列強の反発も招かず、スンナリと香港租借などが決まったわけですし、その当時としてはあり得る国際紛争解決方法だったのかもしれません。第2に、進歩の側の視点の欠如です。といえば、いわゆるホイッグ史観なんですが、同時に、マルクス主義的な史観でもあります。進歩という概念を活かせば、佐幕派は進歩に抵抗する旧主派であり、薩長を始めとする西南雄藩は進歩の側といえます。個々のマイクロな個人の動きではなく、マクロの歴史の進歩も同時に把握しておきたいものです。従って、明治維新ですから、こういったいわば「負けた側からの歴史観」も様になりますが、太平洋戦争でこれをやったら保守反動そのものとなって、大いに反発を呼ぶものと覚悟すべきです。

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次に、冲方丁『十二人の死にたい子どもたち』(文藝春秋) です。作者はご存じの売れっ子小説家であり、『マルドゥック・スクランブル』などのSF小説、『天地明察』をはじめとする時代小説などをものにしていますが、本書は作者初めての現代長編ミステリだそうで、2016年下半期の直木賞候補作でしたが、受賞はご案内の通り、恩田陸『蜜蜂と遠雷』でした。ということで、本書では、集団自殺、というか、安楽死するために12人の子供、というか、ティーンの少年少女が集いと称して、廃病院に集まったところ、すでに、1人の少年が死んでいて殺人ではないかと推測され、そこから、この少年は一体何者なのか、誰が彼を殺したのか、このまま計画を実行してもいいのか、といった論点につき、この集いの原則である全員一致にのっとり、12人の子供達は多数決を採りつつ、延々と議論を続けます。そして、評決は徐々に集いの方向性を変更させていき、さらに、議論が続く中で、それぞれの少年少女が安楽死を希望した動機が明らかにされ、それがまた少年少女らしく、なかなか非合理的なものだったりして、それはそれなりにユーモアであったりもするんですが、12人の少年少女の中でも大人の感覚でそう感じる子供もいて、しかも、ゼロ番と称された初めからベッドに横たわっていた少年に関する驚愕の事実が次々と明らかにされ、最後はこれまた驚愕のラストを迎えます。というか、ラストについては途中から十分想像できるんではないか、という気もしますが、いずれにせよ、12人以外のゼロ番の少年については、誰かが、単数でも複数でも、1人か何人かが議論の中で虚偽を申し述べているわけで、割合と初期の方で、「自分が殺した」と明らかにする「自称犯人」もいたりするんですが、その謎解きという意味でミステリとこ作品を称しているんだろうという気がします。思春期のティーンが死にたいと思い、その上で、議論と多数決によって状況が目まぐるしく変わっていくストーリーの中で、ミステリの謎解きとその基礎を提供する濃密な会話劇一体となって、とても面白い作品に仕上がっているんですが、さすがに、私のような読解力や理解力に限界のある読者には、年齢の離れたティーンの会話が何と12人もの人数で交わされるんですから、混乱を生じてしまいます。せいぜいが数人、本書の半分の5-6人であればいいのかもしれませんが、文字だけで濃厚な会話を追うのは私にはムリでした。おそらく、映像化される可能性の高い作品ではないかという気がしますが、テレビのドラマならパスする可能性が高いものの、ひょっとしたら、映画化されれば見ようという気になるかもしれません。

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次に、瀧羽麻子『松の内家の居候』(中央公論新社) です。作者はそれほど有名な小説家とも思えませんが、左京区シリーズなどは私も読んでいます。どうして左京区シリーズかというと、作者は我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生だたからです。不勉強な私に関しては、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか知りません。法学部であれば、法月綸太郎や万城目学、教育学部であれば綾辻行人などなど、その道の文学部を別にしても、我が母校の京大も、いろいろと小説家は排出していますが、そのうちの1人だったりします。ということで、この作品は純文学とエンタメの中間的な位置づけなんだろうという気がしますが、ストーリーは以下の通りです。すなわち、生後100年死後10年を迎えた著名小説家が、70年前かつて30歳の時に居候した実業家の家に、その小説家の孫を名乗る人物が現れ、かつてはノーベル文学賞の候補にも擬された大小説家は極めて多作であったにもかかわらず、その実業家宅に居候していた1年間だけは作品がなく、原稿がどこかに残されているかもしれない、と主張して、何と居候を始めます。そして、結論からいうと、その原稿は発見されますが、とても絶妙な取扱いをされます。そのあたりがミソになっていて、家族のあり方や、実業家宅ですので企業経営者の心構えなどが、折に触れて家族の物語として語られつつ、とてもあたたかいストーリーを構成しています。なお、ノーベル文学賞候補にも擬せられた文豪の名は楢崎春一郎とされていて、強く谷崎潤一郎を連想させます。ただ、惜しむらくはラストがとてもアッサリと終わっていて、何かもっと工夫できないものかという気はします。そのあたりを克服すれば、ひょっとしたら直木賞候補に上げられる可能性もあります。まあ、現状では可能性は低い気もしますが…

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最後に、首都圏鉄道路線研究会『沿線格差』(SB新書) です。著者の研究会の構成員は基本的に鉄道オタクということになっており、氏名や略歴なども明らかにされています。なお、私は未読ですが、同じ出版社から最近『駅格差』という新書も出版されています。ということで、首都圏の主要鉄道路線について、平均通過人員・乗客増加率・接続路線など、9項目に及ぶ評価基準を基に、勝ち組10路線と負け組8路線、さらに、ランキング順位まで明らかにしています。すべてを明らかにしておくと、勝ち組第1位が京急本線、以下、第2位東海道線、第3位東急東横線、第4位小田急線、第5位総武線、第6位中央線、第7位京王線と京成線、第9位京葉線、第10位東急田園都市線、までが勝ち組で、負け組は、第11位都営三田線、第12位埼京線、第13位東西線、第14位東武東上線、第15位西武新宿線、第16位相鉄本線と常磐線、そして、最下位が第18位西武池袋線、となっています。その昔に私が京都から東京に出て来た時、鉄道路線については時計回りの法則、というのがありました。それに近い印象があります。すなわち、30年超のその昔の時計回りの法則では、路線ごとの平均所得だったと思うんですが、東横線をトップとし、時計回りに平均所得が低下して行く、という法則で、東横線の次が、田園都市線、その次が小田急線、京王線、中央線で平均を記録し、その後は平均を下回って、西武新宿線、西武池袋線、東武東上線、埼京線、東武伊勢崎線、そして、京成線で底を打つ、というものでした。今から考えると、本書でトップにランクされた京急線が抜けているような気がしますし、地下鉄線が入っていなかったように記憶しているんですが、まあ、当時の私にはこんなもんだとしか理解できませんでした。なお、どうでもいいことながら、私が役所に就職した最初は西武新宿線に住んでいたりしました。本書の著者がどこまで本気なのかは別として、読者がシリアスに受け取る必要もなく、軽い読み物として時間潰しには役立ちそうな気がします。
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2017年07月09日 (日) 14:26:00

先週の読書はほとんど経済書がなく計7冊!

通常の読書感想文をアップする土曜日に、昨日の場合は米国雇用統計が割って入り、読書感想文が日曜日にずれたこともあって、計7冊とやや多くなってしまいました。ただ、極めてめずらしいことに、経済書がなく、小説もほとんどなく、教養書や専門書が大部分でした。来週は大きくペースダウンする予定です。

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まず、セザー・ ヒダルゴ『情報と秩序』(早川書房) です。著者はチリ生まれのヒスパニック系で、博士号は物理学で取得し、経済複雑制指標のデータの提供などもしています。マサチューセッツ工科大学(MIT)の准教授だそうです。英語の原題は Why Information Grows? であり、2015年の出版です。非常にユニークなのは、情報の定義であり、物理的な原子の配列と考えているようです。ですから、宇宙の中の幾つかのポケット、例えばこの地球では新しい物質が次々と作り出されて、本書の著者の意味で情報が成長しているわけです。あるいは、情報が増加しているといってもいいようなきもします。ただ、この定義は明示的に本書に現れるわけではありません。というのも、少なくとも私が考える上で2点の大きな弱点があるからです。第1に、原子の配列という意味で情報という言葉を使う例として高級車を上げていて、高級車でなくても普通の自動車でいいんですが、厳密な意味で、同じ原子の配列を持つ物質というのはありえません。例えば、白いプリウスと紺色のプリウスは、私達は同じカテゴリの自動車と認識するんですが、原子の配列は明らかに異なります。第2に、生物、特に動物の場合の生死観から見て疑問があります。すなわち、生きている人間と死んだ後の人間は色違いの自動車よりも原子の配列が近いような気がしますが、生死の境で大きな差を感じるのは私だけでしょうか。ですから、本書でも著者自身が認めているところですが、情報の成長や低下とエントロピーの増加や減少が、同じ方向を向いている場合と異なる場合がありえます。本書の論旨からすれば大きな弱点といわざるを得ません。ただ、著者が経済成長の本質を問うている点は、エコノミストとして、というか、開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、やや目から鱗が落ちる気がしました。情報は均一に分布しているわけではなく、個人、企業、国家といった知識やノウハウの集積の単位のインタラクティブな関係の中でネットワークを形成し、その中でどのような位置にあるのかを分析すれば、それぞれのレベルで経済の動態を記述できるはず、というのは、その通りだと思います。もっとも、極めて複雑怪奇なモデルになりそうな気もします。でも、それが解ければ経済発展の謎、景気循環や成長の原動力なども解明できるはずです。でも、それが実際にはできていないのが現実かもしれません。最後に、参考まで、特に後半で経済を扱う際に、「計算能力」という言葉が頻出しますが、「情報処理能力」と置き換えていいんでしょうか、ダメなんでしょうか。やや気にかかります。

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次に、マイケル・オースリン『アジアの終わり』(徳間書店) です。著者は、ご本人によるあとがきによれば、歴史学者ということで、大学の教員の経験もある一方で、現在は保守系シンクタンクの日本部長だそうです。英語の原題は The End of the Asian Century となっており、2016年の出版です。1993年、私は南米にて外交官をしていましたが、世銀から『東アジアの奇跡』 East Asia Miracle が出版され、それに対して、クルーグマン教授が反論したりしていましたが、本書は東アジアに限定せず、「インド太平洋地域」なる広い定義のアジアの終わりを宣言しています。すなわち、本書の著者本人ではないんですが、p.29 でアジアのリスクマップで5つのリスク領域を示し、その後、経済改革、人口動態、政治革命、政治共同体、戦争の抑止のそれぞれでアジアがいかに失敗しているかを、これでもかというくらいに実例を上げつつ論じています。まあ、中国における経済停滞や海洋進出や環境破壊、北朝鮮の軍事的挑発行為、インドとパキスタンの核開発競争、などなど、アジアが決して未来を切り開く地域であるばかりではなくlそれなりに、経済的な不安定や政治的な脅威をもたらすようになった事実はその通りかという気がします。そして、その大元の原因は民主主義の未成熟にあるという見方については、私も大いに同意します。なお、本書では韓国が成熟した民主主義国と見なされているようですが、大統領の政権交代とともに全色の大統領がここまでバッシングされる現状は、民主主義としてまだまだ未成熟な面が残されていると私自身は考えていますので、ご参考まで。ただ、私の見方ですが、西欧や米加を意味する北米については、成熟した民主主義国であって、世界の中でも安定した政治経済を要している点はいうまでもなく、日本についてもご同様なんですが、残されたアフリカ、中南米と比較してアジアが政治経済の安定性についてひどく見劣りがするかといえば、私はそんなことはないと考えています。一例として、米国が世界の警察官という国際公共財を提供できなくなって、もっとも大きな影響を被るのはアジアよりもむしろ中南米ではないか、という気もします。もちろん、アフリカに比較してアジアが政治や経済の安定性で劣っているとも思われません。という意味で、ややバランスを失した内容ではないか、という気もします。

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次に、山本一成『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(ダイヤモンド社) です。著者は、佐藤天彦名人を連破した現在最強の将棋プログラムであるポナンザの作者です。そして、本書は、その開発にまつわるエピソードとともに、機械学習、深層学習、強化学習などについて、極めてわかりやすく解説しています。その上で、「知能とは何か」、また、「知性とは何か」といった問いに対して明確な回答を示す意欲作でもあります。加えて、グーグル・グループが開発したアルファ碁についても、巻末の対談で簡単に取り上げて解説をしています。なお、著者は将棋についてはアマチュア5段だそうで、肝滅のアルファ碁に関しての対談では囲碁についても造詣の深いところを示しています。ということで、知能とは探索と評価であると指摘しており、人工知能についても当然ご同様です。その昔の博覧強記という表現をそのままスケールアップしているような気がします。ただ、コンピュータにおいては評価関数は明示する必要があり、人間の場合はおそらくかなりの程度に経験に裏打ちされた直感なんだろうという気がします。それにしても、人工知能の学習能力というのは恐るべきものであり、将棋ソフトの場合はディープラーニングを使っておらずとも、機械学習だけでこのレベルに達するわけですし、シンギュラリティが噂されている2045年には指数関数的な能力向上によって、どのような世界が広がっているのか、私はとても楽しみですが、その前に人間としての寿命が尽きる可能性があります。とはいえ、プロの将棋や囲碁の棋士に生じていることが、比較的高級な職業の一般人にも生じる可能性が本書でも極めて暗示的に提示されています。例えば、医師、弁護士、会計士、教師などです。私のようなキャリアの公務員も人工知能(AI)に取って代わられる可能性もあるかもしれません。ともかく、難しい理論的実践的なテーマながら、著者が自分自身で納得したエピソードだけをわかりやすく取り上げており、逆から見て、専門家の目には部分的にしても不正確な表現もあったりするのかもしれませんが、私のようなシロートにはとても判りやすかったです。ポナンザやアルファ碁だけでなく、幅広いAI一般についても理解が進んだ気がします。巻末の対談で若手の囲碁のプロ棋士が、将来はバーチャル・リアリティ(VR)を駆使してアルファ碁に囲碁を教えてもらえそうで、とても楽しみ、みたいな発言をしています。人によっては反発しそうなフレーズですが、私は大いに同感です。ともかく、この本を読むと、AIやコンピュータと人類の将来の共存に楽観的な味方ができるようになり、明るい期待がもてそうな気がしてくるのは少し不思議な気がします。

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次に、牧久『昭和解体』(講談社) です。著者は日経新聞社会部記者を務めたジャーナリストであり、本書は国鉄の分割・民営化を歴史的に跡付けたリポートです。というよりは、私が読んだ印象では国鉄解体ではなく、国労解体に近い受け止めを持ちました。マルセイと称された生産性向上運動の裏側で大っぴらに進んだ組合潰しの動きから始まって、最後は国労が支えた総評の解散や社会党の事実上の消滅まで、いかに国鉄と時の政権が国労を解体すべく戦略的に動いたかがよく理解できるかと思います。ただ、企業として経済活動を効率的に遂行する経営体として、当時の30万人を超える国鉄組織が巨大に過ぎたのは事実かもしれません。そして、本書で国体護持派と称されている国鉄内部の当時の経営層が、鈴木政権から中曽根政権に引き継がれた臨調の結論に際して、民営化を許容しつつ分割に反対するという方向違いの戦略を持ったのも、何となく判る気もする一方で、やはり、作戦ミスだったように受け止めています。同時に、本書で3人組と称される改革派も、やっぱり、国労潰しというか、いわゆる労使協調路線ではない労働組合に対する極めて不寛容な姿勢をうかがい知ることができました。国鉄は国民に必要不可欠な運輸サービスを提供する一方で、親方日の丸と称された非効率な業務遂行がなされ、組合が人事などの事実上の経営まで踏み込んだ組織運営に介入するなど、不都合な事実がたくさんあったことも事実で、当然の帰結のひとつとして大きな累積赤字を計上することから改革が始まっています。ただ、本書の指摘はいくつかうなずける点も少なくないながら、批判的に読むべきは現在の時点からの視点で書かれている点は留意すべきです。およそ、日本経済全体の生産性がそれほど高くなく、まだマルサス的な過剰人口や貧困を懸念すべき発展段階にあった日本経済の当時の実情について考慮することなく、現時点からの視点で当時の国鉄を批判することは決して正当性を持ち得ません。そしてもうひとつ、本書に通底する労働組合潰しの考えが、現在の賃金の上がらない社会をもたらした可能性についても忘れるべきではありません。例えば、Galí "The Return of the Wage Phillips Curve" においては、明確に労働組合の存在や活動が賃金上昇へのプラスの作用を前提しています。国鉄改革という名目で労働組合の活動を抑制する経済社会を作ったのであれば、賃上げを犠牲にするという結果をもたらした可能性もあります。キチンと検証しているわけではありませんが、決してフリーランチは存在しないわけで、何を犠牲にして何を取ったのかは考えておくべきではないでしょうか?

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次に、ウルリッヒ・ベック『変態する世界』(岩波書店) です。著者はドイツ人の社会学者であり、ミュンヘン大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどの研究者を務めていました。2015年1月に亡くなっています。本書は共同研究者だった奥さまが編集の上出版されています。私は何となく、マルクスが残したメモから『資本論』第2-3巻を編集したエンゲルスのことを思い出してしまいました。ということで、書き出しが「世界の蝶番が外れてしまっている」であり、以前にはまったく考えられなかったよう、とんでもない出来事が起こり、資本主義の成功、というか、社会主義の大失敗により、副次的効果の蓄積が世界を旧来の通念では理解不能なものに変えてしまい、もはや変動ではなく変態が起こっている、として、リスクや不平等、コスモポリタニズムなどの観点から世界を読み解き、それらから生成する新しい21世紀の世界像を確立すべく試みています。その試みが成功したとは私は受け止めていませんが、それなりに面白い試みかもしれません。もっとも、変化ではなく変態であるというのは、社会科学者らしい定義のない言葉遊びですし、国家を飛び越えてコスモポリタン的な世界をそのまま国家の枠を超えて把握しようというのは、例えば、経済における多国籍企業の活動の解明のような趣きもあり、エコノミストでも理解できる範囲かもしれません。ただ、決定的に私が違和感を覚えたのは、歴史観の欠如です。経済学では経路依存性と称しますが、訳者のあとがきにあるように、国家が中心にあって、その国家の連合体である世界がその回りを回っている世界観から、世界を中心に据えて、その世界の周りを国家が回るコスモポリタン的転回も判らなくはないんですが、その言葉の由来である「コペルニクス的転回」ではもともと、太陽の周りを地球が回っているのが正しかったわけで、その真実の発見が大きな世界観の変更につながったんですが、世界と国家の関係は歴史的に見てどうだったのか、また、資本主義が成功し冷戦が終わる前はどうだったのか、一部に主権国家としてウェストファリア条約までさかのぼっていながら、そのあたりの歴史感覚の欠如が惜しまれます。どこにも明示されていませんが、変態という用語を用いているんですから、いくぶんなりとも、ヘーゲル的な弁証法的歴史観なんだろうという気がして、そこは私と同じなんだろうと暗黙のうちに前提して読み進んでいたりしました。まあ、ベック教授本人の原稿がなく、残されたメモかを編集して本書を編んでいるわけですから、当然に限界はあります。それを理解しつつ、本書を金科玉条のようにではなく、批判的に読めるレベル読書子にオススメします。

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次に、ビー・ウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』(原書房) です。著者はフード・ジャーナリストというジャンルの職業があるようです。ただ、女性らしく、というか何というか、食べ物に関する作業の場であるキッチンに関する著作などもあるようです。英国出身であり、本書の英語の原題は First Bite: Hoe We Learn to Eat であり、2015年の出版です。ということで、本書の最大の主張は食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということです。もちろん、それは現時点での食の基本であり、少し前までの飢餓が広範に存在し餓死の可能性がまだあった時点あるいは場所のお話ではなく、飽食とまではいわないまでも、十分な食品が入所可能な現在の先進国におけるお話です。その昔や、あるいは、現在であっても低開発国のお話ではありません。すなわち、カロリー摂取という観点からは不足なく、むしろ、肥満や生活習慣病の方が餓死などよりもリスクが高い、というバックグラウンドでのお話です。まあ、クジラを食べるのが文化と称している日本人もいますから、そのあたりは限界があります。その上で、肥満を防止したり、塩分の摂り過ぎを回避し、ジャンクフードではなく野菜や果物を十分に摂取する基礎が学習であると主張しているわけです。第8章ではこの観点から、日本食が極めて高く評価されています。当然です。現在の大手の食品会社の極めて印象的な宣伝に接しつつ、また、食品店やスーパーマーケットの食品売り場で買い物をするにつけ、正しい食生活、というか、健康的な食生活を維持するためには、それなりの学習が必要だということは理解できると思います。欲望のままに食生活を送るのではなく、何らかの科学的な根拠に基づく食生活、食育という言葉に合致するような食生活を現代人は必要としているのかもしれません。私も50歳になってから2年ほど単身赴任生活を送りましたが、もっぱや栄養バランスは牛乳に頼っていた気がします。また、普通のスーパーマーケットよりも、また、通常のレストランよりも、大学生協はそういった健全な食生活に熱心に取り組んでいる気がしました。もっとも、この分野に詳しくないので、気がしただけかもしれません。

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最後に、三浦しをんほか『短編少女』(集英社文庫) です。収録作品は順に、三浦しをん「てっぺん信号」、荻原浩「空は今日もスカイ」、道尾秀介「やさしい風の道」、中島京子「モーガン」、中田永一「宗像くんと万年筆事件」、加藤千恵「haircut17」、橋本紡「薄荷」、島本理生「きよしこの夜」、村山由佳「イエスタデイズ」となっています。アンソロジーですから、上質な短編作品を集めており、ついつい、何度も読むハメになっています。半分くらいは読んだ記憶があるような気がします。最後の作品はジャズの定番スタンダード曲なんですが、私は歌詞があるとは知りませんでした。ヘレン・メリルのアルバムが紹介されていますが、そのうちに聞いてみたい気がします。
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2017年07月01日 (土) 11:02:00

今週の読書は中国本を含めて計7冊!

今週の読書は意外と経済書が少なく、教養書や専門書が多くなっています。期待の若手作家による純文学の小説を含めて、以下の通りの計7冊です。

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まず、吉岡桂子『人民元の興亡』(小学館) です。著者は朝日新聞のジャーナリストです。ですから、エコノミストの視点とは違って、かなりマイクロな視点からのルポルタージュと考えるべきです。もちろん、中央銀行関係者や経済学者などへの取材を通じてマクロな視点も確保していますが、少なくとも本書のアドバンテージはマイクロな視点であり、それをクロニクルにつなぎ合わせた人民元の歴史的な推移ということになろうかという気がします。ですから、マクロな金融政策的な視点、成長の加速やインフレの抑制といったトピックはほとんど本書では現れません。もっとも、通貨政策というか、為替政策についてはかなりの程度に政治の延長であり、場合によっては外交や安全保障ともリンクします。ジョージアの米ドルへのペッグなどは典型でしょう。そして、確信はありませんが、私の読後の感想として、本書の著者の意図も中国の通貨である人民元を通じて、中国という国丸ごと、あるいは、その市場をしている中国共産党の過去からの歴史と今後の方向性を考えるひとつのキーワードにしているような気もします。でも、この読み方にはそう大きな自信があるわけではありません。でも、そういった視点で本書を読み解くのも一案だという気がします。その他、歴史的な事実も含めて、いくつかの井戸端会議的に使えるトピックも散見されます。例えば、円や元やドルは「丸い」という意味であると本書にはありますが、実は、ポンドも含めて、これらの通貨単位は重さの単位でもあります。金なり銀なりの貴金属の本位金属の一定の重さをもって通貨単位としている場合が多いからです。また、通貨の記号については、ユーロの€は人工的に作ったものですが、英国のポンド£はともかく、米国のドル$の記号は中南米などでも使われています。私が大使館勤務をしていたころの1990年代前半のチリでも通貨単位ペソに対して$の記号を使っていました。また、東アジアについては、韓国ウォン₩は別として、本書でも指摘されている通り、日本円と人民元は同じ記号¥を使います。コンピュータ用語では、$をダラマークと呼ぶのに対して、¥はエンサインと呼びならわします。私はよく違いが判っていませんでした。でも、こういった記号まで含めて外交や安全保障と少なからぬリンクがありそうな気もします。

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次に、アニー・ジェイコブセン『ペンタゴンの頭脳』(太田出版) です。著者はジャーナリストであり、同じ出版社から邦訳がすでに2冊出ていて、2012年の『エリア51』と2015年の『ナチ科学者を獲得せよ!』です。前者については、私は読んだ記憶があります。日記を確認すると2012年7月に読んでいます。でも、なぜか、このブログの読書感想文ではアップしてありません。それはともかく、本書の英語の原題は Pentagon's Brain であり、2015年の出版です。邦訳タイトルはそのまま直訳だったりします。ということで、本書は第2次大戦後の水爆開発競争から始まります。そうです。我が国の第5福竜丸が被爆したビキニ環礁での水爆実験です。そういった戦後の米ソを中心とする冷戦構造の中で、1957年にいわゆるスプートニク・ショックの激震が走ります。人工衛星であり、何と、我が国を代表する小説家のひとりでもある村上春樹にも『スプートニクの恋人』をいう作品があったりします。本題に戻って、このスプートニク・ショックを一つの契機として、当時のアイゼンハワー大統領により設立されたのが高等研究計画局ARPAであり、その後、国防のDを頭に加えて、現在のDARPAになっています。潤沢な予算を得て、しかも、極秘裏に国防関係の研究を進める組織であり、本書では、ベトナム戦争、1980年代の特にレーガン政権期のスターウォーズ計画、1990年代の湾岸戦争、2001年9月11日のテロからの対テロ戦争、などなど、それぞれの時期を追って時系列的に米国の戦争や国防技術の発展を支えたDARPAの役割について、公開資料やインタビューなどで知り得る限りに詳しく追っています。ただ、その視点はあくまで批判的であり、DARPAの開発になる成果として、例えば、インターネットやGPSなど、平和利用されていて、世界的にも有益な結果をもたらしている研究成果には少し冷たい扱いがなされ、ベトナム戦争の枯葉剤、生物兵器の開発などなど、DARPAが担った戦争利用技術の暗黒面を強調しています。政府とある程度の緊張関係に置かれるべきジャーナリストとしては当然かもしれません。科学者においても、今週の日経新聞の経済教室で軍事研究と大学に関して論評がありましたが、日本学術会議の軍事的安全保障研究に対する結論を私は尊重すべきと考えていますし、そういった観点からも、なかなか有益な読書だった気がします。私のような専門外のエコノミストには、まるでSFの世界のような軍事技術に感じるんですが、こういった軍事技術が実用化されると怖い気もします。それにしても、550ページを超えるすごいボリュームです。

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次に、塚田穂高[編著]『徹底検証日本の右傾化』(筑摩選書) です。現在の内閣による改憲への方向付けだけでなく、国民レベルでもヘイトスピーチや排外主義的な主張が拡大している気がしますが、私のように国家公務員でありながら左派を自任する人間から見て、とても憂慮すべきトレンドであると考えています。この日本の右傾化に対して、徹底検証と銘打ちながら、てんでバラバラな方向を向いた著者21人が各チャプターを担当して編集されています。結果として、包括的に現在の右傾化を分析することには失敗しているとしかいいようがないんですが、チャプターによっては見るべき主張が含まれている論考も少しだけ、ホンの少しだけあったりします。例えば、改憲の直接のターゲットは第9条だとばかり私は思っていましたが、家族にあり方の基本となる第24条も重要であるとか、あるいは、一橋大学の中北教授が自民党の右傾化の原因を探った第5章では、有権者、というか、国民が右傾化しているわけではない、と結論されている点などは、私はとても重要だと受け止めています。特に後者の中北教授のポイントは何を意味しているのかといえば、選挙で支持されているのは右傾化した主張ではなく、景気をよくする自民党の経済政策なのだということは理解しておくべきです。クリントン大統領の選挙キャンペーンのように、"It's the economy, stupid." というわけです。現時点での国民の選択は、右派=好況+改憲、あるいは、左派=不況+護憲、であると、もちろん、極端な議論ですが、こうなっているわけです。そして、国民の多くはコインの裏側が改憲であることは薄々気づいていながら、背に腹は代えられず、改憲に目をつぶって好況を目指す、あるいは、好況を実現している政党を選択しているわけです。東京新聞の大澤真幸による書評で、国民の「消極的な容認」と称されている実態が、実はこれなんだと私は認識しています。ですから、左派は改憲を阻止しようと考えるのであれば、真っ向から改憲反対を訴えるだけでなく、経済政策こそ選挙を闘う上での主戦場であることを正しく認識し、日銀にデフレ的な金融政策を許容したり、財政を引き締めたりするのではなく、現在の安倍政権が実行しているような財政金融政策を旗印に掲げて支持を集めることが必要なのです。ついでながら、本書とは何の関係もないものの、こういった観点に立っている立命館大学の松尾匡教授が『この経済政策が民主主義を救う』で展開した主張に私は全面的に賛同します。

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次に、ジェニファー・ウェルシュ『歴史の逆襲』(朝日新聞出版) です。著者はカナダ出身の国際政治学者であり、現在は欧州大学院教授としてフィレンツェ在住らしいです。英語の原題は The Return of History であり、連戦終了後にフランシス・フクヤマが主導した「歴史の終わり」を念頭に置いて反論することを試みています。すなわち、「歴史の終わり」では、冷戦の終了、というか、ソ連の中央指令型の社会主義経済やそれを基礎とする共産主義の体制が終わりをつげ、世界はすべて自由民主主義の世の中になったことから、世界全体が政治体制の最終形態である自由民主主義となり、戦争やクーデター、あるいは、その基となる対立や分断は生じなくなる、と単純化して語られるわけですが、実はそうではなく、特に最近では対立的な構造で世界を分断するような動きがアチコチに見られる、という論調です。欧米先進国で幅広く観察されるポピュリズムの台頭、特に米国におけるトランプ政権の誕生、加えて、ISをはじめとする武装勢力による虐殺の横行やそれを避けるための大量難民の発生、さらに、冷戦への回帰を思わせるような大国ロシアの登場と周辺国への軍事介入、そして、最後は経済的な不平等の形で国内経済における国民の分断を取り上げています。もちろん、背景となる歴史観にはフクヤマと同じヘーゲル的な弁証法があるんだと思います。ですから、氷河期に対しる間氷期と同じような見方で、現在は一時的に分断が止揚されているだけである、との考えも随所にうかがわれます。中国の歴史みたいです。統一されては分裂し、また統一する、という繰り返しの中国史と同じで、分断されては一体化し、また分断が進む、という中で、フクヤマの指摘した「歴史の終わり」は一時的なステージに過ぎない、との主張のようです。ウーン、判らなくもないし、歴史は終わっていないという点については、私も同じヘーゲル的な弁証法に基づく歴史発展の立場を支持しますので、当然といえば当然なんですが、やや物足りない著作です。細かいことをいえば、例えば、ISなどの大量虐殺について、中世的な虐殺にまでさかのぼらなくても、20世紀のナチスのユダヤ人ホロコーストの蛮行があります。ナチスについて、まったく触れられていないのは理解できません。そして、何よりも私が物足りなく感じたのは、歴史は終わっていない点はいいとして、歴史の逆襲=returnとは人類にとっては進歩なのか、それとも、中世へ逆戻りするような逆行なのか、著者の評価はどうなのだろうか、という疑問です。私が読んだ実感では、ポピュリズムの台頭とか、ISによる蛮行とか、おそらく、著者の考えは、これらは後者の中世に逆戻りしかねない歴史の逆行であり、それを超克して進歩の方向を目指すべきである、というものではないか、と勝手ながら想像しているんですが、ホントにそうでしょうか。歴史が逆襲するとすれば、その歴史の逆襲は歴史の進む方向の逆回転なのでしょうか、それとも、それはそれとして歴史の進歩の方向に位置づけるべきなのでしょうか。そういった議論も欲しかった気がします。今週読んだ本の中で、もっとも印象的だったんですが、それだけに、感想文を長々と書き連ねた一方で、物足りなさも感じてしまいました。

