2017年04月22日 (土) 13:24:00

今週の読書は経済書や専門書に加えて話題の小説など計9冊!

今週は経済書や専門書・教養書に加えて、直木賞受賞の小説や本屋大賞1位2位、というか、直木賞と本屋大賞1位は同じなんですが、そういった話題の小説も含めて計9冊でした。これから夕方にかけて図書館を自転車で周る予定ですが、ゴールデンウィーク直前の来週の読書やいかに?

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まず、橘木俊詔『家計の経済学』(岩波書店) です。著者は著名なエコノミストであり、私の母校である京都大学経済学部をホームグラウンドにしていました。本書は3部構成となっており、家計の歴史的変遷、家族の変化、格差・貧困をそれぞれで取り上げています。GDPのやく3分の2を占めるのは家計による消費であり、成長や景気を論じる際、マクロ経済学的に重要であるだけでなく、本書の第3部で着目している格差や貧困などのマイクロな経済学の観点からも、かつての1億総中流時代を終えて、最近時点で重要性が増しています。本書は日本の人口変動、家族形態の変遷から説き起こし、働き方や所得分配や消費・貯蓄動向を分析することによって、明治から現代まで日本人がどのような家計行動をしてきたかを示そうと試みています。家計に関する経済学限りませんが、戦前と戦後では大きな断絶があり、明治から戦前の日本経済においては女性の労働力率のM字カーブは見られず、終身雇用や年功賃金なども戦後の高度成長期の人手不足に整備された雇用慣行といえます。また、家計の経済学とは直接の関係がないことから本書では取り上げていませんが、企業の資金調達なども戦後のメインバンク制による間接金融ではなく、戦前は社債の発行などによる直接金融でした。戦前は格差が大きかった一方で、戦後は単騎に終わったとはいえ財産税の徴税もあって、格差縮小が一気に進んだという点は見逃されるべきではありません。ただ、最近時点では非正規雇用の拡大による格差の拡大が観察されるのは本書でも指摘する通りです。また、女性の就業についてもダグラス=有澤の法則が支配的になった時期もありましたが、最近では少し崩れつつあるようです。最後に、本書では、第12章で貧困について分析を加えており、貧困拡大の主因としてバブル経済崩壊後の深刻な不況による失業の増加と賃金の低下、また、そういった状況下での企業のリストラ策の一環としての非正規雇用の増加を、著者は第1と第2の原因として上げていますが、そのわりには、成長に対して消極的な考えを本書でも散りばめているのが私には理解できません。低成長下ですべての貧困対策を政府が担うべき、という意見なんでしょうか。それにしても、税込みなら5,000円を超えるお値段は買い求めるには、かなり高い気がします。

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次に、沢井実・谷本雅之『日本経済史』(有斐閣) です。著者2人はいずれも日本経済史の研究者であり、本書は16世紀終わりの織豊政権期から1970年代初頭くらいまでの高度成長期をカバーした日本経済史のテキストです。私は大学時代は西洋経済史のゼミでしたので、それなりに経済史は馴染みがあります。江戸期では小農経営主体の農村経済と大消費地たる京・大坂・江戸の都市経済を対比させつつ、明治維新期から戦間期、そして太平洋戦争前後の混乱期とそれに続く高度成長期を跡付けており、具体的な章別構成は、第1章 「近世社会」の成立と展開(1600~1800年)、第2章 移行期の日本経済(1800~1885年)、第3章 「産業革命」と「在来的経済発展」(1885~1914年)、第4章 戦間期の日本経済(1914~1936年)、第5章 日本経済の連続と断絶(1937~1954年)、第6章 高度経済成長(1955~1972年)、となっています。直観的な構造変化と統計、というほどのものではないにしても、何らかの定量的な史料で裏付けられた数量の分析を基に、我が国近世から近代・現代の経済史を解き明かしています。ただ、戦後の占領軍による改革が少し弱い気がします。特に、農地改革がスッポリと抜け落ちているのは不思議です。私の従来からの主張の通り、歴史の流れは基本的に微分方程式の系に沿って進んでおり、従って、初期値が決まればアカシックレコードのように未来永劫に渡る歴史が決まってしまうと考えていて、別の味方をすれば、量子物理学以前のニュートン的な決定論かもしれませんが、ラプラスの悪魔の見方とも言えます。しかし、実際には、アカシックレコードではなく、確率的にジャンプするシンギュラリティがあり、本書のスコープとなっている期間の日本経済史では明治維新と太平洋戦争がその特異点に当たると私は考えています。西洋経済史では産業革命です。そこをいかに説明できるかが経済史のテキストの値打ちを決めると私は考えていますが、本書は何とか合格点だという気がします。

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次に、ピーター・ナヴァロ『米中もし戦わば』(文藝春秋) です。著者は米国のカリフォルニア大学アーバイン校のビジネス・スクールの経済学の研究者であり、外交や安全保障の専門家ではないようです。ただし、トランプ米国大統領の政権移行チームで政策顧問を務め、経済、貿易、そしてアジア政策を担当していたらしいです。英語の原題は Crouching Tiger であり、まさに陸上競技のクラウチング・スタートのように伏せをした虎、という意味です。2015年の出版となっています。私はまったくの専門外ながら、本書では70%という具体的な確率を上げて米中の開戦の可能性が高いと指摘しつつ、どうすれば開戦を回避できるかを考察しています。9.11テロの後の当時の米国のブッシュ政権では国連決議を待たずに同盟国と組んだ多国籍軍という形での軍事行動を中東やアフガニスタンで行いましたが、現在のトランプ米国大統領は同盟国すら説得することなしの単独軍事行動を志向する可能性があります。現実にシリアのアサド政権の軍事基地に向けて巡航ミサイルを打ち込んだりしているわけです。北朝鮮に対しても中国の出方次第では日韓の頭越しに単独の軍事行動を取る可能性もゼロではありません。そのトランプ政権の懐刀として、本書の著者は米中開戦の確率をかなり高めに見積もり、しかも、「弱さは常に侵略への招待状」(p.354)として、同盟国を守りつつ米国が軍事的に中国の脅威に対処する重要性を強調しています。従って、というか、何というか、本書は中国の軍事力や戦略に関するバランスのとれた分析では決してないと私は思うんですが、現在のトランプ政権の下でのあり得る軍事的なシナリオを提示していることは間違いなく、その意味で、米中開戦はホントにあれば我が国経済なんかはぶっ飛ぶお話しですので、エコノミストととしても気にかかるところです。

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次に、竹中治堅[編]『二つの政権交代』(勁草書房) です。政治学の研究者による2009年と2012年の2回の政権交代に関する研究所です。具体的な政策テーマとしては、農業、電力、コーポレート・ガバナンス、子育て支援、消費増税、外交、防衛大綱の改定、集団的自衛権の8分野について、4つの分類、すなわち、政権交代に際して政策が大きく変更されたもの、2回の政権交代にもかかわらず政策の継続性が高いもの、2009年の政権交代で政策変更されたものの2012年の政権交代では継続性が高かったもの、逆に、200年の政権交代では継続的だったが2012年の政権交代では大きな変更を見たもの、の4カテゴリーを見出しています。最初のカテゴリーには農業や子育て支援が当てはまり、アジアを中心とする外交政策は2度の政権交代に渡って変更の少なかったものであり、第3のカテゴリーがもっとも多くて、電力、コーポレート・ガバナンス、消費増税、防衛大綱が含まれるとしています。しかし、私は外交については民主党政権下で米国一辺倒からの脱却と中国寄りの姿勢が見られ、それがために当時の米国オバマ政権から鳩山内閣が見放されたんではないかと見ていますので、少し疑問に感じます。でも、2009年の民主党政権による政策変更を2012年の安倍内閣が引き継いだケースが割合と多い、というのは実感としてもそうだという気がします。ただ、本書の視点そのものが私には疑問です。すなわち、政権交代があったから政策変更がなされたわけではなく、何らかの条件の変化、例えば、米国の地位の低下と中国の台頭とか、我が国の高齢化や少子化の進行とか、そういった条件の変化が政策の変更を要求し、それが結果として政権交代の必要を高めた、と私は逆の因果関係を見出すべきではないかと考えています。まあ、それにしても、まずまず興味深い政策動向の分析だっっという気がしますし、単に政策の内容だけでなく、ついつい結果を重視するエコノミストの視点からは抜けがちな政策の決定システムやプロセスがキチンと分析されており、勉強になった気がします。

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次に、畑中三応子『カリスマフード』(春秋社) です。著者は編集者、というか、ジャーナリストと考えてよさそうで、もちろん、専門分野は食品なんだろうと思います。前著が『ファッションフード、あります。』というタイトルらしく、私は読んでいませんが、要するに、流行りの食品という意味で「ファッションフード」と称していますから、本書のタイトルの「カリスマフード」はその比較級なしい最上級なんだろうと私は受け止めています。ということで、本書では上の表紙画像に見られる通り、肉・乳・米を取り上げて、明治期からの日本人の食生活を論じていますが、最初の2つの肉・乳と米では位置づけが異なり、肉と乳についてはまさに明治期から日本の食生活にファッションフード、カリスマフードとして導入された一方で、米についてはダイエットからお話が始まっています。明治維新とその直前の会告で外国人と接するようになって、日本人との体格差を歴然と認めざるを得ないようになり、また、帝国主義の時代背景から植民地化を回避するというより、むしろ積極的に植民地を求める富国強兵政策の下で、軍の将兵の体格差を食傷すべく食生活の改革が始まったのは歴史的にそうなんだろうと思います。それにしても、肉食はまだしも、牛乳の飲用については我が国の歴史開闢以来初めて大々的に開始されたわけであり、本書でも衛生観念の欠如から様々な事故があったことが取り上げられています。これを悪意を持って受け止めれば、ミルク排斥論にもつながるわけなんだろうと思います。私は実はミルクがいまだに好きで、ならして見れば、1週間で2.5ないし3リットルくらいの牛乳を飲んでいるような気がします。コーヒーも好きですが、明らかに、もっとも大量に飲用している液体は牛乳だろうと思います。私は世代的に小学校入学時はアノ脱脂粉乳を給食で飲まされて、途中でビン牛乳に変わった世代なので、いまだにミルクを嫌悪する人も少なくありませんが、決して牛乳は嫌いではありません。でも、身長は同世代の中で、それなりに高いは高かったんですが、びっくりするほど高かったわけではありません。最後に、明治期の米にまつわる脚気論争は何となく知ってはいましたし、森鴎外が軍医として誤った見解に固執したのは歴史的事実なんですが、海軍と陸軍を分けて見るなど、なかなか興味深い取り上げ方だったような気がします。最後に、鶏卵についても牛乳とともにいわゆるその昔の表現でいえば「完全食品」なわけで、コチラは江戸期から食用に供されていた点に違いはありますが、もう少しスポットを当ててもいいような気がしました。私のような食いしん坊には読んでいて楽しい本でした。

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次に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎) です。直木賞受賞作品にして、本屋大賞1位に輝いています。ピアノコンクールの物語です。架空のコンクールとして、3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクールを設定し、このコンクールを制した者は世界最高峰の国際ピアノコンクールで優勝するとのジンクスがあり、近年注目を集めていたりするという設定です。このコンクールに挑戦するのが、ハッキリいって、やや異様な顔ぶれで、これだけで少し私は読み進む興味をなくしたりしてしまいました。すなわち、養蜂家の父とともにフランス各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳、かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳、音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳、完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・カルロス・レヴィ-アナトール19歳、の4人が主要なコンテスタントなんですが、ここまで極端にキャラを立てないと小説が進まないのは、やや失望感を味わってしまいました。実は、私もピアノレッスンを受けていた経験がないわけでもないんですが、何せ、それなりのレベルのピアノのコンクールですから、通常なら5歳より前にピアノを習い始め、音楽高校や音大に進んだミドルティーンから20歳前後までの、おそらく、良家の子女が参加するものであり、天才であったとしても練習の努力なしにオーディションを通過してコンクールに参加できるものではありません。逆に、そういった練習しない天才が残れるコンクールは底が浅い気もします。ですから、そういった細かな差しかないコンテスタントをていねいに書き分ける筆力が要求されるんですが、その書き分けをせずに、かなりムチャなキャラの設定でごまかそうとしているような気がします。たしかに、本書でも参照されている越境型のピアニストとしてグルダがいて、元々はベートーベンの曲を得意にしていたところ、ジャズの即興演奏に手を出したりした事実は私も知っていますが、まあ、この作者の筆力・表現力でもって音楽を文字で表そうとした時点で限界があったような気がします。本屋大賞や直木賞を受賞したにしては失望した作品でした。昨日金曜日の夜遅くの段階で、アマゾンのレビューで、5ツ星が94人に対して、1ツ星も15人いることが、何となくこの作品をよく評価しているような気がします。ただ、「ギフト」という言葉の本来の意味を正しく使っている点は評価します。ここでは、贈答という行為とか贈答品という意味に加えて、神から与えられた特別な才能、という意味でも使われています。

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次に、森絵都『みかづき』(集英社) です。コチラは本屋大賞の2位作品です。昭和から平成にかけての激動の学習塾業界を舞台に、千葉を舞台に3代にわたる50年余りの長期に渡る家族の奮闘を描いています。実は、『蜜蜂と遠雷』もそうだったんですが、本書も特定の主人公、というかストーリーテラーはいません。3人称で視点を変えながら書き綴っています。ただ、本書というか、この作品の作者のひとつの特徴として、個人や家族といった小さな物語だけでなく、天下国家の大きな物語をうまく組み合わせる点を忘れることが出来ません。実は、私はこの作者の作品は直木賞を受賞した短編集の『風に舞いあがるビニールシート』くらいしか読んだことがなくて、恩田陸の作品の方が『夜のピクニック』などたくさん読んでいるような気がするんですが、直木賞受賞作に収録されていた表題作の「風に舞いあがるビニールシート」は難民についても考えさせられる作品でした。ということで、本書は大きな物語として学習塾産業と文部省のせめぎあいも取り上げています。いわゆる学校、文部省が監督する公教育と称される小学校から中学校、高校、大学が太陽であるのに対して、学習塾や、本書では明示的に登場しませんが、予備校などは月という位置づけです。かつて、南海ホークスの野村が巨人のONをひまわりに、自分を月見草に、それぞれなぞらえたようなカンジでしょうか。かなり壮大な小説です。大きな物語に対する家族の中での小さな物語も見逃せません。狂気と紙一重の情熱を秘めた女性、それに対する男性の実務的でありながら、教育に対する熱意を感じさせる言動や行動、などなど、教育について考えさせられるとともに、家族についても考えさせられる作品でした。まあ、そんなに近い将来というわけではありませんが、NHKの大河ドラマになってもおかしくない傑作です。ただ、私も直木賞を受賞した『風に舞いあがるビニールシート』を読んで感じた点ですが、やや不自然であざとい展開が見られなくもありません。よくいえば作り込まれたストーリーなのかもしれませんが、不自然で作為的な印象を持つ読者もいるかもしれません。最後に、これまた、アマゾンのレビューなんですが、5ツ星が31人しかいませんが、1ツ星と2ツ星がいないのもめずらしい気がします。

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次に、 竹内薫『文系のための理数センス養成講座』(新潮新書) です。著者は科学ライターと称しているようですが、ちゃんと博士の学位もお持ちのようですし、それなりにサイエンスの見識があるんだろうと思います。ただし、タイトルに沿った展開をしているのはせいぜい前半だけで、後半は科学にまつわる四方山話に陥っています。前半では、文系よりも理系を上に置くという前提に立って、ダメな文系サラリーマンに対して理系の素晴らしい思考方法や考え方を教えてやる、という上から目線を遺憾なく発揮しています。ただ、プログラミングができる能力を重視する姿勢は私もかなり同意します。エコノミストも数量分析のためのプログラミングは必須の能力となっています。ちなみに、私もいくつかの計量ソフトを操りますし、汎用言語のBASICでもプログラムを組むことができます。ただ、本書の前半の前提となっている文系はダメで理系がいいんだというのは、どこにも理論立てていたり実証されていたりしませんから、本書の著者の勝手な思い込みかもしれません。一般的な傾向として、文系のほうが理系よりも英語ができる国際派が多いような気がするのは私だけでしょうか。また、これまた一般的に、理系学部の卒業生よりも文系学部である経済学部や法学部の卒業生の方が生涯賃金が高いのはどうしてか、もちゃんと頭においておく必要がありそうに思います。でも、こうった根拠なく理系の人が文系よりも理系のほうが優れていると考えがちで、やや視野が狭い傾向も一般論として理解できる点ではあります。

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最後に、原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書) です。著者は刑事畑の裁判官を長らく勤めて定年退官し、現在は法科大学院の教員と弁護士をしています。本書は岩波書店の月刊誌『世界』に掲載されていたコラムを取りまとめたものです。藤沢周平の『玄鳥』や池波正太郎の『鬼平犯科帳』などをこよなく愛し、こういった人情あふれる裁きを目指していたとの述懐があります。私もこれらの作品は大好きなんですが、同様に、エリス・ピータースの修道士カドフェルのシリーズも、必ずしも、報の定めに杓子定規に従うばかりではなく、人情味あふれる解決を探る姿勢は同じような気がします。また、刑事裁判官として、刑法の定めの精神は有罪か無罪かの判決とは白黒をハッキリさせるのではなく、明らかに有罪であるか、あるいは、明らかに有罪とはいえないか、を判決で明らかにすることであり、黒か黒でないかを判断し、疑わしきは被告の利益に、というのが本来のあるべき姿、というのには、なるほどと感心しました。また、私のような公務員もそうではないかと思いますが、裁判官のような実務家は時間に正確であるべきだが、学者などの研究者は時間にルーズである、といった観察結果も明らかにしていて、私は公務員でありながら研究職であり、実務家と研究者の中間的な存在ではなかろうか、と思わずにはいられませんでした。現在の日本では、裁判の判決、入学試験、あるいは、選挙結果などについては概ね公平性や中立性が担保されていて、国民からの信頼も篤いと私は受け止めていますが、こういったキチンと判断できる裁判官、あるいは、常識的な判断が可能な公務員や教員などが実務家としてこういった制度を支えていることを忘れるべきではないと感じました。
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2017年04月15日 (土) 11:43:00

今週の読書は途上国の開発に関する石油のネガティブな役割に関する専門書など計9冊!

今週の読書は、私の専門である途上国の開発関係、でも、開発経済学ではなく、何と、開発政治学関係の本をはじめ、量子物理学や生物学、小説も含めて、大いに飛ばし読みに励み、以下の9冊です。

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まず、マイケル L. ロス『石油の呪い』(吉田書店) です。著者は米国カリフォルニア大学UCLAの政治学の研究者です。本書の英語の原題は The Oil Curse であり、2012年の出版です。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳だったりします。もともと、サックス教授らの論文もあって、私の専門分野である開発経済学には天然資源の呪い、というのがあります。天然資源があるために人的・物的資本の蓄積の必要性が低く、結局、工業化に失敗したり、オランダ病によって為替が増価して輸出が伸び悩んだりする現象です。本書では、天然資源の圧倒的な部分を占める石油に着目し、特に、計量分析手法を駆使して石油と民主化の遅れや権威主義国家の存続に石油が果たした役割などを分析しています。ひとつの観点は女性のエンパワーメントです。石油の産出と女性の地位の低さは確実に相関しているとの結果が示されています。私のような開発経済学の研究者が計量分析をする場合は、左辺の非説明変数に1人当りのGDPなどの豊かさの指標を置いて、右辺の説明変数に民主主義の成熟度や貿易の開放度、教育水準などを置いて回帰分析するんですが、開発政治学の場合は左辺の非説明変数が民主主義の成熟度、あるいは、民主主義か権威主義かのダミーで、逆に、右辺の説明変数に1人当りGDPを置いたりしているようです。どちらがどちらを説明し、原因と結果の方向性が経済的な豊かさなのか、民主主義に成熟度なのか、議論があるところですが、本書のような方法論もとても参考になりました。ただ、申し訳ないながら、開発経済学のほうが計量分析手法としては開発政治学よりは進んでいるんではないかと自負できたりもしました。

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次に、野口悠紀雄『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞出版社) です。著者は財務省出身のエコノミストであり、本書の前の2014年には関連書として『仮想通貨革命』を出版しています。なお、類書として同じ出版社からタプスコット著の『ブロックチェーン・レボリューション』というのがあり、私は図書館に予約を入れていますがまだ読んでいません。ということで、サトシ・ナカモトの理論に基づき、話題のビットコインの技術的な基礎を支えている技術のひとつであるブロックチェーンに関する本です。このブロックチェーンに支えられたデジタル通貨・仮想通貨については、本書にもある通り、国際決済銀行(BIS)や国際通貨基金(IMF)などがリポートを出しており、決まり文句のように、現状での問題点を指摘するとともに、将来の可能性を評価しています。本書ではデジタル通貨とブロックチェーンをやや混同しているんではないかと見受けられる部分もあるものの、基本的に、両者に関する評価を下しています。すなわち、仮想通貨には3種類あるとし、リバタリアン的に管理者なしに流通するビットコインのような仮想通貨、三菱東京UFJ銀行のような大銀行が発行する仮想通貨、そして、中央銀行が発行・流通させる仮想通貨です。それぞれの特徴と問題点を明らかにしつつ、同時に、仮想通貨により、マイクロペイメントの小口送金と特に新興国などへの国際送金に利便性が大きい、と評価しています。何といっても、仮想通貨による決済は料金コストと時間のいずれも節約的です。また、ブロックチェーン技術の基づく新たなビジネス、すなわち、土地投機や予測市場の成立などを論じています。ただ、本書では将来的な雇用や労働のあり方、経営の方向性などについては、それほど詳しくは展開されていません。そこは少し残念な点かもしれません。私は技術的なブロックチェーンの構造や機能などについてはサッパリ理解できませんが、経済分野で大きな波及のある技術ですので、可能な範囲でフォローしておきたいと思います。

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次に、吉村慎吾『日本流イノベーション』(ダイヤモンド社) です。著者は公認会計士から経営コンサルタントをしているそうです。まず、本書の冒頭ではUberやAirBnBなど、いわゆるシェアリング・エコノミーの進展とか、あるいは、人工知能(AI)やロボットの利用可能性などの一般的なイノベーションの現状を、いかにもコンサルらしい上から目線で得々と取り上げ、さらに、モノ消費からコト消費へと消費のサービス化が進み、草食化した青年が自動車を欲しがらなくなった現時点の国民生活や消費の実態に関して議論を展開します。ハッキリいって、特に新味もなく、ありきたりな内容です。このあたりで勉強になるような読者は、ほとんど何も勉強していないのかもしれないと思うくらいです。第3章で日本企業でイノベーションを起こす実際の考え方がようやく展開され始めますが、いかんせん、公認会計士出身の財務から企業を見るコンサルタントですから、技術に関する知識が殆どないのではないか、と疑われて、ひたすら自慢話に終止しています。自慢話があるだけご同慶の至りなんですが、「強い使命感」に「イノベーティブなビジネスモデル」が備わると、イノベーションが進む、と言われてしまえば、トートロジー以外の何物でもなく、書籍として出版する値打ちがあるかどうかも疑わしくなります。完全な失敗読書であり、まったくの時間のムダでしかありませんでした。

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次に、ウィリアム・パウンドストーン『クラウド時代の思考術』(青土社) です。著者は物理学や情報工学を専門分野とするサイエンス・ライターであり、2015年2月には『科学で勝負の先を読む』の読書感想文をこのブログにアップしています。本書の英語の原題は Head in the Cloud であり、2015年の出版です。本書のキーワードはダニング=クルーガー効果であり、能力の低い人ほど自分を過大評価するという現象で、米国の心理学者が前世紀末に発見しているそうです。もうひとつがグーグル効果であり、コチラはオンラインでお手軽に検索できる知識は忘れられやすい、というものです。本書では大量のトリビア的なクイズのような質問に対する回答結果をもって、一般大衆がかなり無知である点を明らかにしていますが、これは情報というか、知識として持っていない、ということであって、例えば、ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』にあるように、牛の体重とかのような平均的にカウントするタイプの質問には当てはまらないような気もします。私にとって興味深かったのは、米国の右派メディアを代表するFOXニュースの視聴者に無知のレベルが高い、というか、情報量が少ない、と本書の著者が指摘している点です。本書では、確証バイアスの可能性を指摘し、要するに、右派的な心情の持ち主がFOXニュースを見て安心する、という仮説を提示しています。そうかもしれません。我が国では朝日新聞と左派的な心情がそうなのかもしれないと感じてしまいました。なお、我が家では朝日新聞を購読しています。最後に、ダニング=クルーガー効果に関する原著論文へのリンクは以下の通りです。


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次に、ロバート P. クリース/アルフレッド・シャーフ・ゴールドハーバー『世界でもっとも美しい量子物理の物語』(日経BP社) です。著者は米国の研究者なんですが、科学哲学と物理学の専門家だそうです。英語の原題は The Quantum Moment であり、2015年の出版です。タイトルは量子物理学なんですが、やっぱり、近代物理学といえばニュートンから始まります。近代生物学、というか、進化論がダーウィンから始まるのと同じであり、経済学の場合はアダム・スミスということになるんだろうと思います。ということで、大雑把に物理学者で章立てしているんですが、プランク、ボーア、アインシュタイン、パウリ、シュレディンガーとハイゼンベルク、等々と並びます。私の理解する限り、ですから、不完全かつ間違っている可能性もあるんですが、量子物理学とはニュートン的な決定論ではなく、確率論的な世界を相手にしています。シュレディンガーのネコが半分死んでいて半分生きている、といったカンジです。これは経済学でも同じことで、政府統計こそ決定論的な成長率などの数字が示されますが、実は、データ生成過程(DGP)はすぐれて確率的です。ただ、量子物理学については、観察者も運動系の中から観察しているために、ハイゼンベルク的に運動量か位置かのどちらかしか決まらないことが決定しているのに対して、経済学ではエコノミストは神の目を持って見ていることが前提されていて、そのために観察バイアスが考慮されず、予測はことごとく間違います。まあ、経済学が量子物理学の域に近づくことはまだ先の話なんだろうという気がしました。

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次に、久坂部羊『テロリストの処方』(集英社) です。作者は医師の資格があるようで、医療にまつわる小説を何冊か出版しており、『無痛』と『第五番』の続き物の小説は私も読んだ記憶があります。他にも読んでいるかもしれません。この作品は、現在の国民皆保険の下でのフリー・アクセスの医療制度がほぼ崩壊して、医療の勝ち組と負け組が患者だけでなく医師にも及んだ近未来の日本を舞台にしています。医療負け組の患者は治療や投薬を受けられないわけですが、医師についても高額な医療で破格の収入を得る勝ち組と、経営難に陥る負け組とに二極化していきます。そんな中、勝ち組医師を狙ったテロが連続して発生し、現場には「豚ニ死ヲ」の言葉が残されていた一方で、若くして全日本医師機構の総裁となった可能の大学時代の同級生である医師かつ医療評論家の主人公がノンフィクション作家の女性とともにテロの実態解明に乗り出します。この作家の小説のひとつの特徴は、キャラはそれなりに作れているんですが、とても登場人物が少ない点で、ストーリーを追うのは向いているのかもしれませんが、小説に深みがありません。結末も特に意外性なく、「やっぱり」というカンジです。ですからミステリとしては面白みもないんですが、ただ、小説ですから当然にフィクションなんですが、近未来の日本でホントに起こりそうな状況を再現しているのが売りかもしれません。しかもトピックが医療ですから、教育とともにかなり関心高いかもしれません。

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次に、柴田悠『子育て支援と経済成長』(朝日新書) です。著者は京都大学の社会学の研究者であり、本書は昨年2016年8月13日の読書感想文のブログで取り上げた同じ著者の『子育て支援が日本を救う』の内容を少し一般向けに分かりやすくした新書版です。前半の1-3章は前著の数量分析で構成されています。この部分は、本格的な計量経済学を専門とすエコノミストの目から見れば、ひょっとしたら、やや強引で、特に、因果関係の推論に難がありそうな気がします。後半の3-6章はトピック的に、社会保障の歴史、子育て支援の経済効果、そして、子育て支援の財源について論じています。論旨は明快過ぎるくらいに明快で、子育て支援が女性の労働参加率を高めて経済成長率を引き上げる、というものです。逆に、数量分析からの結論として、高齢化が進むと労働生産性が低下する、労働力の女性比率が上昇すると生産性も向上する、労働時間が短縮されると生産性は向上する、といった、かなり自明に近い事実を定量的に結論しています。我が国における社会保障の高齢層への偏りをシルバー・デモクラシーによる結果と結論しつつも、シルバー・デモクラシーを乗り越える方策についてはさすがに論じられていません。私もこの点は不明です。それから、国際比較も豊富で、フランスの出生率上昇は認定保育ママ制度に追う部分が大きいと結論しています。数量分析からいくつかのそれらしい結果を導いていますが、フェルミ推定に近い方法論もあって、新書的な判りやすさで読むべき書であり、学術書と考えるのは少し難がありそうです。

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次に、本川達雄『ウニはすごい バッタもすごい』(中公新書) です。著者はその昔に『ゾウの時間 ネズミの時間』が、やっぱり中公新書でベストセラーになった動物生理学の研究者で、すでに東京工業大学の一線は退いた名誉教授です。なかなか注目の書で、図書館でも待ち行列が長くなっているようですし、私が見た範囲でも読売新聞と日経新聞で書評や著者インタビューなどが掲載されていました。ということで、本書は広く動物に関する進化を題材に生存戦略について論じています。特に、なぜこういう身体デザインを選んだか、という点を重視し、例えば、ヒトデがどうして五角形なのか、を論じたりしています。もちろん、ヒトデが五角形に進化した決定的な証拠はないものの、サクラ、ウメ、バラといった五弁の花を持つ植物との関連を指摘したりしています。私はまったくの専門外なのですが、サンゴ、昆虫、軟体動物などにテーマが次々と展開されて飽きが来ませんし、図版も豊富で読み進んでいても楽しく感じます。残念ながら、小中学生にはやや難解な内容と思いますが、決して読みにくいと感じさせることなく、生物の多様性についての目が開かれる思いです。

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最後に、西崎伸彦『巨人軍「闇」の深層』(文春新書) です。昨夏に出版されて、一度は借りた覚えがあるんですが、その後忘れていました。今回近くの区立図書館で見かけて借りて読みました。「センテンス・スプリング」こと、週刊文春の取材を基に、2015年クライマックス・シリーズに発覚した野球賭博事件、清原の覚醒剤事件、原監督の1億円恐喝事件、などなど、ジャイアンツの黒い闇の部分を暴いています。このジャイアンツの闇の体質は例の1978年の空白の1日を利用した江川事件から巨人軍の悪しき伝統となり、その背後には渡邉恒雄の存在があると本書の著者は指摘しています。プロ野球が興行である限り、反社会的組織との腐れ縁は巨人に限らず昔からあったのだろうという気がしますが、その後の対応や意識改革などで反社会的組織との絶縁を図った球団と、そうでない巨人のような球団があったのではなかろうかという気もします。高校野球の聖地たる甲子園をホームグラウンドにする阪神と、その昔は競輪が開催された後楽園、しかもその周辺には場外馬券売り場もあった後楽園を本拠地とした巨人との違いもあるように感じました。
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2017年04月01日 (土) 11:14:00

今週の読書は経済書やアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊!

今週の読書は、以下の通り、経済書や話題のアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊です。単なる印象論ですが、岩波書店の本が多かったような気がします。8冊というのはややオーバーペースなんですが、今日の朝から自転車でいくつか図書館を回ったところ、来週はもっと読みそうな予感もありますし、今週の8冊については新書が3冊含まれていて、実際のボリュームとしてはそれほどでもなかった気がします。

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まず、中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』(ダイヤモンド社) です。著者は教育経済学と医療政策学のそれぞれの研究者です。本書では著者が位置付けている通り、教育と医療のそれぞれの政策効果を分析すべく因果推論に関する入門の入門となる議論を展開しています。なお、私の方でさらに付け加えると、因果推論とは相関関係と因果関係を見分けて区別する学問分野です。とても平易な語り口で判りやすく議論を展開しつつ、ランダム化比較試験、自然実験、差の差分析、操作変数法、回帰不連続デザイン、プロペンシティ・スコアなどのマッチング法、最後に、回帰分析、と、ひと通りの方法論を概観しています。確かに、経済学などでは因果推論が不十分な場合も少なくなく、そこは割り切って、グランジャー因果で時系列的な先行性でもって判断する場合すらあります。すなわち、時間的に先行していれば原因であり、後に起これば結果である、という単純な推論です。しかし、天気予報が実際の天気の原因ではあり得ないように、時間的な推移だけでは原因と結果を特定することはムリです。ただ、私も開発経済学などでランダム化比較実験などの論文を見たりもしますが、因果推論も万能ではないことは知っておくべきです。少なくとも、経済学的な用語でいえば、マイクロな部分均衡論ですから、マクロの一般均衡を単純化しており、回り回って因果関係が不定に終わる、あるいは、逆転する場合もあり得ることは忘れるべきではありません。また、本書の著者の専門分野は教育と医療という典型的に情報の非対称性により市場による資源配分が失敗する分野ですが、電力やガスなどの公益事業や交通についても自然独占という形で市場が失敗する場合もあり、いずれも政策的な介入が必要なケースであり、でも、果たして、「マネーボール」的な経済合理性、というか、採算性だけで政策を判断すべきかどうかという根本問題も考慮すべきです。採算は赤字だが必要な政策である可能性があり、赤字で採算が悪いことを理由に政策を切り捨てるべきかどうかは議論がある得るかもしれません。まあ、これだけ財政リソースが不足しているんですから、少なくとも優先順位付けには何らかの情報は必要である点は認めますが、採算性が政策評価の中心かどうか、私には疑問が残ります。最後に、直観的なみんなの意見は案外と正しい場合も少なくないことは、専門家を称していても謙虚に受け止めるべきです。

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次に、キャス・サンスティーン『選択しないという選択』(勁草書房) です。著者は米国ハーバード大学の法学研究者ですが、セイラー教授らと行動経済学・実験経済学の研究もしているようです。本書の英語の原題は Choosing Not to Choose であり、邦訳タイトルはほぼそのままです。2015年の出版です。ということで、セイラー教授らの提唱するナッジを中心とするリバタリアン・パターナリズムの行動経済学・実験経済学に関する本であり、特にデフォルト・ルールの重要性、その固着性を中心とした議論を展開しています。デフォルトの設定はもちろん重要であり、すべてを自由選択に任せるよりも、何らかの意味で道徳的というか、規範的な選択が可能になると私も同意します。しかし、批判的な見方も忘れるべきではありません。本書でも、冬季の暖房の設定温度を1度下げるだけだとそのデフォルトが受入れられる場合が多く、エネルギー消費を減少させることができるが、2度下げるとデフォルト設定から変更する場合が多くなって効果が大きく減ずる、との実験結果が示されている通り、デフォルト・ルールの設定そのものが重要となります。特に、臓器提供の意思の表明、貯蓄額の決定などはそうです。それから、タイトルの反証である選択の要求ですが、ここは法学者であってエコノミストではないのでいくつかの視点が抜けています。すなわち、逆選択により選択しないことを許さないという場合がありえます。我が国の国民皆保険・皆年金はまさにそういった思想で設計されています。まあ、それほどうまく運営されているとはいい難いんですが、そういった逆選択の考えから選択しないことが許されない場合があることは理解すべきです。ただ、著者がインプリシットに表明している通り、もはやニュートラルな選択というのはあり得ないのかもしれません。その点は私の頭にはなかったので勉強になりました。また、どこにあったのかはチェックしませんでしたが、プライバシーは個人レベルでは重要かもしれませんが、政府や国家のレベルでは有害無益である、といった趣旨の断定的な判断が記されていました。目から鱗が落ちた気がします。

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次に、山口敬之『総理』(幻冬舎) です。著者は本書の出版直前までTBSの報道記者をしていたジャーナリストです。同じ著者と同じ出版社で、本書の続編ともいえる『暗闘』もすでに出版されています。私はまだ読んでいません。本書は安倍総理についての取材結果を取りまとめたノンフィクションです。一部に、「政権の提灯持ち」とも受け止められているようですが、国家公務員である私の見方は差し控えますので、各個人が実際に読んで判断いただきたいと思います。ということで、本書は5章構成であり、最初で著者がTBS記者として第1次安倍内閣の総理辞任をスクープした自慢話から始まり、自民党の野党時代の総裁選への安倍現総理の出馬、総理大臣就任後の消費税率引き上げに関する財務省との確執、対米関係を中心とする外交への取組み、野田聖子議員の挑戦を受けそうになった自民党総裁選を振り返っての宰相論から成っています。まず、メディアの常として時の権力に対する距離感について、やや私の実感としては近い気もします。ただ、著者なりに権力に近いリスクと遠いリスクを勘案してのことなんでしょう。結果的に、権力に近いので提灯持ちになったり、権力から遠いところで批判を繰り返したりといった距離感と権力に対する態度の相関関係については、私も必ずしも関係ないという気はします。たっだ、最後の章で安倍総理に対して総裁選への立候補を目指した野田聖子議員や、彼女をバックアップしていた古賀議員に対する著者の見方がかなり偏っている印象は受けました。本書はあくまで政治記者のルポであり、私のような専門外のエコノミストには評価は難しいんですが、現在の安倍政権に対する支持の傾向はハッキリしていると受け止めました。私のようなランクの低い国家公務員からはうかがい知れないような政権トップの動向について、よく取りまとめられているような気がします。ただ、すべてがリポートされているわけではない、すなわち、書かれていないこともありそうな気がするのは私だけではないと思います。

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次に、コフィ・アナン『介入のとき』上下(岩波書店) です。ご存じの通り、著者は2007年から2期10年に渡って国連事務総長を務めています。初めて国連スタッフから登用された事務総長であり、アフリカ人の黒人としても最初の国連事務総長であり、2011年に国連がノーベル平和賞を授賞された際の事務総長でもあります。本書の英語の原題は Interventions であり、邦訳タイトルはほぼ直訳といえます。2012年の出版であり、邦訳まで5年のギャップがありますが、中身はそれほど賞味期限を過ぎている感じはありません。ということで、軽く自分自身の生い立ちや父親のパーソナル・ヒストリーから始めて、事務総長就任の直前の国連でのポストであったPKO局長としての活動から事務総長としての紛争解決や武力を持っての介入などについての回顧録です。上巻のソマリア、ルワンダ、旧ユーゴ、東ティモール(インドネシア)、ダルフール(南スーダン)などは専門外の私でも手に汗握る迫力を感じました。なお、下巻冒頭の国連ミレニアム開発目標(MDGs)がもっとも私の専門に近いんですが、人権尊重とともに温かみのある国連活動を感じることが出来ました。解説にもある通り、国連とは独立した意思を持たない集合的な政治体であり、一定の哲学的ともいえる理念に基づいた団体です。事務総長とはその極めてビミョーなバランスの上に成立した国連の舵取りを行う高度に政治的かつ軍事的な存在であると私は想像しています。本書を読んでいても、実力行使のできる暴力装置である軍隊とはキチンとした民主政にのもとで国民に支持された文民の統制に従わなければ厄災以外の何物でもないという事実を実感しました。その軍隊が暴走するのがもっとも懸念される自体であり、組織されていない民兵の暴走というのが私のジャカルタにいた経験から見た東チモールの悲劇だった気がします。最後に、本書の最大の魅力のひとつは、著者が極めて率直に書いている点です。「あけすけ」という言葉がありますが、本書のためにあるような気もします。ブッシュ政権下で米国の国連大使を務めたボルトン大使なんかはボロクソです。

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次に、菅野俊輔『江戸の長者番付』(青春新書インテリジェンス) です。著者は江戸研究家だそうです。いろんな史料や関連書籍を当たって、江戸の、すなわち、江戸時代ではなく、あくまで江戸の長者番付やそれに派生する情報を取りまとめています。もちろん、超大金持ちだけでなく、江戸庶民の生活も浮き彫りになるようになっています。ただ、繰り返しになりますが、あくまで対象は地理的に江戸であって、京・大坂の大金持は対象外となっているのが残念です。幕府の八代将軍徳川吉宗の年間収入が1294億円だったというのは驚くべき水準ですが、他方で支出もかなりの額に上った気もします。また、第4章の江戸っ子の生活については同もぬけていて不十分なところがあり、すなわち、商家などの奉公人=勤め人については、給金が少なかったのは事実としても、大番頭などのごく高位の奉公人を別に知れば、ほとんどが住み込みで食費がかからず、衣類もいわゆるお仕着せが支給されていた点はキチンと書くべきだという気がします。下級官僚たる武士の生活がもっとも苦しかった、という点については身につまされる部分があります。なお、本書冒頭の「新板大江戸持◯長者鑑」については、以下の都立図書館のサイトで弘化3年(1846)刊の加賀文庫版を見ることが出来ます。ご参考まで。


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次に、寺島実郎『シルバー・デモクラシー』(岩波新書) です。著者は三井物産の研究所の出身で、現在は多摩大学の学長のほか、コメンテータとしてテレビなどでも活躍しています。また、本書のひとつのテーマである団塊の世代の出身、1947年生まれです。しかし、なんだかとても物足りなかったのは、その昔々に著者が書いたらしい古い文章を使いまわしているだけでなく、とっても驚くくらいの上から目線の文章です。私自身はタイトルとなっているシルバー・デモクラシーによる民主主義的な決定のゆがみについて期待していたんですが、ほとんど何も触れられていません。そうではなく、団塊の世代が戦後史の中でどのような役割を果たして来たのかについて、著者のエラそうなお説が並んでいます。まあ、岩波新書から出版されるくらいですので、それなりの中身と考えるべきかもしれませんが、古い古い文章を引っ張り出してきているくらいですので、どこまで期待できるかは私には不明です。少し期待外れでした。

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最後に、井田茂『系外惑星と太陽系』(岩波新書) です。著者は京都大学出身で、現在は東京工業大学の研究者です。分野は古い表現なら天文学、ということになるのかもしれません。かつての天文学の「私の視線」から見た宇宙の見方、それは、「地球中心主義」や「太陽系中心主義」とも本書では称されていますが、を排して、「天空の視点」から見たより普遍的な宇宙の見方を提唱しています。本書ではほとんど触れられていませんが、NASAの地球外知的生命体探査プロジェクトもあり、いわゆるハビタブル・ゾーンに存在する地球に似た惑星が宇宙の星の中に20%くらいはあり、中には生命体が存在している可能性もある、という普遍的な宇宙観を展開しています。特に、太陽系の中ですら、水星、金星、火星と地球以外にもサイズの似たハビタブル・ゾーンにある惑星が3つもあるわけですから、広い宇宙の中には地球や地球より少し大きいスーパー・アースに生命体がいる可能性はあります。ただし、本書では生命体探査ではなく、あくまで、太陽系外に存在する地球と似た系外惑星について論じています。誠に残念ながら、私にはそれ以上の理解ははかどりませんでした。悪しからず。
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2017年03月25日 (土) 11:14:00

今週の読書はまたまた少しオーバーペースで経済書など計8冊!