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次に、山田邦紀『軍が警察に勝った日』(現代書館) です。著者はジャーナリストで、本書では1933年6月半ばの正午前に、大阪は天六の交差点で信号無視をした軍服姿の兵隊を警察官が交番に連れ込んで暴行した、というゴー・ストップ事件を掘り下げています。昭和に入って軍隊が幅を利かせるようになった一方で、軍に対しては必ずしも協力的ではない京都や大阪などの関西圏で起こった事件ですが、双方折り合わずに、半年近くも収拾に時間がかかった上に、詳細は非公表ながら全面的に軍の面目で終息しています。すでに中国大陸で戦端が開かれた戦時体制ながら、まだ対米開戦は先の話といった時期に、警察と軍の対立が全面的に軍が有利な状況で終息したわけですので、我が国が戦前の軍国主義化のプロセスの中で、ひとつのターニング・ポイントになった可能性があります。ただ、歴史に興味ある読書子でなければ、この事件は知らない人がほとんどではないかと私は想像しています。もはや100年近い昔の事件ですから、いかに敏腕ジャーナリストとはいえ、当事者はもちろん、目撃者などの関係者にインタビューすることはほぼほぼ不可能となっており、文字記録に当たることにより事件を再現しています。そして、本書でも著者が明記しているように、この事件は軍と警察の双方が声明を出してはメディアが報道するという形で進み、それなりに参照すべき情報は少なくなかった気もします。他方で、引用部分が多過ぎるという印象を持つ読者もいるかもしれません。読んでいて、軍人に違法行為は警察ではなく憲兵が取り締まる、というシステムへの理解が進まないながら、警官も軍人も決して一般庶民から尊敬されているわけではなく、むしろ、エラそうにする煙たい存在と見なされていただろうことが伺えますし、警察ですら軍に対しては「モノ申す」ことが段々と難しくなっていく戦時統制国家の走りのような世相も垣間見えます。なかなか興味深い昭和戦前の歴史書かもしれません。

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次に、国分良成『中国政治からみた日中関係』(岩波現代全書) です。著者は慶応大学の研究者から転じて、現在は防衛大学校長です。という経歴から、読む前にはやや日中関係に関しては中国に批判的なスタンスを想像していたんですが、私の想像が極端だったせいもあるかもしれないものの、まずまず常識的な範囲だったのではないかと思います。そこは岩波書店の刊行物ですから、ゴリゴリの右派的な内容はあり得ないのかもしれません。私にはよく判りません。従来から、私も不思議だったんですが、日中関係については、まあ、日韓関係も似たようなものかもしれませんが、メディアで取り上げられる際には、我が国の政治状況中心的な地動説、というか、要するに、私のようなシロートから見て、総理大臣や重要閣僚などが靖国参拝するかどうかで中国や韓国の態度が変わる、我が国の重要政治家の動きに対応して中国と韓国が受動的に対応する、という報道が多かったような気がする一方で、中国や韓国の国内政治情勢については、少なくとも私の接する報道においては軽視されていたような気がします。もちろん、そんなことはないわけで、国内政治の延長に外交があり、あるいは、もっといえば、平和的な外交の延長に戦争があるといった説もあるようですから、我が国の国内政治だけが日中関係や日韓関係を動かして来たわけではないことは明らかです。そういった観点から、本書では中国の国内政治から日中関係への波及を解説してくれています。特に、天安門事件後の1990年代の悪化した日中関係の中で、江沢民政権がどのような役割を果たしていたかがよく理解できた気がします。我が国と違って、政権交代がなく、トップの個人的な資質次第で独裁的な様相を呈しかねない中国の政治状況、さらに、政党間の政権を争っての政策立案がない代わりに、共産党内の派閥抗争や内部での権力闘争が重要になる中国という国との外交の難しさを感じた気がします。

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最後に、今週の読書唯一の小説で、今村夏子『あひる』(書肆侃侃房) です。著者はデビュー作となる「あたらしい娘」で太宰治賞を受賞し、「こちらあみ子」と改題して他の短編とともに出版した『こちらあみ子』の著作で三島由紀夫賞を受賞し、華々しいデビューを飾ったんですが、その後少し休養期間を置き、本書が昨年出版され、さらに今年『星の子』も出版され、ともに芥川賞候補にノミネートされています。本書は河合隼雄物語賞を受賞しています。ここまで受賞やノミネート歴を上げれば、注目の若手純文学作家ということができようかと思います。なお、『こちらあみ子』はすでに文庫本も出版されており、私も読んでいます。ということで、この作品の表題作の「あひる」は、両親がのりたまという名前のあひるを貰い受けたところから物語が始まり、学校帰りの小学生があひるを見るために家に立ち寄り、主人公の弟が町に出て独立した後の寂しさを紛らわせるため、両親が過剰といえるほどに小学生達をもてなします。おやつやゲームで接待し、また、あひるの具合が悪くなるたびに新しいあひるを連れ帰ったりしていたんですが、3匹目のあひるが死んで埋めたところに通りかかった小さい子から、3匹目のあひるだったことは子供達の間でバレバレだったことが明らかになります。でも、子供達への接待を続ける両親なんですが、町に出ていった弟の奥さんに子供が出来て、一家6人で暮らし始めてめでたしめでたし、というストーリーです。純文学ですのでネタバレを避けようという気も私にはありません。この作品は芥川賞受賞を逃しましたが、小川洋子さんが強く推していたのを記憶しています。文章として表現すべき出来事があり、それを正しい言葉で表現し、淡々としていながら力強く文章がストーリーを紡ぎ出し、登場人物と出来事を正しく伝えています。それでも、読みやすくスムーズに読み進むうちに、何か違和感のようなものを、私のような平々凡々たる人生とは何かが違い、文章として書き留めた上で多くの人に伝えるに足る何かがあることが、とても適切に読み手に伝わります。まさに素晴らしい純文学の作品です。
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2017年06月24日 (土) 11:27:00

今週の読書は話題の経済書など計6冊!

先週の読書は文庫本があったこともあって8冊とオーバーペース気味だったんですが、今週は話題の経済書も含めて、新書もあり計6冊とややペースダウンしました。もっとも、もう少し減らして週4-5冊、というのが理想のような気もします。

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まず、ジョージ A. アカロフ/ロバート J. シラー『不道徳な見えざる手』(東洋経済) です。著者はともに米国の研究者であり、2人ともノーベル経済学賞受賞者です。ですから、いうまでもなく、トップクラスのエコノミストです。同時に、必ずしも実験経済学的な意味からだけではなく、市場の不合理さというものを是正すべく政府の役割を一定認めるタイプのエコノミストでもあります。すなわち、市場原理主義的な右派エコノミストではなく、政府の市場への介入を必要と考えるリベラルな差はエコノミストと見なしてもよかろうと私は考えています。そして、この2人の共著で少し前に『アニマル・スピリット』という著書も上梓していますので、宣伝文句としてその続編、とされています。これも市場のごまかしのひとつかもしれません。英語の原題は Phishing for Phools であり、このタイトルは「カモ釣り」と邦訳されているようです。2015年の出版です。ということで、繰り返しになりますが、市場の無条件の効率性を礼賛するわけではなく、合理的にカモを釣るようなシステムに満ちている現実を描写しています。広告による消費者の欲望の誘導から始まって、世の中こんなクソみたいな釣りや詐術で溢れているさまを多くの事例を上げて説明してくれています。例えば、クレジットカードで必要以上に促される消費、薬効まがいの過大な効果を宣伝される食材、自動車のセールスマンはあの手この手を使って、後々考えてみればまったく不要と思うようなオプションをオススメしたりします。さらに、米国特有かもしれませんが、政治過程におけるロビイストの役割、酒やアルコール、また、ギャンブルなどへの依存などなど、テンコ盛りで紹介しています。もっとも、著者も認めている通り、これらの事例は新しいものではなく従来からたびたび指摘されている事実でもあります。逆から見て、それだけに根絶が難しく、国民や消費者は騙され続けているともいえます。従って、本書の対策編も大したことはありません。ある意味で、前著の『アニマル・スピリット』で感じたのとよく似た失望感も味わってしまいました。こういった本を売るのも、市場のごまかしかもしれません。

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次に、ティモシー P. ハバード/ハリー J. パーシュ『入門オークション』(NTT出版) です。著者は米国の中堅どころの経済学研究者であり、英語の原題もズバリ AUCTIONS であり、2015年の出版です。実用性を疑問視される経済学の中でも、最先端の実用的な経済学と目されるマーケット・デザインの中でも、特に代表的な分野であるオークションに関するコンパクトで明解な入門書です。ただ、入門書ながら学術書であることに変わりありませんし、最先端分野ですので、それなりの理解力は必要とされるものと覚悟すべきです。ただ、難解な数式の羅列はなく、逆に、まったく数式を用いていないので、そこは弱点にすらなっています。むしろ、適度に数式で説明する方が、特に日本人などには判りやすかったんではないか、とすら思えます。例えば、Vickrey の記念碑的な1961年の論文ではAppendixが3つ付属していて、数式を展開するオンパレードとなっています。そこまでしなくても、まったく数式を排除するのも理解を妨げる場合があります。ということで、市場経済が効率的であるためには完全競争、すなわち、市場参加者がプライステイカーである必要があるんですが、オークションでは供給者又は需要者が単独であって、プライステイカーの前提は成り立ちません。しかし、オークションという言葉で想像されるサザビースやクリスティーズなどの美術品の競売だけではなく、実は、公共投資における政府調達や周波数免許あるいはネーミングライツの提供など、政府がオークションを開催することは決して少なくなく、そのデザインをしっかりしておかないと国民に無用の負担を生じる場合すらあり得るわけです。ですから、公共部門にとってこそオークション理論は重要ともいえます。特に、オークション理論の初学者向けの説明は、多くの場合、売る財がひとつだけのケースで説明を留めることが圧倒的に多いんですが、本書ではその限界を乗り越えて、第7章で複数単位オークションや複数財オークションにも手を広げています。もちろん、阿賀国でもっともオークションを一般的に知らしめたヤフオクに相当する米国のイーベイなどのネット・オークションも取り上げ、その中で評判(たぶん、レピュテーション?)の問題も解説を加えています。ただ、情報の非対称性に基づくアカロフ的なレモンの問題もレピュテーションで解決できると市場原理主義的な見方も出来ますが、私はそこまで市場に対して楽観的ではないエコノミストですので、念のため。

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次に、小松成美『虹色のチョーク』(幻冬舎) です。著者はスポーツ関係の著作の多いノンフィクション・ライターで、著作リストにはサッカーの中田、横綱白鳳、ラグビーの五郎丸などを取り上げたものがア含まれていました。ただ、本書はスポーツではなく、知的障がい者雇用に関して川崎にある日本理化学工業とその従業員、もちろん、障がいを持った従業員とその家族、さらに、経営者に関するインタビューを基にしたルポルタージュです。陸前高田の八木澤商店を舞台にし、このブログの昨年2016年末の12月30日付けの読書感想文で取り上げた『奇跡の醤』と同じなんですが、働くとはどういう意味があるのか、企業の社会的な存在意義とは何か、企業と従業員の関係はいかにあるべきか、を問う力作です。私のようなエコノミストから見れば、というか、市場原理主義などの右派エコノミストからすれば、労働とはレジャーを犠牲にして所得を得る手段であって、働く喜びとか、人の役に立つ感慨などは考慮の外に置かれており、同時に企業についても利潤最大化主体であって、冷酷にコストをカットし、競争相手をなぎ倒して成長を遂げる存在としてしか想定していません。本書の舞台となっている日本理化学工業の川崎の工場では、社員83名のうち62名が知的障がい者であり、各人の能力に見合った仕事上の工夫を凝らすことで、知的障がい者が製造ラインの戦力となり、社員の多くが定年まで勤め上げる企業となっています。それだけではなく、彼らの作るダストレスチョークは国内50%のシェア1位を誇っています。実は、その昔、2人いる倅のひとりが反抗期のようになった時期に、「僕にどうなって欲しいのか」と質問され、カミさんが言い淀んでいるのを見て、「世のため、人のために役立つ人間になって欲しい」と回答したことがあります。私自身を含めて、定年を目の前に迎えても、その思いは昔から変わりありません。利潤最大化を目指す企業体であっても、雇用者のために、社会のために、いろいろと出来ることはあります。現在の我が国大企業のように非正規雇用でコストをカットし、設備投資もせずにひたすら内部留保を溜め込むだけの存在が、果たして好ましい企業のあり方なのかどうか、もう一度考えるべきタイミングなのかもしれません。ただ、本書について少し物足りなく感じるのは、企業を側面から支える銀行や公的機関の役割について、三菱銀行や地元の市役所など、やや扱いが軽い気もします。経営者の力量と雇用者の生産性などの企業努力だけでやって来た、というわけでもないでしょうし、企業を側面から支える関連団体にも目を配って欲しかった気がします。

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次に、吉村誠『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版) です。作者は大阪の朝日放送のテレビの制作者から研究者に転じた人で、いずれにせよ関西をホームグラウンドにしているようです。テレビ制作者としての主な担当番組は、『シャボン玉プレゼント』、『新婚さん!いらっしゃい』、『晴れときどきたかじん』、『ワイドABCDE~す』、『M-1グランプリ』などだそうですが、私はもともとテレビはニュースと阪神タイガースのナイター以外にはあまり見ませんし、京都を離れて長くなりますので、知っていたり、知らなかったりです。不勉強の至りです。ということで、本書では、著者の経験からお笑い芸人については、ビートたけしと明石家さんまを主として念頭に置き、この2人にタモリを加えたビッグ3、さらに、暴力団との不適切交際で引退した島田紳助にも言及があります。そして、極めて単純に本書の結論を短く取りまとめれば、お笑い芸人の言語でもっともインパクトある理由は生活言葉で語っているから、ということになります。そのお笑い芸人の生活言葉に対比する形で、文字の言語、さらに、話し言葉ながら生活言葉ではなく、例えばニュースを伝えるアナウンサーのような標準語=東京語を対比させています。ただ、このあたりまではいいとしても、かなり論理が飛躍している部分が少なくありません。その昔の明治期の文語体ならいざ知らず、現在の文字化されたいわゆる文章については、かなりの程度に話し言葉に近い、と私は考えています。例えば、私はいくつか楽器の演奏をしなくもありませんが、演奏された結果とそれを記録として残した、というか、より正確にはその演奏の元となったスコアの間の隔たりと、話し言葉とその文章化された書き言葉の間の隔たりを比較すれば、後者の言葉の隔たりの方が音楽の隔たりよりも断然小さい、と私は考えています。例えば、私はピアノ曲ではショパンやリストが好きな一方で、ベートーベンも決して嫌いではなく、あくまで例えとして、私が弾くベートーベンのピアノ・ソナタとグルダの弾く同じ曲は、ミスタッチを無視して、あえてスコアに落とせば同じスコアになるんだろうと思うんですが、実は、かなり大きな違いがあります。すなわち、同じ芸術としても文学や話術については、人類すべてとはいわないまでも、かなり多くの人がしゃべれる一方で、キチンとした文章を綴れる人はしゃべれる人よりも少数ですし、その格差はやや大きくなり、さらに、ピアノの技量ということになれば、もっと格差が大きくなります。その格差と比較して話し言葉のインパクトを考えるべきであり、その視点は本書では決定的に欠けており、そのため、書き言葉と話し言葉の優劣や生活言語と標準語の比較といった、関西的な反東京・反中央の姿勢を見せつつも、その実態は劣等感丸出しの議論に終始しているような気がします。記録する手段として、話し言葉に対する文字言語、あるいは、音楽演奏に対するスコアだけでなく、デジタルな技術進歩により動画や音声ファイルがここまで普及した段階の議論としては大いに物足りないものがあり、誠に残念です。

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次に、大崎梢ほか『アンソロジー 隠す』(文藝春秋) です。女性作家11人による「隠す」をテーマとしたアンソロジーです。実はこのグループはアミの会(仮)と名付けられており、この会によるアンソロジーは3冊目だそうで、第1弾が『アンソロジー 捨てる』、第2弾が『毒殺協奏曲』となっていて、さらに、第4弾が『惑: まどう』として7月だか、8月だかに出版予定らしいです。収録作品は、収録順に、柴田よしき「理由」、永嶋恵美「自宅警備員の憂鬱」、松尾由美「誰にも言えない」、福田和代「撫桜亭奇譚」、新津きよみ「骨になるまで」、光原百合「アリババと四十の死体」と「まだ折れてない剣」、大崎梢「バースデーブーケをあなたに」、近藤史恵「甘い生活」、松村比呂美「水彩画」、加納朋子「少年少女秘密基地」、篠田真由美「心残り」であり、あとがきは永嶋恵美が書いています。初めて作品に接する作家もいたりするんですが、やっぱり、慣れ親しんだ私の好きな作家である柴田よしきや近藤史恵の作品に出来のよさを感じます。大雑把にミステリ仕立ての作品が多いんですが、作品によってはホラー気味のものもありますし、家族小説や恋愛小説のようなものも含まれ、いずれも短編としてスラッと読めるものばかりです。もちろん、テーマは表題の通りであり、何かが隠されます。もちろん、モノとは限りません。どうして隠すかの理由も含めて、読み応え、とまではいきませんが、少なくとも暇潰しには最適です。やや、女性作家らしく仕上げようとしている、あるいは、仕上がっている、という感じが強く、この点に関してだけは好き嫌いが分かれそうな気もします。

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最後に、中北浩爾『自民党 「一強」の実像』(中公新書) です。著者は一橋大学の研究者であり、政治外交史の専門家です。特に、タイムラインは不明確ながら、戦後政治史・政党史の中での自民党の解明を試みています。分析の視点としては、派閥、総裁選挙、ポスト配分、政策決定プロセス、国政選挙、友好団体、地方組織、個人後援会、そしてもちろん、理念も含めて、あらゆる角度から自民党の本質に迫ります。ただ、著者自身も認めている通り、ここまで長期の政権を維持している政党ですから、硬直的に長期にかわりばえのしない方針を維持し続けているなら、例えば、例は悪いかもしれませんが、社会主義革命だけを目指していたり、あるいは、憲法改正だけを考えていたりすれば、ここまで長期の政権は維持できませんから、臨機応変に方針をコロコロと変更してその時期その時期に対応した政策を実行していたのであろう、ということは容易に想像できようかと思います。私はキャリアの国家公務員として政府に勤務し、現在は研究者ですので生の政治にそれほど近いわけではありませんが、おそらく平均的な日本国民よりは自民党に近いポジションにいるような気もします。その私でも理解できない、というか、知らなかったような制度的、あるいは、歴史的ないろいろな事実を網羅しています。逆から見て、サブタイトルにある現時点での安倍内閣の「一強」の解明はなされていません。ですから、専門外ながら、私の勝手な想像をたくましくすれば、現時点での安倍内閣の「一強」の源泉は経済政策にあると考えるべきです。1992年の米国大統領選におけるクリントン候補のスローガンで、"It's the economy, stupid!" というのがありましたが、まさにそれです。昨年2016年5月28日付けの読書感想文で取り上げた松尾先生の『この経済政策が民主主義を救う』も基本的に同じ趣旨だったことが思い起こされます。私は、左派勢力が共謀罪法案に反対し、改憲を阻止するためには、経済政策による国民からの支持の取り付けにとって、極めて重要だと考えているんですが、それに成功したのが改憲勢力だったのでとても残念です。日銀の独立性の美名の下に、旧来の日銀理論を擁護し国民生活を犠牲にしまくった左派勢力の無策を嘆くとともに、この経済政策の成功こそが現在の安倍内閣の「一強」の大きな要因だと考えるべきです。
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2017年06月17日 (土) 11:58:00

今週の読書はややペースアップしてしまって計8冊!

先週は関西出張後で少し体調が低下していたんですが、今週はかなり読書しました。でも、仕事がそれなりに忙しいので、本調子になればもっと読みそうな気もして少し怖いです。

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まず、ザカリー・カラベル『経済指標のウソ』(ダイヤモンド社) です。著者はコンサルタント、コメンテータ、ライターといったことになるんでしょうが、博士号を持ったエコノミストです。英語の原題は The Leading Indicators であり、2014年の出版です。国勢調査、GDP統計や国民経済計算、失業率、インフレ率など、政府が統計として作成・公表している経済指標について、主として米国を舞台に、その歴史や考案された意図、限界などを丁寧に解説しつつ、一定の疑問を集大成しています。すなわち、SNAのマニュアルの改定により研究開発(R&D)を投資に含めるようになり、米国や日本のGDPが一気にカサ上げされた事実、あるいは、失業の定義の曖昧さから失業率統計の意味に対する疑問、また、サービスを含まない海外取引のバランス収支がどこまで意味があるか、などなど、なんですが、これらの経済指標が個人や企業の意思決定にどこまで影響を与えるかとなると、それほど大きなものではないような気もします。ただ、本書では意図的にか、雰囲気でか、取り上げているようなマクロ経済指標とマイクロな個々人や各企業と行ったレベルでの経済的な状態や意思決定の問題を混同しているきらいがあります。例えば、マクロ経済のレベルでは失業率が大いに低下して低水準にある経済社会でも、どうしようもなく失業している人入る可能性があるわけですし、GDPの成長率が高くて好景気に沸く時期でも倒産する企業はあります。確かに本書が指摘する通り、GDPは1950年台の地図であって、時系列的な比較可能性を維持するために、古い基準で作成されているわけですが、途上国などではその国連やIMFやILOなどの基準が有り難い場合もあります。最後に、邦訳の疑問ですが、第10章の「自由財」は free goods で、ホントは「無料財」なんでしょうか?

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次に、エヤル・ヴィンター『愛と怒りの行動経済学』(早川書房) です。著者はイスラエルのエコノミストであり、本書はもともとヘブライ語で書かれていたようで、本書はその英訳本を底本として翻訳しているようです。英語のタイトルは Feeling Smart であり、2014年の出版です。ということで、実験経済学とゲーム理論を合体させたような、かなりありきたりな内容なんですが、本書のはしがきでも取り上げられている通り、アリエリー教授やセイラー教授らの行動経済学や実験経済学における限定合理性や非合理的行動は、私もやや極端な印象があり、どこかに何らかの正解がありそうな気がしていました。本書がその正解であるとは思いませんが、基本的なスタンスには共感します。同時に、従来から、怒りや悲しみ、妬みといった感情は理性とは両立しないとされてきた感情論も克服しようと試みています。共感や信頼とGDPの相関、チメドリも含めた他人を助けることによる自分自身の生存確率の向上、などなど、理論的なモデルをゲーム理論で数学的に構築した上で、実際にラボで実験経済学的な実証を行うという手法は、私のようなシロートの目から見てもとてもリーズナブルですし、統計的計量的な処理がどこまで正確になされているかは不明ですが、そこをキチンとクリアしていればOKだろうという気もします。ただ、生物学的な進化に結びつける理論建てはやや疑問が残ります。すなわち、単なる学習と進化を混同している恐れがあります。1度失敗したら、次は失敗しないようにうまくやる、というのは進化ではなく学習効果と一般にはいわれるような気がするからです。

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次に、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで英国オックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国の大学の政治学の研究者です。ドイツ語のタイトルは Was ist Populismus? であり、2016年の出版です。かなりコンパクトなパンフレットのような体裁で、学術書っぽくはありません。しかし、それにしても、ポピュリズムの定義も曖昧なまま議論が進められており、やや精彩を欠きます。本書のひとつの特徴は、ポピュリズムとは単に反エリート、あるいは、本書の用語では反エスタブリッシュメントだけでなく、自己自身を唯一の人民の代表と考える、という視点なんですが、それがどうした、という気もします。私は大使館勤務の外交官として南米の雰囲気を知っていますし、ポピュリズムといえばアルゼンティンのペロンとその妻のエビータを思い浮かべてしまいますが、本書とはかなり異なる印象です。本書でも認めている通り、米国トランプ大統領が典型として、ポピュリズムの支持者は学歴の低い男性が多いんですが、中南米のポピュリズムはまったく異なります。本書のモチーフは英国のBREXITと米国のトランプ大統領でしょうから、その後の大陸欧州でのポピュリズムの後退、あるいは、ベネズエラのチャベス大統領の頃までくらいの中南米のポピュリズム、その典型はペロン大統領ですが、そういったアングロサクソン以外のポピュリズムに対する理解の低さが如実に見られる箇所がいくつかあります。極めて残念ですが、書き出しから反ポピュリズムの姿勢も戦闘的に、「ポピュリズムといかに戦うか」の処方箋は示されません。ポピュリズムの一つの特徴として反多元主義を上げていますが、そんな反多元主義なんて、全体主義をはじめとしていっぱいあります。ファシズムやナチズムは本書の著者の見方ではポピュリズムなんでしょうか、違うんでしょうか。特に、最近の動向を考え合わせても、さほど有益な読書だったとは思えません。誠に残念。

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次に、岡本健『ゾンビ学』(人文書院) です。著者は北海道大学出身で奈良県立大学の研究者です。専門分野は観光学らしいです。なお、出版社は人文系のとてもまじめな学術書を手がけているところで、京都に本部があったように記憶しています。ということで、タイトルそのままです、ハイチのブードゥー教に由来するゾンビについて考察していますが、地域的には欧米と日本に限定しています。中国にはもっとゾンビがいっぱいいると私は考えているんですが、映画や映像系のメディアを中心に考察を進めているので、中国はスコープに入っていないようです。キョンシーなんかはダメなんですかね。十分にゾンビだと私は思います。ということで、私がゾンビに興味を持ったのは、本書でも特筆大書されている「バイオハザード」がきっかけです。ただ、ゲームの方ではなく、ミラ・ジョボビッチ主演の映画の方です。本書では、「バイオハザード」のゾンビは、実は診断ではなくてウィルスに感染されているだけであるとし、ホントのゾンビではない可能性を指摘していますが、まあ、ゾンビでしょう。私は決してゾンビは好きではないんですが、すでに高校を卒業してしまった立派な大人なんですが、下の倅が小さいころからホラーやゾンビを好きだったもので、親としてさりげない視線を注いでいたわけです。ということで、とてもよく出来た学術書の体裁を取った本書ながら、それでも、本書で欠落している点を1点だけ上げると、ハイチのブードゥー教に由来するとはいえ、西欧社会のキリスト教信仰との接点が抜け落ちています。すなわち、第1に肉体と魂の分離です。仏教では、特に、私の信仰する浄土真宗では肉体ごと西方浄土に往生する、という感があるんですが、キリスト教では死とは魂が肉体から分離することのように捉えられています。ホントはどうか、私はよく知らないんですが、その魂の抜けた肉体がゾンビとなるわけで、ですから、動きが鈍かったり、うつろな表情だったりするのがデフォルトになっているわけです。そしてキリスト教との関係では第2に、キリスト教では最後の審判の際の復活がありますので、復活させるためには肉体を残しておく土葬にならざるを得ない、という点が重要です。我が国のように火葬にしてしまえばゾンビとしての復活はあり得ないんですが、土葬であればキリスト教的な最後の審判における復活でも、ゾンビとしての復活でも、復活はあり得るわけです。この点から、キリスト教徒ゾンビの関係をより明らかにする研究を私は強く求めます。

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次に、相場英雄『不発弾』(新潮社) です。著者はファンも多いエンタメ小説作家であり、本書では東芝の不適切会計の事案を巡って、バブル経済の後処理の時点までさかのぼって、警察と証券会社出身の金融ブローカーとの暗闘を描き出そうと試みています。もっとも、エンタメ小説ですので、私がノッケに「東芝の不適切会計事案」と書きましたが、すべては架空の企業名や個人名ですが、ちゃんと読めば、東芝やヤクルトやミノルタのことだと判るようになっています。もちろん、エンタメ小説ですから、ノンフィクションのルポルタージュと違って、歌舞伎の忠臣蔵と同じように小説らしく架空の脚色が数多くなされていることはいうまでもありません。もっとも、私はバブル経済期にはすでに官庁エコノミストでしたし、バブル経済には懐疑的な視点を向けていて、バブル経済末期には海外の大使館に飛ばされたような立場ですから、ホントにバブル経済やその崩壊後の混乱期に、その裏側で何が起こっていたのか、行われていたのかは、詳細については把握できる立場にはありません。でも、作者の筆力というか、腕がいいのか、こういった小説に取り上げられているような事実がいくつか、少なくともいくつかはあったんだろうと想像させるに足る内容だという気はします。バブル経済の時期に「財テク」と称される金融操作で大儲けをし、そのバブル経済の崩壊で発生した大損を外資系の投資銀行に単に短期間付け替えるだけで、実は中長期的にはさらなる損失を招いた事例は山ほどあるんだろうと私も想像しています。その昔に、黒木亮の『巨大投資銀行』について、リスクを引き受ける商業銀行・市中銀行とリスクをスルーする投資銀行なのに、前者を国内銀行、後者を外資系と意図的に混乱させる書き方であると指摘した記憶がありますが、本書はそういった混乱もなく、単に外資系投資銀行が我が国の投資銀行である証券会社はもとより、事業会社や年金運用機関などよりも、複雑怪奇なデリバティブなどの金融商品について各段に詳しかった、という点を強調している気がします。オマハの賢人バフェット氏が「金融版大量破壊兵器」と呼んでいたデリバティブなんですから、私の理解を超えていて、論評もここまでとします。

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次に、宮内悠介『あとは野となれ大和撫子』(角川書店) です。作者は新進気鋭のSF作家で、私も大いに注目して、出来るだけフォローするようにしています。この作品は、中央アジアのアラルスタンなる沙漠の小国を舞台にしたSF小説です。スターリン時代に塩湖を干拓してできたアラルスタンでは、ソ連崩壊後に独立した際の初代大統領が、その昔には側室を囲っていた後宮=ハレムを将来有望な国内外の女性たちの高等教育の場に変え、様々な理由で居場所のない少女たちが、政治家や外交官を目指して日夜勉学に励んでいたんですが、主人公である大和撫子の日本人少女ナツキは両親を紛争で失い、ここに身を寄せていました。後宮にも若い世代とその昔からの世代の「お局さま」がいるんですがその中の若い衆のリーダーであるアイシャ、また、姉と慕う面倒見のいいジャミラとともに気楽な日々を送っていたんですが、現職の人望あふれる大統領が暗殺され、イスラム武装勢力が蜂起したことから、国家の中枢にいた男たちが我先にと国外へ逃げ出す中、後宮にいた日本人のナツキら若い女性たちがアイシャをリーダーに国を運営すべく立ち上がるという、荒唐無稽なストーリーです。なお、繰り返しになりますが、ナツキはJICA専門家として派遣されていた父親と母親を15年前の5歳のころに亡くした日本人で臨時政権の国防相となりますし、臨時大統領を務めるアイシャはチェチェンからの難民だったりします。前作の中編「カブールの園」も、この中央アジアのあたりを舞台にしていましたし、何らかの作者の思い入れがあるのかもしれません。武装蜂起したテロリスト・グループを蹴散らしたり、唐突ながら、預言者生誕祭の夜に国民広場で演じられる恒例の閣僚総出演の歌劇でのドタバタ、最後は、臨時政権の力量により平穏を取り戻した国内に国会議員が戻り、国会にて象限を求められる臨時政権の幹部が、弾劾っぽい雰囲気から徐々に臨時政権の承認へと向かうあたりが読ませどころだという気がします。私はこの作者の作品はほぼすべて読んでいるつもりですが、現時点では最高傑作かもしれません。

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最後に、佐伯泰英『声なき蝉』上下(双葉文庫) です。ご存じ、昨年51巻をもって終了した居眠り磐音の江戸草紙シリーズの後継です。主人公は坂崎磐根の嫡子である空也です。父子ともに武士らしくない名前だと思います。ということで、磐根の豊後関前への里帰りから、空也だけ両親と妹と分かれて武者修行に出るわけですが、とても無謀にも薩摩を目指します。その顛末がこの2冊に収録されています。当時の薩摩は他国者を入国させることにかけては、本書の表現を借りれば、「鎖国の中の鎖国」といった状況であり、特に公儀隠密と一行門徒の入国には気を使っていました。坂崎空也は年齢を別にすれば幕府お声がかりで再興なった尚武館道場の道場主の嫡子ですから、そうでなくても幕府とのつながりは強いわけで、公儀隠密と見なされる可能性もあります。どうでもいいことながら、薩摩が一向宗の布教を禁じ弾圧していたのは有名な話で、石山本願寺に立てこもって織田信長と武力闘争に及んだわけですから、当然かもしれません。しかしながら、明治期になって与謝野鉄幹が一向宗の布教のために薩摩に入ったのは余り知られていません。話が逸れましたが、この2冊については、私としても大いに悩んだ末に買い求めました。でも読んでみて、坂崎磐根の物語と違って、公儀幕府の動きとは何の関係もなく、若侍の武者修行の様子が延々と続くわけですので、やや失敗したかもしれないと思い始めました。もうすぐ出版されるようですが、次からは図書館から借りるような気がします。
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2017年06月10日 (土) 13:44:00

今週の読書は経済書に専門書や教養書と小説を合わせて計5冊!

今週は少し風気味で体調がすぐれず、読書は経済書に専門書や教養書と小説を合わせて計5冊です。以下の通りなんですが、何となくいいペースのような気もします。でも、可能であれば、さらにペースダウンするのも一案かもしれません。

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まず、ダグラス C. ノース/ジョン・ジョセフ・ウォリス/バリー R. ワインガスト『暴力と社会秩序』(NTT出版) です。筆頭著者のノース教授はノーベル経済学賞受賞の経済史学者であり、いわゆる制度学派の筆頭です。原書の英語の原題は Violence and Social Orders であり、2009年の出版です。日本語タイトルは直訳といえます。ということで、制度学派ですから、所有権の確立を重視する経済史の展開をひも解いているんですが、本書ではタイトル通り、暴力のコントロールを近代の政治経済のシステムが必要な条件として、経済発展の基礎に据えようと試みています。社会秩序をアクセス開放型とアクセス制限型に区分し、特に後者は自然国家との呼称も用い、自然国家は脆弱、基本的、成熟の3類型に細分化しています。そして、自然国家は交易を制限すると指摘しています。さらに、エリートと一般庶民とのインタラクティブな関係の発展形態にも言及しています。しかし、ほとんど言及がないのが産業革命です。私は何度も繰り返して主張している通り、東西世界の大分岐を経て、西欧、というか、米国も含めた欧米の現時点までの世界経済の覇権を規定しているのは18世紀のイングランドを起源とする産業革命であり、その原因については経済史家の間でもコンセンサスは出来ていない、と考えています。加えて、私が本書について物足りないのは、理論モデルの構築が不十分な上に、ほとんどデータの裏付けによる実証がなされていない点です。ですから、暴力のコントロールがいかに社会秩序の安定や経済発展に寄与しているのかについて、読者は判断のしようがありません。とても斬新な視点が提示されているのは興味深いところですが、モデルの構築が不十分で雰囲気でモノをいっているところがあり、もう少し詰めた議論がなされる必要があるという気がしました。これだけのオールスター著者陣にしては、やや残念と言わざるを得ません。

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次に、エコノミスト誌編集部[編]『2050年の技術』(文藝春秋) です。英国エコノミスト誌の編集部が30年余り後のテクノロジーについて、現時点で考えられる将来像を提示しています。私のような文系エコノミストのテクノロジーに詳しくない人間からすれば、ほとんど実現性の不明なSFに近いストーリーも含まれており、どこまで理解できたのかははなはだ自信がありませんが、未来像に関する雰囲気は感じることが出来た気がします。いくつか、私でも理解できた点がありますが、印象的だった1点目は指数関数的な将来像を提示するムーアの法則の終焉が近い、と指摘している点です。ムーアの法則が今後も続くと仮定すれば、2050年までには17サイクルが繰り返されることとなり、そうなると水素原子よりも小さなコンポーネントでコンピュータを作ることとなり、背理法的にムーアの法則が否定されます。第2点は個人のプライバシーはもはやとてつもなく高額の保護費支払いに耐える所得階層でしか許されない、という点です。ただし、本書ではプライバシーについて区別をしておらず、私の考える2分割の立場には立っていません。すなわち、私は市場活動におけるプライバシー、何をどこでいくらで買ったか、売ったか、についてはプライバシーはもはや成り立たないと考える一方で、夫婦のベッドサイド・トークなどの市場に関係しない私的活動については、引き続き保護されるべき、と考えていますが、本書では前者の市場活動における個人の活動にかかわるプライバシーのみを論じているんだろうと解釈しておきます。第3に、人工知能(AI)は人間を超えない、としている点は深く感動しました。私はデータに基づいた判断、カーネマン教授のいうシステム2とかで、データの確率分布に基づく判断、例えば、医者が行う病人やけが人の症状と病理学的な原因に関する判断などについては、おそらくAIの判断のほうが正しい場合があるんではないかと思いますが、他方、システム1やヒューリスティックな判断、データではなく、より直感的な判断については人間の方が優れているんではないか、と考えています。いずれにせよ、テクノロジーについて詳しくなく理解の範囲が限定的であっても、それなりに未来のテクノロジーについて考える基礎が得られそうな気がします。

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次に、長谷川晶一『オレたちのプロ野球ニュース』(東京ニュース通信社) です。著者はノンフィクション・ライターであり、上梓された本のタイトルを見る限り、かなり、野球、それもプロ野球に造詣の深いところが伺われます。ということで、本書は1970年台半ばに放送がスタートしたフジテレビ系列のプロ野球ニュースに焦点を当てています。今世紀初頭に地上波の放送を終了し、現在は平日は23時スタートのフジテレビONEでしか見ることができませんが、かつては一世を風靡した長寿番組でした。本書を読んで思い出したんですが、放送開始当初は23時台のテレビといえば日テレ・読売系列の11PMが全盛で、現在ではまったく姿を消したいわゆるお色気番組が花盛りでした。私は中学生から高校生くらいで、中高6年一貫制の男子校に通っていましたので、中学校か高校かの区分はあいまいですが、青春真っ盛りの時代です。今から振り返れば、経済的には1973年のいわゆる第1次石油ショックを節目に、1950年代半ばからの高度成長期が終了し安定成長期に入ったところであり、プロ野球的には第1次石油ショックと同じ1973年のシーズンでジャイアンツのV9が達成されて長嶋が引退し、翌年ジャイアンツは長嶋監督の下で最下位に沈み、ジャイアンツが球界の盟主の座から引きずり下ろされ、ドラフト制度改革で戦力の均等化が図られるとともに、そのかなり後とはいえ、逆に、FA制で金銭による戦力の充実も可能となるなど、いろいろな制度改革もありました。そういった時期に、上の表紙画像に見られる通り、佐々木信也氏を司会者に立てて、お色気番組の並ぶ時間帯に硬派のスポーツ・ジャーナリズムを展開した番組です。ジャイアンツに偏りがちな報道に対して、セパ両リーグの6試合をほぼ平等に扱い、単なる結果の報道にとどまらず、丁寧な解説とともに報じた番組でした。本書では、テレビに映らないバックグラウンドでのスタッフの苦労話に終始するんではなく、正面から佐々木時代のジャーナリズム路線とポスト佐々木時代のエンタメ路線を比較し、ホントのプロ野球の面白さや歴史の深さなどを実感することができました。おそらく、プロ野球ニュースのテレビ番組としては1970年代後半から1980年代の佐々木時代が全盛のような気もしますが、そのころは、ちょうど関西でサンテレビなどが阪神タイガースの甲子園での主催試合だけながら、フルで放送し始めた時期でもあります。私は今でもCS放送23時からのプロ野球ニュースを見ることがあります。アルバイトで帰宅が遅くなった上の倅といっしょに阪神の試合結果を楽しんでいます。改めて、テレビ番組としての革新性に触れた気がします。ただ、この番組をリアルタイムで見ていた人は、おそらく、もう50歳を超えている気がします。若い人向けではなく、じいさんが昔を懐かしむタイプの本かもしれません。

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次に、中山七里『秋山善吉工務店』(光文社) です。著者はこのミスで売り出した人気のミステリ作家です。私も何冊か読んでいます。このsカウ品は、ゲーム会社を辞め家に引き籠っていた父親の部屋から出火して家と大黒柱を失った秋山家では、残された妻の景子、中学生の雅彦、小学生の太一の3人で、父親の実家「秋山善吉工務店」に世話になることになり、同じ区内ながら慣れない祖父母との新生活は、それぞれの身に降りかかるトラブルで災難続きの日々となります。第1章から3章までは、太一、雅彦、稽古、それぞれの学校生活や新しい職場でのトラブルなどを描写し、それらをスーパーマン爺さんが見事に解決する模様を描写します。そして、ダウ4-5章がこの作品の肝なんですが、警視庁捜査一課の宮藤は秋山家の火災は放火殺人だったのではないか、と調べ始めます。いろいろと疑われるんですが、大工の爺ちゃんがアチコチで大立ち回りを演じて家族の危機を救います。いかにも、大正から昭和にかけての懐かしい香り漂うホームドラマに仕立てたミステリーです。もちろん、あり得ないスーパーマン爺さんの大活躍も見ものですが、ミステリとしての謎解きはとてもお粗末です。仕方ありません。

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最後に、池井戸潤『アキラとあきら』(徳間文庫) です。作者は知らぬ者のない人気の売れっ子小説家であり、銀行を舞台にした企業小説、経済小説が得意分野です。この作品は、2006-09年に『問題小説』に連載されながら単行本化されていなかったものを、いきなり文庫本で出版しています。タイトル通り、2人のアキラと名付けられた青年を主人公にしています。2人とも同じ読み方の名前で、しかも、1人とも社長のご令息なんですが、1人は伊豆の小さな町工場の生まれ、もう1人は同族会社で上場こそしていないものの、大規模海運会社の御曹司です。その2人が成績優秀にて東大経済学部を卒業し、同じメガバンクに就職します。御曹司は色んな理由あって一族会社の社長として舞い戻り、もうひとりの町工場を倒産させた父親を持つアキラが、バブル崩壊後の不況の中でその海運会社をいかに救うかで知恵を絞ります。この作者の作品らしく、やや意地の悪い無能能力経営者は数多く登場する一方で、明確な敵役は出番がありません。でも、ややキャラの書き分けが物足りないものがありますが、それなりに心温まる物語です。経済とは、企業とは、といった基本哲学について作者に賛同する私のような人間には、とても感動的でした。
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2017年06月02日 (金) 22:56:00

今週の読書計5冊は事情により簡単にリストアップにとどめる!

いろいろあって、関西に来ています。インターネット環境、というか、パソコンがなれないので、簡単に読書感想文、というよりも、今週読んだ本だけリストアップしておきます。以下の5冊です。

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まず、ダグ・デッター&ステファン・フォルスター『政府の隠れ資産』(東洋経済) です。著者はスウェーデンのエコノミストです。以下に、国有企業(SOE)をうまく運営して稼ぎをもたらすか、について、シンガポールのテマセックの例などを引きつつ論じています。

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次に、坂本英二『サボる政治』(日本経済新聞出版) です。著者は日経新聞のジャーナリストです。国会審議日程が政策立案や外交を不十分にしている可能性を示唆し、さらに、中央政府だけでなく地方自治体でも高齢者への福祉優先で子供の安全は後回しにする姿勢が明らか、などなど、近視眼的かつ現状維持バイアスの強い政治を批判しています。

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次に、ハンナ・フライ『恋愛を数学する』(朝日出版) です。著者は英国の数学研究者です。本書は、恋人の見つけ方から、オンラインデートの戦略、結婚の決めどき、離婚を避ける技術まで、統計学やゲーム理論といった数理モデルを武器にして挑むTEDブックスの1冊です。数学というよりは、私のようなエコノミストの目から見て経済学のような気もします。

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次に、ヘルムート・オルトナー『ヒトラーの裁判官フライスラー』(白水社) です。著者はドイツのジャーナリスト、ライターです。ナチス政権下での人民法廷における人権無視の裁判について、人民法廷長官のフライスラーの足跡を跡づける形でリポートしています。

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最後に、川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』(新潮社) です。川上未映子が村上春樹をインタビューしています。少なくとも、『騎士団長殺し』上下は読んでおいたほうがいいです。私はかつて近いの将来のノーベル文学賞に村上春樹を、30年後には川上未映子を想定したことがありますが、その2人が対談しているんですから、とてもよかったです。
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2017年05月27日 (土) 13:39:00

今週の読書は話題の経済書など小説なしで計7冊!

今週は大作の経済書をはじめとして、小説なしで計7冊でした。その昔に、「一日一善」という言葉がありましたが、ならしてみれば、「一日一冊」ということなのかもしれません。大作や力作が含まれていたこともあり、数字的にはややオーバーペースなんですが、うち3冊が新書だったりもします。来週はもっとペースダウンしたいと考えています。

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まず、ケネス S. ロゴフ『現金の呪い』(日経BP社) です。著者はハーバード大学の著名な経済学研究者であり、今世紀初頭には国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミストも務めています。英語の原題は The Curse of Cash であり、2016年の出版です。本書ではタイトルに見られる通り、現金のうちの高額紙幣の廃止を提唱しています。すなわち、本書でも何度か繰り返されていますが、現金のないキャッシュレス社会ではなく現金の少ないレスキャッシュ社会を目指しているわけです。そして、その理由は2点あり、脱税や犯罪の抑止であり、典型的にはマネー・ロンダリングの防止です。そして、もうひとつがロゴフ教授の専門分野であり、金融政策へのインプリケーション、特にマイナス金利政策の効果の発揮です。実は、中身については以上で終わりです。実は、日本はGDP比で見て現金の発行残高比率がかなり高い国のひとつで、しかも、1万円札の比率がとても高くなっています。しかも、長らくデフレの状態にありますから、日本語版への前書きにもある通り、ロゴフ教授の考えからして、もっとも高額紙幣の廃止に適した国のひとつということになります。この点については私も異論ありません。日本を離れて、問題となりそうなのは、本書で著者自身も指摘している通り、2点あり、ひとつは途上国などでは、そもそも、銀行口座を保有していない国民が決して少なくない点で、電子マネーやスマートフォンなどを政府から支給して銀行口座を開設させる必要があります。もうひとつはマネーの動きに伴うプライバシーの保護です。そもそも、キャッスレスになればマネーの動きがほとんどリアルタイムで把握できるようになりますから、犯罪や脱税がやりにくくなるメリットがある一方で、個人の消費生活を含むプライバシーも追跡可能になってしまう可能性が高くなります。私はプライバシーについては、すでに何回か表明して来たように、何段階かのプライバシーの違いがあり、個人生活、特にベッドルームなどのプライバシーは当然に守られるべきだと考えていますが、金融取引はもちろん、消費生活などの市場における活動ではプライバシーがなくなっていく方向である点はやむを得ないと考えています。例えば、私は統計局で消費統計を担当していたんですが、対象家計に調査票を記入してもらうのではなく、電子マネーのカードのようなものを統計局から配布して、お給料の振り込みを受け、さらに、支出もその電子マネーですべて行い、統計の対象期間は無条件で電子マネーのお金の出入りを統計局に、リアルタイムでないまでも遅滞なく伝達されるようになっている、というのが究極の統計調査だと思っていました。それが、統計対象家計だけでなく、すべての家計や個人でそうなる可能性が出ているわけで、市場での経済活動についてはプライバシーは諦めるしかないと思っています。

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次に、サミュエル・ボウルズ『モラル・エコノミー』(NTT出版) です。著者は世界的なエコノミストであり、サンタフェ研究所の研究員です。これまで日本ではラディカル・エコノミストとして紹介されることが多かったようですが、本来は、進化社会科学に基づくマイクロ経済学を専門分野とし、少なくとも本書ではとてもリベラルな経済学を展開しています。英語の原題は The Moral Economy であり、2016年の出版です。本書では、進化経済学の立場からリベラルな市民社会における市民の行動原理を明らかにするという、何と申しましょうかで、とても壮大なテーマに挑戦しています。その際、上の表紙画像の副題などにも見られる通り、モラルとインセンティブを対比させる議論を基本にしています。そもそも、アダム・スミス以来の経済学では人間の行動動機の中核に博愛心ではなく、利己心を据えています。ですから、メカニズム・デザインをひもとくまでもなく、制度や政策を設計する際には、この利己心をうまく活用するインセンティブを組み込むことで、人間や企業を最適状態に導くことが可能であると考えられてきました。しかし、本書では人間の不合理性ではなく契約の完備制の問題からスミス的な見えざる手は有効ではなく、インセンティブに基づく制度や政策に疑問を呈しつつ、逆に、金銭的なインセンティブは人間が元来もっている責任、義務、利他性といった「市民的な徳」を、かえって弱める可能性を指摘しています。例えば、託児所での子供の引き取りの例などから、罰金による特定の行動の抑制が、罰金が遅刻対する対価と解釈される可能性として誤って受け止められたり、あるいは、広くインセンティブのもつ他律性が、人間の自律性を抑える可能性について、インセンティブに依存する制度設計に対する批判となっています。リベラルな市民社会では、参加の自発性、選好の中立性、パレート効率性の3者はリベラル・トリレンマにより同時には成立せず、制度設計の際は、インセンティブに頼るのではなく、互恵的で他者考慮的な価値を育み、人々が協力に向かうようルール形成する必要がある、というのが本書の結論となっています。ただ、市場における行動を分析しようとするマイクロな経済学では価格のシグナルというインセンティブがかなり有効である一方で、家族や市民社会における非経済的な行動ではインセンティブよりもより自律的な行動原理、特に、市民的な徳をもってする行動原理を考慮する必要があり、実際には行動経済学的な試行も必要になるような気が私はしています。なかなかの大作です。

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次に、サミュエル・ボウルズ&ハーバート・ギンタス『協力する種』(NTT出版) です。著者は2人ともサンタフェ研究所の研究者であり、本書の英語の原題は A Cooperative Spieces であり、2011年の出版です。邦訳のタイトルは直訳だったりします。本書はサンタフェ研究所系の研究者の著作らしく、とても学際的な仕上がりとなっています。ある意味で、文化人類学であり、また、進化社会学であり、私のようなエコノミストにとっては実験経済学とゲーム理論で人類の協力の進化の過程を明らかにしようと試みているように見えます。前に取り上げたボウルズ『モラル・エコノミー』と同じで、契約の不在もしくは不完備性から済素敵な見えざる手の役割が不十分となるとの仮定から議論を進めています。ゲーム論的に数学が駆使されており、しかも、パラメータに実際の数値例を援用したシミュレーション結果もいくつか示されています。基本的には、人類の利他性の涵養と協力の進行、ないし、利他的もしくは協力性の高いグループの生存可能性の高まりや繁殖可能性の増大などに関して、理論モデルの構築という壮大な試みなんですが、とてもリベラルな内容になっています。結果的に、人類間で協力を支える制度が共進化する条件を理論モデルを基にして明らかにしつつ、同時に、文化人類学や古生物学・考古学、さらには、遺伝学などの各種の実証データを自由自在に利用して、極めて長期に渡る人間進化の歴史が、抽象度の高い数理モデルによってうまく捉えられているの事実を主張しています。ハッキリいって、大学院も博士後期課程のテキストにも利用できるくらいのレベルの本ですので、立論の基本となっているプライス方程式をはじめ、専門外の私に十分理解できたかどうかは自信がありませんが、ゲーム理論を基盤として人間の社会と心の進化を説明しようとしたことに、私はびっくりしてしまいました。最後の解説で細かな用語法に関する瑕疵が指摘されていたりしますが、物の数ではありませんし、著者と解説者のレベルの違いすら悲しく感じられます。最後に、付録として12のテーマに渡ってテクニカルな解説がなされているんですが、その中のA2のエージェントベースモデルについてはとても参考になりました。こういった付録も、ひと通りは読み飛ばしておくべきかもしれません。

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次に、池田純一『<ポスト・トゥルース>アメリカの誕生』(青土社) です。著者は電通ご出身のコンサルタントであり、各党予備選の段階から昨年2016年の米国大統領選挙をたんねんに取材し、WIRED.jp に連載されたリポートを取りまとめて本書を発行しています。本書にもある通り、タイトルとしている post-truth とはオックスフォード英語辞典の用語であり、客観的な事実より感情的で個人的な信念の方が世論形成に影響を与える状況のことを指す、という意味らしいです。このあたりは受け売りです。本書のはしがきの段階から、本書のリアルタイムのリポートは「あてが外れた」感いっぱい、と著者自身が称している通り、予備選途中から米国大統領選挙でトランプ現大統領が本選でクリントン候補をかわして当選し、さらに、ごく初期の政権移行段階までをフォローしています。ただ、始まりの時点は予備選すべてではなく、例えば、いわゆるスーパーチューズデーは含まれていません。その米国大統領選挙をリアリティショーと位置づけ、意図的な炎上を含む本音トーク的なトランプ大統領自身によるツイート、フォロワーによる拡散とそれに伴うバズの拡大、テレビなどのマスメディアでの取り上げ、さらなる話題性の向上、知名度をさらにましたトランプのさらなるツイート、以下同様……というメディア・サイクルの循環が大統領選挙をハックし、それこそがトランプ大統領ののメディア戦略ではなかったのか、そしてそれが当選につながった可能性を指摘しています。まあ、いわゆるラスト・ベルトのヒルビリーによるトランプ支持の高さなども触れられていますが、大統領候補者によるテレビでのディベートなど、ほとんど政策論議らしきモノがなかった米国大統領選挙をメディア戦略で締めくくるのは、エコノミストとしてはやや疑問が残りますが、まあ、そうなのかもしれません。特に、クリントン候補が予備選の段階でウィリアムス候補に対抗するために、政策的に左寄りに軸足を移行させた、といったあたりは、TPPに対する態度など、私にも納得できる部分が少なくありませんでした。新聞やテレビといった伝統的なメディアを通じて米国大統領選挙はそれなりに進化を示し、例えば、ケネディがニクソンに勝利したのはテレビ討論会の影響が大きかった、などの歴史的事実もある一方で、昨今のIT技術の発展とそれを背景とするソーシャル・メディアは米国大統領選挙にとどまらず、先進国の意思決定に大きな変更を迫っています。そこに、サイバー攻撃的な介入、本書でもロシアによるサイバー攻撃の可能性が示唆されていますし、そういった動きに応じて、世論が短期に大きくスイングする可能性も含め、民主主義下での意思決定に及ぼす影響を考え直す時期に来ているのかもしれません。

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次に、亀田達也『モラルの起源』(岩波新書) です。著者は今は東大に移ったようですが、長らく北大でご活躍だった心理学の研究者と記憶しています。本書では、タイトル通りのモラルの起源について心理学的な探求を試みています。はじめにで、いきなり、文部科学省の通達に示された文系不要論への反論から始まり、ひと昔前の国立大学法人化反対論と同じで、大学教員のとても強い現状維持バイアスとか、研究者の視野の狭さに怯みがちだったんですが、まあ、200ページ足らずの小論ですし、何とか読み終えました。第1章では、進化論でよく使われる適応について簡単に検討した上で、自然だけではなく社会生活とまでいわないものの、何らかの群れの生活への適応について論じ、類人猿の脳が発達した原因も、群れの生活で求められる情報処理量の増大によるものと位置づけます。第2章で、人類と同じように、社会性のあるハチやアリと言った今空に着目しますが、このあたりは私には理解できませんでした。そして、第3章で利他性、第4章で共感と進み、最後の第5章で最後通牒ゲームという経済学的な実験も援用しつつ、分配のトピックに入り結論となります。ただ、最後通告ゲームなどでは市場経済の発達度合いによって分配のあり方の規範が異なることが論じられますが、日本を始めとする先進国での議論ではありません。サンデル教授の議論や著作などでで有名になったロールズ的な正義の問題とも関連しますが、私が不明なのは、人間は損得の観点から合理的にモラルを涵養するのか、それとも、損得の観点を超越してモラルを持つのか、という点です。多分、後者だろうと思うんですが、合理的にモラルを身につけるのか、必ずしも合理的でないのかは、エコノミストとしてはとても気になります。

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次に、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』(岩波新書) です。著者は長らく東大で政治学の研究者をしていた政治外交史の大御所です。明治維新以降の近代日本について、欧州をモデルとしつつ、政党政治を生み出し、資本主義を構築し、植民地帝国を出現させ、天皇制を精神的枠組みとした日本の近代をバジョットに依拠しつつ、これら近代日本の4本柱を歴史的、理論的に解き明かそうと試みています。幕藩体制下の合議制や月番制が、明治憲法下の議会制と内閣制などの権力分立制につながり、藩閥政治から政党政治が作られた一方で、特に、バジョット的な議論による統治については日本における定着が十分ではなかった可能性を示唆しています。ただ、幕藩体制下から統治システムとしては日本はかなり立派なパフォーマンスを示していた点も強調されています。資本主義の構築についてはマルクス主義的な資本の原始的蓄積を重視し、後発の資本主義国として民間資本ではなく国家による殖産興業が主要な資本蓄積の手段だったと結論しています。植民地の形成は、あるミニで、侵略でもありますが、その当時の世の習いだったような気もします。本書では、貿易、特に自由貿易と関連付けて議論されています。最後の精神的な支柱としての天皇制については、とても興味深い視点が提供され、すなわち、欧米諸国のようなキリスト教のバックボーンのない日本におけるキリスト教の代替であった、と主張しています。中でも、天皇の署名の後に内閣総理大臣以下の国務大臣の責任を示す副署がない教育勅語を取り上げ、憲法にすら縛られない神聖不可侵な天皇による絶対的な規範となった過程を跡付けています。バジョット的な思考による近代日本の解明はそれなりに私も理解できたんですが、別口で、ハーバーマスの公共性の議論を援用しつつ、政治的コミュニケーションを可能にした文芸的公共性の観点から、森鴎外の一連の史伝ものを読み解く方については、私は理解がはかどりませんでした。教養の不足を実感します。加えて、戦後の吉田ドクトリンに基づく強兵なき富国が2011年3月11日の震災で終了したというのも理解できませんでした。お恥ずかしい限りです。

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最後に、齋藤純一『不平等を考える』(ちくま新書) です。著者は早稲田大学の研究者であり、専門分野は政治理論・政治思想史だそうです。本書は3部構成となっていて、第1部で市民社会における市民の平等な関係について問い直し、第2部ではそういった市民の平等な関係を構築する支えとなる不安定への対応としての社会保障を論じ、最後の第3部では延々とデモクラシーを論じています。とても申し訳ないんですが、私の読解力の不足からか、第3部のデモクラシー論がどこまで格差や不平等と関連付けられているのか、私には読み取れず、著者が不平等に引っかけて自説を延々と展開しているに過ぎない、と感じられてしまいました。特に、何ら明示的な表現はないものの、「熟議民主主義」の賞賛は最近の政治動向を背景としているんだろうと、私は勝手に想像したものの、それが不平等や格差とどう関連しているのかは、本書からは読み取ることができませんでした。デモクラシーがキチンと機能しないと不平等の克服は出来ないということなのかもしれませんが、それなら第2部の社会保障は何なんだ、ということにもなります。ということで、少し不満の残る面もあり、特に、所得や経済的な面から社会保障を不平等に関連付けるのは、少なくとも私にはハードルが高いと感じられました。本書ではベーシック・インカムは否定的にしか取り上げられていませんが、平等化の推進、というか、不平等の克服を社会保障に期待するのは財源の面で、かなりコスト・パフォーマンスが悪い気がします。本書では、熟議民主主義についても、実際に熟議にコストをかけている例を持ち出していますが、そもそも投票に行くコストすら負担しようとしない主権者が何割かいるわけですから、例えば、熟議民主主義を達成するコストを負担できる人だけがデモクラシーを構成するとすれば、逆の意味で不平等につながりかねない危険を感じます。制度や政策を最善のものにしようとする努力はいいとしても、エコノミストとしては、コストを考えずにベストを追い求めるのにはムリがありそうな気がします。でも、本書ではこれも明示されていませんが、就職氷河期のころ卒業した非正規雇用を解消するには、それなりの財政負担も必要なのかもしれないと思ったりします。
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2017年05月20日 (土) 11:02:00

今週の読書は経済書中心に計7冊!