今週はついつい借り過ぎて読み過ぎました。話題の働き方改革の中で、同一労働同一賃金を正面から取り上げた経済書、WBCで侍ジャパンが準決勝で敗退した一方で、プロ野球の開幕も近づき、背番号にまつわるノンフィクション、さらに、やや物足りなかったものの、話題の作家による小説などなど、以下の通りの計8冊です。

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まず、山田久『同一労働同一賃金の衝撃』(日本経済新聞出版社) です。著者は住友系の民間シンクタンクである日本総研のチーフエコノミストであり、雇用や労働分野に強いと見なされています。本書では、その昔からスローガンとなっている「同一労働同一賃金」に関して、その実現はそう簡単なことではなく、雇用や労働のさらにさかのぼること社会政策まで含めた対応が必要と論じています。まず、エコノミストとして、当然ながら、生産性に応じた賃金が支払われるのがもっとも合理的であり経済社会においても効率性を維持できるんですが、日本に限らず実はそうなっていません。私が大学で日本経済論を教えていた時でも、本書でいうところの我が国のコア労働力が服している終身雇用制では、ピッタリ半々ではないものの、前半期は生産性より低い賃金が、逆に、後半期では生産性より高い賃金が、それぞれ支払われる、ということになっていました。生涯パターンに応じた生活給的な側面があるからです。本書では明示的に指摘されていませんが、我が気宇に労働市場の最大の問題はこの終身雇用にあります。もちろん、ホントに死ぬまでの終身雇用ではありませんので、正しくは長期雇用ということになりますが、我が国労働市場でも戦前まではまったくこのような慣行はなく、戦後の高度成長期の人手不足の下で、企業の人材囲い込みが始まり、汎用的な生産性を高めるOffJTではなく、OJTを重視し退職金を高額にし転職コストを高騰させるようなシステムが徐々に出来上がったわけです。その中で、男性正社員が無限定に会社に奉仕して、エコノミック・アニマルとか、モーレツ社員と呼ばれて、先進国でもまれな長時間労働に従事する反面、過程では女性が専業主婦として家事や子育てに専念する、というシステムが出来上がってしまいました。それが現在では働く人のダイバーシティが進み、さらに、長期停滞の中でコストカットの対象に労賃が目の敵にされて非正規雇用が増加し、ここまで格差が広がった時点では正規と非正規のよく似た労働については同じ賃金を支払うという原則が再浮上したと考えるべきです。ですから、欧州のような公平の観点だけではなく、日本では転職がまだ長期雇用的な慣行の下でコストが大きいわけですので、単に賃金だけでなくキャリアパスも含めて、どのような人生設計の下で働くか、雇用されるか、という点こそ重視されるべきではないでしょうか。ですから、賃金だけを労働実態に応じて同一にするのは、キャリアパスの観点がが無視されている限りは、私には片手落ちとしか考えられません。私の目から見て、そういった観点からは、本書はとてもいい議論を展開していると思います。オススメです。

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次に、ジョン・プレンダー『金融危機はまた起こる』(白水社) です。著者はファイナンシャル・タイムズでよく見かけるコラムニスト、ジャーナリストです。英語の原題は Capitalism というある意味で壮大なタイトルであり、2015年に出版されています。内容としては、資本主義の本質に迫ろうと試みているのはそうなのかもしれませんが、わずかこの程度のボリュームではそんなことは不可能なわけで、基本的な題材は2007-09年くらいまでのサブプライム・バブルとその崩壊に端を発する金融危機に取っており、最終章では資本主義の本質は不均衡だと結論しています。ただし、本書でもよく引用されるシュンペーターの時代との違いは将来像として社会主義・共産主義という選択足がなくなった点です。他方、著者はあえて避けていますが、均衡からの乖離を含めて資本主義の不均衡が、正と負のどちらのフィードバックを持ったモメンタムなのかは考えておく必要があります。繰り返しになりますが、著者はこの観点に気づいていないか避けているかどちらかであり、もしも、均衡から乖離して正のフィードバックを持つのであれば資本主義は立ち行きませんが、負のフィードバックであれば政策対応は必要ないともいえます。いずれにせよ、邦訳版の編集者がタイトルに選び、著者も本書の中で論じているように、金融危機はまた起こるでしょうし、問題は起こるか起こらないかではなく、どの時点でどれくらいの規模で発生するか、なんでしょうね。私もそう思います。ただ、最後に、金融危機をカギカッコ付きで「言い当てた」エコノミストの著者などからいくつか引用していますが、とても疑わしいと私は受け止めています。サブプライム・バブルとその崩壊だけを予言するのは、どちらかといえば、必然や偶然の要素よりも平凡なエコノミストが一貫して同じ向きの発言をしていれば可能なわけで、上向きと下向きのどちらも的中できなければ、いつものバイアスで予言しているだけのオオカミ少年、と見なされる恐れもあることは考慮すべきです。ついでながら、古今の西洋向けばかりで「東西」ではありませんが、著名なエコノミストに限らず教養人の文献が引用されているのも本書の魅力に数える人がいるかもしれません。著者が博覧強記なのか、それとも、ネット検索がうまいのか、どちらかだという気がします。私の目から見ても、ケインズとマルクスが並んで引用されている本は決して多くなさそうな気もします。

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次に、大内伸哉『AI時代の働き方と法』(弘文堂) です。著者は神戸大学の労働法学者であり、一応、タイトルや本書の冒頭でも人工知能(AI)に関連する労働法の考察に並々ならぬ意欲を見せていて、AIそのものに関してはどこからか引き写してきた解説はあるんですが、AIに関する労働法の整備に関しては羊頭狗肉であって、何ら中身はありません。私はそれなりの関心があったので、その点は期待外れでしたが、まあ宣伝文句ですからこんなもんでしょう。そして、その中身は現在の労働法制は正規社員の身分保障が強すぎて時代遅れ、の一点張りでした。トホホというカンジで、ほとんど何の論証もなく「時代遅れ」の一点張りで押し通しています。確かに、終身雇用、年功賃金、企業内組合の日本的な雇用慣行は高度成長期に人手不足が深刻化し、人材を囲い込むために発達した制度であり、高度成長期の人手不足に適合的な制度であるという意味で「時代遅れ」というのは、ある意味で、その通りです。ただ、第5章の特に終わりあたりで著者も意識的にぼかしていますが、企業の経済合理的な選択と集中のためには、雇用者の流動化も有効なんですが、企業そのものも流動化するという極めて有効な手段があります。米国の雇用は日本に比べてと絵も流動的なんですが、企業そのものも連邦破産法11章、いわゆるチャプター11によりかなり柔軟な対応が可能となっています。著者は労働法学者であって会社法学者ではないようですから、企業はあくまで going-concern であって、経済合理性の追求のために労働者にしわ寄せが来るのをいかに労働法という次元でさばくか、に関心があるのでしょうが、エコノミストの目から見れば、生産要素の柔軟で流動的な配置転換という意味では、資本も労働も同じ生産要素です。極めて単純化した見方ながら、経済合理性の追求のためには、労働者は会社の言いなりになるしかない、だから、正社員の身分保障は緩和すべき、というのは一方のイデオローグであり、他方、労働者の経済的厚生水準の維持強化のために企業活動に制約を加えることも必要、特に金融活動の規制は金融危機回避のために必要性が高い、というのも別のイデオローグかもしれません。

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次に、ジュリア・ショウ『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社) です。著者はロンドンの大学をホームグラウンドとする記憶研究者、というか、過誤記憶の研究者です。精神科の医者なのか、心理学の専門家なのかは私には不明です。英語の原題は The Memory Illusion であり、2016年の出版です。過誤記憶の研究者として犯罪事件の事実解明に加わっているそうですから、過誤記憶研究者は人権派弁護士と並んでカギカッコ付きの「犯罪者の味方」と見なされる場合もありそうな気がします。どうして記憶が間違っているのかは、いくつかの原因があるようですが、そのひとつに優越感情による認知の歪みがあります。要するに、自分が他者よりエラいと思っているので、過誤記憶を持ってしまうわけです。ですから、犯罪に近い状況では交通事故の状況の見方が、関係者間で大きく異なることもあり得るわけです。ただし、さすがに、現役の総理大臣夫人から100万円の寄付があったかどうかは、記憶に間違えようがない気がするんですが、いかがなもんでしょうか。そして、記憶に間違いがあって、議院証言法上の証人として国会で事実と異なる自分の過誤記憶を披露してしまえば、まあ、偽証罪に問われたりするわけです。この2冊前の本の感想文で、博覧強記とネット検索の補完性というか、代替性というか、についてやや揶揄するようなことを書きましたが、実は、私自身は自分自身の脳に収納しておく記憶容量にまったく自信がありませんので、出来る限り外部記憶装置に収納しておくようにしています。この読書感想文もその一環です。決して自慢でも何でもなく、これだけの読書量があれば、すべてを記憶しておくことはまったく不可能です。外部のサーバに出来る限り読んだ後に感想文を残しておくことにしています。最後に、本書では、フロイトの精神医学や心理学はまったくのエセ科学と喝破したり、睡眠学習の非現実性を明らかにしたりと、とても私の考えに近い著者の見方に好感が持てます。もっとも、そうでない人はそうでないかもしれません。

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次に、佐々木健一『神は背番号に宿る』(新潮社) です。著者はNHKの関連会社を振り出しに映像ジャーナリズムで活躍しており、本書はNHKの関連企画の取材を基にしているようです。なお、単に「背番号」というだけでは、多くの球技で採用されているシステムですが、上の表紙画像に見られる通り、野球、特にプロ野球に特化して背番号にまつわるエピソードを集めています。まず、何といっても、私が読もうと思ったきっかけは、最初に取り上げられている選手が江夏投手だからです。誌かもその次が村山投手です。江夏投手の背番号28については、本書でも触れらている通り、小川洋子『博士の愛した数式』で有名になった完全数です。約数を全部足し合わせると元の数になるという意味だそうです。江夏というのは、昨年逮捕された清原といっしょで、晩年に薬物で逮捕され有罪判決を受けましたので、その分、少年野球などからは距離を置いて見られていますが、本書でも指摘されている通り、すでに刑期を終えて出所し社会的な制裁を受けていますので、そろそろ過去のお話しにしてしまうのも一案でしょう。いくつかの名門球団で、いわゆる永久欠番とされた背番号の由来、あるいは、逆に、あれほど活躍したにもかかわらず永久欠番とならなかった背番号、例えば、今は2年連続トリプル・スリーの山田選手が引き継いでいるヤクルトの1番を背負っていた若松選手のケース、などを判りやすく興味深く展開しています。およそ、私なんぞのまったく知らない選手のエピソードまで含めて、いろんな背番号にまつわる話題を提供しています。プロ野球ファン、特に江夏投手を知る阪神ファンは必読かもしれません。

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次に、マリア・グッダヴェイジ『戦場に行く犬』(晶文社) です。著者は米国西海岸在住でジャーナリストの経験が長く、現在では愛犬家のブログ投稿サイトの運営などをしています。2012年の出版であり、英語の原題は Soldier Dogs です。私は本来こういった軍事関係は決して評価せず、逆に回避する傾向があり、例えば、小さいころからガンプラを与えてきた上の倅が中学に入って模型部に入って部活をする際も、プラモデルの中に頻出する軍艦や戦闘機や戦車などの兵器関係は「おとうさんは嫌いである」と宣言した記憶があります。ちなみに、倅が同じ趣旨の発言を部活でしたところ、「ガンダムって兵器じゃないの?」といわれたらしいですが、まあ別のお話しでしょう。ということで、兵器や軍事に否定的な感情しか持たない私がどうして本書を読んだのかというと、実は、歴史的に見て我が家では飼い犬だけが太平洋戦争の戦場に駆り出されているからです。すなわち、私の父親は昭和ヒトケタの1930年生まれで、終戦の1945年までに徴兵年齢に達せず、その私の父の父親である祖父は年齢が行っていて招集されず、結局、飼っていた犬だけが軍隊に引っ張られて「戦死」したらしいです。犬種について私はよく知りませんし、どこで何をしてどうして「戦死」したのかは、軍事作戦上の機密事項でもないんでしょうが、明らかではありません。さらに、このブログの読書感想文では取り上げませんでしたが、昨年、出版から2年近く遅れて『アメリカ最強の特殊戦闘部隊が「国家の敵」を倒すまで』を読み、それはウサマ・ビンラディンの追跡と奇襲を跡付けたノンフィクションで、本書にも何度も出て来ますが、カイロという軍用犬が登場します。米国ではとても有名な軍用犬で、当時のオバマ大統領がこの部隊をねぎらいに出向いた際に、"I want to meet that dog." 「あの犬に会わせてくれ」と言ったらしいです。軍用犬ではなく警察犬などでも同じようなストーリーは有り余るほど存在するんでしょう。さらに、私は軍事作戦についてはまったくシロートですし、一時流行した言い方をすれば、私自身は明らかにイヌ派ではなく、ネコ派なんですが、本書では人間と犬の絆について、そして、その昔には「犬畜生」という言葉もありましたが、犬という動物の評価について、考えさせられるものがありました。私は違いますが、愛犬家の中にはとても高く評価する人もいそうな本です。

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次に、真山仁『バラ色の未来』(光文社) です。作者は売れっ子のエンタメ作家であり、本書は、ズバリ、統合リゾート(IR)法案にからんで、利権渦巻く政治の世界を舞台にしています。すなわち、青森県の寒村の町長がホームレスとして東京で死を迎えるところから物語は始まり、その町長が誘致しようとしたマカオのカジノを経営する中国人女性、コンサルとして暗躍する広告代理店の男性、もちろん、総理大臣とそのファーストレディまでカジノに思惑を抱いて利権に漁ります。それを社会の木鐸として事実関係、特に、利権の構図とカジノの影の側面を明らかにしようとする名門新聞社の編集局次長まで上り詰めた女性記者と、同じ新聞社の幹部ながら時の政権のブレーンとして政権の暗部を報道するのを防止しようとする専務編集局長、などなど、羅列すれば複雑そうに見えますが、それはそれなりに単純な人間関係の中でストーリーは進みます。ただ、後半から失望する読者が多そうな気がします。第1に、カジノの負の側面を政治家の利権と国民のギャンブル依存症だけで済ませようとする作者のお手軽プロットです。反社会的組織の暗躍やその組織による薬物汚染をはじめ、いくらでもカジノ反対論の根拠はあるのに依存症だけで済ませようというのは手抜きに過ぎます。依存症であれば、本書で作者も何人かの登場人物に発言させているように、本人の問題とも言い逃れできます。第2に、ラストがお粗末です。メディアの記者が何を記事にして、社内政治の流れで何を記事に出来ないか、しかも、編集にはかかわらないはずの社主まで登場させた割りには、メディアの対応がお粗末としか言いようがありません。せっかく、話題のIRやカジノを題材にしながら、作者の力量不足、取材不足としか考えられません。この作品くらいの出来であれば、この作者は諦めて別の作者の手に委ねるのも文学界全体としてはよかった可能性すらあります。誠に、残念。

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最後に、赤川次郎『招待状』(光文社文庫) です。著者はよく知られた売れっ子のミステリ作家であり、三毛猫ホームズのシリーズなどは私も愛読しています。本書は通常の単行本と文庫本とで同時に発行されたんですが、私が読んだのは上の表紙画像の文庫本でした。中身は、ファンクラブ会誌「三毛猫ホームズの事件簿」で毎号書き下ろされているショートショートです。お題は読者から寄せられています。「再出発」から始まって、「シンデレラの誤算」、「父の日の時間割」、「封印された贈り物」、「幽霊の忘れ物」、「テレビの中の恋人」などなど、27のストーリーを収録しています。この作者本来のミステリーはもちろん、サスペンス、ファンタジー、ラブストーリーなどですが、さすがに、ショートショートの短い文章ですので、ひねりのある結末は少なく、基本的にストレートな内容に仕上がっています。この作者の作品らしく、ユーモアたっぷりで、表現は悪いかもしれませんが、時間潰しに最適です。
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2017年03月18日 (土) 11:42:00

今週の読書は充実した経済書中心に計5冊!

今週の読書は経済書、特に私の専門分野である開発経済学を含めて経済書中心に以下の5冊です。先週末に米国雇用統計が割り込んで営業日が1日少ないので、こんなもんかという気もします。特に、藤田先生ほかの『集積の経済学』をはじめとして、分厚くボリュームたっぷりの本が目白押しでしたので、冊数の割にはなかなかの読書量ではなかったかと自負しています。

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まず、外山健太郎『テクノロジーは貧困を救わない』(みすず書房) です。著者は、マイクロソフト、特に、マイクロソフト研インドでの研究歴が長く、本書では主としてインドでの体験を基に議論が進められています。本書でいうところのテクノロジーとは、狭く考えればパソコンやスマートフォン、あるいは、それらのハードで走らせるソフト、ということになり、いわば、我が国のODAが進めてきたような途上国援助のうちのハコモノ援助、道路や橋や空港やといったインフラ整備を中新とする援助のようなものであり、それはたしかに貧困を救わないかもしれないわけですが、テクノロジーについて人間が利便性を追い求めてきた仕組みややり方などすべてに対する総称として考えれば、それなりに貧困削減には役立ってきた気もします。ただし、本書で著者は貧困削減のためには、取り組む人々のヤル気や意識の高さなどをとても重視しているような気がします。そういった、いわば、エウダイモニア的な崇高な意識の下での貧困削減が重要であり、そういった崇高な見識をテクノロジーは増幅するが創造はしない、というのが本書の結論なんだろうという気がします。私はそこには疑問があります。もちろん、エウダイモニア的な崇高な意識の高さは重要かもしれませんが、」そういった意識の高さがなくても社会的な仕組みの中でジコチュー的な人間でも大きな貧困削減の成果が上げられる、といった方向にシステムや制度を設計することこそが重要ではないでしょうか。崇高な意識の下では、貧困削減だけでなく、ほかの何らかの政策目標、もっとも極めて専門的な技術を要するものを除きますが、そういった、一般的な政策目標は何だって達成されそうな気がします。その意味で、意識の高さだけを要件と考えるのはよろしくないと私は考えます。そうでない一般的な人々が、貧困削減に成功するような仕組みや制度を考えて実行するのが開発政策ではないんでしょうか。

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次に、藤田昌久 & ジャック F. ティス『集積の経済学』(東洋経済) です。本書の英語の原題は Economics of Agglomeration ですから、邦訳はそのまま直訳されています。初版は2002年に出版されていますが、本翻訳書の底本は2013年出版の第2版です。著者は2人とも経済学者であり、2008年にノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン教授らとともに空間経済学のリーダーでもあります。ただ、少しだけアプローチが異なり、藤田教授は一般均衡論的なアプローチ、ティス教授は産業組織論的なアプローチとの特徴があります。いずれにせよ、本書は世界的な空間経済学の権威による専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストとしても耐え得る著作です。まあ、ハッキリいって、私のようなシロートが通勤電車で読み飛ばすような内容では本来ありません。当然のように、数式も頻出して解析的にエレガントに結果が導かれたりします。私が「定量分析」と呼ぶような手法のごとく、再帰的に力ずくで漸近的な結果を求めようとするわけではなかったりします。空間経済学は都市の形成という観点で、実は都市以外は農村だったりするわけですが、2部門モデル的な要素が強くて、私の専門分野である開発経済学と通ずる部分も少なくなく、少なくとも、クルーグマン的な核周辺モデルにおいて、非常に単純化すれば、核=都市=製造業と商業に対する周辺=農村=農業の2部門モデルの分析はそれを歴史的な展開に置き換えれば開発経済学そのものです。ですから、空間経済学では本書にも登場する「首都の罠」、すなわち、首都以外の都市が形成されず製造業も育たない、といった望ましくない状況が開発経済学といっしょになって研究されていたりもします。第2版の本書では最終章をはじめとしてグローバル化に対応した部分に追加修正が加えられており、核となる国に戦略的な経営・研究開発・ファイナンスなどの本社機能が置かれ、周辺国に未熟練労働を相対的に多く使う工場が置かれたり、といった結果が導出されています。加えて、コミュニケーション費用が低下すれば、周辺国の工場の比重が増加、核となる国の熟練労働者の厚生が低下するという結果も得られています。ですから、トランプ米国大統領的に、国境に大きな壁を築いてコミュニケーション費用を高めれば、あるいは、逆のことが生じるのかもしれません。繰り返しになりますが、かなり高度な内容の専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストです。税抜きで6000円というお値段も考え合わせて、買うのか借りるのか、読むのか読まないのか、について合理的な選択をするべきかもしれません。

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次に、野村直之『人工知能が変える仕事の未来』(日本経済新聞出版社) です。著者は労働や雇用ではなく、人工知能(AI)の方の専門家です。ですから、タイトルに魅力を感じて、私なんぞは読み始めたなですが、やっぱり、AIの解説の方に重きが置かれていて、少し肩透かしを食った恰好です。でも、2045年にAIの能力が人間を上回るという意味でのシンギュラリティを迎える、とかの宣伝文句先行型のAIの先行き見通しに本書は疑義を唱え、もっと落ち着いた先行き予想を展開しています。すなわち、AIについては人間の道具となる弱いAIと人間の脳機能を超えるようなスーパーな存在を目指す強いAIを区別し、後者が人間を超えるという意味でのシンギュラリティの近い将来での到来に疑問を呈しています。もちろん、前者の人間の道具としてのAIについては、単なる3メートルの棒でも人間の能力を超えるからこそ道具として有用なわけですから、特定の用途で人間の能力を超えるのは当然、という見方です。そして、最終章15章では例のオックスフォード大学によるAIに代替される労働について考察を加え、その昔のラダイト運動なども引きつつ、決して悲観一色の見方ではありません。その前提として、何回かベーシック・インカムの導入について前向きの記述を見かけます。AIを導入して人間労働を大幅に削減しつつ、働かなくてもベーシック・インカムで最低限の生活を保証する、というのが将来の政策の方向なのかもしれません。ただし、AIをはじめとする最先端技術における日本の貢献や政策動向についての本書の見方はとてもありきたり、というか、ハッキリいって、ほとんど何の見識もありません。2045年のしんgyラリティに少し不安を感じた向きに落ち着いた技術論を供給するのが本書の主たる貢献ではないかという気がします。雇用や労働のあり方まで著者に将来像の提示を求めるのは少し酷かもしれません。

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次に、翁邦雄『金利と経済』(ダイヤモンド社) です。著者は日銀金融研所長などを歴任していて、いわゆる旧来からの日銀理論家ですから、現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っていることを前提に読み進む必要があります。非常に単純にいえば、本書では物価の動きの背景にある国際商品市況における石油価格についてはまったく考慮することなく、要するに、現在の黒田総裁の下での日銀金融政策が自ら掲げたインフレ目標の2%を達成できていない点を基本的には理論面から分析しています。まず、現在の米国のポリシー・ミックスが拡張的な財政政策と引締め的な金融政策になっていて、1960年代のケインジアン的な政策とは逆に、1980年代のレーガン政権下の政策と類似性あるとの見方を示し、その中で、1980年代前半においては為替の円安が進みつつ、それは持続性なかったためにプラザ合意から円高に反転したわけですが、我が国のアベノミクス、実は、本書でも指摘するように、安倍政権成立の少し前から円安が進んだ点との類似性を見ています。それはそうかもしれません。その上で、現状の長期停滞理論を持ち出し、自然利子率の低下の影響を日本経済にも写し出そうと試みています。ただ、結論で大きく異なる点が、要するに、自然利子率まで実際の金利を下げようとするリフレ派とちがって、国民に大きな負担を強いるカギカッコ付きの「構造改革」により自然利子率を引き上げようとする点です。どうして日銀理論家がここまで中長期的な視点で自然利子率を引き上げるような形の構造改革を提唱するのか、私にはまったく不明です。通常、中央銀行は短期循環を視野に入れた景気循環の平準化、というか、景気後退の回避を念頭に金融政策を運営し、政府はより長期の政策目標を設定して、まあ、いわゆる構造改革を含めて、例えとしてはよくないかもしれませんが、よく「国家100年の大計」と称される教育などの政策まで含めたグランド・デザインを描く、というのが役割分担だ、と私も官庁エコノミストの先輩から聞かされた記憶があります。私が考えるに、金融政策の庭先をきれいにしておいて、物価への政策の影響力がないとか何とかいって、裁量的な金政策を自由気ままに企画立案していた昔の姿が懐かしい、といっているように聞こえてしまうエコノミストもいるかもしれません。いないかもしれません。繰り返しになりますが、本書は現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っている著者の手になるものである点を前提に読み進む必要があります。

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最後に、須賀しのぶ『また、桜の国で』(祥伝社) です。著者は、私は作品を読んだことはないんですが、それなりに売れている作家であろうと受け止めています。本書は今年上期の直木賞候補作となっています。戦間期のポーランドの首都ワルシャワを舞台に、外務書記生という在外公館の中でも書記官未満のやや低い職階をこなす青年を主人公にし、しかもこの青年の父親が白系ロシア人という設定のかなり大がかりな歴史小説です。少年時代のポーランド人孤児との邂逅は別にして、物語は1938年秋に主人公の青年がポーランドの日本大使館に赴任するところから始まります。誇り高いポーランド人を持ってしても、ロシア、ハプスブルク家のオーストリア、近代以降のプロシアや統一後のドイツなどの列強に囲まれて、なかなか独立を維持することさえ困難なポーランドにあって、第2次隊戦前夜の不穏な世界情勢を背景に、そして、独ソ不可侵条約に基づいて独ソに分割されるポーランド、頼りにならない英仏など、20世紀前半の欧州情勢を余すところなく盛り込みつつも、ポーランドの首都ワルシャワにおける主人公の日本人外交官として、あまりにもポーランドに肩入れした姿勢に不安を感じながら私は読み進みました。というのも、一応、私は外交官経験者ですし、戦争前夜の欧州の情報収集担当こそ経験がありませんが、似たような情報収集はどこの大使館でもやっています。大使館勤務の当時に私が外交官としてやったのはGATTウルグライ・ラウンドのドンケル事務局長提案に対する主要国の姿勢に関する情報収集でした。それはさて置き、本書のキモは米国人ジャーナリストだと思っていた人物の意外な正体なんですが、それも面白い趣向ながら、やっぱり、直木賞を逃した最大の要因は登場人物のキャラがあまりに似通っているからではないでしょうか。すべて正直で一途で思い込んだら命がけ、のような熱血漢ばかりです。日和見をして風見鶏のように態度を変える人物とか、味方だと思っていたのに実は敵のスパイだったとか、そういったヒネったキャラが見当たりません。その分、物語が平板で深みがなく、スラスラと進んでしまいます。いくつか、表現上の不一致も散見され、例えば、ドイツ側ではナチスの象徴としてのヒトラーは登場しますが、ソ連のスターリンに関する言及はどこにも出てきません。また、主人公が列車で出会ったカメラマンのヤンについても、生意気な発言を「である」調でしているかと思えば、急にへりくだって「です・ます」調でしゃべり始めたり、編集作業で訂正しきれていない部分も少なくありません。小説としての完成度はその分割り引かれそうな気がします。
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2017年03月12日 (日) 18:39:00

先週の読書は経済学の学術書をはじめとして計6冊!

先週の読書は経済の学術書をはじめとして以下の6冊でした。1日1冊に近いペースですが、半分の3冊は新書と文庫本ですから、それほどのボリュームではありません。これくらいのペースか、もう少し少ないのが理想のような気がします。週に10冊はあまりにも多すぎると思います。でも、昨日自転車で図書館を回ったところ、今週の読書は少し多くなりそうな予感です。

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まず、岩本康志ほか『健康政策の経済分析』(東京大学出版会) です。著者は医療経済学や健康政策に関するミクロ経済学に関する研究者であり、出版社から考えても本書が学術書であることは明らかです。その上、本書のもっとも大きな特徴のひとつは、福井県と東京大学高齢社会総合研究機構による共同研究の一環として、福井県国民健康保険団体連合会が共同電算処理で管理している調査客体について、医療保険レセプト、介護保険レセプト、特定健診・特定保健指導のデータを個人で接合した総合パネルデータを構築してさまざまな定量分析を行っている点です。しかも、データに即して最新の定量分析手法が採用されており、定量分析手法に関する補論も収録されています。ということで、いくつか分析結果を取り上げると、やはり、従来の既存研究で明らかにされるとろもに直観的にも理解されている通り、医療費の集中度は極めて高くなっています。すなわち、上位10%でほぼ半分近く、上位30%では全体の80%ほどの医療費を占めています。しかも平均への回帰は見られず、医療費に大きなウェイトを占めるグループはほぼ固定的です。財政制約が強まる中で、この医療費のかかるグループに対する何らかの処置が必要となる可能性が示唆されています。同様に、医療費抑制の観点から、死亡前1年間の終末期医療についても、医療と介護のトレードオフあるものの、何らかの抑制策の必要性が示唆されています。また、高齢者の社会的入院もまだ解消されていない事実が明らかにされていますし、短期入所療養介護については供給により需要が創出される実態が明らかにされています。福井県だけのデータであり、しかも、医療保険レセプトは国民健康保険に限っていて企業従業員が抜けているおそれが強いわけですから、何らかのバイアスがある可能性は排除されないものの、こういった定量分析に基づく政策評価はこれからも必要になるように私は感じています。ただし、別の観点から、財政制約の強まりという背景はあるものの、必ずしも政策評価が定量分析に基づくものに限られる怖さも感じるべきです。定量分析でムダと評価されても国民に支持される政策はあるわけで、そういった観点からの政策評価も忘れられるべきではありません。

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次に、植村修一『バブルと生きた男』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀OBでバブル前後の時期に当時の大蔵省銀行局総務課にも出向経験あるらしいです。1979年の日銀入行だそうですから、30歳前後でバブルを経験し、その後、バブル崩壊や後始末に追われた世代かもしれません。作なん一昨年あたりから、その昔のバブル経済を回顧する本が何冊か出版され、私も少し読んだりしたんですが、本書についてはパーソナル・ヒストリーですから、しかも、60歳を超えた日銀OBのパーソナル・ヒストリーですから、検証のしようのない一方的な自慢話も含めて、読み進む上で、それなりのバイアスはあるものと覚悟する必要があるかもしれません。何点か目についたところで、バブル経済を知らない世代に参考となるのが広末涼子主演の映画「バブルへGO!!!」だというのは私もそう思います。ちょうど2007年封切りで、その直後に私は地方大学に出向したため、そのころの大学生はバブル経済をまったく知らず、実は、今の大学生は私の倅と同年代なんですが、ここに至ってはリーマン・ショックすら知らなかったりするんですが、結末は別として、この映画はバブル経済をよく理解した人が作っている気がします。それから、日銀OBにしてはめずらしく2000年8月の速水総裁の下でのゼロ金利解除に批判的です。日銀の人は我々役人と同じで無謬主義だと勝手に思っていました。前に読んだ誰か日銀OBの本では、この2000年8月のゼロ金利解除について「間が悪かった」とだけ書いてあって、唖然とした記憶があります。最後に、私はこの著者から少し年下で、いずれにせよアラ還なんですが、私の結婚が大きく遅れたのはバブルで遊び回っていたためではなかろうかと反省しています。まあ、反省してももはやどうにもならないんですが…

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次に、ブルース・シュナイアー『超監視社会』(草思社) です。著者は世界的な暗号研究者、コンピュータ・セキュリティの権威と紹介されています。英語の原題は Data and Goliath であり、2015年の出版です。著者が本書の中で明記しているように、テクノロジーの進歩の影の部分をかなり意図的に拡大して取り上げています。すなわち、特にインターネットの検索履歴、GPS位置情報、メール、チャットやフェイスブックなどのSNSへの書き込み、オンライン決済、オンラインバンキングなどなど、あるいは、単にインターネットの何らかのホームページを見ているだけでも、スマホやパソコンから日々大量の個人データが生成しており、個人が特定されるリスクが大きいと本書は指摘しています。私の知る限りでも、その昔はインターネットの世界は匿名の世界であるといわれていましたが、今では何のプライバシーもありません。何かコトが起これば個人が特定され、その人本人の顔写真、あるいは、家や通っている学校か会社あたりの写真が、おそらく、12時間以内くらいにどこかにアップされかねません。ただ、本書はそのテクノロジーの影の部分を故意に誇張しており、光の部分を小さく見せていることは確かで、個人を特定できなければ利便性が大きく低下する可能性も忘れるべきではありません。そして、本書の著者の巧妙なところなんですが、第1部では企業の個人情報収集を取り上げつつ、第2部では国家、というか政府の個人情報収集、特にインテリジェンス機関のテロ防止のための対応に話をすり替えて、恐怖心をあおっていたりもします。私の考えるに、プライバシーについて著者は意図的に混同してゴッチャにしているんではないかと思います。私の基本的な考えとして、市場参加者としてのプライバシーはもはやないと考えるべきです。何をいくらでいつどこで買ったか、はもはやプライバシーではありません。他方で、夫婦間の寝室での行為や真剣な男女間のお付き合い、シャワールームやトイレでの下半身の画像などはかなり古典的なプライバシーです。ただ、グレーゾーンがかなり広く、真剣なお付き合いの男女が結婚式場を予約した後、キャンセルした、とかはグレーゾーンです。また、個人で完結せずに社会的に波及効果があり、経済学でいうところの外部性の大きな行為や事実もグレーゾーンに入るかもしれません。例えば、伝染性高い疾病はプライバシーではないと考えられますし、性犯罪者の犯罪歴がどこまでプライバシーなのか、どうかは議論あるかもしれません。おそらく、著者はプライバシーを広く考えて情報監視を嫌うでしょうし、逆に、情報を監視しているインテリジェンス機関は狭く考えるバイアスがあることは言うまでもありません。それから、本書では国民の参加による民主主義で決定する理想が高く掲げられていますが、他方で、これも経済学的に考えれば、金融政策のように政府から独立して専門家が司る分野もあり得ます。情報処理、特に情報の監視がどちらなのかも議論すべき課題かもしれません。プライバシーの境目と民主主義か専門家か、この2点が本書ではスッポリと抜け落ちています。

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次に、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書) です。とても渋い新書ながら、2016年に注目されたトップ10に入る新書ではないでしょうか。タイトルそのままに、応仁の乱を気鋭の中世史の研究家が解明を試みています。その史料として活用されたのが、奈良の興福寺の別当=寺務が書き残した日記や覚書です。著者自身が冒頭に書き記しているように、応仁の乱はとても有名であって、教養ある日本人であればほとんど全員がその名を知っているんでしょうが、戦乱の中身についてはもちろん、どうして10年余の長きにわたって終結しなかったのか、などなど、それなりに我々の不勉強なところを著者はうまくついているような気がします。私も東軍の細川が西軍の山名に勝って、その結果として、室町幕府の将軍が決まったとか、山名の陣地が今では西陣と呼ばれているとか、よういった表面的な事実は知らないでもないんですが、本書でかなり勉強になりました。私は京都南部の出身で奈良にある中学高校に通いましたから、それなりに奈良の興福寺には通じており、例えば、近鉄奈良駅前に東向き商店街という荷があったんですが、中世から近世初頭にかけて絶大な勢力を誇った興福寺に玄関を向けて建てられたので、そういった名称になったとか、いろいろとあります。でも、京都の特に洛中の京都人が「先の大戦では、このあたりは丸焼けで」という際の「大戦」は応仁の乱であるというのは、決して趣味のよくないジョークだと考えています。

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次に、東野圭吾『雪煙チェイス』(実業之日本社文庫) です。強盗殺人の容疑をかけられた大学生が、アリバイを証明してくれる「女神」を探して、根津が監視員を務めるスキー場にやって来ます。そして、警察の方でも所轄と警視庁の確執があり、それぞれの刑事がスキー場に時間差をもってやって来ます。スキー場では、ゲレンデ・ウェディングの準備が進められる中、監視員の根津や旅館の女将、あるいは、観光に関係するツアー・コンダクターなどなど、スキー場周辺の関係者も容疑をかけられた大学生に加担したり、警察官を助けたりと、いろいろと色分けされる中で、当然ながら、最後は強盗殺人事件が解決されます。当然、容疑をかけられた大学生は犯人ではありません。やや趣向は違いますが、『ゴールデンスランバー』に少し似たところのある逃亡劇です。ただ、『ゴールデンスランバー』と違って、最後の最後にホンの2-3ページの推理で終りますが、強盗殺人事件の犯人は明らかにされ事件は解決します。同じ出版社の『白銀ジャック』と『疾風ロンド』に続く根津シリーズの第3弾なんですが、前作をいくつか読んでいないと、キャラの作りが少し薄いというか、それほど強烈なキャラではないので、スキー場の人の区別がつきにくい気がします。ただ、2-3日の間の出来事で、しかも若い大学生などが、アラ還の私なんぞから見れば、かなりなムチャをしますので、その限りでは、なかなかのスピード感です。スピーディな展開にハラハラドキドキしつつ、サスペンスとともにコミカルな要素も申し分なく、楽しいミステリに仕上がっています。でも、本格的な謎解きに期待すべき作品ではありません。

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最後に、吉川英治ほか『七つの忠臣蔵』(新潮文庫) です。赤穂浪士の討ち入り、仇討など、いろいろな呼ばれ方をしますが、本書は「忠臣蔵」に込められた人間模様を描いた短編7編を集めた短編集です。上の表紙画像に見られる通り、豪華執筆陣ですが、ほとんど故人ではないかという気もしますし、もちろん、最新作ではあり得ません。収録された短編は以下の通りです。すなわち、仇討ち劇の陰に咲く悲恋を描いた吉川英治「べんがら炬燵」、知られざる浅野内匠頭の狂態に注目した池波正太郎「火消しの殿」、剣の達人堀部安兵衛の峻厳たる男気に感動を覚える柴田錬三郎「実説「安兵衛」」、脱盟の汚名を呑んだ槍の名手高田郡兵衛の煩悶を取り上げた海音寺潮五郎「脱盟の槍 高田郡兵衛」、大石の志を試した商人天野屋の大阪商人としての生きざまに着目した佐江衆一「命をはった賭け 大坂商人天野屋利兵衛」、敵役である吉良の何とも表現しがたい精神構造に焦点を当てた菊池寛「吉良上野の立場」、涙腺の緩い読者の滂沱の涙を誘う若き浪士の姿を感動的に表現した山本一力「永代橋帰帆」となっています。私のような時代小説ファンには必読かもしれません。
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2017年03月04日 (土) 18:41:00

今週の読書は話題の村上春樹『騎士団長殺し』ほか計7冊!

今週の読書は話題の村上春樹『騎士団長殺し』第1部・第2部ほか、以下の7冊です。通常は経済書を読書感想文の冒頭に置くんですが、例外的に『騎士団長殺し』を最初に置きました。ほかは新書が多く、なぜか、経済書がありません。というか、『経済数学の直観的方法』の新書2冊だけです。それから、今日はほとんど自転車での図書館回りをしなくなり、逆に、図書館の予約本があまり届いていませんでした。来週の読書はさらにペースダウンしそうです。

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まず、村上春樹『騎士団長殺し』第1部 顕れるイデア編と第2部 遷ろうメタファー編(新潮社) です。作者は言わずと知れた我が国を代表する作家であり、毎年9月や10月になるとノーベル文学賞の候補に擬せられる世界的な小説家です。第1部と第2部ともに500ページを超える大作であり、上下巻ではないことから第3部が続く可能性もあり得るんではないかと期待する読者もいそうな気がしますが、第2部の終わり方からして可能性は小さいと私は受け止めています。あらすじなどはあらゆるメディアで報じられていますのですっ飛ばすとして、参考文献をいくつか上げると、作者ご自身の作品では、異界への進出という点に関しては、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でやみくろを追うんだか、追われるんだかに似たような気がします。また、その昔に出来た子供の物語としてはエリス・ピータースの修道士カドフェルのシリーズの『氷のなかの処女』でカドフェル自身のパレスチナに残したオリヴィエという20代半ばの息子との邂逅を思い出しました。また、やたらとセックスのシーンが多い点については山内マリコの一連の小説が思い浮かびました。最後に、絵画という点では綾辻行人の一連の館シリーズの幻視者として登場する画家の藤沼一成を連想させました。最後に、第2部の終了部分からは第3部は可能性小さいんですが、逆に、第1部冒頭のプロローグでは異界の川の渡し守の顔のない男が主人公からかつて預かったペンギンのお守りを対価に肖像画を描く約束を求めて訪れるも果たせず再訪を予告するシーンがあり、この部分からは第3部が続くことが期待、というか、予想されなくもありません。たぶん、続くんでしょう。私自身の評価としては、前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』よりは格段に読み応えあると考えますが、『1Q84』との比較は第3部が出てから、あるいは、さらにその先の続編が出てから考えますが、現時点では『1Q84』にはかなわない気もします。誰かの個人ブログで見かけたんですが、読んだ人向けながら、とても分かりやすい画像へのリンクを貼っておきます。


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次に、フランク・トレントマン『フリートレイド・ネイション』(NTT出版) です。著者はドイツ生まれで米国ハーバード大学で博士学位を取得した英国のロンドン大学の研究者です。エコノミストというよりはヒストリアンです。英語の原題は邦訳そのままに、2008年のリーマン・ショック前後に出版されています。出版からほぼ10年近くを経過していますが、それほど賞味期限切れという感じはしませんでした。というのは、本書の歴史的なスコープは19世紀後半から20世紀前半の戦間期をもって終了しているからです。地理的なスコープとして英国を対象に自由貿易を論じているわけですが、本書の最大の特徴は、自由貿易を大文字で始まる倫理的あるいは思想的な文化とか信念とかの体系と小文字で始まる取捨選択が可能な経済政策のツールを区別している点で、極めて大雑把にいえば、主として本書の前半で文化や信念の体系としての大文字の自由貿易を論じ、後半では政策ツールとしての小文字の自由貿易を論じています。日本では自由貿易とか、貿易自由化を論じる際に、我が国の消費者団体、主婦連とか地婦連とかは食の安全性の観点から外国産の農産物が入りやすくなる貿易自由化には反対するんですが、英国では、というか、19世紀後半20世紀初頭の英国では消費者自身が安価な食品輸入を求めて自由貿易擁護の傾向を持った点が大きく異なります。経済学的には自由貿易が一国の利益になるのは、不利益を被るグループへ対してその補償を行うという限りにおいて、なんですが、そういった経済学の観点ではなく、本書では世界に先駆けて産業革命を達成し「世界の工場」となった英国の民主主義と自由貿易と資本主義といった思想や信念が国のアイデンティティの形成にどのようにかかわったか、また、20世紀の第1次世界大戦後に米国や他の欧州諸国からの追い上げを受けて英国がもはや世界をリードする大国でなくなり、いかにして自由貿易を放棄して行ったか、といった歴史的な観点から自由貿易、というよりも、一般的な小文字の自由貿易ではない英国独自の大文字の自由貿易に関する思想のようなものの考察を進める本書の読書は、昨年の英国の国民投票によるEU離脱、いわゆるBREXITとか、米国の大統領選挙で当選したトランプ大統領の保護主義的な傾向を有する通商政策などを考える上で、それなりの知的な貢献が出来そうな気がします。大判で500ページ近い大作ですが、それなりの価値はあるかもしれません。日経新聞と読売新聞の書評へのリンクは以下の通りです。


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次に、『経済数学の直観的方法 マクロ経済学編』『経済数学の直観的方法 確率・統計編』(講談社ブルーバックス) です。これはおそらく、私の商売道具に近いという印象を持ったため、『騎士団長殺し』と同じように書店で買い求めました。1週間分の読書感想文で4冊も買った本が取り上げられるのもめずらしい気がします。この2冊はマクロ動学モデルのひとつであるDSGEモデルを理解するための『マクロ経済学編』とブラック・ショールズ・モデルを理解するための『確率・統計編』の2さつであり、どちらも初級・中級・上級の3部構成となっています。ただ、『マクロ経済学編』にはオマケが3章あり、微分方程式の基本思想、固有値の意味、位相・関数解析が収録されています。どのような読者にも対応した作りになっている気がしますが、ある程度の基礎的な理解力あれば、2冊で数時間かければ読み切れると思います。それで、直観的には経済数学のある程度の部分が理解できる可能性があります。その点については素晴らしい本だという気もします。ただ、経済数学はDSGEの動学モデルとブラック・ショールズだけではありませんし、少なくとも、オマケのない『確率・統計編』にノンパラメトリックな確率統計論がオマケで欲しかった気がします。もうひとつ、「これだけ理解できれば、経済学部卒業くらいの知識が身につく」といった趣旨の表現が何か所かにありましたが、経済学部の教員経験者としてカンベンして欲しい気もします。ちなみに、確率統計論のうちのランダムウォークについてのエッセイを地方大学に出向していた際に私は紀要論文で残しています。ネイティブ・チェックもない英文で、数式がいっぱい展開してあって読みにくいかもしれませんが、以下のリンクの通りです。


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次に、NHK取材班『総力取材! トランプ政権と日本』(NHK出版新書) です。著者はNHK取材班ということで、その取材班のトップはNC9のキャスターをしていた大越記者だったりします。ほぼ、昨年いっぱいのトランプ大統領の動向を米国に出向いての取材により明らかにしようと試みています。もちろん、今までのいわゆる「トランプ本」と大きく異なる点はないんですが、締切りが早かった分、やや楽観的なトーンでまとめられ、ひょっとしたらTPPに復帰するんではないか、といったトーンも見られなくもないんですが、それも程度問題です。すでに辞任してしまったフリン前補佐官の就任前インタビューで、米国の最大の脅威は経済であると喝破していたりします(p.171)。でも、トランプ大統領誕生の最大の受益者はロシアのプーチン大統領であろうという点については、多くの識者が一致しているような気がします。やや中途半端な時期に編集された新書ですが、米国大統領の権限がそれほどでもなく、入国制限が裁判所によって簡単にひっくり返されるなど、もう少し大統領制についての取材も欲しかった気がします。

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最後に、森山優『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書) です。著者は日本近現代史やインテリジェンスの研究者であり、新潮選書で『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』の著者です。この前著は私も出版からかなり遅れて読んだんですが、1940-41年当時の我が国の陸海軍省、参謀本部、軍令部、外務省などの首脳や幹部が対外軍事方針である「国策」をめぐり、迷走の末に対米英蘭戦を採択したわけですが、その意思決定過程をたどり日本型政治システムの致命的欠陥を史料から明らかにしています。本書はその前著の姉妹編であり、日本国内だけでなく戦争相手の米英のインテリジェンスによる情報収集や意思決定についても軽くスコープに入れています。前著と同じように、軍部を含めて我が国政府機関の意思決定における両論併記や非(避)決定について論じるとともに、インテリジェンス活動についても取り上げています。ただし、最後の最後に著者自身が明記しているように、日米英の3か国において、正しい情勢判断を出来たのは、日本でいえば幣原であり、米英でいえば駐日大使であったそうだが、要するに、暗号解読により入手したインテリジェンス情報に接した政府幹部・首脳は強硬論に走って戦争に進む結果になって情勢判断を誤り、オープンソースを主とした情報源と現地情報を肌で知る外交官が戦争回避に動いて正しい判断を下すことが出来た、と論じています。特に、著者は南部仏印進駐が開戦を決定つけたと結論をしていますが、それを正しく見抜いたのは日本では幣原だけだったそうです。日本政府の両論併記や非(避)決定の過程については前著の方が詳しいんですが、タイトルにあるインテリジェンスの活用については本書の方が詳細に渡り、併せて読むとよく理解できるのかもしれません。
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2017年02月25日 (土) 11:37:00

今週の読書は少しペースダウンして経済書など計7冊!

今週の読書はややペースダウンして、経済書と専門書・教養書に小説まで含めて、以下の通りの7冊です。先週の9冊から数字的にペースダウンしたのに加えて、ライトノベル(ラノベ)という言葉がありますが、経済書や教養書でもライトな本が多かった気がします。文庫本200ページほどのアンソロジーも含まれています。それも1冊ですが、先週くらいまでは500ページをラクに超えるヘビーな本があったりした分、今週は軽く読み飛ばした本もあったりします。誠に有り難いことに、来週はもっとペースダウンする予定です。

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まず、安達誠司『ザ・トランポノミクス』(朝日新聞出版) です。著者は証券業界の民間エコノミストであり、私は何度かドイツ証券のころにお会いしましたが、今は丸三証券の経済調査部長だそうです。リフレ派のエコノミストです。ということで、米国のトランプ大統領の経済政策、すなわち、トランポノミクスの解説をすべく努力しているんでしょうが、現時点ですら、イスラム教国からの入国停止などのわけの判らない大統領令が裁判所の執行停止命令で頓挫しているくらいですので、NAFTAの再交渉とか、TPPからの離脱とかいっても、現時点で我が国にそれほど関係するとも思えませんし、あまりにトランプ政権の経済政策に関してデータ不足ですので、ほとんど何も論じられるハズがない、と私は考えていたんですが、案の定というか、何というか、英国のEU離脱、BREXITから、中国のバブル崩壊から、いろんな経済的トピックを取り上げて、まあ、決してトランプ政権の経済政策に関する話題とも思えない部分も少なくないんですが、かなりコジツケに近くトランポノミクスを解説しようと試みています。ハッキリ言ってムリがありますので、2点だけ指摘しておくと、財政政策の物価理論については最近の浜田先生の心変わりに対応して、リフレ派でもソロリと金融政策とともに財政政策にも関心を寄せ始めた気がします。実は、私もそうですからよく判ります。それから、トランプ政権の米国経済に関する政策意図を実行しようとすれば、いずれかの時点で金融政策を緩和に向かわせる必要があるということは理解できます。でも、トランプ大統領自身が選挙前から現在のハト派のイエレン議長は再任しないと明言しており、タカ派の議長が就任する可能性も小さくありません。私の知る限り、スタンフォード大学のケヴィン・ウォルシュ教授が有力と聞いたことがありますが、本書の著者の理論的な金融緩和への政策変更と人事がどのように結びつくのか、特に、現時点でトランプ政権では人事に躓きを見せていますので、やや心配ではあります。いずれにせよ、本書はリベラルなエリート層が米国大統領選挙後にトランプ大統領の悪口を言い散らかしている本ではなく、トランプ政権の経済政策、まだそれほど全貌は明らかではないにしても、その政策意図を前向きに汲み取り、ひょっとしたら、トランプ政権の経済政策で米国だけでなく、日本も恩恵を受けるんではないか、と思わせるに足る内容ではなかろうかと思います。

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次に、森信茂樹[編著]『税と社会保障でニッポンをどう再生するか』(日本実業出版社) です。著者は財務省出身で、私の記憶が正しければ、財務総合政策研究所長を最後に退官して大学の研究者に転じています。本書では、かなりの景気拡大効果を示しているアベノミクスを否定して、あくまで財務官僚的な財政収支重視論を展開するとともに、同時に、アベノミクスでも大きな課題となっている格差や貧困の問題、あるいは、高齢者や女性の労働供給の問題なども取り上げています。もちろん、財政破綻や年金などの社会保障の崩壊を含めて、財政収支均衡を志向する流れは忘れられているわけではありません。3人の政府税調委員との対談でも、財政収支均衡が施行されていることは明らかです。しかしながら、本書でのポイントは3点あり、第1に、かつて「一体改革」と称されたように、税制と社会保障に代表される財政政策によって経済成長を支える仕組みを志向しています。もちろん、財政収支が均衡すれば日本経済がどうなってもいいというかつてのかたくなな姿勢は見えません。第2に、法人税と所得税+消費税個人向け税制のバランスを検討し、起業や企業への適切な税制を講じて経済の発展を志向しています。第3に、所得や資産の格差の今以上の拡大は、社会の持続可能性を危うくさせるとの観点から、再分配や世代間格差問題についても適切に対応する必要を説いています。世代間不平等のソースとしてシルバー民主主義に正面から税制の観点で切り込んだのは評価します。でも、ベーシック・インカムについては極めて否定的な姿勢のように見えるのは、財源が足らないというだけなんでしょうか。ここまでうはエコノミストから左派まで幅広い賛同を得ているベーシック・インカムについての議論を適当に切り上げるのは、税制や社会保障を扱っている本にしては、私にはよく判りません。最後に、対談の部分は仕方がないにしても、本書で展開されている議論があまりに精粗区々で、やや戸惑ってしまう場面も私にはありました。特に、例の「パナマ文書」に見られるような租税回避地の議論に関しては、極めて徴税手続き論に終始しているような気がします。いかに世界経済を害して格差を助長しているかについても何らかの見識を示しておくべきではないでしょうか。ただ、最後のXタックスについては短い記述ながらも、それなりに参考になり、もっと勉強しようかという気になりました。本書の最大の収穫かもしれません。

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次に、伊丹敬之『ビジネス現場で役立つ経済を見る眼』(東洋経済) です。著者は一橋大学の研究者の経歴が長く、経営学の大御所とも見なされていたりします。『経営を見る眼』という既公刊の本があり、それに合わせたタイトルのようです。ということで、いくつか「ご慧眼」と言い出したいところもある一方で、少し見方が狭いと感じるところもあります。例えば、身近な景気の良し悪しは需要の伸びに起因するというのはまったくその通りだという気がします。また、身近な街角の経済をマイクロ経済学に、高高度から俯瞰した経済をマクロ経済学になぞらえるのは、厳密性を重視すればともかく、なかなかいい例えではないかと受け止めています。その上で、マイクロな経済学を積み上げて行っても合成の誤謬などもあって、マクロ経済学的に見て正しい結論にたどり着くわけではない、という指摘も、しばしば忘れられがちで、リアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論などでは意図的に無視している点だという気もしますが、極めて真っ当な議論だと思います。だた、細かい点ですが、日本の消費が停滞しているのは明らかに所得の観点から論じるべきであり、平均消費性向がものすごく低下していて、決して日本の家計は消費をせずに貯蓄を溜め込んでいるわけではない、という点は見落とされている気がします。最後に、もっとも私が疑問を持ったのは、経済学の論文や書籍で批判されることが多い点といっしょで、まったく人が出て来ない点です。経営学も同じなのかもしれません。しかし、労働者としてのスキルの形成やその生産性への反映、さらに、その生産性を基準にした賃金のあり方などを含めて、ケインズ的なアニマル・スピリットが強調されている割には、人間が出て来ないのが「人本主義」の伊丹教授のご著書にふさわしくないような気がします。従って、格差の議論も平板に見えてしまいますし、格差と貧困を取り違えているんではないかと読まれかねない部分もあったりします。格差により所得の少ない階層の教育が不十分となって成長を阻害する、というのは、OECD の Focus on Inequality and Growth の観点でしょうが、格差と貧困を同一視するべきではありません。少なくとも、正規雇用と非正規雇用の分裂、そして、そこを起点にした格差の問題、非正規雇用における熟練崩壊、すなわち、デスキリングの問題なども取り上げて欲しかった気がします。

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次に、 澤野雅樹『絶滅の地球誌』(講談社選書メチエ) と『起死回生の読書!』(言視舎) です。著者は社会思想や犯罪社会学を専門とする明治学院大学の研究者です。私はこの分野に詳しくありませんので、知りませんでした。『絶滅の地球誌』は3部構成となっており、極めて大雑把ながら、第1部が生物学的な絶滅を取り上げており、著者の専門分野とはかけ離れている一方で、コルバート『6度目の大絶滅』、ビアリング『植物が出現し、気候を変えた』などの種本があって、私はこれらをすでに読んでいましたので、まあ、金沢城のお堀のヒキガエルの絶滅を別にすれば、特段の著者の主張はなかったように感じました。なお、『6度目の大絶滅』は2015年5月10日付けの、また、『植物が出現し、気候を変えた』も同じ2015年4月18日付けの、それぞれこのブログの読書感想文で取り上げています。第2部から、一見すると無関係な主題に向かって行きます。核開発です。これも、バゴット『原子爆弾 1938~1950年』などの種本からの引用が多く、第1部か第2部か忘れましたが、時には2-3ページに及ぶ引用もあったりしました。たぶん、あくまでたぶん、なんですが、第3部が著者の専門に近い分野なのかもしれません。そして、タイトル的に考えて、人類を含めて地球が絶滅に向かっているというおそれに対して、いかにしてそれを防止するかというのが本書のテーマなんですが、もちろん、本1冊で回答が引き出せるハズもなく、ナチスの勃興に対してハンナ・アーレントが用いた「短慮」の概念を引いて著者は現代社会を批判しつつ、現実を直視しむやみに絶望するのではなく、ただ愚直に思考することを志向しています。そして、簡単には答えられない問いなわけでひょっとしたら、誰にも答えられない問いかもしれないかもしれませんが、だからといって現状を黙認すれば、絶滅という形で人類を含めて無数の生物が姿を消し、憎悪を抱えたテロリストが生み出され続ける可能性があると警告しています。結論は私にはよく判りませんでした。時には、フランス構造主義やポスト構造主義、あるいは、こういった社会学的な本を読むのもいいかもしれません。ただし、ソーカル事件のような事態は引き起こさないように気をつける必要はあるかもしれません。『起死回生の読書!』では、読書人口というか、人口割合が減少した事実につき考察を進めていますが、スマートフォンでのゲームが赤ちゃんのガラガラだとか、SNSは昔の井戸端会議、などとスマホに熱中する人々を切って捨てています。少なくともこの冒頭の部分は私も同感です。本が読まれないことは出版業界の問題にとどまらず、文明論的に恐るべき意味を持つという点に関してはそうかもしれないと思わないでもないものの、それは、本を受け取る読書家たちの問題なのか、それとも本を送り出す作者や出版社の側の問題なのか、そのあたりはややビミョーかもしれません。夏目漱石や森鴎外のように、100年後も読み継がれる作家は、現在の現役作家の中に何人いるんでしょうか。

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次に、東野圭吾『恋のゴンドラ』(実業之日本社) です。作者は売れっ子のミステリ作家ですが、この作品はミステリではなくコメディです。同じ出版社から文庫本で、同じ昨年11月に『雪煙チェイス』と3週間ほど時期をずらして発行されて、どちらも買い求めたんですが、埋もれていたのを今になって発掘したりしています。なお、文庫の『雪煙チェイス』の方はミステリで、来週の読書感想文で取り上げる予定です。ということで、この『恋のゴンドラ』はタイトルから想像される通り、ラブストーリーのコメディです。アラサー男女の恋愛事情とその進化形である結婚事情、さらに、結婚相手の父母、すなわち、義理の父母との付き合いなども含めて、ウィンター・スポーツであるスノーボードとスキーに絡めて賑々しく進行させています。基本的には、この作者の作品で冬の季節に刊行されるシリーズで、スキー場の監視員をしている根津が登場します。私の記憶が正しければ、根津は『白銀ジャック』と『疾風ロンド』に登場していて、『疾風ロンド』では本作と同じ里沢温泉スキー場で監視員をしています。チラチラと本作品にも登場して、もっとも登場場面が多いのは月村夫妻が義理の両親とスキー旅行する章です。この章のラストは、いかにも東野圭吾らしく、加賀恭一郎シリーズ的な人情噺チックに締めくくっています。いずれにせよ、アラサー男女の恋愛事情、結婚事情ですから、私のようなアラ還の男からはやや感情移入しにくいんですが、男から見れば女性の恋愛に関する見方が新鮮かもしれませんし、女から見れば男性の恋愛や結婚に関する見方が新鮮かもしれません。ただ、ミステリではなく恋愛コメディですので、読者の年齢層は限られるかもしれません。

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最後に、赤川次郎ほか『吾輩も猫である』(新潮文庫) です。赤川次郎ほかの売れっ子小説家の短編を集めたアンソロジーです。まず、小説の中身とは関係ないながら、上に引用した表紙画像が私にはキモいです。まあ、夏目漱石のもともとの『吾輩は猫である』が猫を擬人化した小説ですので致し方ないんですが、画像化するとここまでキモくなるのかと驚いています。ということで、上の表紙画像に見える通り、かなりの豪華キャストの布陣による短編集であり、読んでおいてソンはありません。なぜだか、そういう方針なのか、図書館の本の配列のように、作者名の50音順で配置してあります。赤川次郎の作品は、その昔の東野圭吾の出世作『秘密』のように、妻が死ぬ際に猫に人格が転移する、というもので、あり得ないだけに考えさせられるものがあります。それにしても、山内マリコの小説は猫でもセックスを話題にするんですね。少しびっくりしました。
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2017年02月18日 (土) 11:32:00

今週の読書も話題の経済書などハイペースに計9冊!

今週もお近くの区立図書館ががんばって予約を回してくれて、ヘリコプターマネーで注目の経済書など計9冊です。手軽に終わらせるべき本については読書感想文も短めにしています。今日の午前中にいくつかの図書館を回ったんですが、来週こそはペースダウンできるのではないかと期待しています。

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まず、アデア・ターナー『債務、さもなくば悪魔』(日経BP社) です。作者は英国金融サービス機構長官を務めたエコノミストであり、本書はヘリコプターマネーを提唱した話題の書です。英語の原題は Between Debt and the Devil であり、頭韻を踏んでいるんでしょうか。ショッキングな邦訳タイトルながら、かなり原題に近いといえます。出版は2016年です。ということで、ヘリコプターマネーがどうしても注目されるんですが、本書はそれにとどまらず、2009年からの金融危機やその後の Great Recession また長期停滞論なども視野に含めて、幅広い議論を展開しています。需要は貨幣創造で創出できるというのが結論であり、まさにリフレ派や私の直観と一致します。もっとも、本書でも銀行貸出は生産要素に向かうのではなく、最近では不動産ストックの取得に向かっているとの指摘が痛かったです。最近、私の所属する研究所で勉強会をやった折にも、マネーが資産購入には向かわず、文字通り「漏れなく」購買力に向かうというモデルの発表を聞いて脱力した記憶があります。また、100%準備銀行として、民間銀行に信用創造を許さないような制度を考えるかと思えば、ヘリコプター・マネーの議論をしてみたりと、偏見なく経済を上向かせる、あるいは、バブルを防止するような政策を網羅しているような気がします。ただ、最後の解説の早川さんはミスキャストです。本訴の結論に対しても、両論併記と言うか、いろんな見方を提起して議論を曖昧にしたり、本書の重要な結論のいくつかに疑問を呈したりと、本書で明確に否定された旧日銀理論を振りかざしています。理解のはかどらない出版社幹部が勝手にセッティングしてしまい、担当編集者がどうしようもなく断れなかったような気がします。こんな解説なら、むしろ、なかったほうが著者の意向に沿うような気がします。最後に、ヘリコプターマネーの有効性については私は著者とほぼほぼ一致しているんですが、現在の日本の経済情勢においては十分な成長を実現しており、ヘリコプターマネーは必要ない、というのが私の見立てです。ご参考まで。

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次に、フィリップ E. テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』(早川書房) です。著者の2人は政治心理学の研究者とジャーナリストです。この組み合わせで連想されるのが『ヤバい経済学』の2人の著者なんですが、本書の場合、本文中に1人称で出現するのは研究者のテトロック教授が多いような気がします。英語の原題は Super-Forecasting であり、邦訳のタイトルはほぼほぼ忠実に原題を直訳しているようです。2015年の出版です。タイトル通りの超予測について、さらに、実在の超予測者について、彼ら彼女らがどのように予測しているかのプロセスを考察しています。特に、超予測者についてはまとめとして、pp247-49 にいくつかの特徴を箇条書きしています。必ずしも経済書ではないかもしれませんが、一貫して主張しているのが、ランダムな判断として「サルのダーツ投げ」を引用していて、明示的な引用でははいものの、引用元はマルキール教授の『ウォール街のランダムウォーカー』です。私は大学に出向していた際の紀要論文に "An Essay on Random Walk Process: Features and Testing" というのがあり、"a blindfolded monkey throwing darts at a newspaper's financial pages could select a portfolio that would do just as well as one carefully selected by experts" として最後の結論で引用しています。また、予想は新しい情報が加われば変更すべきであるという著者の主張を補強する意味で、ケインズの言葉も引用されています。"When my information changes, I alter my conclusions. What do you do, sir?" なんですが、これも超有名なフレーズです。こう話しかけられた相手はサムエルソンではなかったかと記憶しています。また、軍事情報の予測も数多く取り上げられており、例えば、先日、大統領補佐官をわずか1月足らずで辞任したマイケル・フリンが国防情報局(DIA)長官を退官する直前のインタビューを取り上げ、pp.297-98 で国際情勢判断の間違いが指摘されています。いずれにせよ、予測を行うのに必要なのは、本書では明記していませんが、インプットする情報の質と量、それに、そのインプットをプロセスする評価関数もしくはモデルであり、予想が間違う場合は後者の評価関数もしくはモデルがおかしい場合が圧倒的に多い、と私は考えています。ケインズ的な評価関数(モデル)の臨機応変な変更をはじめ、評価関数(モデル)を洗練させるのに必要ないくつかの要素を読み取れれば、本書の読書の成果といえるかもしれません。

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次に、安岡匡也『経済学で考える社会保障制度』(中央経済社) です。著者は関西学院大学の研究者であり、本書は、基本的に、大学生に対する教科書、あるいは、初学者向けテキストとして執筆されたものだそうですから、期待すべき水準を推し量ってから読み始めるべきような気がします。全18章のうち16章までがほぼ制度論で、年金、医療、介護、生活保護、雇用、育児支援、障害者福祉となっています。もちろん、すべてが制度論ではなく、いくつか経済モデルの実際の数値例を基に、効用関数との対比でマイクロな選択の最適化などが扱われています。公務員試験に出そうなものもあったりします。ただ、制度論ですから社会保障の全体像を政府予算から把握できるようにするとかの工夫も欲しかった気がします。国際比較はいくつかの社会保障政策の分野ごとに扱っていますが、なぜか、国内の社会保障政策全体像の中で個別の年金や医療などの政策がどのように位置づけられているのかが明らかにされていません。個別の制度論から外れるのは最後の2章だけで、所得格差の指標と財源調達の経済分析を扱っています。財源では、消費税の軽減税率を批判していますが、とてももっともです。

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次に、フランシス M. ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(国書刊行会) です。著者は米国のミステリ作家・研究家・アンソロジストだそうです。というよりも、1974年出版の原書 Royal Bloodline、1980年の邦訳書『エラリイ・クイーンの世界』の作者といった方が判りやすいかもしれません。我が国ミステリ界に大きな影響を残した名著です。なお、この作品の英語の原題は Ellery Queen Art of Detection ですから、ほぼ忠実に邦訳されています。2013年の出版です。要するに、前著で積み残した部分を補った完全版、という気がします。ただ、前著との比較は私の能力を大きく超えていますが、私にとって参考になったのは、いわゆる本格推理小説である国名シリーズをはじめとするクイーンの初期の著作、と中期も最初の方の『災厄の町』や『九尾の猫』などであり、1940年代前半くらいを中心とするラジオ・ドラマについては、ほとんど興味ありません。日本人にはアクセスできないでしょうし、聞けたとしてもネイティブの米国人などとは理解度が違うんではないかと思います。ただ、オーソン・ウェルズの「宇宙戦争」が大混乱を巻き起こしたのが1938年ですから、年配の世代にはクイーンといえば小説よりもラジオ・ドラマの印象が強かった時代があるのかもしれません。ほか、19章でランダムに取り上げた作品解説、20章からのクイーンではない作家の代作なども興味深かった気がします。なお、本書の序でクイーンの名前が(日本を除いて)忘れ去られていると著者が記していますが、そうなんでしょうか。私もクイーンの小説はドルリー・レーンが主人公の4作を入れても、国名シリーズと『災厄の町』や『九尾の猫』くらいしか読んでいません。我が家の倅もミステリは好きそうなんですが、彼らの世代になると日本でもだんだんと忘れ去られていくのかもしれません。

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次に、清武英利『プライベートバンカー』(講談社) です。著者は読売新聞の記者を長らく務めたジャーナリストであり、ジャイアンツの球団代表まで勤めましたが、コンプライアンス違反を内部から告発して解雇されています。もともと、ジャイアンツというのは後ろ暗い裏のある球団ではないかと私は勝手に想像していますが、それにしても、著者はとても信頼を置けて尊敬できるジャーナリストではないかという気がします。2015年11月に山一證券の最後の整理を担当した人々を取材した『しんがり』を読んで、このブログに読書感想文をアップしています。本書はタイトルなどからも理解できる通り、シンガポールを舞台にした富裕層や超富裕層の個人資金を預かるプライベートバンカーを中心にしたノンフィクソンなんだろうと思いますが、一部にフィクションの小説的な要素も含まれており、どこまでがノンフィクションの事実で、どこからがフィクションなのかは私には不明です。主人公は実名である旨が明記されており、野村證券営業部隊の出身であるプライベートバンカーです。相続税逃れのためにオフショアのタックスヘブンであるシンガポールに移住して、何をすることもなく英語が出来ないので現地に溶け込めずに日本人ムラでブラブラしている富裕層を相手にしたビジネスなんでしょうが、とても批判的な視点から事実や事実に近いフィクションを取りまとめています。加えて、我が国の国税庁からの長期出張者の活動、私が考える限りはこの部分がもっとも事実を伏せている気がしますが、また、最後は顧客の資金を横領するプライベートバンカーについても取り上げ、とても幅広い取材の苦労がしのばれますが、さすがに、数十億円単位のカネを集めながら、何に投資しているのか、この部分だけはブラックボックスで終えています。仕方ない気もしますが、何か臭いだけでも発しておいて欲しかった気がします。

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次に、ピーター・ペジック『近代科学の形成と音楽』(NTT出版) です。著者は物理学の研究者であり、在野の音楽家でもあるようです。英語の原題は Music and the Making of Modern Science であり、冒頭のはしがきに科学ではなく音楽が先行する旨を強調しているにもかかわらず、科学と音楽を逆に邦題にしたセンスが私には理解できません。2014年にマサチューセッツ工科大学(MIT)出版局から出版されている学術書です。どこがどう学術書なのかというと、基本的に入門レベルの科学史となっています。しかも、英語の原題でも「近代科学」をうたっているんですが、ギリシアの古代科学から始まります。ケプラー、デカルト、オイラーなど、数学の精緻な世界観や近代科学の宇宙論とか古代科学も含めて天文学のハーモニーと音楽は、何となくの直観ながら相性がいいように思わないでもないんですが、相対性理論や特に量子力学になった以降の確率論的な科学といまだに決定論的な音楽については、どう考えるべきなのかは本書では扱っていません。化学や生物学との音楽は疎遠な気がします。これらはどう考えるべきか、興味あるところです。音楽と科学に関する古代からの図版が数多く収録されていて、それらを見ているだけでも豊かな音楽性が身につくような気になったりします。

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次に、有栖川有栖『狩人の悪夢』(角川書店) です。作者はいわずと知れた新本格派のミステリ作家であり、火村シリーズ最新作です。思い起こせば、前作『鍵の掛かった男』を読んで読書感想文をアップしたのが2015年11月8日でしたから、1年余前になります。前作では、作家がタマネギの皮をむくように、ひとつひとつの事実解明に当たった後、最後の最後になって火村准教授が登場して、サヨナラの挨拶である「カウダカウダ」をキーワードとして、パタパタと一気に事件が解決する、という展開だったんですが、この作品は真逆というか、最初の方から火村が登場するものの、最後でとても以外な事実が判明する、という形になります。前作と同じで、新本格派らしからぬ動機のしっかりしたミステリです。「俺が撃つのは、人間だけだ」とうそぶきつつ、犯人を一気に追い詰め犯罪を狩る火村の迫力が尋常ではありません。最近は京都をホームグラウンドとする新本格のミステリ作家の中でも、我が母校の京大推理研出身作家よりも、ついつい、同志社出身の有栖川有栖の作品を読む機会が多いような気がして仕方がないんですが、綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸などの活躍を期待します。

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次に、中山七里『セイレーンの懺悔』(小学館) です。著者は『さよならドビュッシー』でミステリ作家としてデビューし、私も何冊か読んでいます。この作品は『きらら』の連載を単行本に取りまとめています。主人公はテレビ局の女性取材記者ですが、まだ2年目と若く、中堅のエース格の男性記者と組んでいます。女子高生の誘拐殺人事件を取材しているんですが、テレビ局が放送倫理・番組向上機構(BPO)から度重なる勧告を受け、午後の看板ワイドショーの番組存続の危機にさらされた社会部記者として、ついついスクープを求めて不十分な裏付けで動いて誤報を演じてしまいます。すなわち、警視庁の刑事を尾行した主人公は廃工場で暴行を受け無惨にも顔を焼かれた被害者を目撃してしまい、クラスメートへの取材から被害者がいじめを受けていたという証言を得て、そのいじめの主犯格とその取り巻きを犯人と断定して報道し、別の犯行グループが警視庁に逮捕されて、看板番組のスタッフは総入れ替えとなってしまいます。しかし、その犯行グループも実際に被害者を考察した記憶がないとの供述を始め、驚愕の心煩人が逮捕され、さらにさらにで、その殺害に至るバックグラウンドに主人公が深く深く入り込んでしまいます。最後は、報道するメディア、というか、この作品では古式ゆかしく「マスコミ」という表現を使っていますが、報道機関のあるべき姿に主人公が気づいて締めくくりとなります。メディア論としては極めて薄っぺらですが、ミステリとしてのどんでん返しは読みごたえがあります。

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最後に、依田高典『「ココロ」の経済学』(ちくま新書) です。著者はわが母校の京都大学経済学部の研究者であり、本書では行動経済学を判りやすくカラー刷りで解説しています。とはいうものの、私は本書のタイトルである行動経済学とセイラー教授らの実験経済学とカーネマン教授らの経済心理学の区別がやや曖昧であるものの、これらに対する印象は決していいものではありません。第1に、本書でも指摘していますが、合理的なホモ・エコノミカスを前提とする主流派経済学の恒星に対する惑星というか、太陽に対する地球というか、地球に対する月というか、要するに、合理性を前提とする主流派経済学は第1次接近としてはまだまだ有効であり、それに対するアンチテーゼとしてのみ行動経済学の存在価値があるような気がします。第2に、行動経済学や実験経済学については、経済学のカテゴリーではなく、マーケティングやセ0ルスマンの口上の範囲にある事柄が少なくないような気もします。最後に、強烈に感じるのは、これらの学問領域はあくまでマイクロな個人レベルの選択に関する問題意識であり、企業レベルにすらなっておらず、多くの国民が関心高い景気や物価や失業やといったマクロ経済学に積み上げていく際に合成の誤謬なdpが生じて、マイクロな個人の選択がマクロの好ましい経済活動を保証しない、という点にあります。その意味で、この経済学領域にはまだ私自身で疑問が払拭されていません。
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2017年02月11日 (土) 11:54:00

今週の読書も計9冊のオーバーリーディング!