今週は話題の経済書『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』をはじめ、経済書中心に小説まで含めて計7冊、以下の通りです。

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まず、玄田有史[編]『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶應義塾大学出版会) です。編者は東大社研で進めている希望学のプロジェクトなどで著名なんですが、本書は本来の専門分野である労働経済学に戻って、タイトル出て維持されているパズルの解明に当たっています。22人の精鋭エコノミストを中心に16本の論文を集めた論文集であり、従来のように、非正規雇用の増加、労働分配率の低下、生産性の低下についてはトートロジーの部分もあるとして排し、ミクロ経済学、マクロ経済学、行動経済学に基づく理論分析、実証分析、ケース・スタディなどのアプローチから議論を進めており、出版社からも明らかな通り、一般教養書ではなく学術書であると理解すべきです。でも、16章もあるんですから、それなりに一般向けの論文もあります。私は労働経済、特にマイクロな労働経済は専門がいながら、一昨年2015年5月にミンサー型の賃金関数を賃金センサスの個票から推計した論文を発表すた折に、それなりに賃金や労働経済について勉強しましたので、何となく読み進みましたが、それなりの基礎的な理解は必要かもしれません。各論文には、7つの観点からのマーカ、すなわち、需給、行動、制度、規制、正規、能開、年齢の7つのポイントのどれに相当するかを明記しています。労働・雇用の賃金を含めて、価格の伸縮性により需給が調整されるとする古典派経済学はもとより、不況期の賃金の下方硬直性を論じたケインズ経済学でも、現在の日本における好況期の賃金の情報硬直性、なんて考えもしなかったと思いますが、この難題に回答を試みています。基本的に、トートロジーの部分も少なくありませんが、本書の結論として有力な仮説は、バブル経済崩壊後の日本経済の停滞に中で企業が体力を消耗し、内部労働市場で雇用者をOJTにより育成することが出来なくなり、外部労働市場で派遣労働者などを受け入れていくうちに、非正規職員の比率を高める結果となり、本書では構造バイアスと称しているシンプソン効果により、正規も非正規もともに賃金が上昇しつつも、非正規のウェイトが高まるためにマクロの賃金は低下を続ける、ということのようです。ただ、本書では触れられていない続きがあって、おそらく低賃金の非正規を雇用するうちにマクロでデスキリングが生じている可能性が高いと考えるべきです。そして、安価な労働力が熟練を崩壊して生産性を低下させ、さらに悪い方向でのスパイラルが起こる瀬戸際なのかもしれません。私は半分くらいしか同意できません。おそらく、開発経済学のルイス転換点について論じた第7章の議論が私にはもっともしっくり来ていて、要するに、まだ完全雇用に達しておらず、労働のスラックは残っている、というのが正解なんだろうと考えています。また、第15章で論じているように、我が国では女性のパート労働者などの非正規雇用はそもそも低賃金労働と位置づけられてきた社会的な背景も見逃せないんだろうという気がします。現在までのところ、今年読んだ経済書の中ではマイベストかもしれません。

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次に、寺田知太・上田恵陶奈・岸浩稔・森井愛子『誰が日本の労働力を支えるのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のグループであり、テーマは労働力不足への対応、さらには人工知能(AI)の活用による人的労働力の代替まで視野に入れています。特に、後者については英国オックスフォード大学のオズボーン准教授らの研究成果も取り入れて、日本におけるAIによる代替確率が49%との試算結果を明らかにsており、2016年1月7日付けでこのブログでも取り上げています。ということで、本書では人手不足の日本経済にあって、海外からの移民、というか、「移民」という言葉は本書では慎重に避けているんですが、外国人労働力の受入れについては、日本の労働・雇用事情が必ずしも外国人労働者に魅力的ではない、と指摘して少しネガティブな見方を示しています。すなわち、長時間労働と賃金の低さがネックになるとの見方です。そうかもしれませんが、途上国からの単純労働の受入れに経済界が意欲を見せているのは不気味な気もします。ですから、外国人労働力ではなくデジタル労働力の活用に目が向くということになります。しかし、本書ではAIに主眼を置いており、いわゆるロボットについては、それほど注目していません。ドローンと自動運転くらいのものです。その上で、第5章で確実な5つのメガトレンドを指摘し、最初のメガトレンドとして、日本人アルバイトを大量に雇用するビジネス・モデルが困難になる点を取り上げます。本書では明示的ではありませんが、まさに、デフレ期に適したビジネス・モデルといえます。さらに、小売・物流・ヘルスケアでは雇用の経済条件の悪さから若年層の選別に遭遇して人手の確保が難しくなる可能性も第2のメガトレンドとして主張しています。そして、第5章ではこれら3業種の今後のビジネス・モデルについて、いくつかのシナリオを提示するとともに、最後の第6章ではAIに仕事を代替されるタイプとそうでないタイプの職業をいくつか上げて、人材育成の今後の方向などについて論じています。かなり先の時代に関する議論であり、どこまで本書の議論が該当するかどうか、私には何ともいえませんが、ある程度の方向は当たらないまでも、かすっているような気がします。最後に、どうでもいいことながら、巻末の職業別の代替可能性の推計結果の表を見ると、エコノミストの代替確率は0.4%でした。私はもうすぐ定年を迎えますからほとんど関係はないと受け止めているものの、何となく目が行ってしまいました。

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次に、イェスパー・コール『本当は世界がうらやむ最強の日本経済』(プレジデント社) です。著者はドイツ出身ながら、日本在住30年で在京の外資系証券会社などのエコノミストを務めた後、現在では、世界で運用資産残高630億ドルを超えるウィズダムツリーの日本における最高経営責任者(CEO)をしています。ということで、エコノミスト・アナリスト系の分析を本書では展開しています。本書はタイトルから明らかな通り、日本経済の現状を強く肯定するものであり、巷に広がる悲観的な見方を強烈に排しています。5章構成から成り、日本経済について、日本企業について、政府財政について、米国のトランプ政権成立による日本への影響、東京オリンピック。パラリンピックを含めた近未来の日本像について、をそれぞれ取り上げており、タイトルに見られる論調を展開しています。基本的なラインとして、私も同意する部分が多いんですが、順不同で3点だけ特徴的な議論を取り上げておきたいと思います。第1に、日本の財政が破たんする確率がとても低いのはもはやエコノミストの間で広く認識が共有されているような気がします。本書でも同じ論調です。逆に、財政破綻について議論したがるのは、もはやためにする議論としか思えません。第2に、本書ではデフレについて、現状を受け入れるとの論調を展開しているように見えます。しかし、第1章p.34では「賃金以上に物価が急上昇しているアメリカと比べたら、ずっとハッピー」というように、あくまで賃上げとの見合いで考えるべきという視点は私なんかと共通しています。第3に、第2章では日本企業の内部留保について、かなり強硬な意見を展開していて、すなわち、カギカッコの意味が不明ながら「規制強化」によって内部留保を無理やり使わせる政策を提唱しています。私の見方と大いに共通するものを感じます。こういったタイトルですから、眉に唾つけて読む読者が多そうな気もしますが、虚心坦懐にメディアの批判論調を念頭に、というか、座右に置きつつ、本書を読み比べて対応させつつ日本経済や日本企業の現状について自分なりに考えを巡らせるのもいいんではないでしょうか。いずれにせよ、こういった非主流派的な経済の見方を声高に主張する著者、というか、書籍もあっていいような気がします。すべてを鵜呑みにするにはややリスキーですが、メディアや主流派的な経済の見方を頭に置きつつ、セカンド・オピニオン的に読む本かもしれません。

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次に、李智雄『故事成語で読み解く中国経済』(日経BP社) です。著者は在京の外資系金融機関に勤務するエコノミストであり、韓国生まれです。その上で、この中国経済に関する本を書いているわけですから、東アジア限定ながら、かなりの国際人ということも出来るかもしれません。まあ、タイトルに見られる通り、中国の、というか、漢字圏の故事成語を各章の冒頭に置いて、それに関連する形で中国経済の解説を進めている点を別にしても、とても興味深いのは、中国経済に関して開発経済学的な見方をしている点です。本書の最初の何章かでは、吉川教授の『高度成長 日本を変えた6000日』を盛んに引用し、中国経済とルイス転換点についての言及もあり、私の専門分野に近い見方をしていると感じました。私が役所の同僚と昨年取りまとめたペーパーは、日本の高度成長期に関する研究だったんですが、単に日本経済の発展過程を明らかにするだけでなく、新興国や途上国の政府当局や民間企業のビジネスパーソンに対しても利益をもたらし、先進国を目指すキャッチアップに資するものを目指していました。まったく同じ観点といえます。いくつか、中国経済の解説の中で著者の見方も示されており、2020年ころまでには中国の成長率は大いに鈍化し4%くらいに落ち込む、という見方も私はその通りだろうという気がしています。本書でも引用されている米国ピッツバーグ大学のロースキー教授の論文の指摘をまつまでもなく、中国の統計の不正確さは定評のあるところですが、本書ではそれらの統計をひとつひとつ解説しています。特に、最終の第17章は著者のいう通り、通して読むより辞書的に読んだ方が適当なのかもしれません。それから、どうでもいいことながら、中国経済統計の季節調整が不十分なのは、本書で指摘するように、データ系列のサンプル数が足りない、というよりも、旧暦に従った春節がまったく不規則だからだと私は認識しています。クリスマスはいつでも12月ですが、中華圏の春節は1月になったり、2月に来たりします。この不規則性により、日本経済もかなりの影響を受けているわけで、何とかして欲しい気もしますが、どうにもならないんでしょうね。

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次に、ドン・タプスコット&アレックス・タプスコット『ブロックチェーン・レボリューション』(ダイヤモンド社) です。著者は新しいテクノロジー関連の専門家、というか、企業家らしく、あとがきや謝辞を見ている限り、親子ではなかろうかという印象を持っています。英語の原題は Blockchain Revolution であり、2016年の出版です。邦訳のタイトルはそのままで、どちらが先かは私には判りませんが、野口教授の『ブロックチェーン革命』が今年になって出版されており、このブログでは先月4月15日付けの読書感想文で取り上げています。ということで、要するにブロックチェーンに関する解説書なんですが、技術的な側面の解説はほとんどなく、経済社会、企業経営から始まって、民主主義や芸術まで幅広い分野での活用による大きな影響力を論じています。私はブロックチェーンとはデジタルな記録台帳であり、典型的には金融、特に、ビットコインに応用されていて、それなりにいわゆるフィンテックに活用されうる技術である、としか認識していませんでしたが、ここまで大きな風呂敷を広げている議論も新鮮な気がします。本書の読後に私がパッと思いつくだけでも、順不同に、交通、インフラ、エネルギー、水資源、農業、災害予測、医療・ヘルスケア、保険、土地台帳などの書類管理、ビル管理、製造・メンテナンス、小売業、スマートホーム、などなど、幅広い活用が期待されているようです。ただ、悲しいかな、私の知識は本書には遠く及ばず、理解がはかどりませんでした。以下、私の理解の限りで、インターネットが幅広い応用可能性を示し、センサー技術の進歩とともに、いわゆるIoTが進行して、あらゆるモノがネットに接続するようになった中で、かつては匿名の世界と考えられていたインターネットも、ほぼほぼプライバシーのない世界となっています。例えば、どこかの建物の写真をSNSにアップしたりしたら、アッという間に特定されかねません。そういった中で、インターネットに欠けているのがセキュリティであり、信頼できるプロトコルを提供するのがブロックチェーンといえます。分散処理されているために特定のサーバに依存することなく、パブリックに公開されていながら高度なセキュリティで保護されている、という一見背反する存在のデータベースといえます。高度なセキュリティ、というか、プルーフ・オブ・ワークの壁があって、とてつもなく大きなコストをかけないと偽造が出来ない、という方が正しいかもしれません。こういったデータベースがあって金融に応用されたりすると、銀行などの金融仲介機能が不要になって、従来の銀行利用者同士、すなわち、資金の提供者と利用者が直接に結びつくことが可能になり、ビットコインのような仮想通貨が広範に流通するようになれば、中央銀行の業務が空洞化する可能性もある、という意味で、現在の国家体制に対する大きなチャレンジになる可能性まで秘めているわけです。テクノロジー的には私の理解を超えていますが、金融をはじめとして経済社会に広く応用されれば、ある意味で、世界がひっくり返る可能性もありますので、エコノミストとしても目が離せません。

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次に、ジュリオ・アレーニ『大航海時代の地球見聞録』(原書房) です。著者は17世紀初頭に中国に赴任してきたキリスト教の宣教師です。イエズス会ですから、当然、カトリックなんですが、中国の方は明から清に政権交代する時期でもあります。本書はその著者による『職方外紀』の邦訳書です。約400年ほど昔の地球見聞録ですから、荒唐無稽な伝聞記も含めて、あるいは、ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』ばりのホラ吹きというか、嘘八百も含めて、いろいろと奇怪な事実譚がつづられています。5巻まであって、アジア、ヨーロッパ、リビア(=アフリカ北部)、アメリカ、海洋の5巻構成です。当時の知識水準としては、さすがにコロンブス以降でアメリカも収録されていることから、地球が平板であるとは考えられておらず、地球は球形という認識は今と同じです。さらに、序文を寄せている中国人高級官僚、科挙に合格しているのでタイヘンな文化人と目される人物も、「世に伝わる胸に穴のあいた人や、踵が前についている人や、竜王・小人などについては、デタラメであるからのせない」と断っており、それなりの信憑性を持たせようと努力しているのは理解できますが、まあ、限界はあります。ですから、北海の浜に小人国があって、背の高さは2尺を超えないとか、100回顔を洗うと老いた顔が若返る泉とか、手がカモの足のような海人など、とても現在では信じられないような見聞録があったりします。アフリカがほとんど未知の大陸で、北アフリカをリビアとして取り出しているだけであり、また、アメリカは15世紀末に発見されてから100年ほどの段階の記述ですので、とても怪しげに受け止められていて、南米大陸最南端を「チカ」と称して、身長3メートルを超える巨人がいると記述したりしています。我が国では江戸初期の鎖国が完成したころの時代背景ですから、中国から輸入されて知識人は読んでいたらしいんですが、当時の人々もどこまで信用していたんでしょうか、あるいは、単なる面白い読み物、少なくとも現在では、当時の知的水準から見ても単なる面白い読み物、と我々は受け止めていますが、そういった扱いだったんでしょうか、とても興味があります。

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最後に、江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(角川春樹事務所) です。作者はなかなか人気の女性作家なんですが、私は不勉強にして短編集の『つめたいよるに』しか読んだことがありません。この作品は、海外のサスペンス小説にのめり込んでいて、女の出入りが激しいながら独身中年の男性を主人公とし、ドイツ在住の写真家で日本にも家を持ってよく帰国する姉、認知していて同居はしていないが読書好きという共通点がある娘とその母親とその結婚相手の男性、さらに、親戚で友人の顧問税理士などが登場します。主人公がサスペンス小説にのめり込んでいるのは、働かなくても親の遺産で生活ができるからで、姉の写真が章を取った記念で、ほとんど道楽で開いたソフトクリーム屋の従業員なども登場します。それから、「なかなか暮れない」というタトルは寿命の延びた日本人の人生にも引っかけていて、主人公が認知した娘などのごく例外を別にすれば、主人公をはじめとして中年の登場人物ばかりです。そして、主人公に生活感がまったくない分、顧問税理士が生活感をすべて背負って登場し、再婚後の結婚生活を破綻させたりする一方で、主人公とその姉などは親の遺産に支えられつつも、のんびりと暮れて行く夏の夕暮れのように、とてもゆったりとした生活を送っています。高校教師の女性が別荘を探し出したりするのも、生活感という観点からは飛び抜けている気がします。とても興味深いのは、主人公と3人のシングルマザーとの関係性です。1人目は、子どもは認知したものの、籍を入れずに別れた女性、2人目はソフトクリーム店の元従業員で、主人公は何の関係もないのに、この女性が不倫の末に産んだ男の子を認知しています。3人目は高校時代の同級生で、最近男女の仲になったファッションエディターで、大きな男の子がいたりします。主人公はそれぞれに対して、関係ない子供の認知をして生活費を渡したりして、必要がない責任まで果たそうとするが、3人の女性は主人公のその根拠ない優しさ、というか、お人好しな行動のために、逆に、理不尽、というか、淋しげな思いをしているように見えます。途中で、テレビを見るのはやさしさの表れで、周囲の人とテレビ画面を共有できるのに対して、読書は共有できない、という観点がある女性から示されますが、これらの女性たちが人生を共有して、ともに生きて行く誰かを望むのに対して、主人公はあくまで読者の態度を貫いているように見えます。しかも、それが50歳という立派な中年男性を主人公に回っているわけですので、ダラダラ続く、というか、なかなか暮れないんだろうと思います。
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2017年05月13日 (土) 17:12:00

今週の読書は経済書や専門書に小説と新書まで合わせて計8冊!

今週の読書はやや先週よりも増えて、学術書である経済書に加えて、ノンフィクションの専門書に小説と新書まで合わせて計8冊でした。以下の通りです。

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まず、鍋島直樹『ポスト・ケインズ派経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は名古屋大学の研究者であり、出版社と考え併せても、学術書であることは明らかですので、それなりの覚悟で読み進む必要があると思います。いくつか書き下ろしの章があるとはいえ、ほとんどの章は既発表の論文で構成されています。ただ、本書でも指摘している通り、「ポスト・ケインズ派経済学」という一派があるのかどうかは疑わしく、そこはマルクス主義経済学とは一線を画します。もっとも、ケインズによってマクロ経済学が創始されたわけでしょうから、私のような開発経済学を専門とするエコノミストも含めて、成長や物価、開発などをマクロの立場から研究・分析する一派は広い意味でのポスト・ケインジアンと読んでも差し支えないような気もします。ということで、本書ではケインズ経済学あるいはポスト・ケインズ経済学の主要な特徴として、有効需要の理論を上げています。私なんぞは価格の硬直性と考えないでもないんですが、まあ、いいとします。その上で、ニュー・コンセンサス・モデルにおける余りに実物的な均衡理論を批判し、需要の増加が物価を引き上げるだけに終わって、産出水準を引き上げない点を疑問視するとともに、マクロ経済における投資の役割と、それゆえの公共投資委員会の設立をもくろんだケインズの意図などを解説してくれています。また、古典派的な貨幣ベール論を廃し、金融政策の基礎を与えたケインズ経済学の評価を確立します。最後の第4部では、カレツキがケインズとは独立に同じ結論に足していた可能性を議論しています。また、最近のことですので、サブプライム・バブル崩壊に関連して、独自にケインズ経済学をひも解いたミンスキーの金融不安定仮説についても触れています。全体として、右派的・保守的な新自由主義経済理論に代わって、左派的かつリベラルなケインズ経済学・ポスト・ケインズ経済学の確立に向けた議論が展開されています。ただ、少し不満だったのは、もっと不平等や格差に関する議論が欲しかった気がします。最終的には成長に収斂する可能性は高いものの、経済学や経済政策を評価する軸として、格差是正がどのような位置を占めるか、不平等の是正をどう進めるべきか、などなどの議論につなげる観点が少し稀薄ではないか、と私は受け止めてしまいました。

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次に、加藤創太・小林慶一郎[編]『財政と民主主義』(日本経済新聞出版社) です。編者・著者は官庁出身の研究者が多く並んでいた気がします。日銀出身者もいたりします。人材豊富なのかもしれません。本書は東京財団の研究活動の成果とされています。ということで、本書では財政政策が民主主義下における決定による何らかの歪み、特に、財政の膨張や財政収支の赤字化のバイアスを持つ可能性を議論し、可能な範囲でその是正策を展開しています。すなわち、経済政策の代表格として金融政策が政府から独立した中央銀行によって運営されている一方で、本書が対象とする財政政策は歳入・歳出が予算として議会で議決される必要があり、その意味では、強い民主主義下での決定ともいえます。本書の何人かの論者は、暗示的ながら、欧州などにおける財政に関する独立組織を例示して、財政政策についても金融政策と同じように、専門家による運営を示唆している場合もありますが、私はまったく逆の主張であり、金融政策も民主主義下では国民の意思を無視しえないと考えていますので、ノッケから本書とは逆の立場に近いことを実感しました。しかし、第2章ではシルバー民主主義のバイアスが実証的に確認されており、その意味では私の主張に近いチャプターもあったりします。財政赤字を問題視し、アプリオリに財政収支均衡を政策目標とするのであれば、本書のような議論もあり得ることとは思いますが、財政政策の目標というそもそも論を開始した議論を本書では展開しているので、かなり空回りした印象があります。すなわち、財政政策の主要な機能としては通常の教科書的には3点上げられており、第1に資源配分の改善、すなわち、公共財の供給、第2に所得の再分配、すなわち、格差の是正、第3にマクロ経済の安定、となります。その中で、財政政策が民主主義下で赤字化しやすいバイアスを持つ可能性は、ブキャナン・タロックも論じている通りであり、私も否定しないものの、こういった財政政策の機能を無視する形で財政規模の縮小や収支均衡を論じても仕方ないんではないか、というのが私の感想です。財政赤字を回避したければ、いろんな方法があり得ますが、その際の財政政策の国民生活への影響や上に上げた財政政策の機能に対する何らかのトレードオフがあるのかどうか、そういった視点なしに単なる財政の収支均衡だけを論じても何の意味もないんではないかと危惧します。

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次に、八代充史『日本的雇用制度はどこへ向かうのか』(中央経済社) です。著者は慶応大学の研究者であり、本書ではホワイトカラーの人事管理、特に、同一産業・同一市場で競争している企業の人的資源管理は、日系、米系等の資本国籍間の人材獲得競争を通じて一定方向に収斂するのか、あるいは異なったままなのか、という、雇用制度間競争の視点から日本的雇用制度にアプローチを試みています。産業としては投資銀行を取り上げており、市場としては英国のロンドンと東京に着目しています。なお、最終章は自動車産業を取り上げているんですが、投資銀行と対比させて、我が国の得意分野、というか、比較優位のある産業の代表として概観していると考えた方がよさそうで、本格的に自動車産業のホワイトカラーの人事管理を分析しているわけでもなさそうな気がします。ということで、本書の分析の対象として中心となるのは投資銀行なんですが、典型的な産業と呼びうるかどうかには私は疑問を持っています。すなわち、マクラガンのサーベイに代表されるように、賃金調査が行き届いており、業界の平均的な賃金水準が一目で明らかになっており、しかも、歩合制セールスマンよろしく、ホワイトカラー労働者各個人の売上げや収益への貢献がかなりの程度に明確だからです。本書が対象とするホワイトカラーの人事管理は、あくまで、企業のフロントとなる営業部門であり、もっとも人事管理の分析で難しいそうな間接部門、典型的には総務や人事や経理などのホワイトカラーの生産性分析や、それに基づく人事管理賃金設定などに関する分析ではありません。ただ、資本基準で収斂するのか、市場基準で収斂するのか、とくに、日系投資銀行の人事管理について、統計分析ではなく、ヒアリングという代表制に疑問の残る手法ながら、ある程度の傾向を明らかにしたのは、それなりに評価すべきかもしれません。ただ、限界の方を強く感じるのは私だけではなかろうという気がします。

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次に、山口敬之『暗闘』(幻冬舎) です。今年4月1日付けの読書感想文で取り上げた『総理』と同じ著者により、同じ出版社から出されていて、続編といえます。著者はTBSの政治部の記者であり本書も基本的に取材に基づくノンフィクションと考えられます。本書では第2次安倍内閣以降の現内閣の外交政策に焦点を当てています。基本的に、従来からの職業外交官、すなわち、外務省のお膳立てによる外交について、特に対中国外交については、ほぼ相手国の言いなりになった主体性のない外交として廃され、国益を重視した主体性があって官邸主導の外交を進めようとする意気込みに満ちています。その昔であれば、諸外国のことについては政治家には情報が少なく、在外公館のネットワークを持つ職業外交官の方に比較優位があったのかもしれませんが、情報については政治家でも遜色なく入手できるようになり、しかも、組織的な外交というよりは首脳間の人間的な信頼関係に基づく外交が目指されるようになった結果として、政治主導・官邸主導の外交の現在があるといえるんですが、著者はそこまでの目配りは行き届いていません。ページ数で数えたボリュームとしては、当然ながら、ほぼ半分が対米外交に割かれていて、残りを中国とロシアが占めています。本書も示唆されている通り、ロシアと中国では世界経済に占めるウェイトが桁違いなんですが、我が国の場合は北方領土問題が残されており、まだ平和条約が未締結となっているわけで、欧米外交に占めるロシアの比重よりは重いものがあるのは理解すべきです。さいごに、時期的な関係で仕方ないんでしょうが、やはり、北朝鮮の瀬戸際外交と挑発については十分な紙幅が割かれていません。次の課題なのかもしれません。

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次に、塩田武士『罪の声』(講談社) です。2017年本屋大賞にて第3位にして、第7回山田風太郎賞受賞作品ですから、とても話題の小説です。作者は関西系の新聞社のジャーナリスト出身だったと思うんですが、私はデビュー作の『盤上のアルファ』と『女神のタクト』ほか何冊か読んだ記憶があります。この作品は、グリコ森永事件を下敷きにして、ノンフィクションっぽく仕上げた小説だと私は受け止めています。どこまで真実に基づいていて、どこからが著者の創作なのかは、もちろん、明らかではありません。江戸期のナントカ草紙みたいなものではないかと思います。グリコ森永事件はギンガ萬堂事件と表記され、かい人21面相はくら魔天狗と変えられています。犯人一味の家族が追うラインとジャーナリストが追うラインの2ラインありますが、真実に近づくにつれて2つのラインは交わっていっしょになります。当然です。プロローグとエピローグが別にあるものの全7章構成となっていて、第6章の後半で事件のほぼほぼ全貌が犯人一味のひとりからジャーナリストに語られる一方で、犯人一味のうちのある家族のその後について第7章で明らかにされます。まあ、常識的なセンですが、犯人一味は経済ヤクザ、警官崩れ、裏社会のフィクサー、過激派学生のなれの果て、また、在日やエセ同和などからなり、事件の前面に押し出された身代金まがいの金銭目的ではなく、株式の仕手戦での利益を少なくとも目的のひとつとしている点が明らかにされます。第3章や第4章くらいまでの前半は、個人が追いかけるラインはともかく、ジャーナリストが追いかけるラインは英国まで取材に行ったりして、緻密に構成されて緊張感も高く、それなりに読者をワクワクさせるものがあるんですが、後半に入って、特に第6章で英国にいる犯人一味のひとりがQ&Aで事件の全貌を明らかにするところは、いかにも「アッサリと自供した」という感じで、物語が進むに従って、作者の筆の疲れもあったのかもしれませんが、ストーリーの進み方が荒っぽくなった印象があります。特に、真実を追いかけるジャーナリストが何の妨害工作や危険にも出会わずに、割と一直線に真実に近づいて行くのが、何やら物足りないと感じる人も少なくなさそうな気がします。とても面白い着想なんですが、筆力や表現力ではなく、ストーリーの構成にもう一工夫あったら、さらに出来がよくなるような気がします。でも、ノンフィクションというか、真実に近い内容を含んでいると想像させるに足る小説です。

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次に、中山七理『翼がなくても』(双葉社) です。オリンピックを視野に入れた女子アスリート、陸上短距離200メートルの実業団選手が、隣家で引きこもりになっている幼馴染みの運転する自動車にひかれて陸上選手の生命である足を切断してしまうところからストーリーが始まります。そして、その加害者の幼馴染みが自宅で刃物により殺害されます。他方、オリンピックからパラリンピックに目標を切り替えて、高価な義足を購入して専任のスタッフ体制を充実させて、ひたすら邁進する主人公の女性アスリートの姿に共感を覚えるものの、殺人事件の謎解きミステリとしては凡庸といわざるを得ません。私自身は、この作者の岬洋介シリーズとヒポクラテスのシリーズは何冊か読んでいる一方で、悪徳弁護士を主人公とする御子柴礼司シリーズと刑事を主人公とする刑事犬養隼人シリーズはほとんど読んでいないんですが、この作品は謎解きのミステリが凡庸であることを作者自身も理解しているためか、キャストは豪華な布陣となっていて、シリーズ主人公の御子柴礼司と犬養隼人がダブルキャストで登場します。主人公の女性アスリートが次々と高額の資金を必要とする障害者スポーツ向けの用具やスタッフを準備するのと殺人事件の謎解きが表裏をなしているわけですが、ミステリとしても、障害者スポーツ小説としても、凡庸極まりなく、かなり物足りない、というよりも、むしろ、ガッカリさせられた気がします。

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次に、森永卓郎『消費税は下げられる!』(角川新書) です。著者はテレビなどでもおなじみのJT出身のエコノミストです。財務省の宣伝工作で「常識」とすらなっている感がありますが、日本の財政は先進国の中では最も不健全で借金頼みになっている、という事実について反論し、よくあるパターンながら、債権債務のネットで見るとか、いろいろと数字を示した後で、本筋の日本の財政が日銀のQQEにより超健全になり、サステイナビリティに何ら問題がない、という結論が示されます。ここまでなら、今までに出版されたいくつかの書籍と同じ主張です。この先が本書の特徴であり、日本の財政は決して悪くないのだから、消費税は下げられるし、消費税を下げれば現在の消費の停滞は打破できる、と主張します。まあ、その通りです。単に、消費税は下げられる、というだけではタイトルを見ただけでも得られる情報なんですが、消費税以外にも、かなり具体的な政策提言が含まれており、特に、第4章の税・財政改革の諸提案だけでも読むに値すると思います。いかに現行の制度が富裕層に有利で格差を助長するものとなっているか、についても理解が深まるような気がします。全体として、かなりリフレ派の発想に近い、すなわち、正統派の経済学に基づいている、と私は受け止めています。

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最後に、常見陽平『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社新書) です。著者はリクルート出身の研究者らしいんですが、私はよく知りません。問いがタイトルになっていて、その回答は私には明らかなんですが、どうしても、質的な回答にならなければ得心が行かないということなんだろうと受け止めています。すなわち、私の目から見て、非正規の季節雇用がこれだけ増加しても残業があるのは、業務に対して雇用者が不足していて、量的に業務量とそれを実行すべき雇用者がアンバランスだからです。それを何とか生産性やカギカッコ付きの「質的な改善」で乗り切ろうということなんですが、ある程度までは出来るとは考えられるものの、業務を減らすか雇用を増やすかしか根本的な解決がないのに、なぜかその周辺をグルグルと回って、本質的な解決を提示せずに済むように取り計らっているようです。政府の働き方改革の中で、本書にも取り上げられている電通の過労自死事件があり、上辺だけ夜の10次で仕事を終えても、業務量としてせねばならない仕事がある限り、お持ち帰りのサービス残業をせざるを得ません。ですから、雇用を増加させるのがもっとも根本的な解決なんですが、そうすると雇用コストが上昇しますから、そこで初めて業務の削減に目が行く、ということなんだろうと思います。ヤマト運輸の現在のやり方ですし、本書でも最後の方は業務を厳選するという方向性も示されています。いずれにせよ、このタイトルの本書がこの内容ですから、ワーク・ライフ・バランスの取れた日本の未来はいつになればやって来るのか、とても不安な気がします。
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2017年05月06日 (土) 13:58:00

今週の読書はゴールデンウィークでサボって計6冊!

今週はゴールデンウィークということもあり、ボケボケと過ごしています。読書は以下の通りで、計6冊です。

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まず、エステル・デュフロ『貧困と闘う知』(みすず書房) です。著者はこのブログの読書感想文でも2012年7月13日付けで取り上げた『貧乏人の経済学』の共著者であり、米国マサチューセッツ工科大学の開発経済学を専門とする研究者であり、同時にフランス開発庁の資金供与による「貧困と闘う知」講座の初代教授でもあります。本書はその講義録であり、フランス語の原題は LE DÉVELOPMENT HUMAINLA POLITIQUE DE L'AUTONOMIE となっていて、副題がともに Lutter contre la pauvreté のⅠとⅡです。原書は2010年の出版です。副題を邦訳書のタイトルとし、第1部が人間開発、第2部が自立政策と題されていますから、メインとサブのタイトルを逆転させつつも、ほぼ直訳といえます。邦訳された本書の第Ⅰ部では教育と健康が、第Ⅱ部ではマイクロファイナンスとガバナンス・汚職がそれぞれ取り上げられています。『貧乏人の経済学』でも注目されたランダム化比較実験(RCT)を駆使して、低開発国における経済発展の方策を探っています。第Ⅰ部の教育と健康については、まあハッキリいって、常識的な結論が得られています。いずれも外部性のある分野であり、政府の援助プログラムの有効性を検証しています。メキシコのPROGRESAの成功などを取り上げ、イースタリー教授らの政府援助を廃してインセンティブに基づく制度設計ではなく、サックス教授のようなビッグプッシュに至る前に政府開発援助が有効であることを確認した結果となっています。常識的というか、今さら感すらあって、特に目新しくもない一方で、興味深いのは第Ⅱ部です。特に、第3章はマイクロファイナンスを問い直す、と題され、金融へのアクセスについて分析が進められていて、元祖ともいうべきグラミン銀行の連帯責任の下での女性に原則特化した融資制度について検証を行い、取りあえず、現在のところ、男性と女性にランダムに融資した実験というものはなく、逆から見て、女性への融資が特に効果的であるというエビデンスはないと主張しています(p.117)。ただ、本書の著者に表現では「信頼できる評価を利用することができない」ということであり、本書でも認知されているように、女性に対する教育の充実が経済発展のゴールデンルートであることは多くの開発経済学者で共有されており、何らかの性差はあるのかもしれない、と私は考えないでもありません。当然ながら、マイクロファイナンスは開発経済学の実験材料を提供するために実施されているわけではありません。加えて、元祖のグラミン銀行とともにメキシコのコンパルタモスの例を引きつつ、逆選択、モラル・ハザード、情報の非対称性などの金融サービスにつきものの問題点についても考察を進めており、さらに、金融に限らないテーマとしてソーシャル・キャピタルの形成や取引費用についても論じていますが、結論はそうクリアではありません。

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次に、J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社) です。米国のいわゆるラスト・ベルト=錆びついた工業地帯に生まれ育ち、高校卒業後に海兵隊からオハイオ州立大学とイェール大学ロースクールを出て弁護士となり、現在はシリコンバレーで起業した会社の社長を務めるいかにもアメリカン・ドリームの立志伝中の人物が自伝的に自分自身の生涯、イェール大学のロースクールを出るあたりまでを綴っています。ヒルビリーとか、レッドネックなどと呼ばれる米国の白人貧困層の赤裸々な生活実態が明らかにされています。作者は自分自身について、白人にはちがいないが、ニュー・イングランドなどのアメリカ北東部のいわゆるワスプ=WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)に属する人間ではなく、スコッツ=アイリッシュの家系に属し、大学などの高等教育を受けることのない労働者階層の一員として働く白人アメリカ人の家系で出であると位置づけています。そして、何がヒルビリーをヒルビリーたらしめているかという点については、経済社会的な雇用の質の低下などではなく、本書の著者はヒルビリーたち自身の思考パターンや行動原理を問題視しています。見栄っ張りで自分たちが上流階級にいるかのような金の使い方、あるいは、我慢ができずにすぐに暴力に訴えるやり方、また、社会的な秩序を軽視ないし無視し力による支配を目指したり、教育の価値を理解せずに女々しいことと捉えたり、などなどといた個人レベルの問題点をいくつか本書の中で指摘しています。もちろん、成功したアメリカン・ドリームの体現者が上から目線で評論家のように指摘しているという嫌いはありますが、ひとつの見識かもしれません。昨年の米国大統領選挙のトランプ大統領誕生の背景となる米国経済の一面を垣間見ることができるかもしれません。

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次に、小木津武樹『「自動運転」革命』(日本評論社) です。著者は慶応大学出身で群馬大学の工学研究者です。ですから、ソフトウェアかハードウェアか知りませんが、自動運転に関する工学的な専門家といえます。ただ、本書では社会経済的な影響についても考察しています。工学的なソフトとハードの解明については、私は専門外でどこまで理解できたのかは自信がないんですが、第3章の自動車産業への影響、最終章第7章の自動運転の未来像については、私でもとても興味深く読めました。自動車産業については、コストカットの低価格路線かニッチな市場の探索か、という二極化の方向が示されていますが、少し物足りません。というのは、自動車産業に限らず、製造業や付加価値の低いサービス産業など、かなり多くの産業セグメントが、少なくとも日本においては、この両極化の方向をたどる可能性が高いからです。自動運転の専門家としては、工学の専門外かもしれませんが、こういった一般論ではなく、もう少し突っ込んだ議論を展開して欲しかったところです。最終章については、あくまで工学的な可能性に基づく推論としても、とても興味深かったです。すでに公務員の定年の60歳に手が届こうかという私にとっては、およそ平均寿命の先の未来も含まれていたりしますが、確かにこういった方向かもしれないと思わせるものがあります。ただ、2点だけ異論をさしはさむと、ユーザの年齢層を考えると、本書の著者が主張するように、運転技能の低下を自覚した高齢者層から自動運転車が普及するのではなく、自動車を単なる移動手段としか考えないミレニアル世代から普及しそうな気がします。というのは、高齢者はあくまで運転技能の低下を自覚しなさそうだからです、最後まで手動運転にこだわって事故を頻発させるのは、現状でもそうですが、高齢者ではなかろうかという気がします。もう1点は、手動運転を喫煙に例えていますが、高齢者が自分の運転技能に対する誤った評価に基づく手動運転にこだわる例を別にすれば、私は逆だろうと思っています。すなわち、洋服に対する着物のような位置を占める可能性が高いと私は想像しています。例えば、いつの時点かは忘れましたが、ポルシェのCEOがポルシェのオーナーなら自分で運転したいだろう、と発言して、自動運転の技術開発に消極的な姿勢を示したことがあります。こういったカンジではないでしょうか。いずれにせよ、ここ何週間かで自動運転に関する本を何冊か読みましたが、いよいよ時代の流れがそうなっていることを実感させられました。

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次に、吉田修一『犯罪小説集』(角川書店) です。作者は我が国を代表する小説家の一人です。それにしても潔いタイトルです。『怒り』や『悪人』に連なる系譜の作品と私は受け止めています。すなわち、犯罪に関連する短編集であり、「青田Y字路」、「曼珠姫午睡」、「百家楽餓鬼」、「万屋善次郎」、「白球白蛇伝」の5篇が収録されています。何らかの意味で、実際にあった犯罪行為を作者なりにデフォルメしているんではなかろうかと思いますが、オモテの世界の公務員である私には、3話目の「百家楽餓鬼」が大王製紙のギャンブル事件であるとしか判りませんでした。少し違うかもしれませんが、最終話の「白球白蛇伝」は清原なんでしょうか。ただ、こういった実際の事件とは無関係に読む方が、自由にイメージを膨らませて読む楽しみがあるのかもしれません。簡単に5話を要約すると、女児が行方不明になったことで揺れる小さな村の夏、三角関係のもつれで店の客に内縁の夫殺しを依頼したスナックのママ、バカラ賭博で何億もの借金を重ねる大企業の御曹司、老人たちの集落で孤立した60代の「若者」が振るう凶刃、華やかな生活から抜け出せなかった元プロ野球選手の借金の末の凶行、と並びます。犯罪や罪の行為に関する作者の鋭い、鋭すぎる目線を通じて、犯罪を犯してしまう人間とその犯罪者を取り巻く周囲の人間たちが浮かび上がってきます。何ともいえない哀情あふれる哀しい行為とその犠牲となった人々のさらなる哀しみが胸を打ちます。

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次に、村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP研究所) です。著者は私はよく知りませんが、童話や児童文学やファンタジー小説などを出版しているようで、私はこの作品で初めて接しました。主人公の月原一整は地方都市にある老舗の百貨店のテナントである銀河堂書店に勤め文庫本を担当する物静かな青年であり、人づきあいが苦手なものの埋もれていた名作を見つけ出して光を当てるケースが多く、店長から「宝探しの月原」と呼ばれ信頼されていたんですが、ある日、店内で起こった万引き事件の犯人の中学生が百貨店を飛び出したところに自動車事故にあい、万引き犯とはいえ配慮を欠いた行動として銀河堂書店を辞めて、ネット上のSNSでのお付き合いから、この作品のタイトルとなっている桜風堂書店に勤務します。そして、銀河堂書店から桜風堂書店にかけても、テレビドラマなどのシナリオライターが初めて挑み、最初から文庫本で発行される小説の販促に力を入れる、というストーリーです。小説に登場する人物相関図が出版社の特設サイトにあるんですが、とてもキャラの作りが平板で、しかも、「小説は事実よりも奇なり」というカンジで、ご都合主義的に出来上がっていて、読んでいて感動がないというか、少なくとも、ビジネスを経験した大人の読者には感情移入が難しいような気がします。要するに、おままごとのような書店経営が透けて見えます。というか、経営者ではない書店員の受け止めはこんなものかもしれませんが、1か所だけアマゾンが登場して、登場人物もSNSなどで盛んに情報交換・交流したりする一方で、なぜか、書籍販売だけは出版社の営業も含めて超アナログだったりします。このあたりの矛盾に気づかずに書き進んだり読み進んだりする神経が私にはよく理解できません。しかも、本を売る側のセルサイドの主張がいっぱいある一方で、バイサイドの読者側の感想がなくはないものの乏しいような気がします。顧客のニーズを書店員が作り出すという昔懐かしい発想の営業活動なのかもしれません。いずれにせよ、ストーリーといい、登場人物のキャラといい、私の読みたい小説のレベルには達していなかった気がします。楽しく読めましたが、児童文学っぽい平板な印象でした。もっとも、中村文則のようなノワール小説も私には理解できませんが、その逆の児童小説っぽいこの作品も評価しません。

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最後に、深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書) です。著者は東洋英和女学院大学の研究者であり、専門分野はドイツのプロテスタンティズムのようです。ということで、今年2017年はルターが95か条の提題により宗教改革の幕を切って落とした1517年からちょうど500周年に当たります。その宗教改革によって発生したキリスト教の新派であるプロテスタンティズムについて本書は論じています。一般的に、カトリシズムがバチカンの法王や法王庁を頂点とするピラミッド型の宗教である一方で、プロテスタントについては聖書が何よりの拠り所ですから、その解釈によっていろんな派閥に別れるとされています。また、私のような仏教徒には理解し難いんですが、本書でも取り上げられている通り、アウクスブルクの宗教平和により領主の信ずる宗教がその領土・領民の宗教となります。その最も典型的な例が英国国教会であることは言うまでもありません。王権神授説もさることながら、ヒストリアンとしての私の解釈によれば、領主裁判権が神の名の下に実行される影響ではないか、と考えているんですが、日本の江戸期などの封建制よりも農奴としての土地への緊縛の度合いが高かった欧州における宗教的特徴のひとつといえます。本書の最後の2章は保守としてのプロテスタンティズムとリベラルとしてのプロテスタンティズムを論じていますが、当然ながら、後者の典型例がヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』となっています。二重の予定説として、神の祝福を受ける人は現世で成功しているから、しっかり働いて社会経済的に成功することが天国への近道、という見方です。そして、本書では、私もほのかに感じていますが、ルターの信仰義認と浄土真宗の他力本願がとても似ていると指摘しています(p.63)。
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2017年04月29日 (土) 13:27:00

今週の読書はやっぱり9冊!

今週の読書も経済書をはじめとして計9冊でした。3月後半の読書から、週に8~9冊というペースが多く、中には11冊読んだ週もありましたが、かなりオーバーペースです。来週のゴールデンウィークは時間的な余裕あるのでいいんですが、さ来週くらいから少しペースを落としたいと考えています。

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まず、ロバート D. パットナム『われらの子ども』(創元社) です。著者は米国ハーバード大学の研究者であり、前著の『孤独なボウリング』もベストセラーになっています。本書の英語の原題は Our Kids であり、邦訳のタイトルはほぼ直訳といえます。2015年の出版です。米国における子供の不平等や貧困をインタビューと統計分析によりクローズアップしています。1950-70年代くらいまでの米国における上昇志向のアメリカン・ドリームについて、パットナム教授の体験に即して描き出した後、第2章から家族、育児、学校教育、コミュニティ、のそれぞれについてインタビューに基づく実例の提示と統計分析を示し、最終章で解決方法を論じています。一方で、恵まれた家庭の出自を活かしてビジネス・スクールを出てウォール街の投資銀行で働いたり、あるいは、ロー・スクールを出て弁護士として成功したりして、いかにもアメリカン・ドリームの体現者のような人々がいたりするんですが、他方では、父親が強盗で収監されている時にも母親は不特定多数の男と付き合っていて、子供本人はドラッグの中毒で、生徒によって銃が持ち込まれるような高校に通っている、といったやや極端な例が示されたりもしますが、ひとつひとつの実例も、統計分析も、受け入れられるものだと感じました。パットナム教授が特に強調するのは、親が大学を出ているかどうかで、各章後半の統計分析では、これでもかこれでもかというほど、いろんなグラフについて大学卒業の親の場合とそうでない親の場合を比較しています。しかし、各種の統計分析は著者も認めるように強い相関関係は認められるものの、決して因果関係を明らかにしているわけではありません。米国における子供の機会格差の現状とその処方箋を明らかにしようと試みていますが、すでに、世代をまたいで機会格差が親から子に継承される段階に入った米国で、どこまで時間をかけて解決できるのかはまったく不明です。日本に応用するとすれば、第1に、米国に見られるように、親から子に継承されるほどの機会格差の拡大をまず防止する必要があります。そして第2に、「下流老人」や「老後破産」などの高齢者の不平等に目が行きがちな日本の現状を考えると、もっと子供の不平等や貧困についての関心を高める必要があります。私の持論ですが、高齢者に手を差し伸べても、10年後も高齢者は高齢者のままですが、子供を救うことができれば10年後15年後には立派に成人して納税者に転じている可能性が十分あります。シルバー・デモクラシーを超えて子供の格差や貧困の問題がもっとクローズアップされることを私は強く願っています。本書がそのきっかけになるんではないか、とも期待しないでもありません。

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次に、ホッド・リプソン&メルバ・カーマン『ドライバーレス革命』(日経BP社) です。著者はコロンビア大学機械工学教授でまさにドライバーレス・カーのテクノロジーの最先端を専門とする研究者とテクノロジー・ライターでありドライバーレス・カーや人工知能や3Dプリンティングといった革新的なテクノロジーに関する執筆・講演活動を行っている専門家です。英語の原題は であり、2015年の出版です。ということで、身近にある自動車が自律型のロボットとなり、AIを搭載してドライバー不要の輸送機関になる未来像に関して、工学的、というか、テクノロジーの観点から将来性や実現性や課題などを論じています。ですから、私の専門分野に近い経済社会的な視点からの議論ではありません。また、ドライバーレス・カーに特化した進歩を遂げたわけでもないんでしょうが、人工知能(AI)に関して一般的なディープ・ラーニングなどの解説も豊富です。特に、AIに関してはチェスやクイズ番組でのIBMのディープ・ブルーやワトソンの活躍が人口に膾炙していて、ロボトットに関しては自動車や電機などの生産現場でも多く見かけるなど、クローズな場での専門的な用途に特化したロボットやAIはそうでもないんでしょうが、自動運転というドライバーレスな自動車のロボット化やAI搭載については、オープンな場で、しかも、人命がかかわりかねないケースですので、それまでのテクノロジーと一律に論ずることはムリがあると私は考えていて、本書を読んだ段階でも、テクノロジー的な理解がはかどらないせいでもあるものの、まだ、どこまでドライバーレス・カーを社会が許容するか、という問題には結論を出せていません。本書では何らかの尺度での安全性が人間が運転する2倍になれば許容すべきという提案が示されていますが、例えば、薬のように専門家が判断する効果ではなく、事故や故障といった社会的な影響が広く及ぶ外部不経済については専門家が科学的な見地から判断すべきなのか、社会的な通念も含む許容度の問題なのかが、私の中では結論が出ていません。経済政策で例えれば、金融政策は専門家が政府から独立して判断・決定すべきであり、財政政策は主権の存する国民の代表である議会で決定すべきである、といった制度的な政策決定の方法論がかなりの程度に確立しているわけですが、革新的なテクノロジーであるドライバーレス・カーについては、そういった判断のポイントも含めた国民的な議論が必要なのかしれません。

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次に、カート・キャンベル『The Pivot アメリカのアジア・シフト』(日本経済新聞出版社) です。著者は民主党系の外交研究者であり、第1次オバマ政権の当時のヒラリー・クリントン長官の下で国務省の次官補を務めています。ですから、現在のトランプ米国政権の、特に、対アジアの外交政策とどこまで関連があるかははなはだ疑問なのですが、pivot 名づけられた旋回政策の考え方を軸に、アジアへの旋回政策の歴史的背景、外交・軍事・安全保障をはじめ、通商や経済開発などの各分野に渡り、米国が今後どのような考え方やアプローチで日本をはじめとするアジア諸国に関与していくのかを具体的に論じています。特に、歴史的背景は政権交代があっても不変ですから、それなりに参考にはなります。でも、古い歴史的事実かもしれませんが、アジア各国民に対する欧米からの偏見の歴史を持ち出しても、現状には参考にならない気もします。ただ、戦後のマッカシーズムの影響で対中国外交政策がかなり遅れたのは事実かもしれません。オバマ政権のころのリベラルでマルチラテラルな外交と違って、現在のトランプ政権はかなり内向きでユニラテラルな外交・安全保障政策を実行している印象が私にはあります。シリアのアサド政権に対する巡航ミサイルの発射などは、かつてのブッシュ政権下で多国籍軍を組織した方法論とはかなり隔たりがあるような気がします。ですから、本書の議論がどこまで現在のトランプ政権で共有されているかはまったく不明としかいいようがありません。その意味で、本書で展開されているのは「過去の議論」、あるいは、オバマ政権のころのレガシーなのかもしれません。最後に、私が理解できなかったのは、米国だけでなく欧州も含めてみんなで旋回する、という著者の主張です。すなわち、私の理解では、旋回するのは米国であって、旋回の元が欧州や中東で、旋回の先がアジア、というシフトだったんですが、「欧州も含めてみんなで旋回」といった趣旨が2度ばかり出て来たんですが、専門外で十分なリテラシーのない私の読み方が浅かったのかもしれません。

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次に、山田敏弘『ゼロデイ』(文藝春秋) です。著者はジャーナリスト、ノンフィクション作家と紹介されています。タイトルのゼロデイとはOSを含むソフトウェアのまだ発見されていない脆弱性を指す専門用語だそうで、本書にも登場しますが、ソフトウェアのゼロデイを発見することをビジネスにしている個人や集団もあったりします。ということで、本書の冒頭は、いかにもありそうなサイバー戦争のフィクションから始まり、2009年に世界で初めて実施されたサイバー攻撃、すなわち、イランの核燃料施設をマルウェアに感染させ、遠心分離機を破壊してしまった攻撃は、米国の発信だといわれていますが、これはゼロデイを用いたものであったことを明らかにしています。また、こういったサイバー攻撃の最大の特徴のひとつは、アトリビューション、つまり、攻撃者が誰かが極めて巧妙に隠蔽されている場合が多く、どこの誰に対して反撃すべきかが不明である点だと指摘しています。同時に、インターネットでさまざまなモノがつながるIoTについては、セキュリティ的にはばかげたシロモノであると喝破しています。そうかもしれません。また、私なんぞのシロートから見れば、いかにもサイバー空間でのスパイ合戦としか見えないんですが、いろんな情報に関するセキュリティとそのハッキングの現状が明らかにされます。例えば、スノーデンによって暴露されたNSA(米国家安全保障局)による世界規模での監視網、あるいは、不気味な動きを見せる北朝鮮やイラクなど、サイバー攻撃の歴史を紐解きながら今、世界で何が起こっているのかを解説しています。そして、最後には、昨年の米国大統領選挙では、いくつかの意味でのサイバー攻撃がトランプ大統領に有利に働いた可能性を指摘しています。すなわち、クリントン候補が国務省長官の際に私用メールを使った疑惑がありますし、ロシアによる民主党へのサイバー攻撃が仕かけられたことは事実らしいです。そして、日本もすでにサイバー戦争に巻き込まれている可能性も示唆されています。最後に、本書で指摘されている高度なサイバー戦ではなく、もっとローテクで原始的ななやり方ですが、ロシア発のフェイクニュースがフランス大統領選挙などにも一定の影響を及ぼしている可能性があり、以下のハフィントン・ポストでも報じられています。ご参考まで。


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次に、曽我謙悟『現代日本の官僚制』(東京大学出版会) です。著者は京都大学の行政学の研究者であり、出版社からも明らかな通り、かなり純粋に学術書であり、定量分析も行われていることから、本書を読み解くにはそれなりの水準の知性が必要そうな気もします。ということで、我が国の官僚制についての論考ですが、最も狭く官僚制を定義しています。すなわち、ウェーバー的な文書による業務の遂行やメリットシステムなどの特徴を備え、大企業などを含めて多くの組織に見られる官僚制ではなく、立法府などと並び称される三権のうちの行政府において業務を遂行する官僚の組織、しかも、地方政府ではなく中央政府の官僚組織による業務の遂行や組織形態などを本書では対象としています。その我が国の官僚制について、特徴や問題点、パフォーマンス、過去の歴史とともに将来の方向性などについて論じています。第4-5章では世界の他国の政府と比較した上で定量分析も試みていて、我が国の官僚制の特徴が明らかにされています。まず、一般的に行政については、いわゆるプリンシパルとエージェントの関係として捉えられるんですが、第1段階の立法府では、選挙民たる主権の存する国民がプリンシパルになって、国会議員がエージェントになる一方で、第2段階の行政府では、国会議員がプリンシパルになって、官僚がエージェントになるという形を取ります。そして、日本の官僚制については、従来から、当地の質は高いが代表制が低い、という特徴的な位置を占めると本書は指摘し、日本に限らず、アジアの主要国では官僚の能力が高くて、従って、政策の質が高く、経済発展に貢献している、とも指摘しています。その要因のひとつとして、一部ながら、我が国のような議院内閣・比例代表制の下では、議会と執政=内閣のある程度の距離が執政による官僚制への介入を抑制させつつ、官僚の技能投資を引き出すとの結果を第5章の定量分析から得ています。また、官僚人事に対する政治介入の不在については、特に財務省の例を引きつつ、事務次官人事の間隔を安定させて、それに局長級人事を連結させることにより、ほとんど制度化したためである、と分析しています。財務省では、主計局長から事務次官に昇進するのが通例となっており、次の次の次の事務次官まで決まっている、とも称されており、こういった制度的に決まりきった人事を行うことにより政治介入を防止している、という結論のようです。ただ、日本の官僚制の大きな弱点は代表制の欠如であるとし、他の事項とも併せて、今後の課題をいくつか提示しています。私の直感的な理解としては、本書で扱う狭義の官僚制については、おそらく、政策の企画立案や執行に関しては国民の信頼は厚いものの、かつては「でもしか教師」と同じレベルで「でもしか公務員」とも称されたにもかかわらず、「失われた20年」の中で、公務員の待遇が民間企業平均よりもとてつもなく優遇されたイメージを惹起し、質の高さと比較しても待遇が手厚過ぎる、との印象が広まったのが大きな蹉跌ではなかったかという気がしています。まあ、自分自身が本書でいう狭義の官僚の一員ですので、何とも客観的な見方は難しいような気がします。

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次に、 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ』(講談社) です。本書は叢書「東アジアの近現代史」の第1巻として配本されています。著者は学部は神戸大学卒で、大学院が京都大学と記憶していますが、京都大学宮崎市定教授門下なんでしょうか、いずれにせよ、宮崎教授と系譜の近い東洋史研究者であり、本書はタイトル通り、清朝の興亡を取り上げています。副題が「朝鮮出兵から日露戦争へ」となっており、まさに、日本と関連付けて豊臣秀吉による朝鮮出兵から、20世紀初頭の日露戦争までの期間を対象としています。なお、日露戦争とはまさに日本とロシアが戦火を交えたわけですが、ほとんどが当時の清の領土内で戦闘が行われていることは周知の通りでしょう。本書で私が着目したのは2点あり、ひとつは蒙古人の元と同じであって同じでない点ですが、著者のいうところの「入り婿」として、満洲人が漢人を支配するという形ではじまった清朝なんですが、基本的に直前の王朝だった明と同じで皇帝独裁体制であった、ということです。本書でも指摘されている通り、乾隆帝の時代に清朝は最盛期を迎え、その後の皇帝が暗愚であったわけでもないのに、時代の流れとともに凋落を始めます。いわゆる「内憂外患」なわけで、典型的には、内憂では白蓮教徒の乱と太平天国の乱、外患ではアヘン戦争とアロー戦争が上げられ、特に内憂に関しては、人口の増加とともに移民も増えて、そのために、いかにも中国的な秘密結社が内乱を生ぜしめた、という点です。もうひとつ私が注目したのは、明朝から清朝にかけては皇帝独裁体制の下で、いわゆる封建的な重層的支配体制となっていない点です。すなわち、我が国の江戸期などがそうですが、封建体制下では国王、日本では天皇というよりは将軍が天下人として君臨して大名が幕閣に参画する一方で、その大名も国元に帰れば家老などに支えられた政権があり、その家老や有力武士にも用人がいて、等々と重層的な権力体制が組まれています。でも、明朝や清朝の中国では皇帝が唯一の天下人となっていて、ただし、日本や西欧のような中央集権体制とはなっておらず、地方に有力な郷紳が存在する、という体制になっている点です。ですから、日本鳥がって中国が多民族から成っていることもあり、国民国家の形成が難しそうな気がします。まあ、いずれにせよ、現在の東アジアにおける日中韓に北朝鮮を加えた現在の地政学ないし力学的な現状を把握する上で、それなりの歴史的な認識は必要なわけでしょうから、特に、現在のように北朝鮮がほぼ末期的な状態を示す中で、こういった歴史書をひも解く必要があるような気がします。最後になりましたが、本書は決して学術書ではなく、一般向けの教養書と私は考えています。

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次に、山内マリコ『あのこは貴族』(集英社) です。作者は注目の小説家です。今週の読書で唯一の小説です。東京出身で恵まれた家庭に育った「貴族」のような華子と、田舎から上京して苦労して東京生活に対応し男性との付き合いはそれなりにうまくこなす美紀の2人の女性を軸に、幼稚舎から慶應でイケメン弁護士で国会議員も出した家計の男性がからんだコメディ、というか、恋愛小説です。この作者の小説は、私は『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』くらいしか読んだことがないんですが、この2冊を今までのパターンとすれば、2点違った点を上げることが出来ます。ひとつは主人公が田舎の女性ではなく東京生まれで東京育ちであり、ひと昔前の言葉でいえば、上流階級の出身だということです。もうひとつはセックスがそれほど出てこないことです。何だか忘れましたが、猫に関する短編を集めたアンソロジーでも山内マリコはセックスを取り上げるんだと呆れた記憶があります。取りあえず、アラサー女子の結婚や男女間の交際に関するストーリーです。場所は東京で、学校は慶應義塾を中心とする行動半径なんですが、私の場合は京都でキャリアの国家公務員ですから、かなり大きな違いがあります。でも、私はその昔のタイプの公務員ですから、同僚や職場の友人の中に、この作品に出てくるいい方に従えば、有名な建設会社と同じ名の名字を持つ女性を娶った人や国会議員の家柄の女性と結婚した人は、割といたりします。たぶん、外交官は私のような単なるキャリアの国家公務員よりも、もっとそうなんではないかと想像しています。外交官はいうに及ばず、公務員や会計士や弁護士は試験に合格する必要があり、それに、東京ではないとしても、京都出身というのは少なくとも田舎ではないと見なされる場合が多いので、私はス超すこの小説の作者とは立ち位置が違うと感じていたんですが、田舎の女性を主人公にする小説から脱皮して、山内マリコの新境地なのかもしれません。

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次に、竹信三恵子『正社員消滅』(朝日新書) です。著者は主として朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリスト出身の研究者です。非正規雇用が4割に達した現在、非正規雇用だけでなく、正規雇用のいわゆる正社員においても労働条件は過酷なものとなっています。名ばかり管理職とか、ブラック企業などがメディアにしばしば登場し、最近では名ばかり正社員ともいえる待遇の悪化が見られます。こういった雇用の現場をジャーナリストらしく、ていねいに取材した結果が本書に収録されています。基本的に、私は非正規雇用の拡大は形態を変えた絶対的剰余価値の生産であろうと受け止めているんですが、雇用だけでなく、ビジネスの本質としても、ヒット・エンド・ランというか、「焼畑農法」的なビジネスが広がっている印象を私は持っており、それが消費の場において耐久消費財の購入を躊躇させる要因のひとつとなっている気がします。さらに、過酷な労働条件の下で生産された製品が、価格以外の品質面で消費者に魅力的なわけもなく、所得面の低さも合わさって、消費を低迷させている大きな要因のひとつとなっている可能性があります。不安定な雇用を起源とする需要サイドの低所得、供給サイドの品質の低さ、そして、企業活動としての「焼畑農法」的なビジネス慣行の3つが消費低迷の大きな要因となっています。加えて、長期的なマクロ経済を考えると、このブログでも何度か主張したように、低賃金で長期間の熟練不要な作業に重視していると、本来は几帳面で勤勉な日本人でもデスキリング=熟練崩壊が生じる可能性が高まります。本書では、こういった憂慮すべき労働の実態をリポートしています。

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最後に、深沢真太郎『数学的コミュニケーション入門』(幻冬舎新書) です。著者はビジネス数学の専門家・教育コンサルタントだそうです。幻冬舎のサイトで連載されていた「数学的コミュニケーション入門」のコラムを取りまとめて出版したもののようです。ですから、幻冬舎のサイトをたんねんに見れば、本書を読書する必要はないのかもしれません。先週の『文系のための理数センス養成講座』の続き、というカンジで軽く読んでみました。いかにも、コンサルらしく先週の読書結果と同じで、上から目線の「教えてやる」スタイルの本ですので、好き嫌いはあるかもしれませんが、こういったスタイルに有り難味を感じる人も少なくないような気がします。本書の最初の指摘ですが、いかにも日本的な正確性にこだわるよりも、大雑把に概数で把握して伝えた方が判りやすい点については私も大いに同意します。私の勤務する役所なんぞは典型的なんですが、河上肇のように「言うべくんば真実を語るべし、言うを得ざれば黙するにしかず」といったように、外に対して何らかの表明をするのであれば正確でなければならず、正確な回答が不可能ならゼロ回答にする、というのは、世界的には通用しない気がしますし、概算や概数でも何らかの情報がある方がないより大きくマシだという点は理解すべきです。また、本書で著者が指摘する第2の点は相関関係についてであり、これも、最近読んだ本で相関関係ではなく因果関係こそ重要との指摘はあるものの、特にビッグデータの世界では因果関係を確定するよりも相関関係を見出すことの方が重要だと私も同意します。ほかに、スキマ時間をうまく過ごして数学的センスを磨く、とか、絶対にやってはいけないグラフのNG行為などは受け取り手により感想は異なることと思います。ただ、いくつかの点でグラフをうまく使ったプレゼントいうのは印象的であることについては私も異論はありません。むしろ、グラフの色使いなのかもしれません。
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2017年04月22日 (土) 13:24:00

今週の読書は経済書や専門書に加えて話題の小説など計9冊!