今週も、経済書をはじめ、小説や新書も含めて計9冊です。じつは、今日の午前中のうちに近くの図書館をいくつか自転車で回ったんですが、アデア・ターナーの『債務、さもなくば悪魔』が光が丘図書館に届いていました。ヘリコプター・マネーで話題の本です。来週のいっぱい読みそうな予感です。

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次に、アルン・スンドララジャン『シェアリングエコノミー』(日経BP社) です。著者はインド出身のニューヨーク大学の研究者であり、この分野でもいくつか学術論文を書いていますが、本格的な著書は初めてだそうです。でも、しっかりした本であり、キチンと基本は押さえられている上に、私もよく知らない新しいシェアリングのサービスも大いに取り込んでいます。もっとも、私が知らないだけかもしれません。英語の原題は The Sharing Economy であり、そのままです。2015年の出版となっていますが、ものすごく日進月歩の分野ですので、いくつかの分析はすでに古くなっている可能性があります。ということで、シェアリング・エコノミーの中でも、Uber や AirBnB のような比較的人口に膾炙して以前から存在するビジネスだけでなく、議事ネスとして料金を徴収しない単なるサービスも広く含めている上に、ビジネスやサービスに従事する雇用者や独立起業家の労働待遇、あるいは、法的な地位まで視野に入れており、とても幅広くシェアリング・エコノミーを分析・解明しています。また、ついでながら、シェアリング・エコノミーとほぼほぼ同じ意味で、クラウド資本主義という用語も著者は使っています。従来のコミュニティや家族親族とシェアするのではなく、クラウドとして雲の中に存在する赤の他人から何らかのサービスを引き出す、くらいの意味ではないかと私は受け止めています。また、単にシェアするだけであれば、古くから存在するレンタカーや貸衣装などもシェアしているわけでしょうから、クラウドから引っ張って来るといったニュアンスはいいように思います。いずれにせよ、十分に利用されていない遊休部分のあるストックについて、インターネットからのアクセスにより料金を取る/取らないは別にして、赤の他人に開放する、というのが定義に近い気がします。そこから派生する問題についても、著者は本書で十分に理解して分析も加えています。消費者保護や労働者保護の観点は、現状の行政では対応しきれていないのは当然かもしれませんし、レビューによる選別や淘汰についても、ホントにサービスに対するレビューなのか、提供者の人種や性別・年齢に対する差別意識を含むのか、といった問題です。後者はダーウィン的なデータ進化論とも呼ばれているらしいです。ただ、すでに著作権上の問題ですでに死に絶えたナップスター類似のサービスについては、もう一度スポットライトを当てるのが正しいかどうか、私には疑問でした。本書で取り上げているシェアリング・エコノミーが新たなビジネス・チャンスなのか、単なる底辺への競争をあおるだけなのか、もちろん、シェアリング・エコノミーで大くくりにした一般論はムリでしょうが、直感的には Uber のように、後者である可能性が高いものも少なくないような気がします。こういった方向に対して、本書では p.324 からベーシック・インカムの議論を展開しています。シェアリング・エコノミーを論じる中で、非常に興味深い論点です。この点に着目した書評は多くないような気がしますが、シェアリング・エコノミーのひとつの弱点克服のための手段になりそうな気もします。最後に、この著書で取り上げられているシェアリング・エコノミーのビジネスについては、私が詳細を知らないものもあったりするんですが、少なくとも、Uber や AirBnB については明確な仲介者、というか、プラットフォームの提供者が存在しますが、現時点のこれらのビジネスは、ビジネスとしては中間段階の形態ではなかろうかと私は想像しています。というのは、おそらく、こういった仲介者の存在すらなくなって、ダイレクトに需要者と供給者がインターネットで結びつくのが第2段階の、というか、本来のシェアリング・エコノミーではなかろうか、とホンワカと想像しています。当たるかどうかは不明です。

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次に、デヴィッド・グレーバー『負債論』(以文社) です。著者はニューヨーク生まれの文化人類学者であり、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス大学人類学教授を務めています。同時に、反グローバリズム運動のアクティヴィストでもあるようです。ウォール街占拠運動に参加し、日本にも洞爺湖サミットに反対する運動に参加するために来日した経験があるようなことが訳者のあとがきに書いてありました。英語の原題は表紙画像に見える通り、DEBT であり、2011年の出版ですが増補改訂版が2014年に出されており、翻訳書はそれを底本にしているようです。なお、明示的ではないんですが、2部構成となっており、第8章がどちらかはビミューなんですが、第9章からが第2部になっています。第8章は第1部というよりは第2部なんでしょうが、ブリッジでつなぐ役割のような気もします。訳者あとがきでは、第8章からを後半と位置付けています。ということで、私なりに勝手に分割した第1部は貨幣の歴史を軽く考察し、実際には物々交換の時代は存在せずに、経済学者の頭の中だけにあると論じつつ、貨幣の起源を債務、というか、債務証券とそれに対する裏書による流通、との認識を示しています。でも主要には、哲学ないしモラルの観点から債務を考えます。というのは、債務は返済すべきであるというモラルがある一方で、返済できなければ、「債務奴隷」という言葉がありますが、文字通りに、逮捕・収監されたり、その昔は奴隷の身分に落とされたりしたわけなんですが、債務を返済するというモラルと奴隷制を認めるというモラルに関して、どちらがより強烈にモラルに反しているかという観点から論を進めています。著者の専門分野である文化人類学の観点から、アフリカや資本主義経済ではなかろうという段階の社会における婚礼や犯罪の際の社会的な支払ないし債務と債権の関係を解き明かそうと試みています。私にはどこまでが成功しているかは判断しがたいんですが、興味あるところです。第2部は副題の通りに債務の歴史をひも解いています。ただ、5000年というのはやや誇張があり、紀元前800年から紀元後600年の枢軸時代から始まっています。その次の中世までは、まあ、第1部の続きで軽く読み飛ばしてしまいました。本書の読ませどころは何と言っても第11章の大資本主義の時代と題された章とそれに続く現代までの時代、すなわち、米国発のニクソン・ショックにより貨幣が純粋にフィアット・マネーとなった時代の第12章といえます。新大陸からの貴金属の流入が欧州の価格革命を引き起こしたものの、その9割以上は中国に流れ、産業革命をもってしても欧州は中国に売るものがなく、アヘンを輸出する始末だったことが明らかにされます。その中で、イングランド銀行が中央銀行としての活動を始めますし、大航海時代の金融的基礎が整えられ、金本位制からその放棄に至り、ここ数十年は貴金属の裏付けのない純粋なフィアット・マネーの時代となります。しかし、著者からの具体的な提案はほとんどなく、p.577に示された債務放棄くらいなんですが、訳者あとがきではウォール街占拠運動の要求のなさとリンクさせていたりします。賃労働と奴隷制の類似点については私も理解できなくもないんですが、債権債務の関係をはじめとする格差問題については、著者のように債権債務に限って放棄を促すやり方もある一方で、政府による再分配政策やマルクス主義的な革命路線など、いくつかあるように感じないでもなく、著者的な債権放棄については、時の流れとともに同じことが繰り返される可能性が高いことから、どこまで有効なのかは疑問が残ります。また、歴史を振り返るスコープとしても、債権債務の関係を生じた商業のほかに、産業革命から勃興した製造工業をここまでスコープの外に置くのも疑問です。本書のメインテーマである貨幣と債務に関しては、面白い視点かと思わないでもありませんが、やや私の興味とはすれ違った気がします。

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まず、芝田文男『「格差」から考える社会政策』(ミネルヴァ書房) です。著者は厚生省から中央省庁再編で厚生労働省を経て、京都産業大学の研究者に転じています。本書はタイトルとはかなり違って、大学学部初級レベルの社会政策論の、特に、制度論を取りまとめています。格差論を正面から論じているわけではなく、制度論を展開する中で格差の解消にも役立つ制度である、などの解説を付け加えているだけです。その意味では、看板に偽りありで、私にはかなり物足りないレベルであったことは確かです。ミネルヴァですから、京都にある大学の先生が教科書で売れると判断したのかもしれません。読書感想文として取り上げておきたい論題は、第12章のベーシック・インカムに関する議論です。この章の冒頭には「従来の社会保障・雇用政策のアンチテーゼの性格を持つ」と明記し、厚生省・厚生労働省ご出身の著者からすれば、かなり明確に敵意をむき出しにしつつも、賛成論と反対論をいかにも役人らしくバランスよく並べています。月額7-8万円のベーシック・インカムの場合、4ネットで0-56兆円くらいの財源が必要との試算を示した一方で、年額70兆円近い年金がゴソッと廃止できるとも付け加えています。ひょっとしたら、年金関係の公務員も減らすことが出来そうな気がします。それにしても、消費税率を8%に引き上げる際に、低所得層対策として簡素な給付制度の導入や、かなりベーシック・インカムに近い負の所得税などの検討が始まるんではないかと私は期待していたんですが、公明党が軽減税率にこだわって議論を歪めたのが、返す返すも残念です。軽減税率では、むしろ、高所得層が税額の点で多額の利益を得ますし、低所得層対策というよりも、むしろ、ひょっとしたら公明党支持層なのかもしれませんが、小規模な食料品店などのパパママ・ストアに対する補助金のような役割を期待されているんではないかと私は考えています。高齢者に偏った社会保障制度の打破のためにも、年金を廃止してベーシック・インカムを導入する方向の議論が始まらないものかと、今でも私は期待を込めていたりします。まあ、かなり長い議論になることは明らかなんですが、現行の年金制度が破たんする前に、年金を年金として制度的な継ぎ接ぎの制度論で終わらせるんではなく、高齢者だけでない国民全体の福祉の向上のためにベーシック・インカムの議論を始めるべき時期に差しかかっている気がします。

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次に、ロレッタ・ナポリオーニ『人質の経済学』(文藝春秋) です。著者はイタリア人であり、マネーロンダリングとテロ組織のファイナンスに関する研究の第一人者と紹介されていますが、所属のアフィリエートは示されていません。もう60歳を超えていますので、すでにリタイアしているのかもしれません。また、本書は研究者の学術書というよりは、ジャーナリストが取材したり、公開ドキュメントを当たったりして、ファクトを集めたものではなかろうかという気がしています。少なくとも私が読んだ直観的な受け止めはそうです。そして、イタリア人ながら、本書の英語の原題は Merchants of Men であり、2016年の出版です。なお、タイトルから明らかな通り、人質ビジネスは本書の一部を代表しているに過ぎません。すなわち、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)を主たる取材源とし、人質ビジネス、おそらく「経済学」よりは「ビジネス」に近い印象ですが、その人質ビジネスに始まって、海賊行為とその投資者の解明、密入国の斡旋、るいは、難民ビジネスなどを対象に幅広く取材しています。もっとも、第7章と第14章で誘拐交渉人やシリア人難民のモノローグが登場しますが、その内容については著者を信用するしかなく、どこまで真実性が担保されているかどうかは、読者の中には疑問に感じる向きがある可能性は残されていると私は感じました。そして何より、こういった七時地ビジネスや海賊行為、あるいは、密入国斡旋や難民ビジネスなどは、それなりにリスクが高く、したがって当然に、リターンも大きいビジネスであり、それはイスラム教の教義やましてやジハードと呼ばれる聖戦とは何の関係もない、という事実を私なりに感じ取りました。そして、かなり似た意味で、無名のジャーナリストがスクープ欲しさに紛争地帯に入って七時地になったり、あるいは、その果てに殺害されたりしている事実を見て、ある意味で、そういったジャーナリストは、もちろん、被害者であるものの、持ちつ持たれつの間柄と捉える向きもありそうで怖い気がします。

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次に、榊原英資『日本国債が暴落する日は来るのか?』(ビジネス社) です。著者は著名なエコノミストであり、当時の大蔵省の財務官経験者でもあります。本書はかなり平明な語り口で、タイトルから理解できる通り、主として日本の財政のサステイナビリティについて、財政にとどまらずに金融政策、現在の黒田総裁の下での異次元緩和や社会保障政策による財政赤字拡大などを論じています。基本的には大蔵官僚らしく財政赤字を忌避する志向が鮮明ですが、必ずしもそういった限界を感じさせず、基本的な経済学の役割も十分に読者に理解させようとする著者の方向性には賛同したいと思います。そして、タイトルの問いに対して、著者はあと10-11年と回答しています。もちろん、国債価格の暴落、逆から見れば、金利の暴騰を防止するためには、社会保障をはじめとして、歳出のカットは容易ならざるものがあるとし、消費税を20%まで引き上げることが必要との立場を明らかにしています。しかしながら、その根拠はそれほど明らかではなかったりします。財政を議論の基本として、財政に関しては縦軸方向に歴史をさかのぼって、戦前の高橋財政による国際の日銀引き受けまでスコープを広げたり、また、現時点の経済政策という点では財政にとどまらずに日銀の金融政策まで視野を広げて、著者としてはインフレ目標2%はやや高すぎることから、1%くらいでもいいんではないかと論じていたりします。でも、購買力平価に従えば、円高が進む結果になるんですが、それはお忘れになっているような気がしてなりません。また、財政について世界的な例を引くにしても、せいぜいが1980年代のラテンアメリカ諸国や直近のギリシアなものですから、ホントに日本もそうなるのか、という直観的な疑問は残ります。論証なしで、国内貯蓄を直近までの傾向線で国債累増を考えるというのも簡便法に過ぎるきらいがあると考える読者もいそうです。いずれにせよ、それほど学術的に深い議論を展開しているわけではないので、定量的なエビデンスも示されていませんし、著者の直観的な感覚を知るという意味での読書になろうかという気がします。すぐ読み切れるだけに、それほどためにもならない、といったところでしょうか。むしろ、高校生向け?

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次に、宮内悠介『カブールの園』(文藝春秋) と『月と太陽の盤』(光文社) です。著者は若手のSF作家、ミステリ作家で、私は大いに注目しています。我が家で購読している朝日新聞の1月29日付けの書評で2冊いっしょに取り上げられていたので図書館に予約を入れたところ、何と、2冊いっしょに借りられましたので、私も2冊いっしょに読書感想文を書いておきたいと思います。ということで、まず、『カブールの園』は短編集、というか、中編2編を収録しています。表題作の「カブールの園」と「半地下」です。いずれもややSFがかった純文学のジャンルではないかと私は考えています。表題作は、米国西海岸を舞台に友人たちとシステム開発の起業をした米国在住の日系女性を主人公に、米国の日系移民の歴史と悲劇に焦点を当てています。主人公より年長の世代は、日米どちらの社会と言語に帰属するのかの選択を突き付けられ大きな問題を抱えた歴史に対して、主人公が作った国籍も人種も超える可能性があるプログラムを対比させ、アイデンティティとしての人種の日本人とか言語の日本語に関し、大きな問いを発しています。同時に母娘関係も複雑な様相を見せています。タイトルは、主人公が小学生のころにいじめられていたトラウマの治療をしているバーチャル・ルアルティ(VR)の名前で、これがややSF的な要素を持っているような気がします。もうひとつ、誇張した日本人を演じるプロレスラーの姉と暮らす主人公を描く「半地下」も、東海岸はニューヨークを舞台に、同じ日本人としてのアイデンティティの問題、また、英語の日本語の言語の問題などを掘り下げています。ただ、主人公は姉の死後に日本に帰国します。そこで、さらに言語の問題がクローズアップされます。小説ですからノンフィクションとは違いますが、移民を含む多民族国家の米国の実態が垣間見える気がします。次に、『月と太陽の盤』は基本的に短編ミステリ集で、2012年から2015年にかけて、「ジャーロ」と「ランティエ」に連載されていた作品を単行本にしています。6つの短編に共通していて、主人公の探偵は碁盤師の吉井利仙なんですが、ワトソン役が若い16歳の棋士である愼です。愼の姓は不明です。そして、主要な登場人物がもう2人いて、碁盤の贋作師である安斎優と愼の2歳上の棋士の姉弟子の衣川蛍衣です。収録されている短編は「青葉の盤」、「焔の盤」、「花急ぐ榧」、「月と太陽の盤」、「深草少将」、「サンチャゴの浜辺」の6編です。私は最初の短編「青葉の盤」については、何かのアンソロジーで読んだ記憶があります。でも、結末はすっかり忘れていましたので、私くらいの記憶力になると何度もミステリが楽しめることを実感させられてしまいました。収録された作品の中では、ページ数では表題作の「月と太陽の盤」がもっとも長くて中編くらいのほかは完全な短編です。繰り返しになりますが、碁盤師の吉井利仙が探偵役で謎解きをする連作ミステリです。サザエさん方式ではなく、着実に時間が流れて登場人物が年齢を重ねて行きます。殺人事件があるのは表題作だけなんですが、基本的に、ミステリの謎解きはそれほど本格的ではありません。「深草少将」なんぞは深草の少将と小野小町の物語の謎解きですから、謎の解決というよりは解釈に近く、ひとつの意見というカンジではないかと思います。「あとは、盤面に線を引くだけです。」というのが決めゼリフとして各短編の解決が示される直前に出て来ます。まあ、ミステリですからネタバレも避けたいですし、詳細は割愛します。

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次に、ロジーナ・ハリソン『わたしはこうして執事になった』(白水社) です。同じ作者が出している前作『おだまり、ローズ』については私も読んでいて、2015年1月3日付けの読書感想文のブログで取り上げています。アスター子爵夫人お仕えするメイドさんが作者であり、とても型破りな貴婦人に仕えた型破りなメイドの実話であり、古き良き時代の栄子の上流階級の活動を知る上で、とてもユーモアとウィットにとんだ文章でした。この作品は、やっぱり、お屋敷勤めの奉公人なんですが、男性、特に執事に目を転じています。同じアスター子爵家にお仕えした男性5人に作者が取材し、そのインタビュー結果を取りまとめています。Gentlemen's Gentlemen ですから、「紳士付きの紳士」ということなのでしょう。1976年の出版です。ノンフィクションなのか、あくまで小説なのか、境界はビミョーなところですが、前作と同じように19世紀から20世紀前半くらいまでの英国上流階級やそれを支えた使用人の実態を知ることが出来ます。しかも、今度は男性の視点からです。2番めに登場するアスター子爵家の執事エドウィン・リーは本書でもクリヴデンのリー卿との別名が出ますが、『日の名残り』の主人公のモデルではないかと聞いたことがあります。ホントかどうかは私は知りません。ニューヨークの英国大使館執事として有名なチャールズ・ディーンは英米2国を股にかけた執事ですし、いろいろとアスター子爵家にまつわる名の知れた執事が登場します。私は南米はチリの大使館勤務の経験がありますから、それなりの旧体制のような階層社会は認識があります。まず、我が国では見かけないような社交雑誌があります。Cosas という月刊誌で、実は、私も彼の地の上院議員といっしょに、どこかのパーティーに出席した時の写真が掲載されています。25年ほど前に発行された雑誌ですが、まだ、我が家のどこかに保存してあると思います。メイドはもちろん、執事も大使公邸にはいました。私も大使公邸でのレセプションや大規模なパーティーを采配したことがありますが、現地人スタッフはクロークかかりなどのチップを貰う役割をとても卑しんで嫌がった記憶があります。本書では、お屋敷奉公人の当然の権利としてチップの稼ぎも出てきますから、そのあたりの受け取り方の違いは時を隔てて変化したのか、距離や民族を隔ててアングロ・サクソン人とラテン人では違うのか、そのあたりはよく判りませんが、やや私には理解できないところです。最後に、本書でも王族の接待が投稿しますが、私の勤務地にも皇族がご訪問されたことがあります。本書ではどこかの貴族の旅行がスーツケース99個、とあり、流石にそこまでの量ではありませんでしたが、私のような簡便な観光や出張旅行と比べれば格段に多かったのを記憶しています。記念に焼き物の三段重ねの盃をいただきました。これも、我が家のどこかにあるような気がします。

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最後に、海老原嗣生『お祈りメール来た、日本死ね』(文春新書) です。著者は雇用や労働などのHRに関するコンサルタントであり、私はメディアなどでも見たことがありません。本書は話題になっていたので借りたものの、タイトル的に見て期待はしていなかったんですが、いい意味で期待はずれ、というか、日本的な雇用にも海外、特にフランスの雇用にも、ちゃんとした見識のある良書でした。特に、第5章で卒業後に新卒として採用することのムリ、職種と職務の違いに無理解なまま職種別採用を提唱するムリ、日本的なこと雇用慣行の全否定などにつき、キチンとした見方が示されていると思います。雇用や労働については、社会的な制度・慣行であるとともに、経済学的にある程度の制約条件を課した上での最適化行動と考えるべきです。ただし、雇用が人生の大部分の超長期に渡ってしまうことから、市場のスコープが行き届かずシジョウノシッパイが生じやすい分野とも言えます。私自身が就活をしたのは30年超の大昔であって、その当時は「就活」という言葉すらありませんでしたし、現在のように非正規雇用が広がっておらず、しかも、はばかりながら30年超の大昔に京都大学の経済学部を卒業していれば、就職にはほぼほぼ無敵でしたから、特段の思い出もありません。しかし、数年前にわずか2年間とはいえ、長崎大学経済学部の出向し、しかもその際に、リーマン・ショックというウルトラ級の経済ショックがあり、大学生の雇用の大きく悪化したのを目の当たりに見て、それなりの経験も積んだと自負しています。ですから、本書でも最終章で問うているように、就活を4年生の遅くに持って来れば、ホントに学生は勉強するのだろうか、教員は勉強させるのだろうか、という疑問はもっともです。逆から見て、終活が勉学の妨げになっていない現在の大学教育が問題であろうという気もします。いずれにせよ、タイトルが悪いので敬遠している人には、オススメです。もう少しタイトルを考えるべき新書だという気がします。
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2017年01月28日 (土) 14:49:00

今週の読書はかなりがんばって9冊!

今週の読書は経済書に教養書や専門書など合わせて9冊です。それほどでもない気もしますが、1冊1冊がかなり難しくて分厚かったので、強烈に大量に読んだ気になりました。来週もそれ相応にありそうな予感です。

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まず、鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』(東洋経済) です。副題が「あいりん改革 3年8か月の全記録」となっており、大阪のあいりん地区の改革の記録となっています。「改革の記録」ですから、ある程度は、上から目線の自慢話であることは覚悟すべきですが、読む前に覚悟したほどひどくはなかったと思います。でも、所轄の警察署に対して府知事から府警本部長を通じたルートで協力を迫るなど、かなり露骨な自慢話も散見されることは確かです。ただ、上から目線も自慢話もひどくはありませんので、その点は評価しています。もっとも、私の読み方が浅くて不足しているのか、何がポイントなのかは不明でした。おそらく、マイクロな経済学の応用分野なんだろうと思いますが、やり方としては小泉内閣のころの経済財政諮問会議を運営した竹中大臣の手法を自慢げにまねているようです。役所や抵抗勢力を恣意的に設定し、ムリなくらいのビーンボールを投げて、落としどころに落とすという手法です。そのなかで、最終章や本書の結論部分がまちづくり会議の運営と改革の方針決定で終っているのも理解不能です。とても意地悪な見方をすれば、要するに、あいりん地区の改革案について会議を開催して、直接民主主義的に作文した、というのが成果というわけではないのだろうと思いますが、私の読解力が不足しています。薬物取引の取締りや不法投棄ごみの削減などの成果が冒頭に出て来ますが、それと改革方針の作文との関係も私は読み取れませんでした。誠にお恥ずかしい限りです。私の直感として、極めて単純なマクロ経済学的にいえば、途上国の経済開発・発展は、すべてではないとしても、ルイス的な2部門モデルに基づき資本蓄積を進めて生存部門から資本家部門に労働移動を進めつつ、資本家部門での生産性を向上させるため労働の質の向上のために教育や職業訓練を行う、という一方で、本書の対象とするような先進国での貧困政策は再分配が大きな役割を果たします。本書でも住宅局だったかどこだったかで、「100億200億持って来なはれ」との断りだった、という部分があったように記憶していますが、ある意味では正当です。加えて、一般的な貧困対策と異なり、あいりん地区改革などの場合は、いわゆるルンペン・プロレタリアートと称される反社会的な組織、ハッキリいえば暴力団などへの対応が全記録たる本書から抜け落ちているのはやや気がかりです。さらに、私の直感ですから、どこまで正しいかは必ずしも自信がないんですが、マイクロにインセンティブを設計しつつ貧困対策を進めるのは、場合によっては合成の誤謬を生じる場合もあります。本書でも、役所の役人を動かすためのインセンティブを分析し、縦割り行政についてはコラムで取引費用から説明を試みたりしていますが、著者や著者とともにあいりん地区改革に取り組んだ、本書でいうところの「7人の侍」のインセンティブ分析はスルーしているのも、私には少し違和感を持って受け止めました。この「7人の侍」のインセンティブを役人と同様に分析し、さらに、コラムで現状維持バイアスについて解説すれば、本書の評価はさらに高まりそうな気がします。でも、このままでも十分に貴重な記録だと私は受け止めています。

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次に、ピーター・レイシー/ヤコブ・ルトクヴィスト『サーキュラー・エコノミー』(日本経済新聞出版社) です。著者も訳者もアクセンチュアというコンサルタント会社に勤務しているようです。英語の原題はそのままであり、直訳すれば「循環型経済」ということになりそうな気がします。その趣旨は、家電や自動車のような耐久消費財が典型なんでしょうが、今までのように、短いサイクルで製品をグレードアップさせて買い替え需要を生み出そうとするんではなく、日本的な表現なら「静脈系」までを視野に入れて製品作りを行い、廃棄物を最小化させようとする生産活動や経済活動のことを指しているんだろうと理解しています。例えば、「耐久性が高く、モジュール化され、再生産が容易な製品」(p.256)といった視点です。そして、その発想の基をなしているのは、どうも、ローマ・クラブ流の「限りある資源」とか、マルサス的な経済学ということのようなんですが、逆から見て、そういった循環型社会に適した製品やサービスの方が、地球環境保護や何やといった関心を高めた消費者から支持されており、需要が見込めるという事情もあるような気がします。また、シェアリング・エコノミーとの親和性も悪くなく、例えば、その昔はステータス・シンボルの意味もあった自動車の稼働率は決してよくないことから、本書でも、消費者はドリルが欲しいのではなく、穴を開けたいのである、と表現しています。ただし、本書ではシェアリング・エコノミーによって収入が不安定デメリットの少ないワーキング・プアが生み出されるという指摘は正当である、としており、主としてウーバーの運転手側の利用者をタクシー運転手になぞらえているような気がしますが、それなりに正確な見方をしているように私は受け止めています。そして、もっとも私が評価するのは、著者が本書で指摘している循環型経済を実現するために重視する政策手段として、第12章で課税対象を労働から資源に転換することを上げています。ここはいかにもローマ・クラブ的という気もしますが、明記しておらず、著者自身も認識していない可能性が高いものの、現在の市場経済における資源へのプライシング(価格付け)が循環型経済やサステイナビリティの観点から「市場の失敗」を生じていることを直観的に理解しているんだろうという気がします。それを税制によって相対価格を変化させて、循環型経済やサステイナブルな方向に持って行こうという発想なんだろうと、多くではないにしても、一部のエコノミストは理解するだろうと私は考えます。こういった本書のエッセンスのほかは、いかにもコンサルタント会社らしく、延々と海外企業や政府の循環型経済実践例が並んでいます。それはそれで悪くないのかもしれません。

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次に、猪木武徳『自由の条件』(ミネルヴァ書房) です。著者は大阪大学の名誉教授であり、やや古い時代を代表するエコノミストです。出版社の月刊誌に連載されていたコラムを単行本にして出版されています。副題に見える通り、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を中心に、民主制化の自由と平等を論じています。ただ、本書のタイトルの自由論について、J.S.ミル張りの議論を期待すると少し違和感あるかもしれません。そうではなく、本書の最初の方では民主制下の公共善を成す基礎的な条件をトクヴィルの著書を借りて米国に探りつつ、後ろの方では少し論点を変更して、逆に、民主制が学問・文化や尚武の精神にどのような影響を及ぼすか、という反対のルートについて論じています。ただ、この逆ルートについては著者は特に意識していないようにも見受けられます。いくつかの議論はあると思いますが、米国における民主制を補完する制度的な要件としてトクヴィルが上げている地方自治、結社、裁判の陪審制については、私は専門外ながら興味ある観点と受け止めました。また、メディアの役割も極めて常識的というか、ある意味ではありきたりの議論ながら、当然の筋道といえます。もっとも、英国や我が国では全国紙と地方紙が併存している一方で、米国にはほとんど全国紙は存在せず、ラジオやテレビの時代になって初めて全国レベルのメディアが誕生した点はもう少し議論されて然るべきかという気もします。また、トクヴィルにとって米国がかなり宗教的であったのが意外感を持って紹介されていますが、米州大陸は、主として中南米を念頭に置けば、カトリックにとっては宣教師による布教先であり、しゅごちて米国を念頭に置けば、清教徒にとっては本国における宗教的迫害からの避難先であったわけですから、欧州よりも宗教的な色彩が強いのは当然です。商業の拡大による国民性の違いに及ぼす影響もさることながら、製造業の発展によるマルクス的な規律が強化された国民性の進化、なども本書の視野に収めて欲しかった気がします。また、米国における学問の発展に寄与したのは英語という英国の下でかなりの程度に世界の共通語になった言語的な素地も見逃すべきではありません。そのあたりは、どうも行き届いていない印象があります。最後に、月刊誌の連載を単行本化したので致し方ない面もありますが、文章が荒っぽくて理解が進みにくくなっているような気がします。民主制とデモクラシーは使い分けているのか、それとも同義の言い換えなのか、ほかにも、月刊誌で月ごとに読んでいるのであればともかく、単行本にするに際しては編集者がもう少しキチンと修正すべきではないかという気もします。誤植も散見されます。「陸相」はその昔の陸軍大臣であって、自衛隊の階級は「陸将・陸将補」であろうと思います。

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次に、町田祐一『近代都市の下層社会』(法政大学出版局) です。著者は日大教員であり、歴史の研究者です。この著者の著書については『近代日本の就職難物語』を昨年2016年8月7日付けの読書感想文で取り上げています。本書もやや似通った分野であり、タイトルとは違って、あとがきのp.279にあるように、近代東京の職業紹介事業について取りまとめた学術書です。チャプターごとに基になる既発表論文が明らかにされています。ということで、口入れ業から始まって、浄土真宗や救世軍あるいはYMCAなどの宗教団体による職業紹介、そして、最後に、欧米を手本とした公的機関による職業紹介まで、明治末期から大正期にかけての近代東京における職業紹介の概要につき、各事業の成立と展開、国や自治体の政策などを体系的に検討し学術的に分析しています。ただ、現代のハローワークでもそうですが、こういった職業紹介事業では必ずしもステータスの高い職業が紹介されるとは限りません。本書が対象としている時代では、事務員や官吏などの紹介ではなく、人夫や女中の紹介などが中心を占めています。ですから、本書のタイトルのように、職業を紹介される前は下層社会を形成していたと考えるのもムリないところかもしれません。もともと、口入れ業と呼ぶのであればともかく、手配師と言えばほぼヤクザの世界ですし、本書の冒頭でも、ほぼ詐欺そのものといった桂庵=口入れ屋の実態が明らかにされています。ですから、かなり貧民対策に近い形で職業紹介が公的部門でなされたように考えられ、おそらく同時に職業訓練も提供されているような気がしますが、本書では職業訓練についてはスコープに入っていません。また、本書で少し残念に思うのは、経済社会の時代背景がまったく無視されていることです。短期的な景気循環に伴う労働需要の変動とともに、中長期的な経済発展に伴う需要される労働の質の高度化、それと同時並行的に進む教育制度の発達などの職業紹介の背景をなすような情報と切り離して職業紹介だけが単独で歴史的に跡付けて分析されていますので、読み物としては、すなわち、知らない時代の知らない事業ですから、新たな情報を得るための読み物としては、まずまずなのかもしれませんが、もっと職業紹介事業について広がりを持った政策論を展開するにはやや物足りない気もします。