今週は経済書や専門書・教養書に加えて、直木賞受賞の小説や本屋大賞1位2位、というか、直木賞と本屋大賞1位は同じなんですが、そういった話題の小説も含めて計9冊でした。これから夕方にかけて図書館を自転車で周る予定ですが、ゴールデンウィーク直前の来週の読書やいかに?

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まず、橘木俊詔『家計の経済学』(岩波書店) です。著者は著名なエコノミストであり、私の母校である京都大学経済学部をホームグラウンドにしていました。本書は3部構成となっており、家計の歴史的変遷、家族の変化、格差・貧困をそれぞれで取り上げています。GDPのやく3分の2を占めるのは家計による消費であり、成長や景気を論じる際、マクロ経済学的に重要であるだけでなく、本書の第3部で着目している格差や貧困などのマイクロな経済学の観点からも、かつての1億総中流時代を終えて、最近時点で重要性が増しています。本書は日本の人口変動、家族形態の変遷から説き起こし、働き方や所得分配や消費・貯蓄動向を分析することによって、明治から現代まで日本人がどのような家計行動をしてきたかを示そうと試みています。家計に関する経済学限りませんが、戦前と戦後では大きな断絶があり、明治から戦前の日本経済においては女性の労働力率のM字カーブは見られず、終身雇用や年功賃金なども戦後の高度成長期の人手不足に整備された雇用慣行といえます。また、家計の経済学とは直接の関係がないことから本書では取り上げていませんが、企業の資金調達なども戦後のメインバンク制による間接金融ではなく、戦前は社債の発行などによる直接金融でした。戦前は格差が大きかった一方で、戦後は単騎に終わったとはいえ財産税の徴税もあって、格差縮小が一気に進んだという点は見逃されるべきではありません。ただ、最近時点では非正規雇用の拡大による格差の拡大が観察されるのは本書でも指摘する通りです。また、女性の就業についてもダグラス=有澤の法則が支配的になった時期もありましたが、最近では少し崩れつつあるようです。最後に、本書では、第12章で貧困について分析を加えており、貧困拡大の主因としてバブル経済崩壊後の深刻な不況による失業の増加と賃金の低下、また、そういった状況下での企業のリストラ策の一環としての非正規雇用の増加を、著者は第1と第2の原因として上げていますが、そのわりには、成長に対して消極的な考えを本書でも散りばめているのが私には理解できません。低成長下ですべての貧困対策を政府が担うべき、という意見なんでしょうか。それにしても、税込みなら5,000円を超えるお値段は買い求めるには、かなり高い気がします。

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次に、沢井実・谷本雅之『日本経済史』(有斐閣) です。著者2人はいずれも日本経済史の研究者であり、本書は16世紀終わりの織豊政権期から1970年代初頭くらいまでの高度成長期をカバーした日本経済史のテキストです。私は大学時代は西洋経済史のゼミでしたので、それなりに経済史は馴染みがあります。江戸期では小農経営主体の農村経済と大消費地たる京・大坂・江戸の都市経済を対比させつつ、明治維新期から戦間期、そして太平洋戦争前後の混乱期とそれに続く高度成長期を跡付けており、具体的な章別構成は、第1章 「近世社会」の成立と展開(1600~1800年)、第2章 移行期の日本経済(1800~1885年)、第3章 「産業革命」と「在来的経済発展」(1885~1914年)、第4章 戦間期の日本経済(1914~1936年)、第5章 日本経済の連続と断絶(1937~1954年)、第6章 高度経済成長(1955~1972年)、となっています。直観的な構造変化と統計、というほどのものではないにしても、何らかの定量的な史料で裏付けられた数量の分析を基に、我が国近世から近代・現代の経済史を解き明かしています。ただ、戦後の占領軍による改革が少し弱い気がします。特に、農地改革がスッポリと抜け落ちているのは不思議です。私の従来からの主張の通り、歴史の流れは基本的に微分方程式の系に沿って進んでおり、従って、初期値が決まればアカシックレコードのように未来永劫に渡る歴史が決まってしまうと考えていて、別の味方をすれば、量子物理学以前のニュートン的な決定論かもしれませんが、ラプラスの悪魔の見方とも言えます。しかし、実際には、アカシックレコードではなく、確率的にジャンプするシンギュラリティがあり、本書のスコープとなっている期間の日本経済史では明治維新と太平洋戦争がその特異点に当たると私は考えています。西洋経済史では産業革命です。そこをいかに説明できるかが経済史のテキストの値打ちを決めると私は考えていますが、本書は何とか合格点だという気がします。

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次に、ピーター・ナヴァロ『米中もし戦わば』(文藝春秋) です。著者は米国のカリフォルニア大学アーバイン校のビジネス・スクールの経済学の研究者であり、外交や安全保障の専門家ではないようです。ただし、トランプ米国大統領の政権移行チームで政策顧問を務め、経済、貿易、そしてアジア政策を担当していたらしいです。英語の原題は Crouching Tiger であり、まさに陸上競技のクラウチング・スタートのように伏せをした虎、という意味です。2015年の出版となっています。私はまったくの専門外ながら、本書では70%という具体的な確率を上げて米中の開戦の可能性が高いと指摘しつつ、どうすれば開戦を回避できるかを考察しています。9.11テロの後の当時の米国のブッシュ政権では国連決議を待たずに同盟国と組んだ多国籍軍という形での軍事行動を中東やアフガニスタンで行いましたが、現在のトランプ米国大統領は同盟国すら説得することなしの単独軍事行動を志向する可能性があります。現実にシリアのアサド政権の軍事基地に向けて巡航ミサイルを打ち込んだりしているわけです。北朝鮮に対しても中国の出方次第では日韓の頭越しに単独の軍事行動を取る可能性もゼロではありません。そのトランプ政権の懐刀として、本書の著者は米中開戦の確率をかなり高めに見積もり、しかも、「弱さは常に侵略への招待状」(p.354)として、同盟国を守りつつ米国が軍事的に中国の脅威に対処する重要性を強調しています。従って、というか、何というか、本書は中国の軍事力や戦略に関するバランスのとれた分析では決してないと私は思うんですが、現在のトランプ政権の下でのあり得る軍事的なシナリオを提示していることは間違いなく、その意味で、米中開戦はホントにあれば我が国経済なんかはぶっ飛ぶお話しですので、エコノミストととしても気にかかるところです。

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次に、竹中治堅[編]『二つの政権交代』(勁草書房) です。政治学の研究者による2009年と2012年の2回の政権交代に関する研究所です。具体的な政策テーマとしては、農業、電力、コーポレート・ガバナンス、子育て支援、消費増税、外交、防衛大綱の改定、集団的自衛権の8分野について、4つの分類、すなわち、政権交代に際して政策が大きく変更されたもの、2回の政権交代にもかかわらず政策の継続性が高いもの、2009年の政権交代で政策変更されたものの2012年の政権交代では継続性が高かったもの、逆に、200年の政権交代では継続的だったが2012年の政権交代では大きな変更を見たもの、の4カテゴリーを見出しています。最初のカテゴリーには農業や子育て支援が当てはまり、アジアを中心とする外交政策は2度の政権交代に渡って変更の少なかったものであり、第3のカテゴリーがもっとも多くて、電力、コーポレート・ガバナンス、消費増税、防衛大綱が含まれるとしています。しかし、私は外交については民主党政権下で米国一辺倒からの脱却と中国寄りの姿勢が見られ、それがために当時の米国オバマ政権から鳩山内閣が見放されたんではないかと見ていますので、少し疑問に感じます。でも、2009年の民主党政権による政策変更を2012年の安倍内閣が引き継いだケースが割合と多い、というのは実感としてもそうだという気がします。ただ、本書の視点そのものが私には疑問です。すなわち、政権交代があったから政策変更がなされたわけではなく、何らかの条件の変化、例えば、米国の地位の低下と中国の台頭とか、我が国の高齢化や少子化の進行とか、そういった条件の変化が政策の変更を要求し、それが結果として政権交代の必要を高めた、と私は逆の因果関係を見出すべきではないかと考えています。まあ、それにしても、まずまず興味深い政策動向の分析だっっという気がしますし、単に政策の内容だけでなく、ついつい結果を重視するエコノミストの視点からは抜けがちな政策の決定システムやプロセスがキチンと分析されており、勉強になった気がします。

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次に、畑中三応子『カリスマフード』(春秋社) です。著者は編集者、というか、ジャーナリストと考えてよさそうで、もちろん、専門分野は食品なんだろうと思います。前著が『ファッションフード、あります。』というタイトルらしく、私は読んでいませんが、要するに、流行りの食品という意味で「ファッションフード」と称していますから、本書のタイトルの「カリスマフード」はその比較級なしい最上級なんだろうと私は受け止めています。ということで、本書では上の表紙画像に見られる通り、肉・乳・米を取り上げて、明治期からの日本人の食生活を論じていますが、最初の2つの肉・乳と米では位置づけが異なり、肉と乳についてはまさに明治期から日本の食生活にファッションフード、カリスマフードとして導入された一方で、米についてはダイエットからお話が始まっています。明治維新とその直前の会告で外国人と接するようになって、日本人との体格差を歴然と認めざるを得ないようになり、また、帝国主義の時代背景から植民地化を回避するというより、むしろ積極的に植民地を求める富国強兵政策の下で、軍の将兵の体格差を食傷すべく食生活の改革が始まったのは歴史的にそうなんだろうと思います。それにしても、肉食はまだしも、牛乳の飲用については我が国の歴史開闢以来初めて大々的に開始されたわけであり、本書でも衛生観念の欠如から様々な事故があったことが取り上げられています。これを悪意を持って受け止めれば、ミルク排斥論にもつながるわけなんだろうと思います。私は実はミルクがいまだに好きで、ならして見れば、1週間で2.5ないし3リットルくらいの牛乳を飲んでいるような気がします。コーヒーも好きですが、明らかに、もっとも大量に飲用している液体は牛乳だろうと思います。私は世代的に小学校入学時はアノ脱脂粉乳を給食で飲まされて、途中でビン牛乳に変わった世代なので、いまだにミルクを嫌悪する人も少なくありませんが、決して牛乳は嫌いではありません。でも、身長は同世代の中で、それなりに高いは高かったんですが、びっくりするほど高かったわけではありません。最後に、明治期の米にまつわる脚気論争は何となく知ってはいましたし、森鴎外が軍医として誤った見解に固執したのは歴史的事実なんですが、海軍と陸軍を分けて見るなど、なかなか興味深い取り上げ方だったような気がします。最後に、鶏卵についても牛乳とともにいわゆるその昔の表現でいえば「完全食品」なわけで、コチラは江戸期から食用に供されていた点に違いはありますが、もう少しスポットを当ててもいいような気がしました。私のような食いしん坊には読んでいて楽しい本でした。

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次に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎) です。直木賞受賞作品にして、本屋大賞1位に輝いています。ピアノコンクールの物語です。架空のコンクールとして、3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクールを設定し、このコンクールを制した者は世界最高峰の国際ピアノコンクールで優勝するとのジンクスがあり、近年注目を集めていたりするという設定です。このコンクールに挑戦するのが、ハッキリいって、やや異様な顔ぶれで、これだけで少し私は読み進む興味をなくしたりしてしまいました。すなわち、養蜂家の父とともにフランス各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳、かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳、音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳、完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・カルロス・レヴィ-アナトール19歳、の4人が主要なコンテスタントなんですが、ここまで極端にキャラを立てないと小説が進まないのは、やや失望感を味わってしまいました。実は、私もピアノレッスンを受けていた経験がないわけでもないんですが、何せ、それなりのレベルのピアノのコンクールですから、通常なら5歳より前にピアノを習い始め、音楽高校や音大に進んだミドルティーンから20歳前後までの、おそらく、良家の子女が参加するものであり、天才であったとしても練習の努力なしにオーディションを通過してコンクールに参加できるものではありません。逆に、そういった練習しない天才が残れるコンクールは底が浅い気もします。ですから、そういった細かな差しかないコンテスタントをていねいに書き分ける筆力が要求されるんですが、その書き分けをせずに、かなりムチャなキャラの設定でごまかそうとしているような気がします。たしかに、本書でも参照されている越境型のピアニストとしてグルダがいて、元々はベートーベンの曲を得意にしていたところ、ジャズの即興演奏に手を出したりした事実は私も知っていますが、まあ、この作者の筆力・表現力でもって音楽を文字で表そうとした時点で限界があったような気がします。本屋大賞や直木賞を受賞したにしては失望した作品でした。昨日金曜日の夜遅くの段階で、アマゾンのレビューで、5ツ星が94人に対して、1ツ星も15人いることが、何となくこの作品をよく評価しているような気がします。ただ、「ギフト」という言葉の本来の意味を正しく使っている点は評価します。ここでは、贈答という行為とか贈答品という意味に加えて、神から与えられた特別な才能、という意味でも使われています。

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次に、森絵都『みかづき』(集英社) です。コチラは本屋大賞の2位作品です。昭和から平成にかけての激動の学習塾業界を舞台に、千葉を舞台に3代にわたる50年余りの長期に渡る家族の奮闘を描いています。実は、『蜜蜂と遠雷』もそうだったんですが、本書も特定の主人公、というかストーリーテラーはいません。3人称で視点を変えながら書き綴っています。ただ、本書というか、この作品の作者のひとつの特徴として、個人や家族といった小さな物語だけでなく、天下国家の大きな物語をうまく組み合わせる点を忘れることが出来ません。実は、私はこの作者の作品は直木賞を受賞した短編集の『風に舞いあがるビニールシート』くらいしか読んだことがなくて、恩田陸の作品の方が『夜のピクニック』などたくさん読んでいるような気がするんですが、直木賞受賞作に収録されていた表題作の「風に舞いあがるビニールシート」は難民についても考えさせられる作品でした。ということで、本書は大きな物語として学習塾産業と文部省のせめぎあいも取り上げています。いわゆる学校、文部省が監督する公教育と称される小学校から中学校、高校、大学が太陽であるのに対して、学習塾や、本書では明示的に登場しませんが、予備校などは月という位置づけです。かつて、南海ホークスの野村が巨人のONをひまわりに、自分を月見草に、それぞれなぞらえたようなカンジでしょうか。かなり壮大な小説です。大きな物語に対する家族の中での小さな物語も見逃せません。狂気と紙一重の情熱を秘めた女性、それに対する男性の実務的でありながら、教育に対する熱意を感じさせる言動や行動、などなど、教育について考えさせられるとともに、家族についても考えさせられる作品でした。まあ、そんなに近い将来というわけではありませんが、NHKの大河ドラマになってもおかしくない傑作です。ただ、私も直木賞を受賞した『風に舞いあがるビニールシート』を読んで感じた点ですが、やや不自然であざとい展開が見られなくもありません。よくいえば作り込まれたストーリーなのかもしれませんが、不自然で作為的な印象を持つ読者もいるかもしれません。最後に、これまた、アマゾンのレビューなんですが、5ツ星が31人しかいませんが、1ツ星と2ツ星がいないのもめずらしい気がします。

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次に、 竹内薫『文系のための理数センス養成講座』(新潮新書) です。著者は科学ライターと称しているようですが、ちゃんと博士の学位もお持ちのようですし、それなりにサイエンスの見識があるんだろうと思います。ただし、タイトルに沿った展開をしているのはせいぜい前半だけで、後半は科学にまつわる四方山話に陥っています。前半では、文系よりも理系を上に置くという前提に立って、ダメな文系サラリーマンに対して理系の素晴らしい思考方法や考え方を教えてやる、という上から目線を遺憾なく発揮しています。ただ、プログラミングができる能力を重視する姿勢は私もかなり同意します。エコノミストも数量分析のためのプログラミングは必須の能力となっています。ちなみに、私もいくつかの計量ソフトを操りますし、汎用言語のBASICでもプログラムを組むことができます。ただ、本書の前半の前提となっている文系はダメで理系がいいんだというのは、どこにも理論立てていたり実証されていたりしませんから、本書の著者の勝手な思い込みかもしれません。一般的な傾向として、文系のほうが理系よりも英語ができる国際派が多いような気がするのは私だけでしょうか。また、これまた一般的に、理系学部の卒業生よりも文系学部である経済学部や法学部の卒業生の方が生涯賃金が高いのはどうしてか、もちゃんと頭においておく必要がありそうに思います。でも、こうった根拠なく理系の人が文系よりも理系のほうが優れていると考えがちで、やや視野が狭い傾向も一般論として理解できる点ではあります。

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最後に、原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書) です。著者は刑事畑の裁判官を長らく勤めて定年退官し、現在は法科大学院の教員と弁護士をしています。本書は岩波書店の月刊誌『世界』に掲載されていたコラムを取りまとめたものです。藤沢周平の『玄鳥』や池波正太郎の『鬼平犯科帳』などをこよなく愛し、こういった人情あふれる裁きを目指していたとの述懐があります。私もこれらの作品は大好きなんですが、同様に、エリス・ピータースの修道士カドフェルのシリーズも、必ずしも、報の定めに杓子定規に従うばかりではなく、人情味あふれる解決を探る姿勢は同じような気がします。また、刑事裁判官として、刑法の定めの精神は有罪か無罪かの判決とは白黒をハッキリさせるのではなく、明らかに有罪であるか、あるいは、明らかに有罪とはいえないか、を判決で明らかにすることであり、黒か黒でないかを判断し、疑わしきは被告の利益に、というのが本来のあるべき姿、というのには、なるほどと感心しました。また、私のような公務員もそうではないかと思いますが、裁判官のような実務家は時間に正確であるべきだが、学者などの研究者は時間にルーズである、といった観察結果も明らかにしていて、私は公務員でありながら研究職であり、実務家と研究者の中間的な存在ではなかろうか、と思わずにはいられませんでした。現在の日本では、裁判の判決、入学試験、あるいは、選挙結果などについては概ね公平性や中立性が担保されていて、国民からの信頼も篤いと私は受け止めていますが、こういったキチンと判断できる裁判官、あるいは、常識的な判断が可能な公務員や教員などが実務家としてこういった制度を支えていることを忘れるべきではないと感じました。
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2017年04月15日 (土) 11:43:00

今週の読書は途上国の開発に関する石油のネガティブな役割に関する専門書など計9冊!

今週の読書は、私の専門である途上国の開発関係、でも、開発経済学ではなく、何と、開発政治学関係の本をはじめ、量子物理学や生物学、小説も含めて、大いに飛ばし読みに励み、以下の9冊です。

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まず、マイケル L. ロス『石油の呪い』(吉田書店) です。著者は米国カリフォルニア大学UCLAの政治学の研究者です。本書の英語の原題は The Oil Curse であり、2012年の出版です。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳だったりします。もともと、サックス教授らの論文もあって、私の専門分野である開発経済学には天然資源の呪い、というのがあります。天然資源があるために人的・物的資本の蓄積の必要性が低く、結局、工業化に失敗したり、オランダ病によって為替が増価して輸出が伸び悩んだりする現象です。本書では、天然資源の圧倒的な部分を占める石油に着目し、特に、計量分析手法を駆使して石油と民主化の遅れや権威主義国家の存続に石油が果たした役割などを分析しています。ひとつの観点は女性のエンパワーメントです。石油の産出と女性の地位の低さは確実に相関しているとの結果が示されています。私のような開発経済学の研究者が計量分析をする場合は、左辺の非説明変数に1人当りのGDPなどの豊かさの指標を置いて、右辺の説明変数に民主主義の成熟度や貿易の開放度、教育水準などを置いて回帰分析するんですが、開発政治学の場合は左辺の非説明変数が民主主義の成熟度、あるいは、民主主義か権威主義かのダミーで、逆に、右辺の説明変数に1人当りGDPを置いたりしているようです。どちらがどちらを説明し、原因と結果の方向性が経済的な豊かさなのか、民主主義に成熟度なのか、議論があるところですが、本書のような方法論もとても参考になりました。ただ、申し訳ないながら、開発経済学のほうが計量分析手法としては開発政治学よりは進んでいるんではないかと自負できたりもしました。

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次に、野口悠紀雄『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞出版社) です。著者は財務省出身のエコノミストであり、本書の前の2014年には関連書として『仮想通貨革命』を出版しています。なお、類書として同じ出版社からタプスコット著の『ブロックチェーン・レボリューション』というのがあり、私は図書館に予約を入れていますがまだ読んでいません。ということで、サトシ・ナカモトの理論に基づき、話題のビットコインの技術的な基礎を支えている技術のひとつであるブロックチェーンに関する本です。このブロックチェーンに支えられたデジタル通貨・仮想通貨については、本書にもある通り、国際決済銀行(BIS)や国際通貨基金(IMF)などがリポートを出しており、決まり文句のように、現状での問題点を指摘するとともに、将来の可能性を評価しています。本書ではデジタル通貨とブロックチェーンをやや混同しているんではないかと見受けられる部分もあるものの、基本的に、両者に関する評価を下しています。すなわち、仮想通貨には3種類あるとし、リバタリアン的に管理者なしに流通するビットコインのような仮想通貨、三菱東京UFJ銀行のような大銀行が発行する仮想通貨、そして、中央銀行が発行・流通させる仮想通貨です。それぞれの特徴と問題点を明らかにしつつ、同時に、仮想通貨により、マイクロペイメントの小口送金と特に新興国などへの国際送金に利便性が大きい、と評価しています。何といっても、仮想通貨による決済は料金コストと時間のいずれも節約的です。また、ブロックチェーン技術の基づく新たなビジネス、すなわち、土地投機や予測市場の成立などを論じています。ただ、本書では将来的な雇用や労働のあり方、経営の方向性などについては、それほど詳しくは展開されていません。そこは少し残念な点かもしれません。私は技術的なブロックチェーンの構造や機能などについてはサッパリ理解できませんが、経済分野で大きな波及のある技術ですので、可能な範囲でフォローしておきたいと思います。

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次に、吉村慎吾『日本流イノベーション』(ダイヤモンド社) です。著者は公認会計士から経営コンサルタントをしているそうです。まず、本書の冒頭ではUberやAirBnBなど、いわゆるシェアリング・エコノミーの進展とか、あるいは、人工知能(AI)やロボットの利用可能性などの一般的なイノベーションの現状を、いかにもコンサルらしい上から目線で得々と取り上げ、さらに、モノ消費からコト消費へと消費のサービス化が進み、草食化した青年が自動車を欲しがらなくなった現時点の国民生活や消費の実態に関して議論を展開します。ハッキリいって、特に新味もなく、ありきたりな内容です。このあたりで勉強になるような読者は、ほとんど何も勉強していないのかもしれないと思うくらいです。第3章で日本企業でイノベーションを起こす実際の考え方がようやく展開され始めますが、いかんせん、公認会計士出身の財務から企業を見るコンサルタントですから、技術に関する知識が殆どないのではないか、と疑われて、ひたすら自慢話に終止しています。自慢話があるだけご同慶の至りなんですが、「強い使命感」に「イノベーティブなビジネスモデル」が備わると、イノベーションが進む、と言われてしまえば、トートロジー以外の何物でもなく、書籍として出版する値打ちがあるかどうかも疑わしくなります。完全な失敗読書であり、まったくの時間のムダでしかありませんでした。

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次に、ウィリアム・パウンドストーン『クラウド時代の思考術』(青土社) です。著者は物理学や情報工学を専門分野とするサイエンス・ライターであり、2015年2月には『科学で勝負の先を読む』の読書感想文をこのブログにアップしています。本書の英語の原題は Head in the Cloud であり、2015年の出版です。本書のキーワードはダニング=クルーガー効果であり、能力の低い人ほど自分を過大評価するという現象で、米国の心理学者が前世紀末に発見しているそうです。もうひとつがグーグル効果であり、コチラはオンラインでお手軽に検索できる知識は忘れられやすい、というものです。本書では大量のトリビア的なクイズのような質問に対する回答結果をもって、一般大衆がかなり無知である点を明らかにしていますが、これは情報というか、知識として持っていない、ということであって、例えば、ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』にあるように、牛の体重とかのような平均的にカウントするタイプの質問には当てはまらないような気もします。私にとって興味深かったのは、米国の右派メディアを代表するFOXニュースの視聴者に無知のレベルが高い、というか、情報量が少ない、と本書の著者が指摘している点です。本書では、確証バイアスの可能性を指摘し、要するに、右派的な心情の持ち主がFOXニュースを見て安心する、という仮説を提示しています。そうかもしれません。我が国では朝日新聞と左派的な心情がそうなのかもしれないと感じてしまいました。なお、我が家では朝日新聞を購読しています。最後に、ダニング=クルーガー効果に関する原著論文へのリンクは以下の通りです。


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次に、ロバート P. クリース/アルフレッド・シャーフ・ゴールドハーバー『世界でもっとも美しい量子物理の物語』(日経BP社) です。著者は米国の研究者なんですが、科学哲学と物理学の専門家だそうです。英語の原題は The Quantum Moment であり、2015年の出版です。タイトルは量子物理学なんですが、やっぱり、近代物理学といえばニュートンから始まります。近代生物学、というか、進化論がダーウィンから始まるのと同じであり、経済学の場合はアダム・スミスということになるんだろうと思います。ということで、大雑把に物理学者で章立てしているんですが、プランク、ボーア、アインシュタイン、パウリ、シュレディンガーとハイゼンベルク、等々と並びます。私の理解する限り、ですから、不完全かつ間違っている可能性もあるんですが、量子物理学とはニュートン的な決定論ではなく、確率論的な世界を相手にしています。シュレディンガーのネコが半分死んでいて半分生きている、といったカンジです。これは経済学でも同じことで、政府統計こそ決定論的な成長率などの数字が示されますが、実は、データ生成過程(DGP)はすぐれて確率的です。ただ、量子物理学については、観察者も運動系の中から観察しているために、ハイゼンベルク的に運動量か位置かのどちらかしか決まらないことが決定しているのに対して、経済学ではエコノミストは神の目を持って見ていることが前提されていて、そのために観察バイアスが考慮されず、予測はことごとく間違います。まあ、経済学が量子物理学の域に近づくことはまだ先の話なんだろうという気がしました。

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次に、久坂部羊『テロリストの処方』(集英社) です。作者は医師の資格があるようで、医療にまつわる小説を何冊か出版しており、『無痛』と『第五番』の続き物の小説は私も読んだ記憶があります。他にも読んでいるかもしれません。この作品は、現在の国民皆保険の下でのフリー・アクセスの医療制度がほぼ崩壊して、医療の勝ち組と負け組が患者だけでなく医師にも及んだ近未来の日本を舞台にしています。医療負け組の患者は治療や投薬を受けられないわけですが、医師についても高額な医療で破格の収入を得る勝ち組と、経営難に陥る負け組とに二極化していきます。そんな中、勝ち組医師を狙ったテロが連続して発生し、現場には「豚ニ死ヲ」の言葉が残されていた一方で、若くして全日本医師機構の総裁となった可能の大学時代の同級生である医師かつ医療評論家の主人公がノンフィクション作家の女性とともにテロの実態解明に乗り出します。この作家の小説のひとつの特徴は、キャラはそれなりに作れているんですが、とても登場人物が少ない点で、ストーリーを追うのは向いているのかもしれませんが、小説に深みがありません。結末も特に意外性なく、「やっぱり」というカンジです。ですからミステリとしては面白みもないんですが、ただ、小説ですから当然にフィクションなんですが、近未来の日本でホントに起こりそうな状況を再現しているのが売りかもしれません。しかもトピックが医療ですから、教育とともにかなり関心高いかもしれません。

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次に、柴田悠『子育て支援と経済成長』(朝日新書) です。著者は京都大学の社会学の研究者であり、本書は昨年2016年8月13日の読書感想文のブログで取り上げた同じ著者の『子育て支援が日本を救う』の内容を少し一般向けに分かりやすくした新書版です。前半の1-3章は前著の数量分析で構成されています。この部分は、本格的な計量経済学を専門とすエコノミストの目から見れば、ひょっとしたら、やや強引で、特に、因果関係の推論に難がありそうな気がします。後半の3-6章はトピック的に、社会保障の歴史、子育て支援の経済効果、そして、子育て支援の財源について論じています。論旨は明快過ぎるくらいに明快で、子育て支援が女性の労働参加率を高めて経済成長率を引き上げる、というものです。逆に、数量分析からの結論として、高齢化が進むと労働生産性が低下する、労働力の女性比率が上昇すると生産性も向上する、労働時間が短縮されると生産性は向上する、といった、かなり自明に近い事実を定量的に結論しています。我が国における社会保障の高齢層への偏りをシルバー・デモクラシーによる結果と結論しつつも、シルバー・デモクラシーを乗り越える方策についてはさすがに論じられていません。私もこの点は不明です。それから、国際比較も豊富で、フランスの出生率上昇は認定保育ママ制度に追う部分が大きいと結論しています。数量分析からいくつかのそれらしい結果を導いていますが、フェルミ推定に近い方法論もあって、新書的な判りやすさで読むべき書であり、学術書と考えるのは少し難がありそうです。

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次に、本川達雄『ウニはすごい バッタもすごい』(中公新書) です。著者はその昔に『ゾウの時間 ネズミの時間』が、やっぱり中公新書でベストセラーになった動物生理学の研究者で、すでに東京工業大学の一線は退いた名誉教授です。なかなか注目の書で、図書館でも待ち行列が長くなっているようですし、私が見た範囲でも読売新聞と日経新聞で書評や著者インタビューなどが掲載されていました。ということで、本書は広く動物に関する進化を題材に生存戦略について論じています。特に、なぜこういう身体デザインを選んだか、という点を重視し、例えば、ヒトデがどうして五角形なのか、を論じたりしています。もちろん、ヒトデが五角形に進化した決定的な証拠はないものの、サクラ、ウメ、バラといった五弁の花を持つ植物との関連を指摘したりしています。私はまったくの専門外なのですが、サンゴ、昆虫、軟体動物などにテーマが次々と展開されて飽きが来ませんし、図版も豊富で読み進んでいても楽しく感じます。残念ながら、小中学生にはやや難解な内容と思いますが、決して読みにくいと感じさせることなく、生物の多様性についての目が開かれる思いです。

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最後に、西崎伸彦『巨人軍「闇」の深層』(文春新書) です。昨夏に出版されて、一度は借りた覚えがあるんですが、その後忘れていました。今回近くの区立図書館で見かけて借りて読みました。「センテンス・スプリング」こと、週刊文春の取材を基に、2015年クライマックス・シリーズに発覚した野球賭博事件、清原の覚醒剤事件、原監督の1億円恐喝事件、などなど、ジャイアンツの黒い闇の部分を暴いています。このジャイアンツの闇の体質は例の1978年の空白の1日を利用した江川事件から巨人軍の悪しき伝統となり、その背後には渡邉恒雄の存在があると本書の著者は指摘しています。プロ野球が興行である限り、反社会的組織との腐れ縁は巨人に限らず昔からあったのだろうという気がしますが、その後の対応や意識改革などで反社会的組織との絶縁を図った球団と、そうでない巨人のような球団があったのではなかろうかという気もします。高校野球の聖地たる甲子園をホームグラウンドにする阪神と、その昔は競輪が開催された後楽園、しかもその周辺には場外馬券売り場もあった後楽園を本拠地とした巨人との違いもあるように感じました。
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2017年04月09日 (日) 15:12:00

先週の読書は大量に読んでとうとう11冊に!

いろいろあって、昨日の土曜日に米国雇用統計が割って入ったために、読書日が通常より1日多く、先週の読書はとうとう11冊に達してしまいました。以下の通りです。今週はさすがに11冊よりは減ると思いますが、それでも一定のボリュームには達しそうで怖いです。

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まず、デービッド・アトキンソン『新・所得倍増論』(東洋経済) です。英国人アナリストの日本経済シリーズ5部作の完結編だそうです。まず、著者が指摘するのは、日本経済のボリューム感ではなく、1人あたりの質感の重視です。ですから、我が国は欧州の先進国に比べて人口規模が大きいことから、例えば、GDP規模では米国と中国に次いで世界第3位といいつつも、国民1人当りのGDP、本書ではこれを生産性と呼んでいますが、1人当りの生産性では世界でも27位に沈む、といった指摘があります。もうひとつの指摘は、1990年のバブル経済の崩壊の時点で日本的経済システムは終焉したという点です。実は、これは戦後の秘\日本経済システムの終焉ということなんだろうと思います。すなわち、終身雇用、年功賃金などです。その上で、本書ではアベノミクスの政策方向を全面的に肯定し、問題は経営者にあると指摘します。国家財政の大赤字も、人口減少も、社会保障や特に年金のサステイナビリティも、企業経営には関係ないとうそぶき、生産性を上げるのは経営者の責任と指摘し、かつての外圧に代わって、政府や国家が企業経営者にどんどんプレッシャーをかけることを推奨します。ここまで来ると私にはやや疑問なんですが、言わんとするポイントは理解します。私がこのブログで、かねてより指摘している点と同じですが、我が国では企業家のアニマル・スピリットが不足しているんだろうという気がします。逆にいえば、そこまで貪欲に企業経営をしなくても、ホンワカとした経営で十分だった時代が終わったということだと思います。

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次に、リチャード・ドッブス/ジェームズ・マニーカ/ジョナサン・ウーツェル『マッキンゼーが予測する未来』(ダイヤモンド社) です。著者はそれぞれ在住地の異なるマッキンゼー研究所の研究者であり、英語の原題は No Ordinary Disruption となっていて、2015年の出版です。現在、世界で起きている大きなトレンドの変化を4つ指摘し、すなわち、都市化の進展に伴う経済活動の重心=中心地の移動、シンギュラリティも考えられ得る技術の発展がもたらす大きなインパクト、高齢化の進展という人口動態の変化、グローバル化の進展に伴い世界が相互に結合する度合いの深化です。これらを4つの破壊的な力と指摘し、近未来のビジネスを支配しつつあると結論しています。ですから、過去の経験に基づく直観をリセットしなければならないとの主張です。ということで、マッキンゼーの主張ですので、なかなかに説得力ありそうな気もするんですが、実は、事実認識といい、これらの4つの破壊的な力への対策、とういうか、対応などの提言といい、かなりの部分が、今まで見たことがあるものがほとんどで、決して新味はありません。少なくとも現在の世界のビジネスの展開についての第Ⅰ部の事実認識についてはほとんど新しい見解は見られません。第Ⅱ部の直観力をリセットするための戦略的思考に関しても、ハッキリいって、新味はありません。まあ、従来からの世間一般の主張を後追いしただけのような気もしますが、マッキンゼーが取りまとめた、というところにポイントがあるのかもしれません。かなりのボリュームの本ですが、邦訳がいいのかスラスラと読めて負担は大きくありません。

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まず、松島聡『UXの時代』(英治出版) です。作者は企業家であり、ロジスティック関係の企業の経営者です。「UX」というのがなにか不明だったんですが、User Experience なんだそうです。モノ・空間・仕事・輸送の4大リソースに関して、新しいビジネス・モデルを提案しようとチャレンジしているんですが、でも、中身はシェアリング・エコノミーとか、IoT、人工知能、ビッグデータ、センサー、ロボティクスなどなど、もはや言い古された感のある手垢の付いたビジネスについて、相も変わらない見方を示しているだけであり、特に新味はありません。ひとつの謳い文句として、「垂直統制から水平協働へ」というのが本書の特徴のひとつして打ち出そうとしているようですが、これに限らず、概念の曖昧な語句をさも斬新そうにいくつか内容なく並べているだけの感があります。でも、それだけにスラスラと淀みなく短時間で読み切ることができます。出張で2-3時間ほど新幹線に揺られる際の片道の読書量にピッタリの気がします。でも、ほとんど何も身につかなさそうな恐れもあります。すくなくとも、ユーザ・エクスペリエンスというのは、太古の昔から人間が協業に基づく分業を展開する上で必要だった概念であり、特に今になって気づく人も鈍いというか、少しどうかという気もします。

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次に、ジェイン・メイヤー『ダーク・マネー』(東洋経済) です。著者は「ニューヨーカー」誌のジャーナリストで、英語の原題はそのまま Dark Money であり、2015年の出版です。主としてコーク兄弟を中心に、右派リバタリアンの超大金持ちが金にあかせて民主主義を歪めるさまをルポしたノンフィクションです。1月28日に『大統領を操るバンカーたち』の読書感想文をあっぷしましたが、政府の権力者に直接的に影響力を行使するのもありなんでしょうが、本書では選挙民への影響力により民主主義を歪める、という方向で議論が進められています。私が読んだ範囲では、直接のインタビューを別にして、もっとも主要なソースはコーク一家の歴史を編纂したジョージ・メイソン大学のコピン准教授ではないかと想像しています。そして、以前なにかの本のレビューでオバマ政権を取り上げた際に、リベラルでとてもいい政策の方向だったが、米国大統領当選のすぐ後の2010年の中間選挙で、議会が共和党多数のねじれ状態になったため、大きな妥協を余儀なくされて政策の実行が不十分だった、という裏側には、本書のような事情があったんだろうと、これも想像しています。コーク兄弟などの右派リバタリアンがいかに悪辣な方法で利潤を上げ民主主義を歪めているかを、これでもかこれでもかと米国ジャーナリストらしく実例を上げています。また、いくつか気づきの点を上げると、米国のティーパーティー運動は指揮官ばかりだった米国の右派リバタリアンに実働部隊の人員を供給したと本書では分析しています。また、p.585 でホンの少ししか触れていませんが、2016年の米国大統領選前に出版された制約がありながら、現在のトランプ米国大統領は「コーク兄弟にたてついた」とし、めったにいないコーク兄弟を無視できる共和党候補者のひとりであると評価しています。なかなか、鋭い分析かもしれません。

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次に、佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』(小学館) です。著者はご存じの通りの直木賞作家ですが、エッセイでも切れ味鋭いところを見せています。本書のもととなる連載エッセイが「女性セブン」に掲載され始めた2015年には90歳を超えていて、このタイトルに決まったらしいです。通常、日本に限らず、世界中で観察される事実なんですが、中年くらいでボトムを記録した後、年齢が上がるとともに幸福度がU字型に上昇すると言われていて、私なんかも定年まで指折り数えてあと何年、という段階で幸福度が上がったのを実感している一方で、本書の著者はタイトルの通り、また、本書の色んな所で怒ったり、あるいは、「憤怒」という普段では使わないような名詞が出て来たりして、怒りを爆発させています。その昔のTVドラマで「意地悪ばあさん」というのがありましたが、女性は年齢が上がって「憤怒」がわき起こりやすくなったりするんでしょうか。謎です。ただ、男女ともに、年齢を加えるに従って、進歩とか、成長とか、発展とか、前進とかに熱意を示さなくなるのは本書でも実証されているような気がします。私はまだまだ成長が必要と考えるエコノミストなんですが、定年に達し、もっと年齢が行くと、ゼロ成長でもいいんじゃないか、と考え出すようになるのかもしれません。これも謎です。ともかく、著者が隋書に怒りを爆発させるエッセイなんですが、イヤミはありませんし、決して上から目線ばかりでもありません。なかなか楽しくスラスラと読めます。

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次に、東野圭吾『素敵な日本人』(光文社) です。作者はいわずと知れた売れっ子のミステリ作家です。本書は必ずしも日本人に大きく関するというわけでもなく、また、いわゆる連作短編集ではなく、通常のミステリ短編集です。「正月の決意」、「十年目のバレンタインデー」、「今夜は一人で雛祭り」、「君の瞳に乾杯」、「レンタルベビー」、「壊れた時計」、「サファイアの奇跡」、「クリスマスミステリ」、「水晶の数珠」の9編の短編を収録しています。冒頭に収録されている「正月の決意」については、私は他のアンソロジーか何かで読んだ記憶があります。町長や教育長などのエラい人の醜態が面白く、主人公夫婦のリアクションが絶妙です。また、最後に収録されているからなのか、最後の「水晶の数珠」も印象的でした。一族に代々伝わる水晶の数珠の持つ不思議な力、でも、一生で1度しか使えないこの力の使いどころに作者の加賀恭一郎シリーズなどの人情話への傾倒が出ているような気がします。また、どの短編というわけでもなく、かなりどす黒いユーモア、まあ、ブラック・ユーモアに近いきわどさも満ちています。家族をテーマにした「レンタルベビー」や「今夜は一人で雛祭り」も面白かったですし、特に後者は格差問題も視野に入れているのか、と思わせる部分もあります。なお、先週の読書の中で本書だけは買い求めました。あとは図書館で借りています。

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次に、綾辻行人『人間じゃない』(講談社) です。作者はご存じ新本格派の旗手のひとりであるミステリ作家です。表紙画像に見られる通り、未収録作品集であり、短編から中編くらいのボリュームの作品を5編収録しています。収録されているのは「赤いマント」、「崩壊の前日」、「洗礼」、「蒼白い女」、「人間じゃない」です。最初の「赤いマント」は館シリーズの『人形館の殺人』の後日譚となっていて、扉にもある通り、もっともストレートな短編ミステリです。また、「崩壊の前日」は『眼球綺譚』に収められている「バースデー・プレゼント」の姉妹編、「洗礼」も『どんどん橋、落ちた』の番外編であり、ギターの5弦と6弦だけをつかんだダイイング・メッセージが示されており、犯人当てミステリの趣向で、読者への挑戦も挿入されています。「蒼白い女」は『深泥丘奇談・続々』に収録されている「減らない謎」の前に位置するエピソードであり、最後に、本書のタイトルをなす短編「人間じゃない」も精神病棟を舞台にした『フリークス』の番外編となっています。それにしても、私はこの作者の本はほとんど読んだつもりですが、記憶に残っている部分は少なく、改めて新鮮な気持ちで読むことが出来ました。記憶容量が少ないのは一般に人生を送るうえで不利になる場合が少なくありませんが、ミステイル小説を読む場合に限ってはそうではないことを実感します。まあ、ミステリばかりではなく、ややおどろおどろしいホラー作品も含めて、特に脈絡なく収録されているのは致し方ないところかもしれません。でも、私のような綾辻ファン、新本格ファンはちゃんと読んでおくべき作品であろうと受け止めています。さらに、この機会に元の作品も読んでおくべきなのかもしれませんが、そこまでは手が回りませんでした。

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次に、安生正『Tの衝撃』(実業之日本社) です。『生存者ゼロ』でデビューした作家の最新作です。実は、直前の『ゼロの激震』を昨年読んだんですが、要するに、地下深く掘って、ほぼ無尽蔵と考えられる地熱発電のプラントを作ったところ、マグマが北関東から首都圏に南下して来てとってもタイヘン、というプロットだったことは理解したものの、ほとんど技術的なテクノロジーも小説の筋立てのプロットも理解できずに、結局、読書感想文に取り上げるのを諦めた記憶があります。それに比べればかなりマシですが、それでも、判りにくい小説です。要するに、自衛隊の護衛がついて搬送されていたプルトニウムが、何者か、明らかに自衛隊と同程度か上回るくらいの戦闘能力を持つという意味で、ほぼほぼ軍隊により強奪され、その後、自衛隊と米軍と北朝鮮に加え、自衛隊内の別行動をする一派が加わり、わけの判らない入り乱れての戦闘行為やテロまがいの要人暗殺や拉致もありで、ハッキリいって、何のリアリティもありません。ドラえもんの4次元ポケット並みの荒唐無稽さだと思いますが、ただ、手に汗握るサスペンスだけは満載です。

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次に、齋藤純一『不平等を考える』(ちくま新書) です。著者は政治学の研究者であり、本書においては、不平等について経済学的な側面ではなく政治学から解き明かそうと試みています。その際の基本概念は包摂性と対等性であり、加えて、対等平等な個人としての連帯です。例えば、ロールズ的なアンダークラス、我が国の戦前の古い表現でいえば「二級市民」のような存在を認めるのは包摂ではなく排除を意味し、もちろん、対等ではないことから、個々人の間での連帯が成立しない、ということになります。とくに、本書で指摘している通り、政治的な側面を考えるとしても、最近の「失われた20年」で徐々に実質賃金が低下し、あるいは不安定な非正規雇用が広がり、かつてのような安定した国民生活を送ることが困難となった階層が存在することから、市民社会に不安と分断がもたらされているわけですから、平等とともに貧困の問題も併せて解決すべきであると私は考えています。特に、本書では著者が「包摂性」を引き合いに出す場合、雇用されている、もしくは、労働している点をかなり重視しているように私は考えており、高齢化が進み年金生活者の比率が高まる中で、少し疑問に思わないでもないんですが、著者も非正規雇用という語りで法殺されつつも分断ないし不平等な状態に置かれている現状に関する理解も示しています。ただ、労働と包摂の関係をここまで強く規定すると、繰り返しになりますが、非労働力化した高齢者の包摂をどう進めるのかが私は疑問です。ですから、p.161 以下でベーシック・インカムについて著者の考えが展開されていますが、労働を重視する立場から、ベーシック・インカムについてはかなり否定的な印象を持ちました。年金生活者も同様なのかもしれません。高齢化の進む我が国に適用する場合に、疑問が残ります。

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最後に、綾辻行人ほか『自薦 THE どんでん返し』乾くるみほか『自薦 THE どんでん返し 2』(双葉文庫) です。上の表紙画像を見ても明らかなんですが、なかなか豪華な執筆陣によるアンソロジーです。まず、収録作品は綾辻行人「再生」、有栖川有栖「書く機械」、西澤保彦「アリバイ・ジ・アンビバレンス」、貫井徳郎「蝶番の問題」、法月綸太郎「カニバリズム小論」、東川篤哉「藤枝邸の完全なる密室」、乾くるみ「同級生」、大崎梢「絵本の神様」、加納朋子「掌の中の小鳥」、近藤史恵「降霊会」、坂木司「勝負」、若竹七海「忘れじの信州味噌ピッツァ事件」の各6篇計12編です。いくつか、ほかのアンソロジーで読んだ記憶のある作品も含まれています。しかし、少なくとも私も考えるどんでん返しになっている作品は少なかった気がします。私が考えるどんでん返しとは、典型はジェフリー・ディーヴァーの作品なんですが、ラスト近くでほぼ解決された事件が、角度を変えてみるとまったく違う犯行や犯人が浮かび上がる、というのはどんでん返しのミステリであり、本書の多くの作品は単なる意外な結末、と称するべきなのではないかと思います。例えば、乾くるみの『イニシエーション・ラブ』をどんでん返しと考える読者は少なく、単なる意外な結末、と考える読者が多そうな気がします。すなわち、読者はそれなりにミスリードされるわけですが、ほぼ決まりと考えられていたひとつの解決を廃して、別の謎解きがホントの解決だった、というわけではありません。でもでもで、このアンソロジー2冊は、ジェフリー・ディーヴァー的な本格的「どんでん返し」を期待する読者には物足りないかもしれませんが、とても意外な結末で面白いミステリを求める向きには大いにオススメできると思います。
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2017年04月01日 (土) 11:14:00

今週の読書は経済書やアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊!

今週の読書は、以下の通り、経済書や話題のアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊です。単なる印象論ですが、岩波書店の本が多かったような気がします。8冊というのはややオーバーペースなんですが、今日の朝から自転車でいくつか図書館を回ったところ、来週はもっと読みそうな予感もありますし、今週の8冊については新書が3冊含まれていて、実際のボリュームとしてはそれほどでもなかった気がします。

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まず、中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』(ダイヤモンド社) です。著者は教育経済学と医療政策学のそれぞれの研究者です。本書では著者が位置付けている通り、教育と医療のそれぞれの政策効果を分析すべく因果推論に関する入門の入門となる議論を展開しています。なお、私の方でさらに付け加えると、因果推論とは相関関係と因果関係を見分けて区別する学問分野です。とても平易な語り口で判りやすく議論を展開しつつ、ランダム化比較試験、自然実験、差の差分析、操作変数法、回帰不連続デザイン、プロペンシティ・スコアなどのマッチング法、最後に、回帰分析、と、ひと通りの方法論を概観しています。確かに、経済学などでは因果推論が不十分な場合も少なくなく、そこは割り切って、グランジャー因果で時系列的な先行性でもって判断する場合すらあります。すなわち、時間的に先行していれば原因であり、後に起これば結果である、という単純な推論です。しかし、天気予報が実際の天気の原因ではあり得ないように、時間的な推移だけでは原因と結果を特定することはムリです。ただ、私も開発経済学などでランダム化比較実験などの論文を見たりもしますが、因果推論も万能ではないことは知っておくべきです。少なくとも、経済学的な用語でいえば、マイクロな部分均衡論ですから、マクロの一般均衡を単純化しており、回り回って因果関係が不定に終わる、あるいは、逆転する場合もあり得ることは忘れるべきではありません。また、本書の著者の専門分野は教育と医療という典型的に情報の非対称性により市場による資源配分が失敗する分野ですが、電力やガスなどの公益事業や交通についても自然独占という形で市場が失敗する場合もあり、いずれも政策的な介入が必要なケースであり、でも、果たして、「マネーボール」的な経済合理性、というか、採算性だけで政策を判断すべきかどうかという根本問題も考慮すべきです。採算は赤字だが必要な政策である可能性があり、赤字で採算が悪いことを理由に政策を切り捨てるべきかどうかは議論がある得るかもしれません。まあ、これだけ財政リソースが不足しているんですから、少なくとも優先順位付けには何らかの情報は必要である点は認めますが、採算性が政策評価の中心かどうか、私には疑問が残ります。最後に、直観的なみんなの意見は案外と正しい場合も少なくないことは、専門家を称していても謙虚に受け止めるべきです。

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次に、キャス・サンスティーン『選択しないという選択』(勁草書房) です。著者は米国ハーバード大学の法学研究者ですが、セイラー教授らと行動経済学・実験経済学の研究もしているようです。本書の英語の原題は Choosing Not to Choose であり、邦訳タイトルはほぼそのままです。2015年の出版です。ということで、セイラー教授らの提唱するナッジを中心とするリバタリアン・パターナリズムの行動経済学・実験経済学に関する本であり、特にデフォルト・ルールの重要性、その固着性を中心とした議論を展開しています。デフォルトの設定はもちろん重要であり、すべてを自由選択に任せるよりも、何らかの意味で道徳的というか、規範的な選択が可能になると私も同意します。しかし、批判的な見方も忘れるべきではありません。本書でも、冬季の暖房の設定温度を1度下げるだけだとそのデフォルトが受入れられる場合が多く、エネルギー消費を減少させることができるが、2度下げるとデフォルト設定から変更する場合が多くなって効果が大きく減ずる、との実験結果が示されている通り、デフォルト・ルールの設定そのものが重要となります。特に、臓器提供の意思の表明、貯蓄額の決定などはそうです。それから、タイトルの反証である選択の要求ですが、ここは法学者であってエコノミストではないのでいくつかの視点が抜けています。すなわち、逆選択により選択しないことを許さないという場合がありえます。我が国の国民皆保険・皆年金はまさにそういった思想で設計されています。まあ、それほどうまく運営されているとはいい難いんですが、そういった逆選択の考えから選択しないことが許されない場合があることは理解すべきです。ただ、著者がインプリシットに表明している通り、もはやニュートラルな選択というのはあり得ないのかもしれません。その点は私の頭にはなかったので勉強になりました。また、どこにあったのかはチェックしませんでしたが、プライバシーは個人レベルでは重要かもしれませんが、政府や国家のレベルでは有害無益である、といった趣旨の断定的な判断が記されていました。目から鱗が落ちた気がします。

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次に、山口敬之『総理』(幻冬舎) です。著者は本書の出版直前までTBSの報道記者をしていたジャーナリストです。同じ著者と同じ出版社で、本書の続編ともいえる『暗闘』もすでに出版されています。私はまだ読んでいません。本書は安倍総理についての取材結果を取りまとめたノンフィクションです。一部に、「政権の提灯持ち」とも受け止められているようですが、国家公務員である私の見方は差し控えますので、各個人が実際に読んで判断いただきたいと思います。ということで、本書は5章構成であり、最初で著者がTBS記者として第1次安倍内閣の総理辞任をスクープした自慢話から始まり、自民党の野党時代の総裁選への安倍現総理の出馬、総理大臣就任後の消費税率引き上げに関する財務省との確執、対米関係を中心とする外交への取組み、野田聖子議員の挑戦を受けそうになった自民党総裁選を振り返っての宰相論から成っています。まず、メディアの常として時の権力に対する距離感について、やや私の実感としては近い気もします。ただ、著者なりに権力に近いリスクと遠いリスクを勘案してのことなんでしょう。結果的に、権力に近いので提灯持ちになったり、権力から遠いところで批判を繰り返したりといった距離感と権力に対する態度の相関関係については、私も必ずしも関係ないという気はします。たっだ、最後の章で安倍総理に対して総裁選への立候補を目指した野田聖子議員や、彼女をバックアップしていた古賀議員に対する著者の見方がかなり偏っている印象は受けました。本書はあくまで政治記者のルポであり、私のような専門外のエコノミストには評価は難しいんですが、現在の安倍政権に対する支持の傾向はハッキリしていると受け止めました。私のようなランクの低い国家公務員からはうかがい知れないような政権トップの動向について、よく取りまとめられているような気がします。ただ、すべてがリポートされているわけではない、すなわち、書かれていないこともありそうな気がするのは私だけではないと思います。

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次に、コフィ・アナン『介入のとき』上下(岩波書店) です。ご存じの通り、著者は2007年から2期10年に渡って国連事務総長を務めています。初めて国連スタッフから登用された事務総長であり、アフリカ人の黒人としても最初の国連事務総長であり、2011年に国連がノーベル平和賞を授賞された際の事務総長でもあります。本書の英語の原題は Interventions であり、邦訳タイトルはほぼ直訳といえます。2012年の出版であり、邦訳まで5年のギャップがありますが、中身はそれほど賞味期限を過ぎている感じはありません。ということで、軽く自分自身の生い立ちや父親のパーソナル・ヒストリーから始めて、事務総長就任の直前の国連でのポストであったPKO局長としての活動から事務総長としての紛争解決や武力を持っての介入などについての回顧録です。上巻のソマリア、ルワンダ、旧ユーゴ、東ティモール(インドネシア)、ダルフール(南スーダン)などは専門外の私でも手に汗握る迫力を感じました。なお、下巻冒頭の国連ミレニアム開発目標(MDGs)がもっとも私の専門に近いんですが、人権尊重とともに温かみのある国連活動を感じることが出来ました。解説にもある通り、国連とは独立した意思を持たない集合的な政治体であり、一定の哲学的ともいえる理念に基づいた団体です。事務総長とはその極めてビミョーなバランスの上に成立した国連の舵取りを行う高度に政治的かつ軍事的な存在であると私は想像しています。本書を読んでいても、実力行使のできる暴力装置である軍隊とはキチンとした民主政にのもとで国民に支持された文民の統制に従わなければ厄災以外の何物でもないという事実を実感しました。その軍隊が暴走するのがもっとも懸念される自体であり、組織されていない民兵の暴走というのが私のジャカルタにいた経験から見た東チモールの悲劇だった気がします。最後に、本書の最大の魅力のひとつは、著者が極めて率直に書いている点です。「あけすけ」という言葉がありますが、本書のためにあるような気もします。ブッシュ政権下で米国の国連大使を務めたボルトン大使なんかはボロクソです。

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次に、菅野俊輔『江戸の長者番付』(青春新書インテリジェンス) です。著者は江戸研究家だそうです。いろんな史料や関連書籍を当たって、江戸の、すなわち、江戸時代ではなく、あくまで江戸の長者番付やそれに派生する情報を取りまとめています。もちろん、超大金持ちだけでなく、江戸庶民の生活も浮き彫りになるようになっています。ただ、繰り返しになりますが、あくまで対象は地理的に江戸であって、京・大坂の大金持は対象外となっているのが残念です。幕府の八代将軍徳川吉宗の年間収入が1294億円だったというのは驚くべき水準ですが、他方で支出もかなりの額に上った気もします。また、第4章の江戸っ子の生活については同もぬけていて不十分なところがあり、すなわち、商家などの奉公人=勤め人については、給金が少なかったのは事実としても、大番頭などのごく高位の奉公人を別に知れば、ほとんどが住み込みで食費がかからず、衣類もいわゆるお仕着せが支給されていた点はキチンと書くべきだという気がします。下級官僚たる武士の生活がもっとも苦しかった、という点については身につまされる部分があります。なお、本書冒頭の「新板大江戸持◯長者鑑」については、以下の都立図書館のサイトで弘化3年(1846)刊の加賀文庫版を見ることが出来ます。ご参考まで。


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次に、寺島実郎『シルバー・デモクラシー』(岩波新書) です。著者は三井物産の研究所の出身で、現在は多摩大学の学長のほか、コメンテータとしてテレビなどでも活躍しています。また、本書のひとつのテーマである団塊の世代の出身、1947年生まれです。しかし、なんだかとても物足りなかったのは、その昔々に著者が書いたらしい古い文章を使いまわしているだけでなく、とっても驚くくらいの上から目線の文章です。私自身はタイトルとなっているシルバー・デモクラシーによる民主主義的な決定のゆがみについて期待していたんですが、ほとんど何も触れられていません。そうではなく、団塊の世代が戦後史の中でどのような役割を果たして来たのかについて、著者のエラそうなお説が並んでいます。まあ、岩波新書から出版されるくらいですので、それなりの中身と考えるべきかもしれませんが、古い古い文章を引っ張り出してきているくらいですので、どこまで期待できるかは私には不明です。少し期待外れでした。

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最後に、井田茂『系外惑星と太陽系』(岩波新書) です。著者は京都大学出身で、現在は東京工業大学の研究者です。分野は古い表現なら天文学、ということになるのかもしれません。かつての天文学の「私の視線」から見た宇宙の見方、それは、「地球中心主義」や「太陽系中心主義」とも本書では称されていますが、を排して、「天空の視点」から見たより普遍的な宇宙の見方を提唱しています。本書ではほとんど触れられていませんが、NASAの地球外知的生命体探査プロジェクトもあり、いわゆるハビタブル・ゾーンに存在する地球に似た惑星が宇宙の星の中に20%くらいはあり、中には生命体が存在している可能性もある、という普遍的な宇宙観を展開しています。特に、太陽系の中ですら、水星、金星、火星と地球以外にもサイズの似たハビタブル・ゾーンにある惑星が3つもあるわけですから、広い宇宙の中には地球や地球より少し大きいスーパー・アースに生命体がいる可能性はあります。ただし、本書では生命体探査ではなく、あくまで、太陽系外に存在する地球と似た系外惑星について論じています。誠に残念ながら、私にはそれ以上の理解ははかどりませんでした。悪しからず。
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2017年03月25日 (土) 11:14:00

今週の読書はまたまた少しオーバーペースで経済書など計8冊!