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次に、ノミ・プリンス『大統領を操るバンカーたち』上下(早川書房) です。私が見た限りなんですが、今週日曜日の日経新聞で書評に取り上げられていました。著者は銀行勤務の経験もあるジャーナリストで、英語の原題は All the President's Bankers であり、2014年の出版です。タイトルから理解できる通り、ここ100年くらいを時間的視野に収めて米国大統領と米国の銀行・銀行家との関係を解き明かそうと試みています。巨大な金融機関の破綻はシステミック・リスクを引き起こしかねませんから、世界のほぼすべての国で銀行は強い規制を受ける産業であり、逆に、銀行は規制緩和によってより自由な経済活動を求める傾向があります。本書の上巻は第2次世界対戦くらいまでの期間を、下巻は戦後を対象としており、上巻の読ませどころは1929年からの世界恐慌なんですが、やはり、本格的に銀行業界が政治家を取り込み始めるのは戦後であり、下巻の展開がとても面白かったです。ケネディ大統領は銀行活動よりも国際収支の赤字によるドル流出に懸念を持ち、銀行業界との関係は必ずしも良好ではなかったとされており、暗殺との関係が記述ないものの、ニクソン大統領のドル兌換停止などの強い規制的な措置も銀行には評価されず、いずれもその後任者の銀行からの評価と比較対照されています。また、いわゆる米国の政府とビジネス界の「回転ドア」についても、政府と銀行の関係の深さを中心に取り上げられています。ジャーナリストの手になる本書ですから、どうしても人脈的な分析が中心になり、かつては、J.P.モルガンに代表されるような大金持ちの名望家層にほぼ独占されていた銀行経営者が、今ではそのような家系を必要としなくなった一方で、ストック・オプションをはじめとして従来では考えられないような高額の報酬を手にするようになった経緯なども明らかにされています。ただし、いくつか物足りない点もあり、いわゆる転換点における逆転の原因については、かなり原因は明白ではあるんですが、それだけに、もう少し丁寧に情報を収集して欲しかった気がします。第1に、英国と米国の逆転です。第1次大戦後に経済力の逆転があったのが背景になっていて、原因は明らかなんですが、英国側の情報も欲しい気がします。第2に、米国内の商業銀行と投資銀行の逆転です。本書にもある通り、ここ20年くらいはゴールドマン・サックスの天下となっており、かつてのモルガンなどの商業銀行から投資銀行に銀行業務の中心が移っていることは明らかです。本書でも明らかにされているレギュレーションQによる銀行預金金利の規制があった一方で、株式市場の発達とともに、日本的な用語で言えば「貯蓄から投資へ」米国家計の行動がシフトする中で、株式や債券への投資が厚みを増し、また、同時に当たらな資金調達手法のイノベーションもあって、銀行業務が商業銀行から投資銀行に移行しつつあるわけですが、すでに廃止されたとはいえ、グラス・スティーガル法の下で分離されていた商業銀行と投資銀行の思考や行動の様式の違いなどについても情報が欲しい気がします。

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次に、アダム・ロジャース『酒の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、ワイアード誌の科学部門の編集者です。英語の原題は Proof: The Science of Booze であり、2014年に出版されています。酵母や糖をタイトルとする章から始まり、人類がまだ地上に現れる前から酵母が糖を分解して酒を造っていた点を強調するとともに、そのアルコール分を蒸留して別の酒にするのはごく最近の人類の発明であるとしています。その後、樽に詰めて熟成させブラウン・リカーを作り出し、香味をつけ、酒を飲んだ人間の体と脳がどうなるかを論じ、最後は二日酔いで締めくくっています。実は、個人的な生活の範囲ながら、私は職場の歓送迎会や忘年会などを別にすれば、家庭外で酒を飲むことはほとんどしません。ここ10年以上はないような気がします。また、家庭内でもほとんど酒は飲まなかったんですが、数年前に地方大学で教員をした際に飲むようになってしまいました。1年生から4年生まで少人数のゼミナールをそれぞれ担当していたところ、1年生向けの「教養セミナー」と称する授業だけがどうにも苦手で、昼食時に当時の経済学部長も同じだと言っていましたが、その教養セミナーの授業があった日はビールを飲むようになってしまいました。明らかにストレス解消を目的としていました。そして、東京に戻ってから、ここ3-4年で夏の間にナイターを見ながら缶ビールを飲む習慣がついてしまいました。まあ、専業主婦と学生の子供2人を養うに足るお給料を働いて稼いでいるんですから、ナイターをテレビ観戦して、ひいきの野球チームを応援しながら、350㎖か500㎖の缶ビールを飲んでいます。そして、この正月にも飲むようになってしまいました。このまめ酒を飲む機会が増え続ければアル中になってしまうかもしれないと危機感を持って本書を読み始めた次第です。でも、酒については科学的にも社会的にもまだまだ解明されていない点がたくさん残されており、ワインのテイスティングがいかに根拠ないものか、二日酔いに関する科学的な解明がまったくなされていない現状、などなど、それなりに勉強になりましたが、本書をちゃんと読みこなすには化学や生物学に関するそれなりの知識も必要かもしれません。次の『カフェインの真実』とは異なり、酒を否定したり批判したりする内容ではありません。むしろ、酒をそれなりに肯定的に評価する本だと受け止めています。

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次に、マリー・カーペンター『カフェインの真実』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストであり、アストロズのホームグラウンドが近いそうですから、」ヒューストン在住ではなかろうかと想像しています。英語の原題は CAFFEINATED であり、2014年に出版されています。タイトルから容易に想像される通り、カフェイン摂取に関してかなり批判的な内容となっています。まあ、いずれにせよ、「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉がありますが、カフェインにせよ、先ほどのお酒=アルコールにせよ、もちろん、塩や砂糖に至るまで、個人差があるとはいえ、ほどほどに取る分にはいいんでしょうが、摂取し過ぎると害をなすわけですし、おそらく、食べ物や飲み物については米国では摂取過多となっている場合が多いんではないかという気がします。特に、役所のオフィスでも、若い研究者が厳しい残業の後にエネジー・ドリンクのカンやビンが転がっていることもありますし、必要な時は必要だという気がするものの、依存し過ぎるのもよくないのは明らかです。本書でも戦時の米国の兵隊さんがコーヒーを大量に飲用してカフェインを摂取していた事実が跡付けられていますが、日本はもっとひどくて、戦時中から戦後の一時期まで覚醒剤を推奨していたかのごときノンフィクションも私は読んだことがあります。例えば、すべてではないにしても、特攻隊で死にに行く若い飛行兵に覚醒剤まがいの薬物を与えたり、銃後ですら現在のブラック企業も真っ青の軍需工場などで工員さんに眠気を克服するような薬物を与えて作業させていたような調査結果も見たりしたことがあります。戦後でも、「ヒロポン」と称された覚醒剤のような薬物が広く出回っていたとの記録もあるやに聞き及んでいます。フィクションですが、『オリンピックの身代金』なんかはそういった過酷な作業現場を舞台にしていたりするんではないでしょうか。というような脱線はここまでにして本書に戻ると、カフェイン含有飲料で大儲けする食品飲料会社と、それを規制しようとする政府当局の攻防戦も取り上げられていますが、少なくとも、肥満をはじめとする米国の保健・健康問題や医療問題、あるいは、食品問題に関しては、カフェインに矮小化することなく、さりながら、カフェインも忘れることなく、バランスを取った総合的なケアを必要としている気がします。もうひとつは、特許や知財関係の問題なのかもしれませんが、これだけ乱立しながらも、カフェイン含有飲料でここまで大儲けできる経済とは何なのか、が気にかかります。砂糖の摂取方なども含めて、消費者の意識が低いということなんでしょうか。それともうひとつは、日本でもノンアルコール・ビールが売れ始めているようですが、米国でもカフェイン抜きのいわゆるデカフェが国際会議などで出されるようになっています。タバコはもはや「悪役」として立派な地位を占めているようですし、これでカフェインが槍玉に上げられるとすれば、次は何なんでしょうか。私は食品行政などはトンと知りませんが、やや気にかかる点だったりします。

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最後に、マーチン・ボジョワルド『繰り返される宇宙』(白揚社) です。自然科学に関する白揚社の刊行物を今週は3冊も読みましたが、その締めくくりです。物理学、特に宇宙論については、生物学の進化論とともに経済学との親和性が高いと私は勝手に見なしているんですが、その宇宙論を展開しており、特に量子力学のひとつであるループ量子力学理論に基づく宇宙論を論じています。この理論を使うと何かいいところがあるのかといえば、ビッグバンやブラックホールなどの宇宙論における特異点を使うことなく、整合的に宇宙論が展開できる点にあります。とても昔の2010年3月23日付けの読書感想文で、モファット教授の『重力の再発見』を取り上げていますが、『重力の再発見』ではダークマターやダークエネルギーの存在が不要になり、同時に、本書と同じように特異点の仮定も不要となると記憶しています。経済学と物理学の親和性というか、勝手にエコノミストの方から親近感を持っているだけなんでしょうが、やっぱり、現実に即しながらもやや簡略化したモデルを用いて、モデルも含めて数学を多用した解法を用い、そして何よりも情報の生成される過程を決定論的ではなく確率論的に考えるという点で、一定の共通点はあるような気もします。他方で、物理学に特段の知識のない私のようなシロートにとっては、ビッグバンやブラックホールなどの特異点とか、ダークマターやダークエネルギーの方が惑星の重量よりも1-2桁多い、とか言われてしまうと、何やら理解不能なだけに、関西弁で言うところの「気色悪い」気がしてしまいます。そういった仮定を置かなくても宇宙を理解できるのであれば、その方が望ましいような気もしますし、他方、私も何度かこのブログで歴史観を披露していますが、歴史とはかなり一方的に進歩し、それを食い止めようとするのが保守で、さらに逆戻りさせようとするのが反動と呼ばれ、歴史の進歩はある程度は確率論的に微分法的式に乗りつつも、完全に微分方程式に従うのであれば、初期値さえ決まってしまえばアカシック・レコードやラプラスの悪魔のように、未来永劫までも決定されかねないので、歴史の流れに中には微分不可能で何らかのシフトとかジャンプと呼ばれる特異点のようなものがある、と考えています。その意味で特異点も私自身は容認しています。でも、時間の流れである歴史観と空間的な把握である宇宙論は、物理学的には同一で、例えば、ブラックホールでは時間と空間が入れ替わると言われており、また、私のようなシロートは、ビッグバンは時間の中の特異点で、ブラックホールは空間における特異点と考えていましたが、実は、本書を読めば、どちらも時間軸における特異点であることが理解できます、いや、理解できるというか、理解できないまでも、そう宣言されていて、物理学的には時間と空間はそれほど区別すべき要素ではないのかもしれませんが、やっぱり、私にとっては時間と空間は違うわけで、その意味で、歴史観と宇宙観の統合を図るべく、こういった物理学の宇宙論についても今後ともひも解きたいと思います。本書については、ほとんど中身が理解できなかったので、適当にごまかしています。悪しからず。
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2017年01月21日 (土) 13:34:00

今週の読書は経済書や専門書に小説と新書も加えて計7冊!

今週の読書は以下の通り、経済書や専門書に小説と新書も加えて計7冊です。ただし、今週号の経済週刊誌のいくつかで書評が取り上げられた『大統領を操るバンカーたち』上下巻のうちの上巻を読み終えたんですが、タイムリミットで現時点ではまだ下巻が読めていません。さすがに、上巻だけの読書感想文は奇怪な気がしますので、上下巻セットで来週に回します。先週の8冊からはビミョーにペースダウンしたんですが、新書が3冊あって少し冊数としては多い気がしますが、心理的なボリュームとしては私はペースダウンしたつもりになっています。ただし、来週はドッと予約が回って来てしまいましたので、今日は自転車で取りに行くのがタイヘンそうな気がします。せっかく今週ペースダウンしたにもかかわらず、来週は大きくペースアップすること確実です。

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まず、小川光[編]『グローバル化とショック波及の経済学』(有斐閣) です。タイトル通りに、ショックの波及に関する定量分析を主たるテーマとしています。第1部は長期時系列データに基づく地域の対応分析であり、第2部では個別ショックへの対応分析を行っています。まず、第1部で、地域経済や市町村レベルでのショックに対する対応として、グローバルショックでは共通因子モデルの構造が変化したかどうかを実証し、最近時点に近くなるほど内需主導から外需依存を強め、その分だけショックの影響が大きくなっている点を示唆しています。財政ショックに対する自治体行動については私は少し異論があり、本書では投資的支出でショックへの調整を図っている点をサポートしていますが、逆から見れば、景気循環の振幅を大きくさせるような調整であり、私は支持できません。自治体財政のショック対応の国際比較は、制度面での違いを無視しており、どこまで評価できるか疑問です。ここまではいいんですが、第2部では自治体の予防接種政策は横並びかフリーライダーかを空間的自己回帰モデルで検証しており、モデルの選択が疑問です。ただ、リーマン・ショック後の金融円滑化施策については、都市と地方の効果の差はこんなもんだという気がします。また、自然災害ショックへの備えについて、銀行などの外部資金調達がより難しいと考えられる規模の小さな企業で保険の活用が進んでいないのは、そもそも、保険料支払いの資金アベイラビリティを無視した議論のように見受けられ、保険会社の提灯持ちであればともかく、これも疑問なしとしません。最後の南海トラフ地震への備えについては、徳島県阿南市の調査をもとに地震災害の要因などから家賃を推計しようと試みていますが、海岸性からの距離が津波災害への耐性を持っていて家賃に有意に効いているほかは、ほとんで意味のない回帰分析のように私には見えます。せっかく借りて読んだんですが、特に第2部はどこまで役に立つ分析なのか疑問だらけです。

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次に、ジョナサン・ウルフ『「正しい政策」がないならどうすべきか』(勁草書房) です。著者は長らくユニバーシティ・カレッジ・ロンドン哲学部教授を務め、現在はオックスフォード大学に移っている政治哲学を専門とする研究者であり、英語の原書は原題 Ethics and Public Policy として2011年に出版されています。ということで、数年前に米国のサンデル教授が正義論で脚光を浴びましたが、その流れで英国の哲学研究者が正義に関して論じた本書では、動物実験、ギャンブル、ドラッグ、安全性、犯罪と刑罰、健康、障碍、自由市場について論じ、最終第9章で結論を引き出しています。でも、ハッキリ言って、日本語タイトルは不可解です。エコノミストの目から見れば政策選択の理論を論じているように見え、哲学を論じた本書とのかい離が大きく誤解を与えかねないと危惧しています。動物実験だけを取り上げて、家畜を屠殺して食用に供する点はスルーしているのも奇妙な気がしますが、エコノミストの観点からは第2章のギャンブルと第3章のドラッグを興味深く読みました。特に、昨年はいわゆるカジノ法案と呼ばれたIR法案が国会で審議されましたし、ギャンブルとフドラッグについてはそれなりに経済学の視点も重要と考えます。しかし、まず考慮すべきは、市場経済というのは完全情報というあり得ないような強い前提でその効率性を成り立たせているわけで、ハイエクですら認めるように、完全な情報が利用可能であれば市場経済でも社会主義的な指令経済でも、あるいは他の資源配分システムでも、おそらく、効率的な資源配分が可能になることは間違いなく、論ずるに値しません。ですから、私がギャンブルについて感じているのは、はなはだ非合理的である、という1点です。確率的に損するに決まっているのにギャンブルするのは、まあ、社交場のお付き合いがあるからです。加えて、我が国のパチンコについては北朝鮮の核開発などへの資金を提供している可能性も考慮して、私は手を出していません。それから、ドラッグについては私は解禁するのも一案かと考えています。というのは、現在のように厳しい禁止下に置いて猛烈なプレミアムで価格が跳ね上げるんではなく、かつての専売制の下にあったタバコなどと同じように政府ないし公的機関の専売とし価格を引き下げた上で、ドラッグの使用者を把握して治療に差し向けるためです。ギャンブルも一定の中毒性を有しますが、ドラッグは完全に中毒を引き起こし医療機関による治療が必要です。それから、ギャンブルもドラッグも禁止している制度下では、どうしても非合法団体、特に日本の場合は暴力団の暗躍を招く原因となります。そのあたりを総合的に勘案した政策がセカンド・ベストとして採用されるような気がします。

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次に、エリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』(ハヤカワ文庫NF) です。2012年出版の単行本が昨年2016年年央に文庫化されています。著者はジャーナリストで、ニューヨーク・タイムズをクビになり、全米公共ラジオ(NPR)などで世界のいくつかの国の海外駐在員を務めた経験があります。英語の原題は The Geography of Bliss であり、2008年に出版され、邦訳の単行本は2012年に刊行されています。昨年文庫本化されたものを取り上げています。ということで、タイトル通りに、幸福について考えるために世界中を旅行した紀行文です。訪問して本書に収録されているのは、最終章の著者の本国である米国を別にして、第1章のオランダから第9章のインドまで9か国です。オランダは世界降伏データベースを構築している学者を訪問し、その後、幸福度が高そうな欧州のスイスとアジアのブータンを訪れ、さらに、アイスランドをはさんで、金銭的に豊かなカタールとそうでないモルドヴァを比較し、アジアに戻ってタイ、そして、英国では幸福度の高くないスラウという街で6人の幸福学研究者が心理的傾向を変更させることを目指したBBCの実験を取材しています。ブータンは先年国王夫妻が来日した折にも話題になりましたが、国民総幸福量(GNH)なる指標で有名ですし、インドでは宗教的な短期セミナーを体験しつつ彼の国の幸福感は著者も謎であると認めていたりします。でも、最終的に、著者はタイ的な「マイペンライ(気にしない)」が幸福への近道ではなかろうかと示唆しているように私には読めました。ただ、幸福を個人的な状態と考えるだけでなく、英国におけるBBCの実験もそうで、功利主義的に幸福が可算かつ加算・減算できるものとして、政策目標とするのは不適当な気もしますが、何らかの方法によって世界全体の幸福度を高めることが望ましい、との著者の考えの方向は示唆されているような気がします。ただし、それを直接的にやってしまえばセロトニンを分泌する薬物を配布するのも一案となってしまい、本書でも、幸福感を感じるために食事も忘れて脳の一定の部分に電気を通じさせるスイッチを押し続けるマウスの事例が何度か批判的に引かれているのも事実です。このあたりの含意はビミョーなところがありますので、読み進むにはある程度の批判的な精神が必要かもしれません。

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次に、ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社) です。昨年亡くなったエーコ教授の小説としての遺作に当たります。ただし、まだ邦訳されていない小説があり、La misteriosa fiamma della regina Loana 『女王ロアーナ、神秘の炎』は岩波書店から刊行予定らしいです。ということで、『薔薇の名前』で始まった小説のシリーズも、私はすべてこの著者の小説は邦訳されている限り読んだと思いますが、これで絶筆であり、遅い刊行の『バウドリーノ』や『プラハの墓地』ではよりエンタテインメント色をとよめ、本作ではさらにその傾向を強め、多くの読者が楽しめる小説になっているように私は受け止めています。舞台は1992年のミラノであり、主人公のコロンナは編集者として雇われ、「ドマーニ」と題する新しい日刊紙の発刊に向け、準備作業に入ります。出資者はコンメンダトールなるイタリアの勲位を持ち、業界では名を知られた人物であり、真実を暴く新聞を作るというのが表向きの理由となっているものの、じつは、触れられたくない裏話を取り上げるという脅しで、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたり、といった日本の総会屋の雑誌や新聞に近い出版物であり、イタリア的には、というか、日本的にもそうで、ホントに出版される前に発刊取りやめになることが予想されるシロモノでだったりします。このため、コロンナの雇主は発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつきます。すなわち、前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になると考え、ゴーストライターのコロンナを雇うわけです。他に6人ほどの記者を雇い、彼らには本当のことは伏せて、創刊準備号「ヌメロ・ゼロ」の編集会議を開きます。創刊準備号とはいっても、枝番まであって0-1号から0-12号までが計画されていたりします。そして、編集会議の内容をそのまま本にしようというわけです。ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのが著者の狙いなんでしょうし、小説のラストは、いかにもウラ情報を取るためにウラ社会との接点を持った記者の末路をあぶりだした形になるんですが、他方、労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれ、テレビと新聞の違いがありながら、ベルルスコーニ元首相を髣髴とさせる登場人物=出資者もあります。読ませどころは記事の作り方を話し合う日々の編集会議であり、著者自身の饒舌が乗り移ったかのように抱腹絶倒の怒涛の展開となり、記者達がトンデモな話をぶち上げたりします。いろいろと与太話が続く中で、特に私が印象に残ったのはムソリーニの最期に関するものですが、ほかにも風俗的というか、イタリア的な面白さがいっぱいです。このあたりは、『バウドリーノ』のホラ話に通ずるもの、というか、その現代版という気もします。

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次に、河村小百合『中央銀行は持ちこたえられるか』(集英社新書) です。著者は日銀出身の日本総研エコノミストであり、本書はいわゆる現在の黒い日銀の前の白い日銀のころの旧来に日銀理論を幅広く展開しています。日本総研がそもそも翁夫人の活動拠点ですから、そうなっているのかもしれません。私も気を付けているんですが、ものすごく「上から目線」で書かれた新書です。本書のタイトルとなっている「中央銀行は持ちこたえられるか」と同じタイトルを取っているのが第5章なのですが、基本的に、大規模な量的緩和による国債などの資産購入にともなう日銀の財務について「持ちこたえられるか」同化を懸念しているように読めます。ほかは、一貫して財政再建を訴えているわけで、判らないでもありません。というのも、財政は強制力を持って税を徴収したり、逆に公共事業を実施したり社会保障などで財政リソースをばらまいたり出来るんですが、金融については特に銀行が合理的な経済行動を取ってくれないと政策効果が発揮できません。ですから、市場メカニズムが正常に機能するよう、規制緩和や財政再建を力説するセントラル・バンカーが少なくないのは私も理解できます。でも、本書の最大の欠陥は、リフレ派の理論に基づいた現在の異次元緩和が日銀のインフレ目標の達成はおろか、ほとんど物価の上昇に寄与していない点につき、何らの分析や解釈を加えられていない点です。単なるお題目、というか、安倍総理ならば「レッテル貼り」と表現するかもしれませんが、単に日銀が債務超過になるかどうか、財政赤字が積み上がっているという事実関係のみを述べているに過ぎません。日銀財務が悪化して日銀職員のお給料にしわ寄せが行くのを懸念しているとも思えませんが、ちなみに、震災後に我々公務員のお給料は震災復興経費捻出のためにカットされたりした経験があります。それにしても、財政再建が出来ない政府が悪い、それを真っ当に伝えないメディアも悪い、正しいのは著者をはじめとする旧来の日銀理論の信奉者だけ、という、ものすごく視野狭く「上から目線」の新書です。著者あとがきなどを見ると、数十人を相手にした講演会の議事録を起こして書籍化したような印象を受けるんですが、興奮してやり過ぎたのかもしれません。もっとも、こういった新書が出ると「闘うリフレ派」のエコノミストも立ち向かう人が出るようなも気もします。でも、それは泥仕合になりかねないリスクをはらんでいそうな雰囲気を感じないでもありません。

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次に、水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書) です。著者は千葉大学の政治学の研究者です。昨年最大の話題のひとつであった米国大統領選におけるトランプ大統領の当選などの先進各国におけるポピュリズムの台頭について解説してくれています。私は1991-94年の3年余り南米はチリの首都であるサンティアゴに経済アタッシェとして大使館勤務を経験し、隣国アルゼンティンのポピュリズムなどもお話には聞いてきましたが、最近では欧州や米国でもポピュリズムの台頭が見られ、我が国でも大阪維新の会などがポピュリズム政党と見なされており、エコノミストの専門外ながら、とても参考になりました。本書でも定義されているように、ポピュリズムとは既存の政治家や官僚・企業経営者をはじめとするエリート層に対するアンチテーゼとして位置付けられ、幅広く国民の中から包摂されていないと感じられる階層の支持を受け、例えば、先進国でいえば、まさに米国のトランプ大統領の目指す政策、製造業のブルーカラーとして働く白人中年男性の利益を全面に打ち出すような政策を志向していると理解されています。ただし、日本ではほとんど実感ないんですが、そのために反移民政策、特に反イスラム政策を推進しかねない方向を志向しているようにも見えます。その理由がふるっていて、イスラム教は男女平等ではなく、反民主主義であるという民主主義やリベラルを標榜するポピュリズムが最近の傾向であると本書は指摘しています。かつてのナチスは授権法により民主主義を否定しましたが、その逆を行くと見せかけて反イスラムの方向を志向するもののようです。また、私はまったく専門外ですので、アウゼンティンのペロン党やフランスの人民戦線やその党首であるルペン女史くらいしか知らず、ほかは何の知識もなかったんですが、大陸ヨーロッパにおけるオーストリアの自由党やベルギーVBなどのポピュリスト政党の動向、あるいは、スイスの直接民主主義に基づく国民投票でいかにポピュリズム的な結果が示されるか、などの、まあ読み物も興味深く読めました。私がこのブログで何度か指摘した通り、良し悪しは別にして、間接民主制は、ある意味で、増税などの国民に不人気な政策を決定・実施する上で、別の視点に立って民意を「歪める」働きが求められる場合があるのも確かです。その昔には、 田原総一朗『頭のない鯨』(1997年)では、国民の不人気政策は「大蔵省が言っているから」というわけの判らない理由で、大蔵省が前面に立って悪役を務めることで政治家も言い訳して来た、と主張していたように記憶しています。我が国でもそういった「悪役」を務めて不人気政策を遂行することが出来なくなったわけで、その意味で、具体的かつ個別のポピュリスト政党を論じなくても、ポピュリズム的な政策形成への流れというものは出来ているような気がしますし、何らかのきっかけで政党として支持を集める素地もあるように感じます。最後に、先進国の中南米のポピュリズムの違いを論じて、伝統的な中南米のポピュリズムではエリート層への配分を中間層へ差し向けることを要求したのに対して、先進国でのポピュリズムは移民、特にイスラム系移民に向けられる分配リソースを中間層へ戻すべし、と主張する点にある、との指摘は新鮮でした。さらに、時代背景もあるんでしょうが、中年米のポピュリズムはバルコニーから集まった聴衆に対して演説するコミュニケーションである一方で、先進国はテレビやネットを活用する、というのも判る気がします。ポピュリストかどうかはビミョーなところですが、在チリ大使館に勤務していた折に、キューバの故カストロ議長が若かりしころの演説をビデオで見たことがあり、私はスペイン語は経済関係しか詳しくなかったものの、とても感激した記憶があります。「君だ!」といって聴衆の一角を指さすんですが、かなり角度的にムリがあったにもかかわらず、私自身が指差された気がしました。雄弁が求められる国民性だったのかもしれません。長々と書き連ねましたが、今週3冊読んだ新書の中では、私から見て一番の出来だった気がします。

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最後に、青木理『日本会議の正体』(平凡社新書) です。少し遅れて図書館の予約が回ってきましたが、日本会議に関する新書です。著者は共同通信のジャーナリストであり、本書のあとがきにも明記されている通り、日本会議に対しては批判的なまなざしを送っています。その上で、類書と同じような内容であり、発足当時の生長の家の強い影響や新党や仏教などの宗教との強い結びつき、憲法改正やその前段階としての教育基本法の改正に対する志向、夫婦別姓への反対などの伝統的な家族観などなどが明らかにされていますが、その意味ではありきたりな内容で、本書の大きな特徴は然るべき人物に対するインタビューをかなりナマな形で収録している点ではなかろうかという気がします。防衛大臣の稲田代議士まで登場します。私の考えは何度かこのブログでも明らかにしたつもりですが、私自身は進歩的かつリベラルな考えを有しており、進歩の反対が歴史を現時点で押しとどめようとする保守であり、もっと強烈なのが歴史を逆戻りさせようとする反動ないし復古というように捉えています。その意味で、日本会議は私の基本的な価値観の逆に当たっていると認識しています。ただし、それは歴史観と宗教観が大いに関係すると考えるべきです。すなわち、中国ほどではないにしても、日本でも円環的な歴史観を有している人は少なくなく、私のように直線的といわないまでも歴史の進歩が一方的かつ不可逆的と考える人は少ないかもしれません。一例としては、宗教的な輪廻転生が上げられます。私は浄土真宗の信者として、一方的というか、不可逆的な輪廻転生からの解脱と極楽浄土への生まれ変わりを信じていますが、来世の輪廻的な生まれ変わりを信じている人はいなさそうで、まだまだいる気がします。歴史の歯車を元に戻そうとすることは、私には無意味で不可解な努力だと見えるんですが、そういった努力をしている筆頭が日本会議だという気もします。私の理解を超えている組織・団体です。
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2017年01月14日 (土) 13:38:00

今週の読書は経済書をはじめとして専門書・教養書など計8冊!

今週は経済書をはじめとして、専門書・教養書とミステリの短編を収録したアンソロジーや野球に関する新書まで、計8冊を読みました。まあ、先週の読書感想文は早めにアップして営業日が1日多いので、こんなもんかという気もします。来週からはかなり確度高くペースダウンする予定です。今週の読書8冊は以下の通りです。

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まず、宮尾龍蔵『非伝統的金融政策』(有斐閣) です。著者は東大教授の研究者であり、昨年まで5年間に渡って日銀審議委員を務めていました。本書では、白川総裁とともに日銀にあった3年間と黒田総裁の下での2年間に及ぶ非伝統的な金融政策手段を分析しています。なお、どうでもいいことかもしれませんが、タイトルにより誤解を生じるといけないので、あくまで念のためにお断りしておくと、非伝統的なのは金融政策ではなく、金融政策の手段にかかる形容詞であり、金融政策で非伝統的な政策目標を目指すわけではなく、非伝統的な政策手段により伝統的な政策目標を目指すわけですので、大丈夫とは思いますが、念のために確認しておきます。ということで、まず、非伝統的な金融政策の政策手段として、著者が直接的に挙げているのとは別に私なりの解釈で分類すると、時間軸政策とも呼ばれるフォーワードガイダンス、これには金利と資産購入の2つのフォーワードガイダンスが含まれており、加えて、非伝統的な資産、すなわち、短期国債以外の長期国債とか株式とかの買い入れとバランスシート全体の拡大、そして、昨年から始まったマイナス金利について本書では分析を進めています。そして、各種の非伝統的金融政策の政策手段について、第2章で理論的なモデル分析を、第3章で実証的な数量分析を試み、非伝統的な金融政策手段は理論的に株価や為替のチャンネルを通じて効果があるとのモデル分析を明らかにするとともに、実証的にもGDPを引き上げたり物価を上昇させたりする効果があったと結論しています。まあ、当然、自然体で曇りのない目で日本経済を見ている限り常識的な結果であろうと私は受け止めています。その上で、第4章では2%物価目標は妥当であると結論し、第5章で懸念すべき副作用として、いわゆる「岩石理論」的なインフレ高騰、資産価格バブル、財政ファイナンスの3つのリスクを否定しています。第5章では副作用を軽く否定した後で、いわゆる長期停滞論を引き合いに出して、当時のセントルイス連銀ブラード総裁の2つの均衡論を考察し、現状では日本経済はデフレ均衡を脱しつつある、と結論しています。そして、第6章ではマイナス金利を俎上に載せています。最後の第7章では、日銀審議委員としての5年間を回顧しています。要するに、、極めて真っ当で、常識的かつ当然の結果が示されています。昨年2016年12月29日付けで取り上げた「戦うリフレ派」の岩石理論批判もよかったんですが、こういった真っ当な金融政策の解説書もいいもんだという気がします。

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次に、清田耕造『日本の比較優位』(慶應義塾大学出版会) です。著者は慶応大学の研究者であり、国際経済学を専門としているようです。本書ではタイトルの通り、いくつかバージョンのある貿易モデルのうち、主としてヘクシャー・オリーン型の比較優位について論じています。ただ単にモデルを論じているだけでなく、主として経済産業省の工業統計やJIPデータベースを用いた実証的な研究成果も示されています。既発表の論文と書き下ろしが半々くらいでしょうか。最近では経済学のジャーナルの査読を通ろうと思えば、何らかの実証が必要不可欠になっていますので、既発表論文を含む本書で実証結果が示されているのは当然かもしれません。ということで、比較優位という経済理論はリカードの昔にさかのぼり、とても理論的には評価されているモデルなんですが、実証的に正しいかかどうかについては疑問を呈されることもあります。特に、現実世界では経済学的に疑問の余地なく正しいとされている自由貿易すら実現されていないわけですから、比較優位についてもご同様です。本書では比較優位に産業構造を結び付けて、いくつかの実証研究成果を示しています。すなわち、「疑問の余地なく」ではないとしても、比較優位説は机上の空論ではなく妥当性が支持されると、既存研究ながら、何と、幕末明治維新前後の実証研究を紹介し、ほとんど貿易のなかった鎖国時代の日本と、貿易を開始し、しかも、関税自主権がなく自由貿易に近かった明治期の日本の貿易から比較優位説の妥当性を確認しています。また、米国に関するレオンティエフ・パラドックス、すなわち、世界でもっとも資本が豊富な米国がネットで資本集約財を輸入し、労働集約財を輸出しているとのパラドックスと同じように、戦後日本が非熟練労働力よりも熟練労働力の豊富な日本が、熟練労働集約財を輸入し非熟練労働集約財を輸出している、とか、エネルギーを産しない日本の輸出が必ずしもエネルギー節約的ではない、などを示しています。また、最後の第Ⅲ部ではアジアのいわゆる雁行形態発展論と日本国内の都道府県別の賃金と産業構造をそれぞれ実証しています。なお最後に、出版社からも明らかな通り、本書は学術書です。しかも、学部レベルではなく大学院博士前期課程くらいのレベルです。数式も少なくありませんし、データに基づくものではなく概念的なグラフもいくつか見受けられます。かなり専門分野に近い私でも、最後の第Ⅲ部を読みこなすのは骨が折れました。メモと鉛筆を持って数式をいっしょに解いて行くくらいでないと十分に読みこなせないかもしれません。読み進むには、脅かすわけではありませんが、それなりの覚悟が必要です。

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次に、スティーブン・ピンカー/マルコム・グラッドウェル/マット・リドレーほか『人類は絶滅を逃れられるのか』(ダイヤモンド社) です。誰が見ても、ハチャメチャで意味不明なタイトルなんですが、ムンク財団の主催でカナダのトロントで開催された2015年のディベートを収録しています。ディベートのテーマは「人類の未来は明るいか」ということで、将来に対する見方が楽観的か悲観的かについてのディベートです。上の表紙画像には3名の著者しか現れませんが、ピンカー+リドレーが楽観派で、グラッドウェル+ ボトンが悲観派です。結論を先取りすると、トロントの会場の聴衆はディベートが始まる前は楽観派が71%、悲観派が29%だったところ、ディベート終了時には楽観派が73%で悲観派が27%となり、ディベートは楽観派の勝利で終了しました。まあ、ディベートの中でも出て来るんですが、過去に比べた現時点までの人類史の実績を考えると、寿命が伸び、戦争・戦乱が減少し、消費生活が豊かになり、それらのバックグラウンドで技術が大きく進歩しているわけですから、どこからどう見ても人類史は、特に、戦後の50-70年では大きく楽観派が強調するような方向に進んでいる気がします。将来を悲観する要素としては、このディベートでも悲観墓強調した地球環境問題とわけの判らない病気のパンデミックくらいで、戦争、特に核戦力による戦争はかつての冷戦時代よりは確率が大きく減じた気がします。ディベートで出なかったポイントは、特に日本の例を引くまでもなく、先進国における人口減少問題ではなかろうかという気がします。移民の受け入れが少ない場合、欧州でもアジアでも、1人当りGDPで見て豊かないくつかの国で人口減少が始まっており、その中でも日本は飛び抜けて人口減少が大きな問題といえます。日本はすでに世界経済におけるメジャー・プレイヤーでなくなったとはいえ、悲観派が人口減少を取り上げなかったのはやや不思議な気がします。それと、ローマ・クラブ的な資源制約も着目されていません。その意味で、やや物足りないディベートだったかもしれませんが、私の考えとほぼ一致する方向の議論が圧勝している気もします。当然の結果かもしれません。

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次に、 御厨貴・芹川洋一『政治が危ない』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大で長らく政治学の研究者だった学者と日経新聞のジャーナリストです。ともに東大法学部の同じゼミの同窓生で対談の形を取っており、少し前に日経プレミアムから本書の前作となる『日本政治 ひざ打ち問答』を出版していて、本書はその対談集の第2段となるようです。昨年年央まで3年半続き、今も継続中の安倍内閣と安倍総理について論ずるところから始めて、回顧を含めて政治家について談じ、天皇退位も含めて憲法について断じ、最後に、メディアについて論じ、その4章構成となっています。まあ、ジョークで「時事放談」ならぬ「爺放談」という言い方もありますが、好き放題、勝手放題、縦横無尽に政治を断じていますが、タイトルになっている危なさは、現在の安倍総理・安倍内閣の後継者問題に尽きるようです。かつては与党自民党の派閥が後継者を育てるシステムを有していたものの、小選挙区制で党執行部の権力が絶大になった一方で派閥の衰退が激しく、総理総裁の後継者が育ちにくい構造になっている、というのがタイトルの背景にある考えのようです。ある秘突然に日本の政治が崩壊するかもしれないとまで言い切っています。もちろん、繰り返しになりますが、それ以外にもワンサと山盛りの話題を詰め込んでいます。田中角栄ブームは昭和へのノスタルジーと同一視されているような気もしますし、鳩菅の民主党政権はボロクソです。私がもっとも共感したのは憲法論議の中で、天皇の退位を天皇自身が言い出したのは国政への関与に近く、憲法違反の疑いがある、との指摘です。私もまったく賛成で、そもそも、我が事ながら退位すら天皇は言い出すべきでなく、黙々と象徴の役割を果すべきであり、象徴の役割が出来ているかどうかは天皇自身ではなく内閣が判断すべき事項であると私は強く考えています。最後に、最近の政治家、主として総理大臣の演説で印象に残っているのは、私の場合、本書では取り上げられていませんが、2005年8月の郵政解散の際の当時の小泉総理のテレビ演説です。私は官房で大臣対応の職務にありましたから特にそう感じたのかもしれませんが、感銘を受けて記憶に強く残っています。

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次に、 ポール J. ナーイン『確率で読み解く日常の不思議』(共立出版) です。著者は米国の数学研究者であり、ニュー・ハンプシャ大学の名誉教授です。数学に関する一般向けの解説書やパズル所などを何冊か出版しています。本書の英語の原題は Will you be alive 10 years from now? であり、2014年の刊行です。日本語のタイトル通り、本書は確率論に関する一般向けの解説書なんですが、それでも微分積分に行列式を合わせて数式はいっぱい出て来ます。ただ、本書のひとつの特徴は、解析的にエレガントに式を展開して解くだけでなく、リカーシブに解くためのMATLABのサンプル・プログラムを同時にいくつかのトピックで示している点です。本書は、古典的な確率論パズルを示した序章のほかに、個別の確率論に関するテーマを取り上げた25章から成っていて、その25勝すべてにMATLABのサンプル・プログラムが示されているわけではありませんし、MATLABがそもそもかなり専門性の高い高級言語ですから、それほど本書の理解の助けになるとも思えませんが、私のようにBASICしか理解しない初級者でも割りと簡単に移植できそうなシンプルなプログラムの作りにしてくれているように感じます。テーマごとにいくつかとても意外な結果が出て来るんですが、まず、第1章の棒を折る問題がそうです。2つの印を棒に付けて、その棒をn個に折るとして、等間隔に折る場合とランダムに折る場合で、同じ小片に印がある確率はランダムに折る後者の方が2倍近く大きい、というのは意外な気がします。第11章の伝言ゲームにおける嘘つきの存在についても、嘘つきの存在確率が0と1でないなら、ほかのいかなる確率であっても、伝言ゲームの人数が大きくなれば、最後に正しく伝えられる確率は漸近的に1/2に近づきます。逆から言っても同じことで、正しく伝えられない確率も1/2に近づきます。これも意外な気がします。最後に、どうでもいいことながら、確率論の数学研究者は『パレード』誌のコラムニストであるマリリン・ヴォス・サヴァントを常に目の敵にしていて、本書でも彼女の間違いをいくつか指摘しています。でも、モンティ・ホール問題でマリリンが正しい結果を示し、多くの数学研究者が間違っていた点にはまったく口をつぐんでいます。とても興味深い点です。日本語のWikiPediaのモンティ・ホール問題へのリンクは以下の通りです。


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次に、ハリー G. フランクファート『ウンコな議論』(ちくま学芸文庫) です。2005年に出版された単行本が昨年ちくま文芸文庫として出されています。翻訳はクルーグマン教授の本でも有名な野村総研の山形浩生さんです。その長い長い訳者解説でも有名になった本ですが、その訳者解説では8-9割がタイトルにひかれたんではないかと想像していますが、私自身は昨年2016年10月29日付けで取り上げた『不平等論』の続きで読んでみました。ということで、翻訳ではすべてタイトル通りに「ウンコ」で統一しているんですが、私の決して上品でもない日常会話で使われる用語としては「クソ」とか「クソッタレ」に近い印象です。そして、訳者も認めているように、原文には「ウンコ」しかないのに訳者が「屁理屈」を勝手にくっつけている場合も少なくないように見受けられます。といのも、私はすべて読み切ったわけではありませんが、最後においてあるリンクからほぼ英語の原文がpdfで入手できます。それはともかく、本題に戻ると、「ウンコな議論」とは著者がいうに、お世辞やハッタリを含めて、ウソではないにしても誇張した表現ということになろうかという気がする。日本の仏教的な表現で言えば、いわゆる方便も含まれそうである。思い出すに、その昔の大学生だったころ、母校の京都大学経済学部の歴史的な大先生として河上肇教授が、その有名な言葉として「言うべくんば真実を語るべし、言うを得ざれば黙するに如かず」というのがあります。まあ、それとよく似た感慨かもしれません。ただ、訳者解説にもある通り、ウンコ議論のない簡潔な事実だけの議論は「身も蓋もない」と言われかねないだけに、世渡りの中では難しいところです。最後に、私はやや配慮なく本書をカフェで読もうとしてしまいました。かなり大きな活字で150ページ足らずの文庫本ですので、すぐに読めてしまうんですが、タイトルといい表紙画像といい、飲食店で読むのはややはばかられる気がしました。家でこっそりと読む本かもしれません。


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次に、日本推理作家協会[編]『殺意の隘路』(光文社) です。昨年2016年12月30日付けで取り上げた『悪意の迷路』と対をなす姉妹編のミステリを集めたアンソロジーであり、最近3年間に刊行された短編を集めて編集しています。上の表紙画像を見ても理解できる通り、売れっ子ミステリ作家が並んでいます。コピペで済ませる収録作品は、青崎有吾「もう一色選べる丼」、赤川次郎「もういいかい」、有栖川有栖「線路の国のアリス」、伊坂幸太郎「ルックスライク」、石持浅海「九尾の狐」、乾ルカ「黒い瞳の内」、恩田陸「柊と太陽」、北村薫「幻の追伸」、今野敏「人事」、長岡弘樹「夏の終わりの時間割」、初野晴「理由ありの旧校舎 -学園密室?-」、東野圭吾「ルーキー登場」、円居挽「定跡外の誘拐」、麻耶雄嵩「旧友」、若竹七海「副島さんは言っている 十月」の15編です。さすがに秀作そろいですので、伊坂作品と東野作品は私は既読でした。でも、私の限りある記憶力からして、ほぼ初見と同じように楽しめたのはやや悲しかった気がします。赤川作品や長岡作品のように小学生くらいのかなり小さな子供を主人公にした作品もあれば、今野作品や若竹作品のようにオッサンばかりの登場人物の小説もあります。有栖川作品のように時間の観念が不明の作品もあれば、乾作品のようにとても長い時間を短編で取りまとめた作品もあります。必ずしも謎解きばかりではないんですが、とても楽しめる短編集でした。

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最後に、小林信也『「野球」の真髄』(集英社新書) です。著者はスポーツライターであるとともに、中学生の硬式野球であるリトルシニアの野球チームの監督をしていたりするそうで、その野球に対する思い込みを一気に弾けさせたような本です。私より数歳年長であり、ジャイアンツの長島選手が活躍した時期の、どちらかと言えば後半を体感として知っている世代です。私もそれに近い世代なんですが、地域的な特徴から、私は特に長島選手に憧れを持ったりはしませんでした。もちろん、私も阪神タイガースには熱い愛情を注ぎ続けていますし、少なくとも観戦するスポーツとしては野球にもっとも重きを置いているのも確かです。念のため。とは言え、なかなか興味深い本でした。例えば、他の球技と違って、野球だけは生死観があって、アウトになる打者とセーフになる打者の違いがあって、セーフになって生き残る打者は塁上でランナーになる、とか、投手だけは試合と同列に勝ち負けがつく、といった指摘は新鮮でした。ただ、とても大きな誤解もいくつか散見されます。例えば、ほかの球技と違って野球では守備側がボールを支配する、としているんですが、野球の前身であるクリケットに対する無理解からの記述としか思えません。すなわち、誤解を恐れず単純化して言えば、クリケットとは野球の投手に当たるボウラーがボールを投げて、野球なら捕手のいる位置に置かれた木製のウィケットを壊しに行くという暴力的な競技であって、それを阻止すべくバットを振るのがバッツマン、つまり野球の打者なわけです。ですから、クリケットではボールを持ってウィケットを壊しに行くボウラーの方が攻撃なわけで、野球に取り入れられて攻撃と守備がなぜか逆転してしまったんですが、クリケットを判っていれば抱かざる疑問のような気もします。まあ、インチキのお話も古くて新しいところながら、なぜか歴史に残る八百長事件は取り上げられておらず、本書の中では第2章の古き佳き野球の時代が読みどころかもしれません。
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2017年01月05日 (木) 21:39:00

今週の読書を早めにアップする!

今週の読書です。というよりも、年末年始休み後半のエンタメ小説を中心とした読書です。新書も何冊か読みました。通常、読書感想文は土曜日にアップするんですが、今週は米国の雇用統計が公表される週ですので、読書感想文は早めにアップしておきます。明日からは経済評論をはじめとして本格的に従来のブログ記事に復帰する予定です。

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まず、高嶋哲夫『電王』(幻冬舎) です。著者は売れっ子のエンタメ作家であり、私はこの作者のすべてではないにしても、かなり多くの作品を読んでいるつもりです。台風の大雨や富士山噴火、さらに、感染症のパンデミックなどの自然災害を中心とするパニック小説の作品が多いような気がします。この作品は、将棋の奨励会でともに腕を磨いた小学生の同級生2人の天才を主人公とする小説です。裕福な企業経営者の一家に生まれ育った少年は将棋を離れて大学から数学やプログラミングに進み、人工知能(AI)の将来を担う若き学者として世界に令名が知れ渡る一方で、中卒からプロ棋士となった天才少年も2度に渡って将棋界のタイトルを総なめにした七冠を達成しています。そして、バックグラウンドでは企業経営を巡って疑心暗鬼の買収・資本提携・技術提携などの情報戦もが繰り広げられています。最後は2人の天災が将棋でぶつかり合います。すなわち、主人公の1人の学者の開発した電脳将棋プログラムともうひとりの主人公の将棋名人の対戦で幕を閉じます。勝敗は明らかにされません。ということで、エンタメ小説として、それほど完成度は高くありませんが、なかなかおもしろかったりします。もちろん、この作家の得意分野の災害パニック小説と同じで、ほぼほぼあり得ない設定なんですが、そうはいいつつも、ネコ型の子守りロボットが未来からタイムマシンでやって来て四次元ポケットからいろんな不思議な道具を取り出すのは、まったくあり得ないわけですから、年末年始休みに時間潰しで読むようなエンタメ小説としてはなかなかいい出来ではなかったか、という気がします。

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次に、米澤穂信『いまさら翼といわれても』(角川書店) です。古典部シリーズ第6巻最新刊であり、『野性時代』と『文芸カドカワ』に掲載された表題作他5編を収録した短編集です。主人公の折木奉太郎、古典部部長の千反田える、そして、古典部部員である福部里志と伊原摩耶花の4人が通っている神山高校古典部を主たる舞台にした青春小説でもあり、ちょっとした謎解きのミステリだったりもします。収録作品は「箱の中の欠落」、「鏡には映らない」、「連峰は晴れているか」、「わたしたちの伝説の一冊」、「長い休日」、「いまさら翼といわれても」となっていて、4人が高校2年生に進級してからその夏休みくらいまでの時間軸のお話しとなっています。長編では欠落していたいくつかの重要なパーツがあきらかにされます。すなわち、摩耶花がどうして漫画研究会をやめたのか、また、奉太郎のモットーが「やらなくていいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。」となったのか理由を小学生のころにさかのぼって述懐する、といったものです。今回、私は古典部シリーズ既刊の5冊を読み返してしまいました。そのうち、『氷菓』、『愚者のエンドロール』、『クドリャフカの順番』の3冊は明らかに読んでいた記憶があります。しかし、短編集の『遠まわりする雛』と直前の長編の『ふたりの距離の概算』は未読でした。ただ、『遠まわりする雛』の中の校内放送からケメルマンの「9マイルは遠すぎる」のように紙幣贋造事件を導き出す短編だけは、何かのアンソロジーで読んだ記憶がありました。この短編集もそれなりに面白いんですが、最初の『氷菓』からしてそうだったんですが、話が重いです。表題作の「いまさら翼といわれても」なんぞは、私のような人間には想像もできない重さだろうという気がします。同じ作者の作品で同じようように高校生を主人公にした小市民シリーズも明らかな犯罪行為に足を踏み入れますので、それはそれで重い気がしたんですが、このシリーズも犯罪行為ほどではないとしても、かなり重いテーマを扱っていますので、私のような年齢の読者であればともかく、ホントに主人公と同じような高校生くらいが軽く読み飛ばす小説ではないような気がします。

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次に、柚月裕子『あしたの君へ』(文藝春秋) です。作者はミステリ作家であり、佐方検事シリーズの短編が私は好きで、ドラマ化されていたり、あるいは、いくつか文学賞も受賞していると思いますが、この作品も短編集ながら、家庭裁判所調査官補を主人公にした少年少女の触法行為や両親の離婚などを扱っています。収録作品は「背負う者」、「抱かれる者」、「縋る者」、「責める者」、「迷う者」の6話ですが、最初の「背負う者」は『先週の読書感想部mで取り上げた『悪意の迷路』に収録されていました。これも短編集ながら、家庭裁判所の調査官補が主人公ですからテーマが重いです。実は、私事ながら、私が高校生の時に進路を考えて、当時は頭のいい高校生は、理系では医学部を志望して、当然ながら医者を目指し、文系では法学部から弁護士や裁判官などの法曹界を目指す、というのが見かけられたんですが、私の場合は医者にしても、法曹界にしても、当時の田舎の高校生からすれば、どうも人生の暗い面を見るような気がして、結局、経済学部を志望したという経験があります。まさにちょうど、そういった人生の暗い面を小説に起こしているような気もします。もちろん、大切で重要な事項であり、未成年が触法行為というか、犯罪を犯したり、夫婦が離婚したり、という人生の暗い面の背景を鋭くえぐるタイプの小説です。脳天気に笑って読み進めるような小説ではありませんが、謎解きめいて人生の暗い面の背景に何があるのかが鮮やかに示されたりもします。その意味ではそれなりの上質のミステリかも知れません。検事ほどエラくない調査官補が主人公ですから、その分は親しみやすいストーリーになっているかもしれません。同じシリーズの続編が出版されたりしたら、たぶん、私は読みたくなるんだろうという気がします。なお、同じ作者の最新刊が『慈雨』と題してすでに出版されています。警察官を定年で退官した男性を主人公とする長編ミステリのようで、私はまだ図書館の予約の順番が回って来ていません。

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次に、高村薫『土の記』上下巻(新潮社) です。著者はもうベテランの域に達したミステリ作家なんですが、本書はミステリではないという位置づけになっています。ただし、というか何というか、私は最近ではこの作者の作品は、ほぼ合田雄一郎シリーズしか読んでいなかったりしますが、最近作の『太陽を曳く馬』とか、『冷血』とかの文体はこの作品と同じだと受止めています。ですから、扱っている内容が、警視庁の警部が犯罪行為の解明に当たるというミステリに対して、この作品では、70過ぎの平凡な男性が極めて淡々と奈良に在住してシャープを定年退職し農業にいそしむという小説に仕上がっているだけで、私には大きな違和感はなく読み進むことが出来ました。私は奈良の中学校・高校に通っていましたし、馴染みのある地名がいっぱい出て来ました。ちなみに、私の出身高校の名も出て来ますし、その高校の同級生の一家が代々経営する最中とか、そうめんの銘柄も出ています。ということで、主人公の勤務していたシャープという企業名を含めて、割と堂々と実在する学校や企業などの固有名詞を引き合いに出して、奈良在住の田舎の生活を活写しています。そして、亡くなった主人公の女房は70近くになっても浮気をしていたり、行方不明の大昔の人が大雨の後の土砂崩れで死体が出て来たりと、また、最後の行方不明者の記述なんかもミステリ、というか、ホラーじみた田舎生活を暗示しないでもないんですが、基本はミステリでもホラーでもないような気がします。そして、そういった主人公の農業を主体とする田舎生活に比べて、娘は東京で離婚してニューヨーク生活で新しくアイルランド系の獣医と再婚したり、その娘、すなわち、主人公の孫が夏休みに奈良に期てテニス三昧の生活を送ったりと、決して田舎生活の描写だけに終始した小説ではありません。まあ、好き嫌いはあると思いますし、繰り返しになりますが、合田雄一郎シリーズとの連続性は大いに感じられます。書評を読んで読むかどうかを決めるべき作品ではなかろうかという気がします。

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次に、井上智洋『人工知能と経済の未来』(文春新書) です。著者は若手のマクロ経済学者です。早大大学院では若田部先生あたりを指導教員にしていたような雰囲気が、本書から私には読み取れました。ということで、新年早々ですが、ここ数年で一番の新書でした。かなり前に、大阪大学の堂目教授が書いた『アダム・スミス』という中公新書を読んで、2008年5月26日付けで読書感想文を書きましたが、それに匹敵する内容だった気がします。本書では、前半部分でAIの進歩などを概観しつつ、今世紀半ばにはほぼ90パーセントくらいの雇用が失われる可能性があるとし、その対策としてベーシック・インカムの導入を主張しています。要するに、ごく短く書くとそういうことです。もちろん、AIについても、現在かなりの程度に実用化されている特殊な用途に特化したAIと人間の知能に極めて近い全脳的なAIはまったく違うとか、経済についても平均年齢が上がって資産が増加すると成長に対する志向が衰退するとか、生産性の伸びに応じた貨幣を供給して需要不足を金融政策で創出する必要性とか、正確でありかつ、なかなか興味深い視点を提供しています。でも、何といっても労働が機械化されて雇用が激減する経済ではマルクス的な階級観からすれば労働者階級がいなくなって、資本家階級しか残らないということであり、その場合は、生活保護におけるミーンズ・テストで行政コストをかけるよりは、ベーシック・インカムで最低限の生活を保証する方が適切、という視点には驚きつつも、大いに同意してしまいました。特に、p.219にはベーシック・インカムの賛同するエコノミストが何人か上げられていて、私の尊敬する人が少なくないのには感激してしまいました。ただ、私自身はケインズ的にワークシェアリングで各個人の労働時間を劇的に減らすとか、マルクス的に中央集権指令経済にはしないまでも社会主義的な道も、国民の選択としてあり得るではないか、という気はします。大いにします。

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次に、中野信子『サイコパス』(文春新書) です。著者は脳科学者で、医学博士の学位を持っています。本書は、タイトル通りというか、サイコパスに関する諸説を並べていますが、例えば、サイコパスは遺伝で先天的に受け継がれるのか、あるいは、後天的に社会や家族の中で形成されるのか、また、サイコパスを見抜くための身体的特徴などといわれると、大昔のロンブローゾ的な決めつけの失敗を思い出しかねないんですが、繰り返しになるものの、いろいろと心理学や脳科学の立場から諸説が展開されています。その中で、その昔にはエリートなんぞと呼ばれた社会的地位の高い人にサイコパス的な特報を見出す下りがあります。当然といえば当然なんですが、社会的な地位が高い、というか、出世した人は、まあ、よくない表現かもしれませんが、それなりに「腹黒い』要素を正確的に持っていなければならないような気もしますし、そうであれば、サイコパス的な要素をいくぶんなりとも持っているような気もします。ただし、私が大きな疑問とするのは、サイコパス、というか、ソシオパスは医学的ないし心理学的な脳科学の対象なのかどうか、という点です。すなわち、私自身はサイコパスというよりも、ソシオパスと表現すべきと考えており、すぐれて社会的な存在なんではないかと受け止めています。例えば、家畜を屠殺するのとペットを虐待するのは、社会的な位置づけの違い以外の何物でもありません。家畜でもなく愛玩動物でもないクジラを食べるかどうかを考えれば明らかです。ですから、医学的・心理学的に科学の装いを持ってロンブローゾ的にサイコパスを論じるのは少し私には危なっかしい議論に思えてなりません。十分な警戒心を持って読むべき本ではないかと思います。少なくとも、決して本書の内容を鵜呑みにすべきではないでしょう。

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最後に、冷泉彰彦『トランプ大統領の衝撃』(幻冬舎新書) です。著者はジャーナリストのようです。割と早く、昨年の年内に読んだんですが、大いに期待外れでしたので、読書感想文としては最後に持って来ました。やや意外感を持って受け止められた昨年11月の米国大統領選挙のトランプ次期大統領の当選について、何らかのジャーナリストらしい分析や、事実の発見があるのかと思いましたが、何もありません。米国の共和党と民主党の両党の予備選挙から、11月の米国大統領選挙にかけて、著者が何らかの媒体に寄稿して来たコラムや記事の断片を、特に何の工夫もなく、ダラダラとクロノロジカルにつなぎ合わせただけの代物です。政策分析というよりは、選挙手法・選挙のやり方に関する論評はそれなりに含まれていますが、選挙システムが日米で大きく異なりますから、それほど印象的でもありませんし、だからどうなのか、トランプ次期大統領に何かが有利に働いたのか、といわれれば、とくにそういった分析もなされていません。まあ、便乗商法の一種で出版されたと考えるべきかもしれません。なお、本書を離れて、私の見方ですが、トランプ次期大統領の当選は、米国の民主党から黒人大統領が生まれ、さらに今回も女性の候補を出して来て、政治的なマイノリティの候補、あるいは、政治的な正確さ political correctiness がかなり極限までリベラル化された反動ではないか、少なくとも、ひとつの要因ではないか、と考えています。振り子が逆に振れたわけです。そして、世論調査の結果と少しズレがあったのはブラッドリー効果ではなかったのか、と受け止めています。いずれにせよ、もう、就任式まであとわずかですから、話題の閣僚や在日大使などの人事だけでなく、実際の政策動向に関する情報が欲しいところです。日本経済は再び相対的に米国と比べて小さくなり、その昔の「米国がくしゃみをすれば日本が風邪をひく」という状態になっていることを忘れるべきではありません。
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2016年12月30日 (金) 18:43:00

年末年始休み前半の今週の読書は経済書など計9冊!

役所で忙しいとされる予算業務が先週のうちに終わり、今週は時間が十分ありましたので、かなり読み込んでしまいました。公務員である私とほぼ時を同じくして図書館が閉まりますので、今週は経済書や専門書、来週の年明けの年始休みはエンタメ系の小説など、と適当に私自身の基準で区分して読書にいそしんでいます。従って、昨日のご寄贈本を別にして、今週は経済書など以下の9冊です。

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まず、トーマス・シェリング『ミクロ動機とマクロ行動』(勁草書房) です。著者は2005年にノーベル経済学賞を受賞したトップクラスの経済学者であり、本書は Micromotives and Macrobehavior と題して、もともとは1978年に出版されていて、本書はノーベル賞の受賞講演を最終章に含めた新装版です。たぶん、ノーベル賞受賞スピーチの前の中身は変わっていないんではないかと思います。ということで、本書では一部に数式を展開しつつ、あるいは、グラフで動学的な動きを解説しつつ、マイクロな意思決定がマクロの社会活動、特に経済活動にどのような結果をもたらすか、について鮮やかなモデルの展開により分析しています。すなわち、講演会場の着席パターンから始まって、個人が誰と付き合うか、あるいは、誰と暮らすか、また、誰と仕事をするか、さらに、誰と遊ぶか、などの選択について、特に、白人と黒人の振舞いのあり方、さらに住居の分居を論じ、高速道路上に落下したマットレスが渋滞を引き起こした例を取り上げます。また、当時はまだアイスホッケーの試合でヘルメット着用が義務付けられていなかったことから、選手の負傷とヘルメット着用はどうあるべきかを議論するなど、全体を構成する個人や家族などの小グループの行動基準や特性とそのマクロの結果との関係を分析しています。要するに、マクロの結果は個人の最適化行動に基づくマクロレベルの最適性を保証しない、という意味で、合成の誤謬が起こりまくるという結論です。ですから、少し前のリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論のように、マクロ経済のマイクロな基礎付けを求めるのは、かなり怪しい、という結論を引き出すべきと私は考えます。企業や個人といったマイクロな経済主体の最適化行動がマクロ経済の最適性をもたらす保証がどこにもないんですから、昔ながらの「どマクロ」な議論、例えば、ケインズ的な消費関数やマネタリスト的なGDPと仏果とマネーサプライの関係の類推なども、私はそれなりに意味のあることだと受け止めています。40年近く前の名著ですが、こうして新装版が出た折に読み返してみるのも一興かもしれません。ただ、最後に、冒頭のp.22で「均衡そのものにはさしたる魅力は何もない」といいながら、ほとんどが均衡分析、静学的にせよ、動学的にせよ、になっている気がするのは私だけでしょうか?

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次に、エドマンド S. フェルプス『なぜ近代は繁栄したのか』(みすず書房) です。著者は、先のシェリング教授に続いて、2006年のノーベル経済学賞受賞者です。英語の原題は Mass Flourishing であり、2013年の出版です。ですから、出版社のサイトに「長期停滞を超えるための、経済、文化、倫理を横断する独創的提言」なる宣伝文句が見えるんですが、オリジナルのハンセンまでさかのぼればともかく、サマーズ教授が長期停滞論をいい出したのが2013年末か2014年ですからその前の出版であり、この宣伝文句はやや怪しいところです。といいつつ、本書は基本的に経済史をひも解こうとしているように私は受け止めているんですが、何か、焦点の定まらない議論に終始している印象です。すなわち、一言でいえば、著者が重視するのは副題にもある「草の根イノベーション」であり、「草の根」がないただのイノベーションでもいいんですが、いわゆる近代、すなわち、19世紀半ばでほぼ完成した産業革命から1960年代くらいまでの欧米諸国の経済的な繁栄はイノベーションに基づくものであり、イノベーションを阻害する社会主義やコーポラティズムはよろしくなく、また、日本た最近のアジア諸国、特に中国は独創的なオリジナルのイノベーションではなく、先進国からのイノベーションを導入したキャッチアップ型の繁栄であった、ということになろうかと思います。私が常々主張しているように、西欧、というか、米国を含めて欧米といってもいいんですが、こういった地域が現時点で繁栄を謳歌しているのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命の成果であり、産業革命がイングランドで生じた説得的な歴史的根拠はまだ学界で提示されていない、というのが極めて緩やか、あるいは、大雑把なコンセンサスではないかと思うんですが、本書で著者は経済的社会的繁栄の原動力にイノベーションを置いていて、しかも、そのイノベーションがシュンペーター的な革新ではなかったりします(p.192など)し、さらに「繁栄」も成長とは違うと主張したりして、もうこうなれば定義次第でどうでも立論が可能となり、平たくいって、いったもん勝ちの世界のような気もします。しかも、最後の方ではアリストテレス的なエウダイモニアやセン的なケイパビリティの議論で善を論じてみたり、私のような頭の回転の鈍い人間には訳が分かりません。大雑把に著者が80歳のころの出版で、エコノミストとしての人生の集大成的な著作を目指したのかもしれませんが、少なくとも私クラスの知性では読み解くのが難しかった気がします。でも、うまく言葉で表現できませんが、とても「みすず書房」的な書物ではないかという思いもあったりします。同時に、私は読んでいませんので、単なる直感での評価ですが、米国版の「里山資本主義」のノスタルジックな趣きがあるかもしれません。私は中国的な円環歴史観には否定的であり、マルクス主義的とはいわないまでも、かなり直線的に発展する歴史観を持っていますので、時計の針を逆戻りさせて昔を懐かしがる趣味はありません。

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次に、沢井実『日本の技能形成』(名古屋大学出版会) です。著者は大阪大学を定年退官した労務経済論の研究者で、現在は南山大学に天下りしているようです。本書は出版社からも理解できる通りに明らかな学術書であり、阪大の紀要に掲載された論文も何本か改稿の上で収録されています。大雑把に、熟練工不足が問題になり始めた満州事変直後の1930年代半ばころから戦争をはさんで1950年代初頭まで、いわゆる高度成長期直前くらいまでの四半世紀における金属加工や電気自動車を含む広い意味での機械産業における熟練工の育成に焦点を当てています。戦前の義務教育であった尋常小学校や高等小学校を卒業した10代前半から半ばくらいまでの男性を中心とした職工の技能育成です。大雑把に、現在でいうところのOJTとOff-JTに分かれますが、前者は統計処理が極めて難しく、聞き取りの結果の分析に終始しています。後者については、現在から見ると職業訓練校に近い存在を多く取り上げており、中でも、いわゆる公立の技能習得校とともに、三菱造船と三菱電機が神戸でいっしょに設立した三菱職工学校などが取り上げられています。三菱、川崎重工、日産などの大企業は独自の技能習得学校を設立したりしている一方で、中小企業は公立校への依存を強めているというわけなんでしょう。ただ、注意すべき点で抜け落ちているのは、技能育成・習得と雇用システム、というか、雇用慣行との接点が本書では考慮されていません。本書でも指摘しているように、1930年代の好景気と満州事変ころから熟練工などの不足は問題となり始めていましたが、高度成長期から本格的な人手不足が始まり、労働力の囲い込みの必要から1950-60年代に長期雇用慣行、いわゆる終身雇用が始まる一方で、本書がスコープとしている年代ではまだ転職が少なくありませんでした。おそらく、中小企業のレベルでは1960年代位までいわゆる「渡りの職工」は広く観察され、技能の育成や習得の上で少なからぬ摩擦を生じる可能性もあったりしました。本書では学歴との関係で、戦前における2つの学歴系統、すなわち、小学校-中学校-高等学校-大学、のパターンと、小学校-実業学校-実業専門学校のパターン、もちろん、小学校からいきなり就職するケースもありますが、これらの学歴パターンには目を向けているものの、長期雇用下で他社と差別化された技能の育成が始まる前の段階の我が国における汎用的な技能育成が転職とどのような関係にあったのかが、もう少し掘り下げて論じる必要がありそうな気がします。最後に、繰り返しになりますが、かなり難解な学術書です。OJTの聞き取りを収録した第5章などは私には理解できない部分の方が多かったような気がします。覚悟して読み始めるべきでしょう。

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次に、ロバート B. ライシュ『最後の資本主義』(東洋経済) です。著者はクリントン政権下で労働長官を務めたリベラル派のエコノミストです。上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は Saving Capitalism であり、2015年の出版です。まさか、今どき、資本主義がマルクス主義的な社会主義革命で打ち倒されると予想するエコノミストはいないでしょうから、資本主義本来のあり方を政府が主体となって取り戻すべき、との主張であると理解すべきでしょう。まず、自由市場と政府のどちらが好ましいかという立論を論破します。すなわち、所有権の尊重や独占の回避と競争の促進などの市場の基礎的な条件を整えないことには自由な市場などあり得ないわけで、その市場の基礎的な条件整備を行うのはまさに政府でしかありえない、という議論が展開されます。その上で、資本主義の5つの構成要素として、所有権、独占、契約、破産、執行を上げ、これらのすべてについて、ここ20-30年で大きな変容を来たし、資本主義の市場システムの名の下に富裕層に所得や富が集中するようなシステムが出来上がってしまっており、政府がもっと活動的な仕事をして富裕層に課税して事後的に再分配を行うとか、あるいは、もっと望ましいのは再分配するまでもなく、多くの市民が公平な分配であると納得するような市場のルールを定め、それにより格差を縮小させるようなシステムを作り上げることであると結論しています。そして、その最大の眼目として、著者は本書でベーシック・インカムの導入を主張しています。そうしないと、やや極論に聞こえるかもしれませんが、ワイマール民主主義がナチスに乗っ取られ、ロシアが共産主義という大きな遠回りをしたように、資本主義がある意味で崩壊する危険があるとし、それが本書の英語の原題のタイトルとなっています。ピケティの『21世紀の資本』が主張するように、企業幹部がとてつもない所得を得ているのはストック・オプションたストック・アワードのためであると結論し、富裕層に対する拮抗勢力、すなわち、ガルブレイス教授の主張した意味でのCountervailing Powerの必要を強調しています。米国大統領選はトランプ次期大統領の当選で終了しましたが、民主党の予備選で社会民主主義者をもって任ずるサンダース候補の善戦が注目されましたし、そういった意味で、格差の拡大をはじめとして今の経済システムは何かがおかしい、と感じている市民は少なくないと思います。なかなか実現の難しい課題ですが、ライシュ教授の主張に耳を傾けることも必要だと私は感じています。

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次に、アレック・ロス『未来化する社会』(ハーパーコリンズ) です。著者は未来学者として2008年大統領選挙の当時からオバマ政権の成立に尽力し、第1次オバマ政権ではヒラリー・クリントン国務長官の参謀として世界80万キロを行脚したといわれています。その未来学者が、ロボット、ゲノム、暗号通貨、サイバー攻撃、ビッグデータ、未来の市場の6つのテーマで未来世界を論じています。いろんな点で興味をそそられるんですが、第1に、テクノロジーの観点からは、ひとつひとつのステップを駆け上がるような段階的な発展ではなく、跳躍の論理が可能となる場合があります。すなわち、典型的には移動体通信であり、米国や日本のように固定電話から携帯電話に進むんではなく、固定電話の段階をすっ飛ばしていきなり携帯電話の段階に進んだ中国やアフリカの国なども少なくありません。ですから、その昔に一橋大学の松井先生や小島先生が主張された雁行形態発展理論もあるにはあるんでしょうが、その昔のような繊維や食品や雑貨といった軽工業から重化学工業に続く発展段階をたどる国もあれば、軽工業を経験せずにいきなり重化学工業に進む国もあり得ます。第2に、本書でもテクノユートピアとして批判的に指摘されていますが、未来の発展方向はすべからくすべてがバラ色であるとは限りません。ロボットが外科手術を行うようになれば、医療費負担の軽減のために保険会社などが安価なロボット手術を半強制する可能性もありますし、もちろん、ロボットや人工知能(AI)で失われる雇用も少なくない可能性が高いと考えるべきです。ゲノムの解読が進めばデザイナーベビーの可能性がうまれますが、それがいいことなのか、どうなのか、著者も判断を保留しているように見えます。仮想通貨ではつい最近日本に本拠を構えビットコイン大手だったマウントゴックスの事件も記憶に新しいところです。ただ、本書ではビットコインが通貨としては失敗する可能性があるものの、ブロックチェーンは信頼できる取引のためのプラットフォームとして活かされる可能性は十分あると主張しています。また、私が従来から指摘している通り、ビッグデータが利用可能となった現段階で、プライバシーについては一定の範囲で犠牲になる可能性を本書でも認めています。とまあ、いろんな論点で未来社会について論じており、私のような頭の回転の鈍い人間でもインスパイアされるところが大いにありました。未来社会をのぞいてみたカンジでしょうか。

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次に、エドワード・ヒュームズ『「移動」の未来』(日経BP) です。著者はピュリツァー賞受賞経験もある米国のジャーナリストです。本書の英語の原題は Door to Door であり、通勤や貨物の移動も含めて、もちろん、自動車だけでなく海運や鉄道まで幅広く視野に収めています。ただし、米国の交通事情からして、やや鉄道の比重が小さいような気がします。特に、地下鉄はニューヨークなどでとても発達しているにもかかわらず、カリフォルニア在住の著者の視野には入っていないように見受けられます。ということで、ネットで電子的につながり合って、情報がモノすごい速さで飛び交う世界で、実際にヒトやモノの移動がどこまで重要かは疑問に感じる向きもあるかもしれませんが、実はかなり重要だと私は考えています。かつては買い物といえば、ヒトの方が商店に出向いて買い求めるのが一般的でしたが、今ではネットで注文して運送屋さんが届けてくれるのが無視できない割合を占めています。本書では、世界が、特に経済が、ヒト、特に通勤面から考えたヒト、さらに、もちろん、モノがどのように移動して経済社会を成り立たせているかを概観しています。特に、グローバル化が進んで輸出入による取引がここまで拡大すれば、移動も当然グローバルに行われます。日本などは、特にヒトの移動における通勤では、いわゆる公共交通機関である鉄道やバスが大きな役割を果たしていますが、まだまだ地方では米国と同じようにマイカーによる通勤も少なくありませんし、ほとんど1台に1人しか乗っていないクルマによる移動がいかに非効率なものかは議論するまでもありません。本書では重視していないように見受けられますが、地球温暖化の帽子のための二酸k炭素排出の抑制の観点からも、移動に関する議論は決して軽視できません。本書では、どうしても米国、それも西海岸の地域性が表面化していて、我が国の現状とビミューにズレを見せている気もしますが、最終的にはバスの活用とか、理解できなくもない結論を導き出しています。炭素税の導入という環境面も配慮した政策対応は著者の頭にないようですが、いろいろと日本の実情も読者の方で考え合わせて補完して、交通や移動について考えることが必要かもしれません。

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次に、竹内早希子『奇跡の醤』(祥伝社) です。舞台は陸前高田にあった醤油製造会社の八木澤商店です。2011年3月11日の震災直後の津波によって、200年の歴史を持つ土蔵をはじめ、醤油製造業にとって命ともいえる微生物の塊りだったもろみや杉桶、また、従業員の1人と製造設備のすべてを失っています。作者は有機農産物宅配業者に勤務し、八木澤商会との接点を持ったといわれています。ということで、本書はノンフィクションであり、新作・津波直後の4月1日に急遽9代目を継いだ社長の河野通洋をはじめとする八木澤商会の奮闘を取り上げています。震災から5日目にして「必ず再建する」と社員を前に約束し、醤油の製造復活前は、醤油の派生商品である麺類のつゆなどを作りつつ、必死に再建を目指す社員たちを温かい筆致で描き出します。そして、震災・津波直後の4月に、何と、岩手県水産技術センターから、伝統の醤油復活のために不可欠なもろみが津波の被害を逃れて無事に発見され、陸前高田を離れて内陸の一関市に工場を新設し、以前と同じ味の醤油の製造に成功するまでの5年間のドキュメントです。最後は、社長も従業員も昔の味の醤油の復活に半信半疑だったところ、舌の肥えた社長の子供達からお墨付きを得て安堵するシーンも印象的でした。地銀の岩手銀行や震災復興ファンドからの資金調達に支えられながら、誰1人として会社から解雇することはしないながらも、工場新設の過程で離れて行った何人かの従業員もいたようですし、企業経営のあり方について、すなわち、震災・津波で壊滅的な打撃を受けた地場の中小企業の復活の心あたたまる物語に終わるのではなく、企業の社会的使命とは何か、企業と従業員の関係はいかにあるべきか、そして、その企業を側面から支える銀行や公的機関の役割とは何か、そして何よりも、企業のトップ経営者の決断と行動の基準をどこに置くべきなのか、こういった企業を取り巻く経済活動の基本について大いに考えさせられる1冊です。

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次に、日本推理作家協会[編]『悪意の迷路』(光文社) です。ここ3年間に発表された短編を日本推理作家協会がアンソロジーとして編集しています。なお、すでに姉妹編の『殺意の隘路』も刊行されており、私も借りてあるんですが、本書でいえば2段組500ページ超のボリュームであり、年末年始休みの暇潰しにうってつけです。ただし、『殺意の隘路』は400ページ余りです。コピペで済ませる収録作品は、芦沢央「願わない少女」、歌野晶午「ドレスと留袖」、大沢在昌「不適切な排除」、大山誠一郎「うれひは青し空よりも」、北原尚彦「憂慮する令嬢の事件」、近藤史恵「シャルロットの友達」、月村了衛「水戸黄門 謎の乙姫御殿」、西澤保彦「パズル韜晦」、東川篤哉「魔法使いと死者からの伝言」、藤田宜永「潜入調査」、三津田信三「屋根裏の同居者」、湊かなえ「優しい人」、森村誠一「永遠のマフラー」、柚月裕子「背負う者」、米澤穂信「綱渡りの成功例」となっています。売れっ子ミステリ作家の力作そろいですが、特に、「憂慮する令嬢の事件」はシャーロック・ホームズのパスティーシュとなっていて、面白く読みましたが、謎解きが少し平板だったような気がして、もう少し意外性が欲しかった気がします。また、水戸黄門のパロディタッチで書かれている「謎の乙姫御殿」もとても面白く読めました。「背負う者」は新しい著者のシリーズでしょうか、『あしたの君へ』の冒頭に収録されている短編らしく、同じ著者の検事の佐方シリーズと少し似ている家裁調査官補の望月大地のシリーズ第1作だと思います。なお、『あしたの君へ』はすでに借りてありますので、来週の読書で取り上げるんではないかと予定しています。またまた繰り返しになりますが、年末年始休みの暇潰しにうってつけです。

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最後に、井手留美『賞味期限のウソ』(幻冬舎新書) です。著者はケロッグの勤務やフードバンクのお勤めなど食品・食料に関する実務経験があるだけでなく、栄養学の博士号もお持ちの専門家です。本書では、日本の食品業界のビジネス慣行などから賞味期限が短く設定され、食品ロスが生じている実態を明らかにしています。なお、私が借りて読んだのは黄色の表紙の新書で、上の画像のような派手な表紙ではなかったんですが、まあ、同じ内容なのだろうとしておきます。ということで、食品ロスとはすなわちコストアップの原因であり、我々消費者に跳ね返ってきているわけですが、著者は他の点については食品業界だけでなく家庭の責任や浪費を主張しているにも関わらず、なぜか、賞味期限の厳しい設定については、章句品業界のバックグラウンドに控える消費者に目が行っていないように見受けられ、私は少し不思議な気がしました。食品だけでなく、衣料品とか、電機製品など、日本の消費者の要求水準はすべからく厳しく高く、そのためのコストアップはかなりのものだと私は認識しています。もちろん、国内消費者の要求水準に適合した品質を持って海外に売り込めば、価格はともかく品質面では高い国際競争力を得た、という面はあるにしても、エコノミストでなくとも品質と価格がトレードオフの関係にあることは知っているわけで、本書でも高品質低価格の食品を求めるとかは消費者のエゴであると断じています。ですから、価格見合いの品質で満足し、賞味期限や消費期限の長い製品を店の奥まで目を走らせて買い求めるような消費行動を慎み、消費期限ギリギリの食品はフードバンクに寄付する、などのより合理的な消費行動、企業活動を推奨しています。ただ、エコノミストとしての私の感触からすれば、残り消費期限と価格を連動させるなどの合理性も必要かという気はします。年末大掃除で忘れ去られていた食品が見つかった場合などの対応にも参考になるかもしれません。

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最後の最後に、上の画像は今週日曜日12月26日の日経新聞の「エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」から引用しています。一応、私も官庁エコノミストの端くれとして、この10冊はすべて読んでいますが、6位、8位、10位と3冊も白川総裁時代の旧来型の日銀理論家の著作が入っており、私には少し違和感が残りました。黒田総裁下での異次元緩和に対する批判がそこまで強いんでしょうか。そうだとすれば、昨日取り上げたリフレ派の本で、批判に対する反論を強く打ち出すのも理解できるような気もします。どうも、私にはよく判りません。
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2016年12月29日 (木) 21:37:00

原田泰・片岡剛志・吉松崇[編著]『アベノミクスは進化する』(中央経済社)を読む!