今週はついつい借り過ぎて読み過ぎました。話題の働き方改革の中で、同一労働同一賃金を正面から取り上げた経済書、WBCで侍ジャパンが準決勝で敗退した一方で、プロ野球の開幕も近づき、背番号にまつわるノンフィクション、さらに、やや物足りなかったものの、話題の作家による小説などなど、以下の通りの計8冊です。

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まず、山田久『同一労働同一賃金の衝撃』(日本経済新聞出版社) です。著者は住友系の民間シンクタンクである日本総研のチーフエコノミストであり、雇用や労働分野に強いと見なされています。本書では、その昔からスローガンとなっている「同一労働同一賃金」に関して、その実現はそう簡単なことではなく、雇用や労働のさらにさかのぼること社会政策まで含めた対応が必要と論じています。まず、エコノミストとして、当然ながら、生産性に応じた賃金が支払われるのがもっとも合理的であり経済社会においても効率性を維持できるんですが、日本に限らず実はそうなっていません。私が大学で日本経済論を教えていた時でも、本書でいうところの我が国のコア労働力が服している終身雇用制では、ピッタリ半々ではないものの、前半期は生産性より低い賃金が、逆に、後半期では生産性より高い賃金が、それぞれ支払われる、ということになっていました。生涯パターンに応じた生活給的な側面があるからです。本書では明示的に指摘されていませんが、我が気宇に労働市場の最大の問題はこの終身雇用にあります。もちろん、ホントに死ぬまでの終身雇用ではありませんので、正しくは長期雇用ということになりますが、我が国労働市場でも戦前まではまったくこのような慣行はなく、戦後の高度成長期の人手不足の下で、企業の人材囲い込みが始まり、汎用的な生産性を高めるOffJTではなく、OJTを重視し退職金を高額にし転職コストを高騰させるようなシステムが徐々に出来上がったわけです。その中で、男性正社員が無限定に会社に奉仕して、エコノミック・アニマルとか、モーレツ社員と呼ばれて、先進国でもまれな長時間労働に従事する反面、過程では女性が専業主婦として家事や子育てに専念する、というシステムが出来上がってしまいました。それが現在では働く人のダイバーシティが進み、さらに、長期停滞の中でコストカットの対象に労賃が目の敵にされて非正規雇用が増加し、ここまで格差が広がった時点では正規と非正規のよく似た労働については同じ賃金を支払うという原則が再浮上したと考えるべきです。ですから、欧州のような公平の観点だけではなく、日本では転職がまだ長期雇用的な慣行の下でコストが大きいわけですので、単に賃金だけでなくキャリアパスも含めて、どのような人生設計の下で働くか、雇用されるか、という点こそ重視されるべきではないでしょうか。ですから、賃金だけを労働実態に応じて同一にするのは、キャリアパスの観点がが無視されている限りは、私には片手落ちとしか考えられません。私の目から見て、そういった観点からは、本書はとてもいい議論を展開していると思います。オススメです。

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次に、ジョン・プレンダー『金融危機はまた起こる』(白水社) です。著者はファイナンシャル・タイムズでよく見かけるコラムニスト、ジャーナリストです。英語の原題は Capitalism というある意味で壮大なタイトルであり、2015年に出版されています。内容としては、資本主義の本質に迫ろうと試みているのはそうなのかもしれませんが、わずかこの程度のボリュームではそんなことは不可能なわけで、基本的な題材は2007-09年くらいまでのサブプライム・バブルとその崩壊に端を発する金融危機に取っており、最終章では資本主義の本質は不均衡だと結論しています。ただし、本書でもよく引用されるシュンペーターの時代との違いは将来像として社会主義・共産主義という選択足がなくなった点です。他方、著者はあえて避けていますが、均衡からの乖離を含めて資本主義の不均衡が、正と負のどちらのフィードバックを持ったモメンタムなのかは考えておく必要があります。繰り返しになりますが、著者はこの観点に気づいていないか避けているかどちらかであり、もしも、均衡から乖離して正のフィードバックを持つのであれば資本主義は立ち行きませんが、負のフィードバックであれば政策対応は必要ないともいえます。いずれにせよ、邦訳版の編集者がタイトルに選び、著者も本書の中で論じているように、金融危機はまた起こるでしょうし、問題は起こるか起こらないかではなく、どの時点でどれくらいの規模で発生するか、なんでしょうね。私もそう思います。ただ、最後に、金融危機をカギカッコ付きで「言い当てた」エコノミストの著者などからいくつか引用していますが、とても疑わしいと私は受け止めています。サブプライム・バブルとその崩壊だけを予言するのは、どちらかといえば、必然や偶然の要素よりも平凡なエコノミストが一貫して同じ向きの発言をしていれば可能なわけで、上向きと下向きのどちらも的中できなければ、いつものバイアスで予言しているだけのオオカミ少年、と見なされる恐れもあることは考慮すべきです。ついでながら、古今の西洋向けばかりで「東西」ではありませんが、著名なエコノミストに限らず教養人の文献が引用されているのも本書の魅力に数える人がいるかもしれません。著者が博覧強記なのか、それとも、ネット検索がうまいのか、どちらかだという気がします。私の目から見ても、ケインズとマルクスが並んで引用されている本は決して多くなさそうな気もします。

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次に、大内伸哉『AI時代の働き方と法』(弘文堂) です。著者は神戸大学の労働法学者であり、一応、タイトルや本書の冒頭でも人工知能(AI)に関連する労働法の考察に並々ならぬ意欲を見せていて、AIそのものに関してはどこからか引き写してきた解説はあるんですが、AIに関する労働法の整備に関しては羊頭狗肉であって、何ら中身はありません。私はそれなりの関心があったので、その点は期待外れでしたが、まあ宣伝文句ですからこんなもんでしょう。そして、その中身は現在の労働法制は正規社員の身分保障が強すぎて時代遅れ、の一点張りでした。トホホというカンジで、ほとんど何の論証もなく「時代遅れ」の一点張りで押し通しています。確かに、終身雇用、年功賃金、企業内組合の日本的な雇用慣行は高度成長期に人手不足が深刻化し、人材を囲い込むために発達した制度であり、高度成長期の人手不足に適合的な制度であるという意味で「時代遅れ」というのは、ある意味で、その通りです。ただ、第5章の特に終わりあたりで著者も意識的にぼかしていますが、企業の経済合理的な選択と集中のためには、雇用者の流動化も有効なんですが、企業そのものも流動化するという極めて有効な手段があります。米国の雇用は日本に比べてと絵も流動的なんですが、企業そのものも連邦破産法11章、いわゆるチャプター11によりかなり柔軟な対応が可能となっています。著者は労働法学者であって会社法学者ではないようですから、企業はあくまで going-concern であって、経済合理性の追求のために労働者にしわ寄せが来るのをいかに労働法という次元でさばくか、に関心があるのでしょうが、エコノミストの目から見れば、生産要素の柔軟で流動的な配置転換という意味では、資本も労働も同じ生産要素です。極めて単純化した見方ながら、経済合理性の追求のためには、労働者は会社の言いなりになるしかない、だから、正社員の身分保障は緩和すべき、というのは一方のイデオローグであり、他方、労働者の経済的厚生水準の維持強化のために企業活動に制約を加えることも必要、特に金融活動の規制は金融危機回避のために必要性が高い、というのも別のイデオローグかもしれません。

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次に、ジュリア・ショウ『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社) です。著者はロンドンの大学をホームグラウンドとする記憶研究者、というか、過誤記憶の研究者です。精神科の医者なのか、心理学の専門家なのかは私には不明です。英語の原題は The Memory Illusion であり、2016年の出版です。過誤記憶の研究者として犯罪事件の事実解明に加わっているそうですから、過誤記憶研究者は人権派弁護士と並んでカギカッコ付きの「犯罪者の味方」と見なされる場合もありそうな気がします。どうして記憶が間違っているのかは、いくつかの原因があるようですが、そのひとつに優越感情による認知の歪みがあります。要するに、自分が他者よりエラいと思っているので、過誤記憶を持ってしまうわけです。ですから、犯罪に近い状況では交通事故の状況の見方が、関係者間で大きく異なることもあり得るわけです。ただし、さすがに、現役の総理大臣夫人から100万円の寄付があったかどうかは、記憶に間違えようがない気がするんですが、いかがなもんでしょうか。そして、記憶に間違いがあって、議院証言法上の証人として国会で事実と異なる自分の過誤記憶を披露してしまえば、まあ、偽証罪に問われたりするわけです。この2冊前の本の感想文で、博覧強記とネット検索の補完性というか、代替性というか、についてやや揶揄するようなことを書きましたが、実は、私自身は自分自身の脳に収納しておく記憶容量にまったく自信がありませんので、出来る限り外部記憶装置に収納しておくようにしています。この読書感想文もその一環です。決して自慢でも何でもなく、これだけの読書量があれば、すべてを記憶しておくことはまったく不可能です。外部のサーバに出来る限り読んだ後に感想文を残しておくことにしています。最後に、本書では、フロイトの精神医学や心理学はまったくのエセ科学と喝破したり、睡眠学習の非現実性を明らかにしたりと、とても私の考えに近い著者の見方に好感が持てます。もっとも、そうでない人はそうでないかもしれません。

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次に、佐々木健一『神は背番号に宿る』(新潮社) です。著者はNHKの関連会社を振り出しに映像ジャーナリズムで活躍しており、本書はNHKの関連企画の取材を基にしているようです。なお、単に「背番号」というだけでは、多くの球技で採用されているシステムですが、上の表紙画像に見られる通り、野球、特にプロ野球に特化して背番号にまつわるエピソードを集めています。まず、何といっても、私が読もうと思ったきっかけは、最初に取り上げられている選手が江夏投手だからです。誌かもその次が村山投手です。江夏投手の背番号28については、本書でも触れらている通り、小川洋子『博士の愛した数式』で有名になった完全数です。約数を全部足し合わせると元の数になるという意味だそうです。江夏というのは、昨年逮捕された清原といっしょで、晩年に薬物で逮捕され有罪判決を受けましたので、その分、少年野球などからは距離を置いて見られていますが、本書でも指摘されている通り、すでに刑期を終えて出所し社会的な制裁を受けていますので、そろそろ過去のお話しにしてしまうのも一案でしょう。いくつかの名門球団で、いわゆる永久欠番とされた背番号の由来、あるいは、逆に、あれほど活躍したにもかかわらず永久欠番とならなかった背番号、例えば、今は2年連続トリプル・スリーの山田選手が引き継いでいるヤクルトの1番を背負っていた若松選手のケース、などを判りやすく興味深く展開しています。およそ、私なんぞのまったく知らない選手のエピソードまで含めて、いろんな背番号にまつわる話題を提供しています。プロ野球ファン、特に江夏投手を知る阪神ファンは必読かもしれません。

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次に、マリア・グッダヴェイジ『戦場に行く犬』(晶文社) です。著者は米国西海岸在住でジャーナリストの経験が長く、現在では愛犬家のブログ投稿サイトの運営などをしています。2012年の出版であり、英語の原題は Soldier Dogs です。私は本来こういった軍事関係は決して評価せず、逆に回避する傾向があり、例えば、小さいころからガンプラを与えてきた上の倅が中学に入って模型部に入って部活をする際も、プラモデルの中に頻出する軍艦や戦闘機や戦車などの兵器関係は「おとうさんは嫌いである」と宣言した記憶があります。ちなみに、倅が同じ趣旨の発言を部活でしたところ、「ガンダムって兵器じゃないの?」といわれたらしいですが、まあ別のお話しでしょう。ということで、兵器や軍事に否定的な感情しか持たない私がどうして本書を読んだのかというと、実は、歴史的に見て我が家では飼い犬だけが太平洋戦争の戦場に駆り出されているからです。すなわち、私の父親は昭和ヒトケタの1930年生まれで、終戦の1945年までに徴兵年齢に達せず、その私の父の父親である祖父は年齢が行っていて招集されず、結局、飼っていた犬だけが軍隊に引っ張られて「戦死」したらしいです。犬種について私はよく知りませんし、どこで何をしてどうして「戦死」したのかは、軍事作戦上の機密事項でもないんでしょうが、明らかではありません。さらに、このブログの読書感想文では取り上げませんでしたが、昨年、出版から2年近く遅れて『アメリカ最強の特殊戦闘部隊が「国家の敵」を倒すまで』を読み、それはウサマ・ビンラディンの追跡と奇襲を跡付けたノンフィクションで、本書にも何度も出て来ますが、カイロという軍用犬が登場します。米国ではとても有名な軍用犬で、当時のオバマ大統領がこの部隊をねぎらいに出向いた際に、"I want to meet that dog." 「あの犬に会わせてくれ」と言ったらしいです。軍用犬ではなく警察犬などでも同じようなストーリーは有り余るほど存在するんでしょう。さらに、私は軍事作戦についてはまったくシロートですし、一時流行した言い方をすれば、私自身は明らかにイヌ派ではなく、ネコ派なんですが、本書では人間と犬の絆について、そして、その昔には「犬畜生」という言葉もありましたが、犬という動物の評価について、考えさせられるものがありました。私は違いますが、愛犬家の中にはとても高く評価する人もいそうな本です。

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次に、真山仁『バラ色の未来』(光文社) です。作者は売れっ子のエンタメ作家であり、本書は、ズバリ、統合リゾート(IR)法案にからんで、利権渦巻く政治の世界を舞台にしています。すなわち、青森県の寒村の町長がホームレスとして東京で死を迎えるところから物語は始まり、その町長が誘致しようとしたマカオのカジノを経営する中国人女性、コンサルとして暗躍する広告代理店の男性、もちろん、総理大臣とそのファーストレディまでカジノに思惑を抱いて利権に漁ります。それを社会の木鐸として事実関係、特に、利権の構図とカジノの影の側面を明らかにしようとする名門新聞社の編集局次長まで上り詰めた女性記者と、同じ新聞社の幹部ながら時の政権のブレーンとして政権の暗部を報道するのを防止しようとする専務編集局長、などなど、羅列すれば複雑そうに見えますが、それはそれなりに単純な人間関係の中でストーリーは進みます。ただ、後半から失望する読者が多そうな気がします。第1に、カジノの負の側面を政治家の利権と国民のギャンブル依存症だけで済ませようとする作者のお手軽プロットです。反社会的組織の暗躍やその組織による薬物汚染をはじめ、いくらでもカジノ反対論の根拠はあるのに依存症だけで済ませようというのは手抜きに過ぎます。依存症であれば、本書で作者も何人かの登場人物に発言させているように、本人の問題とも言い逃れできます。第2に、ラストがお粗末です。メディアの記者が何を記事にして、社内政治の流れで何を記事に出来ないか、しかも、編集にはかかわらないはずの社主まで登場させた割りには、メディアの対応がお粗末としか言いようがありません。せっかく、話題のIRやカジノを題材にしながら、作者の力量不足、取材不足としか考えられません。この作品くらいの出来であれば、この作者は諦めて別の作者の手に委ねるのも文学界全体としてはよかった可能性すらあります。誠に、残念。

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最後に、赤川次郎『招待状』(光文社文庫) です。著者はよく知られた売れっ子のミステリ作家であり、三毛猫ホームズのシリーズなどは私も愛読しています。本書は通常の単行本と文庫本とで同時に発行されたんですが、私が読んだのは上の表紙画像の文庫本でした。中身は、ファンクラブ会誌「三毛猫ホームズの事件簿」で毎号書き下ろされているショートショートです。お題は読者から寄せられています。「再出発」から始まって、「シンデレラの誤算」、「父の日の時間割」、「封印された贈り物」、「幽霊の忘れ物」、「テレビの中の恋人」などなど、27のストーリーを収録しています。この作者本来のミステリーはもちろん、サスペンス、ファンタジー、ラブストーリーなどですが、さすがに、ショートショートの短い文章ですので、ひねりのある結末は少なく、基本的にストレートな内容に仕上がっています。この作者の作品らしく、ユーモアたっぷりで、表現は悪いかもしれませんが、時間潰しに最適です。
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2017年03月18日 (土) 11:42:00

今週の読書は充実した経済書中心に計5冊!

今週の読書は経済書、特に私の専門分野である開発経済学を含めて経済書中心に以下の5冊です。先週末に米国雇用統計が割り込んで営業日が1日少ないので、こんなもんかという気もします。特に、藤田先生ほかの『集積の経済学』をはじめとして、分厚くボリュームたっぷりの本が目白押しでしたので、冊数の割にはなかなかの読書量ではなかったかと自負しています。

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まず、外山健太郎『テクノロジーは貧困を救わない』(みすず書房) です。著者は、マイクロソフト、特に、マイクロソフト研インドでの研究歴が長く、本書では主としてインドでの体験を基に議論が進められています。本書でいうところのテクノロジーとは、狭く考えればパソコンやスマートフォン、あるいは、それらのハードで走らせるソフト、ということになり、いわば、我が国のODAが進めてきたような途上国援助のうちのハコモノ援助、道路や橋や空港やといったインフラ整備を中新とする援助のようなものであり、それはたしかに貧困を救わないかもしれないわけですが、テクノロジーについて人間が利便性を追い求めてきた仕組みややり方などすべてに対する総称として考えれば、それなりに貧困削減には役立ってきた気もします。ただし、本書で著者は貧困削減のためには、取り組む人々のヤル気や意識の高さなどをとても重視しているような気がします。そういった、いわば、エウダイモニア的な崇高な意識の下での貧困削減が重要であり、そういった崇高な見識をテクノロジーは増幅するが創造はしない、というのが本書の結論なんだろうという気がします。私はそこには疑問があります。もちろん、エウダイモニア的な崇高な意識の高さは重要かもしれませんが、」そういった意識の高さがなくても社会的な仕組みの中でジコチュー的な人間でも大きな貧困削減の成果が上げられる、といった方向にシステムや制度を設計することこそが重要ではないでしょうか。崇高な意識の下では、貧困削減だけでなく、ほかの何らかの政策目標、もっとも極めて専門的な技術を要するものを除きますが、そういった、一般的な政策目標は何だって達成されそうな気がします。その意味で、意識の高さだけを要件と考えるのはよろしくないと私は考えます。そうでない一般的な人々が、貧困削減に成功するような仕組みや制度を考えて実行するのが開発政策ではないんでしょうか。

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次に、藤田昌久 & ジャック F. ティス『集積の経済学』(東洋経済) です。本書の英語の原題は Economics of Agglomeration ですから、邦訳はそのまま直訳されています。初版は2002年に出版されていますが、本翻訳書の底本は2013年出版の第2版です。著者は2人とも経済学者であり、2008年にノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン教授らとともに空間経済学のリーダーでもあります。ただ、少しだけアプローチが異なり、藤田教授は一般均衡論的なアプローチ、ティス教授は産業組織論的なアプローチとの特徴があります。いずれにせよ、本書は世界的な空間経済学の権威による専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストとしても耐え得る著作です。まあ、ハッキリいって、私のようなシロートが通勤電車で読み飛ばすような内容では本来ありません。当然のように、数式も頻出して解析的にエレガントに結果が導かれたりします。私が「定量分析」と呼ぶような手法のごとく、再帰的に力ずくで漸近的な結果を求めようとするわけではなかったりします。空間経済学は都市の形成という観点で、実は都市以外は農村だったりするわけですが、2部門モデル的な要素が強くて、私の専門分野である開発経済学と通ずる部分も少なくなく、少なくとも、クルーグマン的な核周辺モデルにおいて、非常に単純化すれば、核=都市=製造業と商業に対する周辺=農村=農業の2部門モデルの分析はそれを歴史的な展開に置き換えれば開発経済学そのものです。ですから、空間経済学では本書にも登場する「首都の罠」、すなわち、首都以外の都市が形成されず製造業も育たない、といった望ましくない状況が開発経済学といっしょになって研究されていたりもします。第2版の本書では最終章をはじめとしてグローバル化に対応した部分に追加修正が加えられており、核となる国に戦略的な経営・研究開発・ファイナンスなどの本社機能が置かれ、周辺国に未熟練労働を相対的に多く使う工場が置かれたり、といった結果が導出されています。加えて、コミュニケーション費用が低下すれば、周辺国の工場の比重が増加、核となる国の熟練労働者の厚生が低下するという結果も得られています。ですから、トランプ米国大統領的に、国境に大きな壁を築いてコミュニケーション費用を高めれば、あるいは、逆のことが生じるのかもしれません。繰り返しになりますが、かなり高度な内容の専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストです。税抜きで6000円というお値段も考え合わせて、買うのか借りるのか、読むのか読まないのか、について合理的な選択をするべきかもしれません。

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次に、野村直之『人工知能が変える仕事の未来』(日本経済新聞出版社) です。著者は労働や雇用ではなく、人工知能(AI)の方の専門家です。ですから、タイトルに魅力を感じて、私なんぞは読み始めたなですが、やっぱり、AIの解説の方に重きが置かれていて、少し肩透かしを食った恰好です。でも、2045年にAIの能力が人間を上回るという意味でのシンギュラリティを迎える、とかの宣伝文句先行型のAIの先行き見通しに本書は疑義を唱え、もっと落ち着いた先行き予想を展開しています。すなわち、AIについては人間の道具となる弱いAIと人間の脳機能を超えるようなスーパーな存在を目指す強いAIを区別し、後者が人間を超えるという意味でのシンギュラリティの近い将来での到来に疑問を呈しています。もちろん、前者の人間の道具としてのAIについては、単なる3メートルの棒でも人間の能力を超えるからこそ道具として有用なわけですから、特定の用途で人間の能力を超えるのは当然、という見方です。そして、最終章15章では例のオックスフォード大学によるAIに代替される労働について考察を加え、その昔のラダイト運動なども引きつつ、決して悲観一色の見方ではありません。その前提として、何回かベーシック・インカムの導入について前向きの記述を見かけます。AIを導入して人間労働を大幅に削減しつつ、働かなくてもベーシック・インカムで最低限の生活を保証する、というのが将来の政策の方向なのかもしれません。ただし、AIをはじめとする最先端技術における日本の貢献や政策動向についての本書の見方はとてもありきたり、というか、ハッキリいって、ほとんど何の見識もありません。2045年のしんgyラリティに少し不安を感じた向きに落ち着いた技術論を供給するのが本書の主たる貢献ではないかという気がします。雇用や労働のあり方まで著者に将来像の提示を求めるのは少し酷かもしれません。

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次に、翁邦雄『金利と経済』(ダイヤモンド社) です。著者は日銀金融研所長などを歴任していて、いわゆる旧来からの日銀理論家ですから、現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っていることを前提に読み進む必要があります。非常に単純にいえば、本書では物価の動きの背景にある国際商品市況における石油価格についてはまったく考慮することなく、要するに、現在の黒田総裁の下での日銀金融政策が自ら掲げたインフレ目標の2%を達成できていない点を基本的には理論面から分析しています。まず、現在の米国のポリシー・ミックスが拡張的な財政政策と引締め的な金融政策になっていて、1960年代のケインジアン的な政策とは逆に、1980年代のレーガン政権下の政策と類似性あるとの見方を示し、その中で、1980年代前半においては為替の円安が進みつつ、それは持続性なかったためにプラザ合意から円高に反転したわけですが、我が国のアベノミクス、実は、本書でも指摘するように、安倍政権成立の少し前から円安が進んだ点との類似性を見ています。それはそうかもしれません。その上で、現状の長期停滞理論を持ち出し、自然利子率の低下の影響を日本経済にも写し出そうと試みています。ただ、結論で大きく異なる点が、要するに、自然利子率まで実際の金利を下げようとするリフレ派とちがって、国民に大きな負担を強いるカギカッコ付きの「構造改革」により自然利子率を引き上げようとする点です。どうして日銀理論家がここまで中長期的な視点で自然利子率を引き上げるような形の構造改革を提唱するのか、私にはまったく不明です。通常、中央銀行は短期循環を視野に入れた景気循環の平準化、というか、景気後退の回避を念頭に金融政策を運営し、政府はより長期の政策目標を設定して、まあ、いわゆる構造改革を含めて、例えとしてはよくないかもしれませんが、よく「国家100年の大計」と称される教育などの政策まで含めたグランド・デザインを描く、というのが役割分担だ、と私も官庁エコノミストの先輩から聞かされた記憶があります。私が考えるに、金融政策の庭先をきれいにしておいて、物価への政策の影響力がないとか何とかいって、裁量的な金政策を自由気ままに企画立案していた昔の姿が懐かしい、といっているように聞こえてしまうエコノミストもいるかもしれません。いないかもしれません。繰り返しになりますが、本書は現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っている著者の手になるものである点を前提に読み進む必要があります。

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最後に、須賀しのぶ『また、桜の国で』(祥伝社) です。著者は、私は作品を読んだことはないんですが、それなりに売れている作家であろうと受け止めています。本書は今年上期の直木賞候補作となっています。戦間期のポーランドの首都ワルシャワを舞台に、外務書記生という在外公館の中でも書記官未満のやや低い職階をこなす青年を主人公にし、しかもこの青年の父親が白系ロシア人という設定のかなり大がかりな歴史小説です。少年時代のポーランド人孤児との邂逅は別にして、物語は1938年秋に主人公の青年がポーランドの日本大使館に赴任するところから始まります。誇り高いポーランド人を持ってしても、ロシア、ハプスブルク家のオーストリア、近代以降のプロシアや統一後のドイツなどの列強に囲まれて、なかなか独立を維持することさえ困難なポーランドにあって、第2次隊戦前夜の不穏な世界情勢を背景に、そして、独ソ不可侵条約に基づいて独ソに分割されるポーランド、頼りにならない英仏など、20世紀前半の欧州情勢を余すところなく盛り込みつつも、ポーランドの首都ワルシャワにおける主人公の日本人外交官として、あまりにもポーランドに肩入れした姿勢に不安を感じながら私は読み進みました。というのも、一応、私は外交官経験者ですし、戦争前夜の欧州の情報収集担当こそ経験がありませんが、似たような情報収集はどこの大使館でもやっています。大使館勤務の当時に私が外交官としてやったのはGATTウルグライ・ラウンドのドンケル事務局長提案に対する主要国の姿勢に関する情報収集でした。それはさて置き、本書のキモは米国人ジャーナリストだと思っていた人物の意外な正体なんですが、それも面白い趣向ながら、やっぱり、直木賞を逃した最大の要因は登場人物のキャラがあまりに似通っているからではないでしょうか。すべて正直で一途で思い込んだら命がけ、のような熱血漢ばかりです。日和見をして風見鶏のように態度を変える人物とか、味方だと思っていたのに実は敵のスパイだったとか、そういったヒネったキャラが見当たりません。その分、物語が平板で深みがなく、スラスラと進んでしまいます。いくつか、表現上の不一致も散見され、例えば、ドイツ側ではナチスの象徴としてのヒトラーは登場しますが、ソ連のスターリンに関する言及はどこにも出てきません。また、主人公が列車で出会ったカメラマンのヤンについても、生意気な発言を「である」調でしているかと思えば、急にへりくだって「です・ます」調でしゃべり始めたり、編集作業で訂正しきれていない部分も少なくありません。小説としての完成度はその分割り引かれそうな気がします。
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2017年03月12日 (日) 18:39:00

先週の読書は経済学の学術書をはじめとして計6冊!

先週の読書は経済の学術書をはじめとして以下の6冊でした。1日1冊に近いペースですが、半分の3冊は新書と文庫本ですから、それほどのボリュームではありません。これくらいのペースか、もう少し少ないのが理想のような気がします。週に10冊はあまりにも多すぎると思います。でも、昨日自転車で図書館を回ったところ、今週の読書は少し多くなりそうな予感です。

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まず、岩本康志ほか『健康政策の経済分析』(東京大学出版会) です。著者は医療経済学や健康政策に関するミクロ経済学に関する研究者であり、出版社から考えても本書が学術書であることは明らかです。その上、本書のもっとも大きな特徴のひとつは、福井県と東京大学高齢社会総合研究機構による共同研究の一環として、福井県国民健康保険団体連合会が共同電算処理で管理している調査客体について、医療保険レセプト、介護保険レセプト、特定健診・特定保健指導のデータを個人で接合した総合パネルデータを構築してさまざまな定量分析を行っている点です。しかも、データに即して最新の定量分析手法が採用されており、定量分析手法に関する補論も収録されています。ということで、いくつか分析結果を取り上げると、やはり、従来の既存研究で明らかにされるとろもに直観的にも理解されている通り、医療費の集中度は極めて高くなっています。すなわち、上位10%でほぼ半分近く、上位30%では全体の80%ほどの医療費を占めています。しかも平均への回帰は見られず、医療費に大きなウェイトを占めるグループはほぼ固定的です。財政制約が強まる中で、この医療費のかかるグループに対する何らかの処置が必要となる可能性が示唆されています。同様に、医療費抑制の観点から、死亡前1年間の終末期医療についても、医療と介護のトレードオフあるものの、何らかの抑制策の必要性が示唆されています。また、高齢者の社会的入院もまだ解消されていない事実が明らかにされていますし、短期入所療養介護については供給により需要が創出される実態が明らかにされています。福井県だけのデータであり、しかも、医療保険レセプトは国民健康保険に限っていて企業従業員が抜けているおそれが強いわけですから、何らかのバイアスがある可能性は排除されないものの、こういった定量分析に基づく政策評価はこれからも必要になるように私は感じています。ただし、別の観点から、財政制約の強まりという背景はあるものの、必ずしも政策評価が定量分析に基づくものに限られる怖さも感じるべきです。定量分析でムダと評価されても国民に支持される政策はあるわけで、そういった観点からの政策評価も忘れられるべきではありません。

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次に、植村修一『バブルと生きた男』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀OBでバブル前後の時期に当時の大蔵省銀行局総務課にも出向経験あるらしいです。1979年の日銀入行だそうですから、30歳前後でバブルを経験し、その後、バブル崩壊や後始末に追われた世代かもしれません。作なん一昨年あたりから、その昔のバブル経済を回顧する本が何冊か出版され、私も少し読んだりしたんですが、本書についてはパーソナル・ヒストリーですから、しかも、60歳を超えた日銀OBのパーソナル・ヒストリーですから、検証のしようのない一方的な自慢話も含めて、読み進む上で、それなりのバイアスはあるものと覚悟する必要があるかもしれません。何点か目についたところで、バブル経済を知らない世代に参考となるのが広末涼子主演の映画「バブルへGO!!!」だというのは私もそう思います。ちょうど2007年封切りで、その直後に私は地方大学に出向したため、そのころの大学生はバブル経済をまったく知らず、実は、今の大学生は私の倅と同年代なんですが、ここに至ってはリーマン・ショックすら知らなかったりするんですが、結末は別として、この映画はバブル経済をよく理解した人が作っている気がします。それから、日銀OBにしてはめずらしく2000年8月の速水総裁の下でのゼロ金利解除に批判的です。日銀の人は我々役人と同じで無謬主義だと勝手に思っていました。前に読んだ誰か日銀OBの本では、この2000年8月のゼロ金利解除について「間が悪かった」とだけ書いてあって、唖然とした記憶があります。最後に、私はこの著者から少し年下で、いずれにせよアラ還なんですが、私の結婚が大きく遅れたのはバブルで遊び回っていたためではなかろうかと反省しています。まあ、反省してももはやどうにもならないんですが…

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次に、ブルース・シュナイアー『超監視社会』(草思社) です。著者は世界的な暗号研究者、コンピュータ・セキュリティの権威と紹介されています。英語の原題は Data and Goliath であり、2015年の出版です。著者が本書の中で明記しているように、テクノロジーの進歩の影の部分をかなり意図的に拡大して取り上げています。すなわち、特にインターネットの検索履歴、GPS位置情報、メール、チャットやフェイスブックなどのSNSへの書き込み、オンライン決済、オンラインバンキングなどなど、あるいは、単にインターネットの何らかのホームページを見ているだけでも、スマホやパソコンから日々大量の個人データが生成しており、個人が特定されるリスクが大きいと本書は指摘しています。私の知る限りでも、その昔はインターネットの世界は匿名の世界であるといわれていましたが、今では何のプライバシーもありません。何かコトが起これば個人が特定され、その人本人の顔写真、あるいは、家や通っている学校か会社あたりの写真が、おそらく、12時間以内くらいにどこかにアップされかねません。ただ、本書はそのテクノロジーの影の部分を故意に誇張しており、光の部分を小さく見せていることは確かで、個人を特定できなければ利便性が大きく低下する可能性も忘れるべきではありません。そして、本書の著者の巧妙なところなんですが、第1部では企業の個人情報収集を取り上げつつ、第2部では国家、というか政府の個人情報収集、特にインテリジェンス機関のテロ防止のための対応に話をすり替えて、恐怖心をあおっていたりもします。私の考えるに、プライバシーについて著者は意図的に混同してゴッチャにしているんではないかと思います。私の基本的な考えとして、市場参加者としてのプライバシーはもはやないと考えるべきです。何をいくらでいつどこで買ったか、はもはやプライバシーではありません。他方で、夫婦間の寝室での行為や真剣な男女間のお付き合い、シャワールームやトイレでの下半身の画像などはかなり古典的なプライバシーです。ただ、グレーゾーンがかなり広く、真剣なお付き合いの男女が結婚式場を予約した後、キャンセルした、とかはグレーゾーンです。また、個人で完結せずに社会的に波及効果があり、経済学でいうところの外部性の大きな行為や事実もグレーゾーンに入るかもしれません。例えば、伝染性高い疾病はプライバシーではないと考えられますし、性犯罪者の犯罪歴がどこまでプライバシーなのか、どうかは議論あるかもしれません。おそらく、著者はプライバシーを広く考えて情報監視を嫌うでしょうし、逆に、情報を監視しているインテリジェンス機関は狭く考えるバイアスがあることは言うまでもありません。それから、本書では国民の参加による民主主義で決定する理想が高く掲げら