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今週になって、思わぬ方からクリスマス・プレゼントが届きました。原田泰・片岡剛志・吉松崇[編著]『アベノミクスは進化する』(中央経済社) を共著者のおひとりである三菱UFJリサーチ&コンサルティングの片岡剛志上席主任研究員からご寄贈いただきました。
副題が「金融岩石理論を問う」となっていて、リフレ派の観点から金融政策に関していくつかのの疑問や批判に対して反論したもので、大学の研究者というよりは、なぜか、シンクタンクなどのアナリスト系のエコノミストが多く執筆しています。民間エコノミスト出身の日銀政策委員である佐藤委員と木内委員の任期が来年2017年半ばだったように私は記憶していますので、何か関係があるのかないのか、私にはよく判りません。といった野暮な詮索は別にして、いろんなテーマで勉強になる本なんですが、ハッキリいって「今さら感」いっぱいな気もします。特に最後の12章のマイナス金利は取って付けたようで中身もやや貧弱と受け止めました。あえて取り上げれば、4章のバブルと11章の構造失業率の推計問題が評価できると考えます。以下の通りです。
まず、4章で取り上げているバブルについては、旧来の日銀は「羹に懲りて膾を吹く」ように、バブル崩壊を招かない要諦は、そもそも、バブルの発生を避けるという観点から、ひどい引き締め基調の金融政策運営だったわけで、こういった点を私なんぞも批判的に見ていたんですが、本書第4章ではそれなりによく整理されたバブル観が示されています。今や「合理的なバブル」とか「バブル・ライド」といった見方もあるわけですし、少なくとも、バブル発生を防止するのが経済政策運営の最大の目標とする考え方がおかしいという点についてはほぼ合意があるように私は考えています。次に、11章でスポットを当てている構造失業率については、本書の結論を私も大いに支持します。すなわち、フィリップス曲線的にいうと現状の3%を少し上回るくらいの失業率は完全雇用ではなく、日銀のインフレ目標の2%に対応する失業率は3%を下回る、というのが私の直感的な理解です。11章でも出てくる労働に関する国立の研究機関に私も在籍していたことがあるんですが、いくつかの経営者団体や労働組合などとの懇談会で、当時の3%台半ばの失業率が完全雇用であって、それ以上に失業率が下がらないだろう、とのご意見に対して、私から失業率が3%を下回らないと物価は上がらない、とフィリップス・カーブ的な反論をしてしまったことも記憶しています。

最後に、繰り返しになりますが、本書はリフレ派の金融理論に対する疑問や批判に対する反論を収録していますが、とても「今さら感」が強いです。浜田先生が金融政策だけでなく財政政策のサポートも必要、と主張し始めたのはつい最近で、書籍メディアでの対応はまだムリとしても、少なくとも、黒田総裁の下で異次元緩和が始まって3年半を経過してもサッパリ物価が上がらないのはなぜなのか、をもっと正面から説得的に提示すべきです。異次元緩和で物価が上がらないのであれば、逆から見て、まさに「岩石理論」的に、物価が上がり始めてしまってから引き締めに転じても、金融政策による物価のコントロールが出来なくなる可能性も残されているわけですから、金融政策でどこまで物価をコントロールできるかは重要な論点だと思うんですが、いかがなもんでしょうか。加えて、ご寄贈いただいた片岡さんは、以前、アベノミクスの「進化」の方向として分配を示唆されていたように記憶しています。実際に、同一賃金同一労働などを含めて、いわゆる働き方改革も進んで来ており、本書のタイトルであれば、そういったラインに沿った「進化」を期待するのは私だけでしょうか?
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2016年12月24日 (土) 18:12:00

今週の読書はグッと落ち着いて経済書と専門書ばかりで5冊だけ!

先週末あたりから年末年始休暇も見据えて、周辺の図書館から大量に本を借りまくっています。一時、在住区の図書館からは限度の20点に近い19点まで借りてしまいました。そのうち、今週の読書は以下の5冊にペースダウンしました。最後に取り上げているワシントン・ポスト取材班による『トランプ』にものすごく時間をかけてしまった結果だという気がします。

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まず、伊藤宣広『投機は経済を安定させるのか?』(現代書館) です。著者は京都大学大学院で博士号を取得した高崎経済大学の研究者です。副題は「ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』を読み直す」となっており、ケインズ的な観点から投機と経済的安定を議論しています。というのも、もともと、ケインズ的な理論で国民所得水準を決める重要な変数のひとつである利子率は流動性選好と貨幣供給から決まり、後者は中央銀行がコントロールするとしても、前者の流動性選好のバックグラウンドには投機の問題があると考えられるからです。本書では議論の前提として、いわゆるケインズ経済学の戦後経済社会における隆盛と衰退、特に、1970年代のインフレやスタグフレーションに伴ってケインズ的なマクロ経済政策の有効性に疑問が持たれ、1980年前後から英国のサッチャリズムや米国のレーガノミクスによる新自由主義的な経済政策の試みはもちろん、ケインズ個人の投資実績まで明らかにして、当期と経済的安定性の問題について解明を試みますが、結局、結論は竜頭蛇尾に終わり、p.198 にある通り、当期が逆張りか順張りか、すなわち、上がっている銘柄をさらに上がると考えて買い求めるか、それとも、上がったら下がると考えて売りに出すか、それ次第であると結論しています。ただし、私は市場それ自体の動きも考慮に入れる必要があると指摘しておきたいと思います。すなわち、例えば、日米の株式市場においては、米国ではモメンタム相場であって、上がっている株をさらに買い上げるという順張り戦略のリターンが高く、逆に、日本はリターンリバーサル相場で逆張りのリターンが大きいとされていて、少なくとも計量経済学の分野では実証的に決着がついています。すなわち、本書の結論に従えば、米国では投機は不安定要因であり、日本では経済安定要因である可能性があります。しかし、そこまで単純かといえば、私にはそうも思えません。もちろん、本書でも紹介されているように、右派的な経済学において、例えばフリードマン教授が投機を安定化要因と指摘し、変動為替相場制を推奨したわけですが、これまた、それほど単純でもないような気がします。まあ、極めて複雑怪奇な問題にこの程度のボリュームの書籍における検証で決着がつくと考えられないわけですから、このあたりの結論が妥当なのかもしれません。

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次に、久保亨・加島潤・木越義則『統計でみる中国近現代経済史』(東京大学出版会) です。著者3人は中国経済史の研究者であり、出版社から明らかな通り、本書は学術書と考えるべきです。ということで、本書は19世紀半ば過ぎくらいから、大雑把に150年に渡る近現代中国の経済史を経済活動と政策動向の両面から跡付けています。すでに、21世紀に入り、GDPで測った経済規模では我が国を追い越して米国に次ぐ経済大国となった中国を、それなりの長いタイムスパンで歴史的に分析し直し、歴史から中国経済の先行きを考える際の指針とすべく、来し方行く末を考えるのもいいような気がします。ただ、本書は経済史のいくつかの方法論の中でも、かなり淡々と経済発展を数量的に、というか、もっと端的に表現すると量的にのみ把握しようと試みており、逆にいえば、1920年の辛亥革命による封建制の清朝打倒と1949年の共産中国の成立など、政体的に極めて大規模な質的変化があったにもかかわらず、というか、それよりも経済活動の継続性をより重視した研究を取りまとめています。ですから、王朝ごとに取りまとめられた歴史と違って、本書では具体的に工業、農業、商業・金融業、エネルギーといった分野ごとに分析、というか、記述を進めています。確かに、製造業に目を向けた大Ⅱ章の近代工業の発展についても、いわゆる西欧的な産業革命やロストウ的なテイクオフといった質的な転換点に関する議論よりも、生産量の推移などの定量的な把握が中心になっていたりします。それはそれで、OKという読者と、私のように少し物足りない読者もいそうな気がします。特に、近代的な組織だった生産ラインを持つ工業はともかく、小規模な農業などは生産意欲、というか、いわゆるインセンティブに如実に反応する場合も少なくなく、第Ⅴ章の農業を取り上げた章で、生産互助会から合作社、さらに、人民公社に生産形態が集約され、そして、現在はどうなっているのか、といった生産高のバックグラウンドになっている生産組織や生産様式についても、もっとしっかりした分析が欲しかった気がします。ただ、研究者の書いた学術書ですから、分析目的についてはそれなりの背景があり、例えば、テキストにするとか、あったりするんでしょうから、読者によってはOKかもしれません。質的変化の分析や記述がほとんど欠けている分、統計的なテーブルは充実しています。ソチラの目的で読めばOKなのかもしれません。

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次に、 デロイト・トーマツ・コンサルティング『モビリティー革命2030』(日経BP社) です。著者はコンサルティング・ファームのリサーチチームであり、企業名からして会計士さんが多かったりするんでしょうか。私はこの業界はよく知りません。本書では、自動車産業が大きなティッピング・ポイントを迎えているとして、その要因を環境対応としてのパワートレーンの多様化、自動運転などのインテリジェント化、そして、Uberなどのシェアリングサービスの3点があると指摘し、産業としての方向性を議論しています。まず、パワートレーンの多様性とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、要するに、従来のように、トラックやバスなどのごく一部のディーゼルを別にすれば、自家用車はほとんどガソリンで動くレシプロ・エンジン一本槍、というわけではなく、ハイブリッド車や、プラグイン・ハイブリッド、電気自動車など動力源が多様化したという意味です。これに、自動運転などのインテリジェント化とシェアリング化を加えると、まず、自動車がドライバーにとっても運転する楽しさではなく、運転手付きの社用車で通勤する重役のごとく、単なる移動の手段となるわけですから、例えば、自動車の動力性能などは重視されなくなる可能性が高くなります。シェアリング社会で自動車を保有するのではなく、単なる利用者になれば、自動車そのものの稼働率は高まり、効率的な運用が可能となりますから、人々の移動に必要とされる自動車の数量=台数は少なくて済みます。有り体にいえば、自動車が売れなくなるわけです。我が国経済は私の実感でもかなり自動車産業のモノカルチャーに近く、自動車が効率的に組織されて公共交通機関に近くなり、多くの台数を必要としなくなれば、我が国経済は大いに傾く可能性すらあります。関連産業としても、米国の保険業の業界団体の試算によれば、自動ブレーキ搭載車の保険金請求件数は▲14%減少したといいますので、自動運転によって安全性が高まれば保険業の収入も減少する可能性が高くなります。その中で本書最終章の提言は迫力不足としかいいようがありません。まあ、本書後半の商用車のあたりから、米国の先進的なメーカー幹部へのインタビューでもって方向性を探ったりしていますので、それほど自信がないのも判りますが、やや迫力不足で、しかも、タイトル通りに2030年というかなり近い将来のお話であって、いわゆるシンギュラリティの2045年よりずっと前の段階の将来像を探っているにも関わらず、現状の方向性を先延ばししただけの内容だという気がします。もう少し深い内容を望んだ私の期待が過剰だったのかもしれませんが、やや迫力不足で物足りない気がします。

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次に、中野佳裕/ジャン=ルイ・ラヴィル/ホセ・ルイス・コラッジオほか『21世紀の豊かさ』(コモンズ) です。著者は掲げた他にも何人かいて、名前から判別できる日本人は別として、フランスなどの大陸欧州と中南米出身の社会科学系統の研究者が中心かと思います。邦訳者が序章の冒頭に記している通り、「「本書は、フランスの社会学者ラヴィルとアルゼンチンの経済学者コラッジオの共同編集による『21世紀の左派 - 北と南の対話に向けて』の日本語特別編集版だ。」ということのようであり、スペイン語版は2014年に、フランス語版は2016年に、それぞれ出版されています。ちなみに、私はスペイン語を理解するんですが、早く出版された方のスぺイン語版のタイトルは Reinventar la isquierda en el XXI siglo となっています。そして、邦訳する段階でなぜか「左派」が「豊かさ」に置き換えられています。理由は不明です。私はタイトルが「左派」であっても読んだかもしれませんが、パスする人もいるかもしれません。ということで、本書では経済的な成長至上主義を批判しつつ、本書のキーワードとなっている「オルタナティブ」を提示しようと試みています。その試みは成功しているかどうかは、私には判然としませんが、ひとつには「公」でも「私」でもなく、「共」の分野の拡大を目指す点などが上げられます。単なる言葉遊びではなく、もちろん、精神論だけでもなく、コモンズとしての適用可能な範囲の拡大が上げられます。そうすると、右派的な所有権の問題がありますので、一気に社会主義とまではいかないとしても、本書では何度か社会民主主義に言及されますが、何らかの左派的な所有権構造の社会を変革することもひとつの視点となるかもしれません。ただ、本書でも指摘している通り、ソ連の崩壊や現在の中国を見ている限り、マルクス主義的な共産主義や社会主義が国民の理解を得られるとは到底思えませんし、本書でも、マルクス主義的な一直線の生産力の拡大は否定されています。他方で、マルクス主義的な革命路線までの大きな変革ではないとしても、ポスト資本主義やポスト民主主義に向けての何らかのパラダイム・シフトや変革=トランジションの必要性も本書では追求しています。また、ラクラウの議論に立脚して、マルクス主義的な観点から、単なる階級闘争にすべてを流し込むのではなく、フェミニズムや教育・医療をはじめとする広い意味での社会福祉の増進、労働者保護などの視点も導入されています。社会民主主義的というか、社会改良主義的な視点かもしれません。最後に、そうはいっても、本書はフランス的な構造主義・ポスト構造主義などの影響を強く受けており、しかも、邦訳の質がそれほど高くなく、例えば、「デアル」調と「です・ます」調の文章が混在するなど、決して読みやすい内容ではありません。出版社も聞きなれないところですし、編集の質にも疑問があります。どこかで少しくらいは立ち読みしつつ、読むかどうかを決めた方がいいかもしれません。

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最後に、ワシントン・ポスト取材班『トランプ』(文藝春秋) です。今年の海外からの大きなサプライズとして上げられるのは、英国のEU離脱、いわゆるBREXITと、米国大統領選挙でのトランプ候補の当選だったのではないでしょうか。しかし、世界の困惑をよそに、少なくとも我が国経済はトランプ次期米国大統領を好感し、円安と株高が進んでいるのも事実です。ということで、本書はワシントン・ポスト取材班が今年半ばに3か月間20人のジャーナリストを動員して、米国共和党の予備選挙と党大会までのトランプ次期大統領に関するパーソナル・ヒストリーや言動・行動を取りまとめたものです。上の表紙画像に見る通り、英語の原題は Trump Revealed ですから、直訳すれば、「暴かれたトランプ」といったカンジでしょうか。圧倒的なボリュームです。引用文献を含めて500ページをはるかに超え、トランプ次期米国大統領の人となりを余すところなく明らかにしています。11月の米国大統領選挙前までの情報ですから、かなりトランプ次期大統領に対して否定的な内容と読めますが、不動産経営者、カジノ経営者、テレビのエンタテイナー、などの公的、というか、人々の目に触れる面の顔を中心に取材したり文献に当たったりしており、家族構成やましてや祖先の出身地などは、かなり粗略な扱いとなっています。私はこれが正しい報道だと受け止めています。ともかく、情報量としては圧倒的です。これほど私が時間をかけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。そういった意味で、典型的な米国ジャーナリズムの成果といえます。同じような情報量の多さで、例えば、ナオミ・キャンベルの著作などは、左派ベラルとして私の傾向にマッチしているのがわかっていながらも読了を諦めたりしたことがあるんですが、本書は何とか読み通すことができました。とても興味あるテーマと題材ながら、覚悟して読み始めるべきです。
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2016年12月17日 (土) 14:12:00

今週の読書は経済書や小説も含めて7冊にややペースダウン!

今週の読書は経済書や小説などを含めて以下の通りの7冊です。ただ、新刊ではないので取り上げませんでしたが、一昨年話題になった『京都ぎらい』も読みました。嵯峨出身で宇治在住という洛外派の著者の見方や考え方に、宇治出身の私も大いに共感するところがありました。また、米澤穂信の古典部シリーズから6年振りに短編集として第6巻『いまさら翼といわれても』が出版され、さらに、シリーズ最初の『氷菓』が山﨑賢人と広瀬アリスの主演で来年封切りの実写映画化されるということなので、前の1-5巻を読み返し始めています。というのは、5巻全部を読んだという記憶がないからです。今のところ、第1巻『氷菓』、第2巻『愚者のエンドロール』、第3巻『クドリャフカの順番』を読み終え、3巻までは読んだ記憶がありました。第4巻か第5巻が短編集のハズで、実は最新第6巻も短編集なのですが、短編集は読んだ記憶がなく、単に忘れているだけの可能性もあるところ、これから読み返したいと思います。第6巻『いまさら翼といわれても』は今日中に近くの区立図書館に借りに行く予定です。

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まず、河音琢郎ほか[編著]『オバマ政権の経済政策』(ミネルヴァ書房) です。編著者のグループはなぜか、というか、何というか、全員が京都大学大学院のご出身ですから、そういうグループなんだと思います。8年前には同じ出版社から『ブッシュ政権の経済政策』を出版しているようですが、私は未読です。ということで、タイトル通りの内容です。ただ、経済学の観点から分析した経済政策だけでなく、政治学も含めた政治経済学の観点からの研究書です。オバマケアと俗称される医療保険改革はもちろん、特に、TPPをはじめとする第8章の通商政策はそうですし、第9章の外交・安全保障政策なんかは通常は経済政策のスコープからは外れているかもしれません。いずれにせよ、2009年に前政権からリーマン・ショック直後のいわゆる Great Recession の米国経済を引き継いだ後のオバマ政権におけるややリベラルな方向性を志向した経済政策が対象とされています。ということで、サブプライム・バブルの崩壊という極めて大きなマイナスのショックからオバマ政権の経済政策は始まり、その分をある程度割り引いて考える必要すら感じるものの、基本は、特に財政政策面で議会との協調がうまく行かずに、緩和的な金融政策とやや財政再建を目指した財政政策の軋轢の中で、米国経済の舵取りは必ずしも万全ではなかった、私は評価しています。大きな眼目であった医療保険改革については制度的に確立し、2013-14年のわずか1年で、無保険者が13.4%から10.4%に▲3%ポイントも低下した成果が本書でも示されています。ただ、社会保障政策のもうひとつの柱であった年金政策については本書でも目立った成果がなかったと結論しています。また、世界に開かれた通商政策ではTPPの合意に成功したものの、今年の米国大統領選で勝利したトランプ次期米国大統領が早々に破棄を明言しており、オバマ政権での盤石の取組みが欠けていた可能性もあります。オバマ政権の経済だけでなく全体としての政策を評価するひとつの指標として、今年2016年の米国大統領選挙において、非常な内向き政策を表明し反リベラルの旗幟を鮮明にしたトランプ候補が最後に当選したという事実とともに、民主党の予備選では社会民主主義者を自称するサンダース議員の検討にも注目すべきであり、オバマ大統領の各種政策はリベラルに支持を集めることに失敗し、逆にオバマ政権のリベラルな政策に対する反発が左右両派のやや極端な方向性への支持を増加させた可能性があると私は考えています。要するに、オバマ政権のリベラルを志向した政策は客観的に成功したかどうかはともかく、米国市民の支持を集めることには失敗した、と私は考えています。

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次に、永野健二『バブル 日本迷走の原点』(新潮社) です。著者は京都大学経済学部での私の先輩、というか、日本経済新聞をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。団塊の世代のようですから一線は退いているのかもしれません。私も同僚と今夏に我が国の高度成長期に関する研究成果を取りまとめ、主として途上国の政策当局者や企業幹部向けに供しているところですが、我が国の戦後の高度成長期、すなわち、大雑把に1970年代前半の石油危機までを考えると、いわゆる政官財の三すくみというか、三者一体となった日本独自の戦後システムの中で競争を抑制し、割安な為替と豊富な労働をテコにキャッチアップ型の成長を遂げたのが特徴ですが、1970年代前半にその高度成長も終演を迎えて安定成長期に入り、さらに、その前後からケインズ政策がインフレを招くという形で限界を露呈し、英国のサッチャリズムや米国のレーガノミクスといった新自由主義的な市場を最大限に活用する経済政策に舵を切ることとなります。その過程で米国がインフレ抑制のために猛烈な高金利を実施し、それがドル高を招き米国の国際競争力を大きく毀損したため、1985年のプラザ合意によりドル高是正が図られ、日本から見れば急速な円高が進みます。戦後の輸出に有利な為替が崩れることから、金融政策が極めて緩和的な方向にシフトし、それが遠因となってバブル経済を招きます。ちなみに、1980年代終わり近くに私は役所の経済モデルのうち、日本モデルを担当しており、データ作成で公定歩合が2.5%で動かなかったのをよく記憶しています。通常、エコノミストの分析には人間が現れないといわれたりしますが、ジャーナリストの手になる本書ではバンバン実名が出ます。もちろん、政治家や役所の高官、責任ある立場の経営者などですので「公人」ということで何ら差し支えはないと思います。ですから、個性的な人が、反社会的勢力も含めたアングラ社会の人も含めて、本書の中にウジャウジャいて、とてもお面白く読めます。私は1991年3月に日本を発って海外赴任したので、バブル崩壊直後の、例えば、1991年5月に発覚した尾上縫事件などはほとんど実感として知らないんですが、そういった社会性あふれる事件も再現されていたりします。もちろん、ドキュメンタリーというか、ノンフィクションであることはいうまでもありませんが、まるでフルカラーの映画を見ているようです。ただ、副題のように「日本迷走の原点」はバブル経済を招いたことではありません。バブル崩壊後の処理を誤ったのが、その後の「失われた20年」の大きな原因であることは記憶しておくべきでしょう。

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http://eb.store.nikkei.com/asp/ShowSeriesDetail.do?seriesId=D3-00032111C
次に、クラウス・シュワブ『第四次産業革命』(日本経済新聞出版社) です。著者はダボス会議などを主催する世界経済フォーラムの創設者であり、世界の政治経済を40年余りリードしてきた人物といえます。英語の原題は The Fourth Industrial Revolution であり、そのまま邦訳しているようです。今年2016年の出版です。ということで、第4次に至る1-3時についてはご想像の通りであり、第1時が悠久の昔の農業の開始による定住をもって第1次産業革命と定義し、第2次は特に第何次と付けずに普通にいう産業革命であり、上記期間とか鉄道とかのアレです。そして、第3次産業革命を最近までのデジタル技術の発達による通信革命とほぼ同義に使っています。そして、本書のタイトルたる第4次産業革命とは人工知能(AI)やモノのインターネット(IoT)、あるいはロボットなどに限らず、遺伝子技術やゲノムに関連したテクノロジー、あるいは、ナノテク、再生可能エネルギー、量子コンピュータなどの幅広い分野における現在進行形も含む近未来のエマージング・テクノロジーに支えられているとしています。まあ、2045年をシンギュラリティの特異点として、そのあたりでの従来とは不連続な技術の進歩を概観する向きもありますので、ほぼ同じ方向を向いた議論かと私は受け止めています。まだ必ずしも確定していない近未来の技術に支えられていますので、第4次産業革命とは形がハッキリしているわけではありません。いくつかの特徴を本書などでも抽出しようと試みていますが、成功しているかどうかは時間が経過しないと判然とはしません。プラットフォーム・ビジネスが主流になるようですが、今年の1月23日付けの読書感想文で取り上げたジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』と同じように、限界費用がほぼゼロとなり、公共財に似て非競合的である財が消費の中心になる経済を想定していますので、市場メカニズムでどこまで資源配分を解決できるかも不明です。悪く称すると、群盲象を撫でるが如き議論だという気もしますが、方向として好ましくないのが明らかなのは、テクノロジーにより代替される雇用が創出される雇用を上回る可能性が高く、すなわち、雇用が喪失する可能性が高い、という点と、格差や不平等が拡大する方向での成長に帰結する可能性が高い、という2点です。本書では解決策は示されていません。最後に、どうでもいい点ながら、付章でディープシフトとして、イクツカノチッピング・ポイントについてビジネスリーダーから予想を集めて2025年までの実現可能性を探っているんですが、シフト13の経営の意志決定にAIが用いられるシフトについては2025年までにチッピング・ポイントが到来する確率は45%なんですが、ホワイトカラーの職務をAIが代替する確率は75%と弾き出しています。ビジネスリーダーは自分たちの仕事はAIには奪われないものの、自分たちの部下の仕事はAIで代替されると見なしているようです。何と自分勝手な、と思うのは私だけでしょうか。

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次に、朝日新聞取材班『子どもと貧困』(朝日新聞出版) です。昨年2015年10月から今年2016年7月まで、朝日新聞において特集として掲載された記事を基に書籍化されています。デフレ経済が続いているとはいえ、先進国の一角を占める我が国において、ほとんど死と隣合わせのような貧困、それも何の自己責任も問えないような子供の貧困をジャーナリストのメから取材によりケーススタディとして取り上げています。個々の実例として、極めて重視すべき貧困問題であり、個々のケースについてはよく取材もされていますが、社会全体としてどのような取組みが必要とされるのか、最後の最後にこども食堂の活動の実例がいくつか紹介されていますが、国民ひとりひとりが現に目の前にある子どもの貧困に対して何が出来るのかを問うて欲しかった気がします。でないと、なんだか、貧乏自慢のようになりかねませんし、本書の中でもいくつか子供のための施設が地域の迷惑施設のように扱われているような例も散見されます。誇り高い朝日新聞の記者の取材ですので、母子家庭や失業家庭の子供の貧困について、こういった上から目線で取材することもあり得ますでしょうが、かなり他人事のような冷めた記事が多いような気がしました。本書に収録された取材記者のコラムの中で、税負担が増加するという形で痛みを伴っても子供の貧困を解決する覚悟が国民にあるかどうかを問うているセンテンスがありましたが、そんな問題ではないんです。私がいつも主張しているように、本書に収録されたような状態に置かれた子供に対して基本的人権が守られるようにすることは正義の問題だと思います。国民の選択の問題ではありません。最後に、子どもの貧困についてさまざまな取材がなされていて、学校の教師や研究者、地域などのNPO法人などが取材を受けていますが、次の『無葬社会』の感想とも重複しますが、宗教界の僧侶などには取材が及んでいません。朝日新聞記者の問題なのか、現在の宗教界の問題なのか、こういった人権問題であるとともに地に足つけて議論すべき社会問題に、宗教界からの声が出てこないというのは我が国特有の問題がありそうな気もしないでもありません。

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次に、鵜飼秀徳『無葬社会』(日経BP社) です。著者は報知新聞から日経ビジネスの記者を務めたジャーナリストであるとともに、浄土宗の僧侶の顔も持っている人物で、1年余り前の2015年9月6日付けの読書感想文のブログで取り上げた『寺院消滅』の著者でもあります。ということで、まず疑問なんですが、横浜の火葬場だけなのかもしれませんが、初っ端 p.10 の火葬場の10日待ちというのについてはウソっぽく読みました。私も年何回かお葬式やお通夜に出席することがありますが、さすがに火葬場の10日待ちというのは都内では聞いたことがありません。こういった細かい点で事実関係に疑問を持たれると、他の部分の真実性にも疑いが飛びししかねないような気がして少し残念な気がします。お墓については完全にビジネスになっていて、本書でも永代供養墓を詳しく紹介していますが、我が家も首都圏でお墓を購入しています。京都の東山今熊野にある菩提寺に相談し、住職同士がいとこに当たるという東京の浄土真宗のお寺を紹介してもらい、私の父の納骨を済ませています。ですから、異常に地価の高い東京でいろんな形式のお墓があるのは理解できるところです。ただ、これも疑問なんですが、p.108 の樹木葬=散骨について桜に「輪廻転生」するイメージ、というのも理解できませんでした。輪廻転生から抜け出すのが仏教でいうところの悟りであり、いわゆる解脱であるハズで、浄土宗の僧侶でもある著者には重々理解されていると思うんですが、そのあたりの表現ぶりが私の理解を超えています。それから、どうしても2章のお葬式に着目してしまうんですが、お葬式がビジネス化してアマゾンのお坊さん便について取り上げてあり、その視点は私も共有するものがありました。日本語で俗に「坊主丸儲け」という言葉がありますが、例えば、京都の拝観料への課税などで市民が寺院に対して冷たい視線を送ったのには理由があり、寺院や僧侶がこのご時世に優遇されすぎている、という一般市民の視点も著者には取り入れて欲しかった気がします。

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次に、長岡弘樹『教場2』(小学館) です。警察モノを得意とする人気ミステリ作家の前作『教場』に続く第2弾です。主人公というか、前作と同じように白髪隻眼の風間教官を中心とし、警察学校の初任者課程にスポットを当てた短編集が6編収録されています。2013年に公刊された前作の『教場』はほぼ3年前の2014年1月19日付けの読書感想文で横山秀夫『64』とともに取り上げています。第1話の「創傷」では、初任科第100期短期課程に在籍し、医師から警察官に転職した変わり種の桐沢篤を主人公に、かつて病院で治療した同期生が中小企業の町工場で何を作っていたかに思い当り愕然とする、というものです。第2話「心眼」では、教場における備品の盗難が相次ぎ、しかも、盗まれたのは、PCのマウス、ファーストミット、木琴を叩くマレットなど、単独では使い道のないものばかりで、その解決が図られる、というものです。第3話「罰則」では、プールでの救助訓練が嫌でたまらない学生の津木田卓がたくらむちょっとしたイタズラ、屈強な体格のスパルタ教師である貞方教官に向けたイタズラの結末を追う、というものです。第4話「敬慕」では、女子学生の菱沼羽津希が初任科第100期短期課程の中でも特別な存在として、広告塔として重用されている一方で、レスリング部出世院で体育会系の枝元佑奈をテレビのインタビューの手話通訳として引き立て用に使おうとしたところ、意外な事実が発覚する、というものです。第5話「机上」では、刑事を志願し将来の配属先として刑事課強行犯係を強く希望している仁志川鴻は、殺人捜査の模擬実習を提案し、意外な結末を迎える、というものです。第6話「奉職」では、警察学校時代の成績が昇進や昇級、あるいは、人事異動等ことあるごとに参照される重要性があり、同期で卒業生総代を争う成績優秀な美浦亮真と桐沢篤の葛藤を描く、というものです。私は同じ公務員ながら、警察の世界はほとんど知りませんが、最終第6話の p.226 で、警察学校の初任者過程というか、警察官試験合格者の全色の変り種一覧の落書きが提示されていて、ここまでバラエティに富んでいるのかとびっくりしましたが、第1話の町工場での密造品なんかは警察からすれば、とんでもないことであり、どこまでホントなのか、実感あるのか、よく判りません、フツーの私のような公務員の世界ではあり得ないお話のような気もします。私はこの作者の短編シリーズでは傍聞きの方に好感が持ています。

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最後に、西内啓『統計学が日本を救う』(中公新書ラクレ) です。作者はベストセラーになった『統計学が最強の学問である』の著者です。特に、強い意図もなく何となくで図書館で予約してしまったんですが、中身はほとんど統計学を用いての経済学的な解説に終止しています。というのも、私は一応『統計学が最強の学問である』を読んだんですが、なあ、ハッキリいって、大した中身もなく、ほとんど忘れてしまっていたもので、本書はそれなりに新鮮に感じました。しかも、著者の主張はほとんど私と一致しています。本書では、着眼点として、第1章では高齢化の原因は平均寿命の延伸ではなく少子化であると指摘し、これは極めて論理的で統計的にも正しいと私は感じていますし、第2章の貧困対策としての社会保障政策のあり方の議論についても、ほぼエコノミストとして同意しています。第3章の医療経済学的な分析は著者の専門分野ですので、私の感想は差し控えるものの、私のようなエコノミスト、すなわち、ベンサム的な功利主義に基づく学問を専門とするエコノミストでさえ、やや顔を赤らめるようなコスト・ベネフィット分析が赤裸々に展開されています。人の健康や生命を扱う医療であるがゆえ、慎重な考えが必要とも言えますし、逆に定量的な割り切った計算も必要ともいえます。このあたりは私はパスです。第4章の最終章では、とうとう経済成長の必要性につての議論が展開されます。正面切った正当な議論だと思います。ただし、例えば、橘木先生などは成長と分配をトレードオフとして捉えているような気がしますが、そういった視点は本書の著者にはありません。分配の問題はまったく別途として考えているような雰囲気です。そのあたりは本書の弱点のような気がします。すなわち、統計で捉えられる部分均衡的な解決策はとても明解で論理的で正確な気がしますが、統計で捉えられていない、あるいは、モデルの中に入り切らない別の重要な問題まで目が届いていないようです。でも、その限界は許容されるべきくらいに本書の主張は明解で正確です。
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2016年12月10日 (土) 13:49:00

今週の読書はいろいろあってやっぱり9冊!

今週は、少し体調を崩して風邪をひき、咳き込んで睡眠不足になったりしたんですが、それでも読書時間は確保されてしまい、以下の9冊を読んでいます。ついつい手軽に読める新書に手が伸びてしまい、実質的には8冊くらいの勘定か、という気もします。でも、来週こそはペースダウンする予定です。

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まず、ジェリー・カプラン『人間さまお断り』(三省堂) です。著者はスタンフォード大学人工知能研究所(AI研)での長い研究歴を有し、その知識を持って新興企業を次々と起業していて、ややお歳を召したとはいえ、AI研究に草創期から従事して来た伝説的な研究者・企業家です。すでに人口に膾炙しまくっている通り、英語の原題は Humans Need Not Apply であり、日本語タイトルはほぼそのままで、2015年の出版です。邦訳書には、東京大学松尾豊准教授の解説が末尾に数ページ付属しています。米国でも日本でも話題の書といえます。ということで、最近、私が何冊か読んだ人工知能(AI)に関する一般向けの解説書のうちでもさすがに出色の出来です。タイトルだけからすると、AIが雇用を奪うという恐怖を煽るような内容に受け止められかねないんですが、決してそれだけではありません。前半はAI開発の現状や基本的な哲学的ともいえる考え方の整理なんですが、特に、後半の第6章以降などは、エコノミストからすれば背筋も凍りそうな内容も、サラリと含まれていたりします。人工知能を合成頭脳と労働機械に分毛て議論し、大雑把に、前者がソフトで後者がハードなんでしょうが、この両者を合体、というか、人間型の労働機械に合成頭脳をインストールすれば、そのままヒューマノイド方のロボット、というか、アンドロイドになるわけで、両者を分けて考えても、いっしょに考えても大きな違いはないかもしれません。著者の最後の最後の提言はエコノミスト的にも大いに合意できるものですが、AIに契約の当事者となる権利と試算を被有する権利を与えてはいけない、というものです。要するに、人間さまが駆逐されるという恐れがあるんだと思います。ただ、私は基本的には、また、長期的には楽観的に見ていて、AIの進歩に人間の進化が追い付く可能性が本書では見落とされている可能性があります。というか、本書では人間の進化がAIの指数的な進歩に追いつかない、という現在までの事実を当然視しているような気もします。クラークの『地球幼年期の終わり』とか、高野和明の『ジェノサイド』ではないですが、人間も進化しAIと共生する可能性も無視できない、というのが私の見方です。もちろん、タイムスパン的に間に合わない、という見方もありそうな気はします。大いにします。

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次に、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』(みすず書房) です。著者は英国ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの遺伝・進化・環境部門の研究者であり、『ミトコンドリアが進化を決めた』で高い評価を受けているそうです。英語の原題は The Vital Question であり、上の表紙画像に見える Why the Life the Way it is? は副題です。2015年の出版です。ということで、難解な生物学進化学の書物です。絶え間なく流動する生体エネルギーが、40億年に渡る生物進化の成り行きにさまざまな制約となって来たとの観点から出発し、そのさまざまな制約こそが、原初の生命から我々人類に至るまでのすべての生物を彫琢して来た、というわけです。特に、シロートの私なんぞからみても、なかなかなもので、第2章で生命の定義に関してNASAの「ダーウィン進化の可能な自立した科学的システム」から始まって、第3章で化学浸透共役なるエネルギー形態のシンプルかつ変幻自在な特性に注目し、生命の起源のシナリオを説得的に描き出そうと試みたり、また、第5章では1遺伝子あたりの利用可能なエネルギーを手がかりに生物の大型化の限界や真核生物と原核生物の間の大きなギャップを説明しようと試みるなど、目を見張るようなアイデアを次々に提示しています。そして、第6章で有性生殖の生命現象については費用便益分析や囚人のジレンマをはじめとするゲーム理論などの経済学用語での分析を志向しています。地球における生命の起源、進化に伴う複雑化、性による生殖と増殖、そして、最後の死といった難題を統一的に解釈しようとの姿勢はさすがという気がします。他方で、いわゆるソーシャル・エンジニアリングには懐疑的であり、宇宙のマクロ的視野では生命に必要なショッピング・リストのカンラン石、水、二酸化炭素の3つの物質だけであり、この天の川銀河だけでも400億ほどの惑星が該当するといい切ります。ムチャクチャに難しい専門書です。私程度の頭の回転では、私くらいの鈍感な忍耐力がないと読み進むことはできません。忍耐力がない場合には専門性が要求されそうです。最後に、翻訳上の問題として、「陽子」はプロtンと表現され、電子はそのままでエレクトロンとはされていません。「プロトン勾配」や「プロトン駆動力」などの用語があるので仕方ないのかもしれませんが、電子と陽子、でなければ、プロトンとエレクトロン、というように統一的な邦訳のセレクションができなかったものか、やや疑問です。

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次に、大谷光淳『ありのままに、ひたむきに』(PHP研究所) です。著者は我が家が信仰する浄土真宗本願寺派の第25代門主・本願寺住職を2014年6月に引き継いだばかりの宗教家です。この門主就任を阿弥陀如来と親鸞聖人の前に奉告する伝灯奉告法要をおつとめするにあたり、本書の出版となったらしいです。新門主の公式ガイドブックといった趣であり、我が家の菩提寺をはじめとして浄土真宗のお寺さんでは広く読まれていたりするんでしょうか。経済的にも社会的にも、なかなか、生き難い世の中になりつつあり、思うように安定した生活を送るのが難しくなっている気がする中で、マルクス主義的には単なるアヘンの役割かもしれませんが、宗教の役割はそれなりに私のような凡人には有り難いものです。特に、我が浄土真宗の教えでは極楽浄土への往生は阿弥陀さまのおはからいによるものであり、ムリに自力で努力する必要もない、ということになっています。私も倅たちに「ムリをする必要はない」と日ごろからいっていますが、エコノミスト的に考えれば、ムリ=何らかの矛盾や均衡からのズレを生じるわけで、何かが歪むのがムリの結果だと私は考えています。『ゲド戦記』のゲドと同じで、私は多くの社会的経済的現象は均衡に向かっていて、正のフィードバックループで均衡から離れていく場合もなくはないものの、誰かの妙ちきりんなムリでもって歪みさえ生じなければ、経済社会的な均衡で悪くない結果が得られるものと私は考えています。ですから、楽観派なんだろうと自任しています。ただ、のんびりするのは大好きながらも、ムリと紙一重かもしれませんが、自分自身の出来る限りの努力は必要です。それは本書のタイトルになっているような気がします。ムリをせずありのまま、でも、ひたむきに努力する、そういった姿勢が大切な気がします。私自身は図書館で借りて読みましたが、別に買い求めて倅たちに読ませようかと考えています。そろそろ、我が家の宗教的なバックボーンについて知識を深めさせる年齢に達したような気がします。

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次に、屎尿・下水研究会『トイレ』(ミネルヴァ書房) です。『マンホール』、『銭湯』、『タワー』に続くシリーズ・ニッポン再発見の第4弾です。副題は「排泄の空間から見る日本の文化と歴史」となっていて、私は以前のシリーズは読んでいませんが、何となく副題にひかれて、これだけ借りてみました。著者となっている研究会は、出版社のある京都と東京のそれぞれの府庁や都庁の下水関係者を主要なメンバーとして構成されているようです。私は京都の片田舎の出ですので、小学生のころなんかに少しひなびた方向に行ったりすると、まだ、畑の中に肥溜めがあったりしました。ですから、本書での主張の通り、「江戸のまちは循環型のエコシティだった」といわれて、し尿を肥料、ただし下肥として使っていたのは自分自身の記憶としてまだ持っていたりします。他方、本書とは関係ありませんが、肥料ということでいえば、南米はチリの日本大使館で経済アタッシェをしていた折に、チリ北部の町でイワシなどを原料に肥料、この場合は古い日本語では金肥を作っていて、それはそれで臭いがすごいというのも実体験として持っていたりします。日本語では本書のタイトルであるトイレのことを便所というのが一般的な気がしますが、古い言葉では「はばかり」と称して、まさに、行くには憚ったんだろうという実感がこもっていますし、「かわや」という名称は、まさに、川に落としていたんだろうというのが想像されます。また、本書では高野山式のトイレというのが平安時代に高野山にあった、というのが紹介されていて、決して我が家の一族ではないものの、それなりに上品な年配女性が「ちょっと高野山へ」といって席を外すのを、私はとある初釜の席で体験したことがあり、まったくな何のことか理解できずにいたが、その謎が解明されたような気がします。最後に、トイレの最新版では、商品名かもしれませんが、ウォシュレットについてもっといろいろと書いて欲しかった気がします。私自身がこういったスタイルのトイレを知ったのは、いわゆるバブル期で、銀座の松屋に出来た豪華トイレを見に行った記憶があります。こういった最先端のトイレの設備は、ジブリにドラえもん、ポケモン、ガンダムなどのアニメと並ぶ我が国の偉大な文化だという気がします。カジノなんぞよりはずっと重要だと私は考えています。

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次に、松井今朝子『料理通異聞』(幻冬舎) です。お江戸は浅草新鳥越町の料理茶屋である八百善こと福田屋の4代目、というよりも実質的に初代でこの料理茶屋を江戸1番にした福田屋善四郎の一代記です。著者は直木賞作家であり、京都は祇園の割烹川上の生まれ育ちですから、まさに八百善を取り巻く時代小説をものにする適任者といえます。時代背景として、主人公は田沼バブルのころに青春を過ごし、その後の寛政の改革デフレのころに料理茶屋を引き継ぎ、最終的には11代将軍徳川家斉のお成りを得ており、さらにその孫の千太郎の代になってからも12代将軍徳川家慶のお成りを迎えています。青春時代において、貧乏旗本の娘である千満とのほのかな恋心、さらに長じて伊勢参りで得た豊富な西国の知識とインスピレーション、蜀山人大田南畝、亀田鵬斎、酒井抱一、葛飾北斎、谷文晁、渡辺崋山といったそうそうたる文人墨客との交わり、そして、『料理通』の出版と、料理人として時代の頂点を極め、私のように食事を単なるエネルギー補給と考えるのではなく、料理や食事を文化と捉え、それを供する場であるレストランを人の交わるサロンと見なす、という意味で、とても文化的な時代小説です。あとがきにあるように、数多くの古文書をひも解いて得られた情報を基に、作者が展開した料理と食事の文化の世界に当然となる読者も少なくないと思います。ほかに、料理や食事をテーマにした高田郁のみをつくし料理帖シリーズも少し前に完結して、私は愛読しそれなりに感激もしたんですが、さすがにこの作品の重厚な仕上がりを絶賛せずにはおかれません。先日、何かの報道で今年のベストセラーは田中角栄を題材にした石原慎太郎の『天才』であると見かけた気がしましたが、おそらく、私の今年のナンバーワンは先日取り上げた平野啓一郎の『マチネの終わりに』であろうと考えますが、私の大好きなジャンルである時代小説のナンバーワンはこの作品ではなかろうかと考えています。題材やストーリーだけでなく、文体、というか文章のリズムやテンポもとてもよく、一気に読める割には頭に残ります。今週の読書の中ではピカイチです。

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次に、秋吉理香子『絶対正義 』(幻冬舎) です。作者は『暗黒女子』や『聖母』などの女性にまつわるイヤミスをモノにしてきたミステリ作家です。この作品は、高校生の女子グループ5人のうちの1人が「絶対正義」を振り回すという意味で、モンスター的な正義感を持ち、融通が利かないというか、ハッキリと周囲に迷惑をかけまくっていて、その高校卒業から15年を経過した30代前半で、正義のモンスターをほかの4人が寄ってたかって殺してしまう、というストーリーです。そして、その殺人事件から5年後になぜか、残った4人にパーティーの招待状が届き、その場で殺人が明らかにされることになります。しかし、もっとも恐ろしく感じられるのは、その娘が正義のモンスターとして母親と同じ方向に向かう、というのではないでしょうか。正義が絶対化した怖さをホラー小説的な手法でイヤミスに仕立ててあります。とても読後感が悪いのは、湊かなえや真梨幸子、沼田まほかるなどと同じで、これはどうしようもないんでしょうが、プロットはよく練られています。ただ、絶対正義のモンスター以外の高校時代の友人女性4人もかなり極端なキャラに仕立ててあり、もう少し一般的なキャラも欲しかった気がしますし、登場人物が高校時代の友人仲間だけでは物語に縦にも横にも広がりが出ない気がします。こういった点は次回作に期待です。

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次に、山田昌弘『モテる構造』(ちくま新書) です。著者は著名な社会学者であり、『パラサイト・シングルの時代』なども売れました。本書では、「モテる」ということを通じて男女の非対称性を論じています。すなわち、男性は公的な世界で競争を通じてできる人が異性からモテることとなる一方で、女性はそうならない、例えば、男性は仕事ができるビジネスマンや高身長などの体が大きいスポーツマンがモテるんですが、女性は必ずしもそうなりません。バリバリ働くキャリアウーマンが異性にモテるとは限りませんし、高身長の女性に魅力を感じる男性は限られています。こういったことから、やや古いジェンダー観では、男性は外で働き、女性は家で家事をする、という役割分担が当然視された時代もあったわけです。本書では女は女らしく、男は男らしく、などなど、旧態依然とした価値観が今も生き残っているという事実につき、こういった性別規範が社会から消えないのは、どういう相手を性愛の対象として好きになるかという、「モテる構造」から解明しようと試み、それらが人間の性愛も含めた感情に固く結びつけられているからだと結論しています。加えて、性別機能の身も蓋もない社会的現実を、透徹した視線で分析しつつ、男女それぞれの生き難さのカラクリを解剖し、社会構造変化の中でそれがどう変わりうるのか、また、LGBTなどの支店からも変化の大きさに対応した社会的な受容のあり方などについても考察を広げています。日常のなんでもなく不思議にすら思っていない事実のいくつかを社会学的に着目して、人が人として生きやすい、というか、生き難さの程度を低減してくれるような方向を考えようと試みています。人によっては当然のことかもしれませんが、目から鱗が落ちる人も少なくないような気がします。

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次に、エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』(文春新書) です。著者は我が国で人気の歴史人口学者だそうで、誠に不勉強ながら、私は歴史人口学というものをよく把握していません。第4章のタイトルは、「人口学から見た2030年の世界」だ他t利しますし、その分析結果として、米国とロシアが安定化の方向に向かって、欧州と中国は不安定化する、とされており、その次の章では、中国の経済大国化は幻想であると結論されていたりして、その結果はそれなりに受け入れられるんですが、論理的な分析の道筋は私にはよく理解できません。結論だけが直観的に先にあるような気もします。しかし、前著『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』もそれなりのインパクトでしたが、本書もいわゆる著作というよりも、アチコチでしゃべった講演録の寄せ集めにしてはよく出来ている気がします。その理由は、繰り返しになりますが、直感的な結論が私の印象に一致する一方で、論理の筋道がよく理解できないからではないかと考えないでもありません。もっとも、タイトルにあるように英国とEUについて正面から論じた部分は決して多くはありません。かなり、見方にもよりますが、漫談調で取り留めもなくいろんな話題を取り上げている印象です。ですから、個別には指摘しませんが、読みようによっては前後で矛盾する主張もありそうな気がします。ただ、私は読んでいませんが、同じ著者の『シャルリとは誰か?』を引いている部分があり、欧州のイスラムに対する無知や偏見に基づく部分を指摘していて、フランス人としてはとても新鮮な見方が示されたと受け止めました。本書では、実は、ほとんど展開されていないんですが、タイトルの英国のEU離脱に関する問題については、私は本書のタイトル通りに、英国ではなくEUの問題であろうとほのかに認識しています。確たる認識ではありません。トランプ次期米国大統領などになぞらえて、英国が内向きになってEU離脱を決めたような報道や論評も目にしますが、少なくとも通貨統合に関しては、私の目から見てもかなりムリがあったような気がします。マーストリヒト・コンバージェンスがあるとはいえ、財政政策がバラバラ、すなわち、国債発行が各国政府に任されていて、金融機関に対するマクロとマイクロのプルーデンス政策も統一性が必ずしも図られていないにもかかわらず、通貨が統合され同一の金融政策が執行されるのはムリです。社会保障政策などの個別の政策はともかく、少なくとも国債発行に関する何らかの強い統合がなされないと金融政策は統合されるべきではないと私は考えています。

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最後に、藤田孝則『貧困世代』(講談社現代新書) です。著者はソーシャル・ワーカーでいくつかNPO法人の代表なども務めているようですが、昨年2015年に話題になった朝日新書の『下流老人』の著者でもあります。私のこのブログでは2015年9月19日付けの読書感想文で取り上げています。ということで、本書はやっぱり世代論です。p.13の人口ピラミッドで、65歳以上の貧困層を下流老人、40-65歳を下流老人予備群(本書では、「予備軍」としているんですが、軍隊用語を用いるのもナンだと思って、このブログでは書き替えています)、そして、15-40歳を貧困世代と年齢というか、世代で貧困層を分類しています。そして、40歳以下あるいは未満の世代では、高齢の引退世代と比べて特に社会保障が手薄くなっている事実を明らかにしています。前著の『下流老人』について私の評価は、第4章 「努力論」「自己責任論」があたなを殺す日、は十分に説得力があり、高齢者だけがこの第4章の議論の対象となっているわけではなく、子供やワーキング・プアの若者も同じく社会保障の網から漏らされるべきではないと指摘しました。もっとも重要なのは、社会保障の緊急性としては、私は子供や若者に軍配を上げるべきではないかと考えています。もちろん、余命の問題はありますが、高齢者は10年後も高齢者である一方で、小学生は10年後は義務教育期間を過ぎているおそれが高く、適切な時期に教育や訓練を受ける必要があります。加えて、私は決して重視するつもりもないんですが、あえて世間の潮流に乗れば、自己責任は引退世代の高齢者にこそ問うべきであり、若い世代については、特に子供は自己責任ではなく親をはじめとする家族や親戚縁者の責任である場合が圧倒的に重いと考えるべきです。企業が暴力的とも見える『資本論』的な剰余価値の生産にまっしぐらで、しかも、内部留保という形で労働者にまったく還元しないわけですから、本書の結論の第1に上げられている労働組合の役割は重要であると私も同意します。同時に、本書の第4章でも強調されているように、住宅政策も重要です。2009年の総選挙による政権交代では大いにコケましたが、住宅政策であれば、かつての京と・大阪・東京などの都市部での革新自治体による政策でも大きな転換が可能です。そういった形で、中央政府だけでなく地方政府の役割も社会保障や社会福祉の観点から考える必要を感じます。
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2016年12月04日 (日) 10:03:00

先週の読書はやっぱり10冊!

何となく、読書感想文のブログが米国雇用統計で1日後ずれしたこともあり、今週も10冊の大台に乗ってしまいました。やっぱり、1週間で10冊というのはフルタイムで公務員をしている私にはやや過重な気がします。でも、引退したらもっと読むかもしれません。

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まず、ジャスティン・リン『貧困なき世界』(東洋経済) です。著者は2008年から12年まで世銀の上級副総裁兼チーフエコノミストを務めた開発経済学者です。その後任が先月11月12日の読書感想文を取り上げた『見えざる手をこえて』の著者であるバスー先生で、現任者はポール・ローマー教授です。本書の英語の原題は The Quest for Prosperity: How Developing Economies Can Take Off であり、2012年の出版です。ただ、リン教授の2012年の出版といえば、以下のリファレンスにもpdfへのリンクを置いておきますが、New Structural Economics: A Framework for Rethinking Development and Policy が有名です。リン教授の提唱する「新構造経済学」ともタイトルがぴったりな気もします。なぜ、翻訳がこれだけ時間がかかったのかは不明ですし、なぜ、コチラを翻訳に選んだのも大いに疑問ですが、まあ、私もエコノミストとして開発経済学を専門分野のひとつとしていますので、読んでみました。著者のリン教授の提唱する新構造主義経済学とは、その昔の中南米に適用された「新」のない構造主義経済学、プレビッシュ理論などと称され、途上国における市場の失敗は誤った価格シグナルから生じており、独占や生産要素移動の不完全性により価格が歪められているとの認識で構成されており、先進的な産業である輸入代替産業の育成を目指すのに対して、「新」のつく新構造主義経済学では途上国で先進的で資本集約的な産業が育たないのは各国における生産要素賦存によって内生的に決定されていると考え、教育による労働力の質の向上やソフトないしハードなインフラの整備、その上での先進国からの直接投資の受入れなどを志向します。大雑把な歴史的地域的な概観では、中南米の1970年代とアジアの1990年代を比較すれば理解がはかどりやすいかもしれません。なお、どうでもいいことながら、私は1990年代前半に南米はチリの日本大使館で経済アタッシェとして3年余り勤務しましたが、国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会がサンティアゴにあり、そのもっとも大きな会議室がラウル・プレビッシュ・ルームと命名されていたことを思い出します。本題に戻って、もっとも重要なポイントは、政府の開発政策における比較優位の、もっといえば、動学的な比較優位の発見とその活用です。途上国で失敗した開発政策は比較優位に基づかず、逆に、ファミリー・ビジネスなどの汚職やレント・シーキングに有効な産業に乏しい政策リソースをつぎ込んだ点にある場合が多く見受けられます。というか、かなり多いような気もします。本書の主張はとてもシンプルです。しかも、第7章のタイトルが特徴的なように、シンプルであり実践的、というか、政策志向的でもあります。もしも、私が開発経済学のゼミを持っていれば、輪読の候補にしたいような本です。さいごに、以下にリン教授の論文と別の代表的な著作へのリンクを置いておきます。いずれも英語です。


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次に、水野和夫『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は証券会社のエコノミスト出身で、最近は、『100年デフレ - 21世紀はバブル多発型物価下落の時代』(2003年)、『人はグローバル経済の本質をなぜ見誤るのか』(2007年)、『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』(2011年)、『資本主義の終焉と歴史の危機』(2013年)など、なかなか独特の歴史観を示して、資本主義の限界とカギカッコ付きの「成長信仰宗教」批判を繰り広げています。本書もそのライン上に位置することは当然です。そして、タイトルの通りに、本書では株式会社について、近代資本主義とそれを担う近代株式会社の誕生から現代までの歴史をひも解きつつ、頻発する企業の不祥事や格差の拡大、国家債務の拡大、人口減少等の各国に共通する課題ならびに、これからの社会と株式会社について論じています。私もこの著者の主張は読んだつもりなんですが、ここまでシリーズ的に継続できるとは思ってもみませんでした。でも、さすがにネタ切れの様相を呈しつつあるような気もします。他の著作と同じように、ブローデルを援用して「長い16世紀」の終了とともに近代資本主義が勃興し、それを担う近代株式会社も誕生した、とするのは、基本的にどこかで見たような同工異曲ではないかと思わないでもありません。そして、やや一足飛びに結論にすると、初期値として我が国経済がゼロ成長であるとの前提の下に、企業利潤・雇用者報酬・減価償却費などをすべて毎年同額とし、第1段階として1999年度以降の新自由主義の影響で歪んでしまった労働と資本への分配を見直すフローの是正を行い、引き続き、第2段階として日本が資本を「過剰・飽満・過多」に抱えてきたことを是正する、という提案をしています。私はマルクス主義的、あるいは、シュンペタリアンな歴史観として資本主義が何らかの終焉を迎えるという方向性は決して突飛なものではないと考えないでもないんですが、国家や政府の前に株式会社がこのような解体のされ方をすべきであるとは思いません。少なくとも、私的に形成され運営されている株式会社と、領土や国家の範囲内で主権を有する国民の同意に基づいて何らかの役割を委託された政府とは、後者に米国憲法的な「革命権」が及ぶとしても、前者に対して一律に解体の方向を示すのは、社会主義革命であるかどうかはともかく、政府または何らかの強権的な権力の下でなされる可能性の方が高いと感じています。ということで、著者の今までの路線を引き継いでいこうとすれば、この先はまたムチャが生じるような気もします。次は、陸の帝国と海の帝国ですかね?

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次に、ギャビン・ニューサム『未来政府』(東洋経済) です。著者は米国カリフォルニア州の副知事であり、本書にも頻出すようにサンフランシスコ市長も務めた民主党の政治家です。英語の原題は (span class="ita">Citizenville であり、2013年の出版です。後述のようにICT技術の活用による行政の革新を提案するには、やや古いかもしれません。ということで、古いとか、細かな点は別として、全体としてとても面白かったです。要は、中央政府・地方政府の官僚機構はムダに現状維持バイアスがきつくて、大きく変化する世の中にまったく対応できておらず、ICT技術の活用により情報を公開し、世間のニーズに応える必要がある、ということです。基本は地方自治体なのかもしれませんが、スマホ、アプリ、ソーシャルメディア、ビッグデータ、ゲーム化などなど、著者は政治や行政を住民に対するサービス業と捉えているようで、住民に直接接する陸運局や水道や衛生などを市民のレビューによる星の数で計測するとか、米国のレストラン批評サイト「イェルプ」の政府版導入のような話題も盛り込まれています。私自身も30年以上も前に我が国の政府機関に就職して、政府で働くことも長くなり、民間企業と違って競争のない世界でのんびりと仕事するのに慣れてしまい、本書のような視点はとても新鮮でした。そして、強く同意したのはプライバシーに関する見方であり、我が国の行政機関や学校・病院などでは周回遅れで個人情報保護に熱心に取り組んでいるようですが、実は、ミレニアル世代はプライバシーを気にかけないと著者が主張しているように、むしろ、プライバシーの保護から積極的に必要な部分を開示して行政に活かそうという方向に転換すべき時期に来ているような気が私はしています。著者もGPSなどの位置情報などのプライバシー保護は諦めるべきとの立場のように見受けられます。ガス管の埋設情報も盛り込まれていますが、秘密にして得るものと公開して得るもので、それなりに比較衡量は必要とは私も考えますが、バランスは明らかにプライバシー保護を諦める方向に向かいそうな気がします。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界かもしれません。最後にひとつだけ気にかかったのは、政治や行政にICT技術を導入して多彩な方法によって選挙だけでなく民意を繁栄することはとてもいいことなのですが、直接民主主義にまで進むのがいいのかどうか、最近のBREXITや米国大統領選挙、あるいは、韓国での大統領弾劾デモなど、国民が直接意見を述べるのはとても重要なんですが、間接民主主義によってポピュリスト的な民意の一部を選良が選択する余地を残すのも、あるいは、必要なケースがあるかもしれません。もちろん、そのようなケースはないかもしれません。でも、何らかのカギカッコ付きの「民意を歪める仕組み」はあった方がいいような気がします。

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次に、大澤真幸『可能なる革命』(太田出版) です。著者は我が母校の京都大学教授も務めた経験のある社会学者です。一応、研究者なんではないかと思いますが、大学には属していないと私は受け止めています。本書では、革命について、非合法な暴力活動のようなものでなく、もっとも強い意味で社会的な変革を意図的にもたらすこと、あるいは、「不可能だったことを可能にするような変化を、社会運動によってもたらすこと」(p.30)を指すと定義し、現在では革命に誰も言及しなくなったのは、資本主義から社会主義や共産主義への以降の可能性が信じられていないからであると指摘します。まあ、その通りなんでしょう。私は大学時代に、革命とはマルクス主義的に定義すれば、権力階級の交代、例えば、地主から産業ブルジョワジーへ、あるいは、産業ブルジョワジーから労働者階級へ、ということだと聞いたような記憶があります。それはともかく、本書では、私の印象では革命論よりも若者論が展開されているような気がします。すなわち、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』で展開されたコンサマリー論について取り上げ、さらに、若者の自由については何とセン教授のケイパビリティ論を援用し、さらに映画やドラマなどの映像表現、例えば、朝井リョウの原作に基づく映画「桐島、部活やめるってよ」、あるいは、ヤマザキマリによるマンガを原作とする「テルマエ・ロマエ」、池井戸潤の小説を原作とする「半沢直樹」シリーズ、NHK朝ドラ「あまちゃん」などを題材にし、若者論が延々と展開されます。いわく、政治や社会への関心が高く、社会貢献にも熱心であるにもかかわらず、選挙の投票率は低く、古市的な議論として主観的な幸福度は高いものの、客観的な条件がいいとはとても思えない現在の若者に関して、著者はオタク論を持ち出します。すなわち、狭い条件や範囲での主観的な幸福感は高いものの、広い視野で見て客観的な幸福の条件はそろっていない、という意味なんだろうと私は解釈しています。この議論と革命論がどのように切り結ぶのかは決して自明ではなく、むしろ、私なんぞはまったく理解できないんですが、強力な社会変革がオタクの若者によってもたらされたりするんでしょうか。それなりにペダンティックな本でしたが、私もどこまで著者の真意を理解したか、自信がありません。

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次に、道尾秀介『スタフ』(文藝春秋) と『サーモン・キャッチャー the Novel』(光文社) です。作者は注目のミステリ作家であり、『向日葵の咲かない夏』で注目を集め、『月と蟹』で第144回直木賞を受賞、ほかに、『カラスの親指』が映画化されて私も見ました。といことで、まず、『スタフ』は「週刊文春」連載が単行本化されています。移動デリを営み街をワゴンで駆けながら、料理を売って生計を立てる30歳過ぎの女性が主人公です。彼女が中学生の一風変わった姉の子の甥と2人暮らしをしていたところ、何故か拉致されて、甥とともに芸能人のスキャンダルメールの回収を手伝うことになります。そして、移動デリの場所を提供してくれている不動産屋、甥の通う塾の数学講師、などの脇役のキャラもなかなかよく出来ていて、ラストの大どんでん返しが印象的です。ひょっとしたら、この作者の作品のマイベストかもしれません。次に、『サーモン・キャッチャー the Novel』はケラリーノ・サンドロビッチが「the Movie」の方を担当して別々に創作活動を行っているそうです。場末の釣り堀「カープ・キャッチャー」を舞台に、釣った魚の種類と数によるポイントを景品と交換できるこの釣り堀のシステムで、「神」と称される釣り名人がいた一方で、釣り堀の受付でアルバイトしている女子大生はヒツギム人からヒツギム語ネットの講座でを習っていて、また、引退生活を送る近くの婆さんは復讐心に燃えてヒツギム人に復讐の殺人を依頼したりして、などなど、浅くて小さな生け簀を巡るささやかなドラマは、どういうわけか、冴えない日々を送る6人を巻き込んで、大きな事件に発展していくストーリーになっています。ちょっと、私のような読解力の弱い読書しかできない人間にはツラいものがありました。なお、この作者は私は大好きですので、この2冊のみ購入しています。

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次に、川村元気『四月になれば彼女は』(文藝春秋) です。作者は2012年に『世界から猫が消えたなら』で作家としてデビューし、小説第2作『億男』は私も読んでいて、この作品は小説の3作目ではないかと思います。タイトルはいわずと知れたサイモンとガーファンクルのアルバム「サウンド・オブ・サイレンス」に収録された曲名であり、英語の原題は April Come She Will です。私の読み方に従えば、精神科医の男性を主人公に、その医学生のころからの人生を舞台として、大学生のころに付き合っていた女性、そして、現時点で結婚を間近に控えながら失踪した年上の獣医の女性、とのそれぞれの恋愛を通して、男女の恋愛というよりは結婚観とか人生観、また、生死観について考えさせられる小説です。かなり映像的、というか、大学の写真部の物語から始まるせいもあって、景色や風景などが目に浮かぶような構成となっています。でも、ストーリーは重いです。主人公の男性精神科医と彼と付き合ったことのある写真部の後輩女性、結婚直前で失踪した獣医の女性、ほかに、主人公の同僚の後輩精神科医の女医がどうして恋愛できなくなったかとか、大学時代の写真部の後輩女性がガンで死んだ事実を知ったり、婚約者の獣医の妹との関係が怪しくなったり、婚約者が失踪したり、また、ゲイというよりはバイの男性との恋愛観や結婚観の重さも感じたり、とてもヘビーです。12か月の月ごとの章構成になっているんですが、私ですら読むのをやめようかと思ったほどでした。元気のある時に読むべき本だという気がします。

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次に、大森望[編]『ヴィジョンズ』(講談社) です。書き下ろしのSF短編集です。一見して作者陣が豪華で、ついつい、手を伸ばして見ました。まず、収録作品は以下の通りです。すなわち、宮部みゆき「星に願いを」、飛浩隆「海の指」、木城ゆきと「霧界」、宮内悠介「アニマとエーファ」、円城塔「リアルタイムラジオ」、神林長平「あなたがわからない」、長谷敏司「震える犬」です。これで、上田早夕里でも入っていれば、必ずしもSF小説には詳しくない私に関してはオールスター・キャストと考えてしまいそうです。なお、飛浩隆「海の指」と木城ゆきと「霧界」の2作はコラボとなっており、「海の指」の小説を基に「霧界」でマンガ化されています。「星に願いを」では、隕石の落下と宇宙人の存在を示唆する内容ながら、実は主人公の少女の夢のお話なんではないか、と思わせぶりなところもあり、他方、日常からの脱出とも考えられ、なかなか多彩な読み方のできる小説です。「海の指」とコラボの「霧界」は、灰洋に面した泡州という街を舞台にし、この街は海の指によって灰洋の底から陸地に押し出された建物によって構成されていて、それらは イスラム風建物、オスマン様式ドーム、日干し煉瓦、などなどの雑多な建築様式で成り立つ壊滅的な絶望の街の様相を呈しつつも、コミュニケーションを取りながら生きる数少ない市民を描いています。 「アニマとエーファ」では、 主人公のアニマは小説家によって作られ、消滅しつつある言語アデニア語を守るために物語を書くロボットで、エーファはその小説の読者です。アニマは彼を作った小説家の手から離れ、次の持ち主によってベストセラーを書くまでになるが 数奇な運命によりアニマとエーファが再会します。「リアルタイムラジオ」は、主人公がフォックストロットこと「A6782DE9067C8AA3716F」といい、ワールドと呼ばれるデータ世界に住む100億体のエージェントの1人という設定で、そのワールドの外にはリアルタイムが存在してラジオが流れてくるわけですが、私の理解不足で何が何やら十分に読解し切れませんでした。「あなたがわからない」では、主人公の亡くなったばかりの妻にエンバーミングが施されるんですが、それが亡くなった妻本人の希望で遺体防腐処理液の代わりにクローン培養液が使われたことから、夫婦の会話が復活したりします。最後の「震える犬」はかなり長くて、短編というよりも中編に近く、アフリカはコンゴの研究施設において、チンパンジーにAR(拡張現実)の装置を装着して、類人猿から人類への進化の過程の謎を探るプロジェクトを舞台に、1匹の冴えない犬に対するチンパンジーの愛情の芽生えを追います。

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次に、大澤真幸『日本史のなぞ』(朝日新書) です。繰り返しになりますが、著者は我が母校の京都大学教授も務めた経験のある社会学者です。一応、研究者なんではないかと思いますが、大学には属していないと私は受け止めています。ということで、本書はタイトルの革命について、p.11において、外因による変化や非意図的で自然発生的な変化を除いた内発的で意図的な変化、と特異な表現を持って定義し、それを鎌倉幕府第3代執権だった北条泰時であると指摘し、その理由として天皇権力の院宣に反して幕府軍を率いて天皇軍を破り、天皇制政府を打倒して幕府制政府を樹立して御成敗式目を制定し、加えて、天皇の臣下でありながら3人の上皇を配流した、という観点を示しています。さらに、このような反天皇制的な所業、というか、行動にもかかわらず、『神皇正統記』で天皇制の称揚に当たった北畠親房などから激賞されている、という事実も付け加えています。その理由について日本史と関連して論じたのが本書の眼目となっています。すなわち、欧米的な革命、あるいは、中国的な易姓革命に対して、我が国の万世一系の天皇制の特徴を明らかにしています。天皇は統治せず、例えば、明治以降に首相を選出するにも元老の意見に基づいており、戦後はこの元老の役割を米国が果たしている、などは秀逸な分析と私は考えますが、まあ、一面的ではあります。繰り返しになりますが、「革命」の定義がかなり恣意的なので、それは割り引いて考える必要があります。織田信長による天下統一や明治維新、太平洋戦争の敗戦後の米国による大規模な民主化などがすべて革命ではないとして除外されており、私の歴史観からして微分方程式の特異点として考えるべき歴史的転換点が、外圧や非意図的として排除されているのは同意できません。でも、先に取り上げた同じ著者の『可能なる革命』と併せて読めば、それなりにペダンティックな雰囲気を感じることが出来るのではないかと思います。

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最後に、日本推理作家協会[編]『所轄』(ハルキ文庫) です。警察の、しかも警視庁や県警本部ではない所轄警察署に所属する警官の活躍をクローズアップしたミステリのアンソロジーです。上の表紙画像に見られる通り、収録されている作家陣はオールスターキャストです。収録短編は、薬丸岳「黄昏」、渡辺裕之「ストレンジャー」、柚月裕子「恨みを刻む」、呉勝浩「オレキバ」、今野敏「みぎわ」の5編です。ファンにはお馴染みだと思いますが、夏目刑事、佐方検事、安積警部補たちが登場する警察小説のアンソロジーです。もっとも、佐方検事は検察なんですが、例の出世街道から外された南場署長が登場します。沖縄県警に出向中という与座哲郎警部と浪速署生活安全課の鍋島刑事は私には初顔でした。大阪の鍋島刑事は、東京の新宿署生安課の鮫島刑事を意識しているんでしょうか。定番ともいえる執筆陣と主人公で安心して入って行ける短篇集です。順に、私なりの観点から主人公の刑事を中心に据えてナナメに見ていくと、第1作の「刑事のまなざし」シリーズの夏目刑事は、東池袋署から錦糸署へ異動の辞令があり、東池袋署では最後の事件となりそうです。第2作の与座刑事は沖縄県警に新設された外国人対策課へ警視庁から異動してきたものの、実は沖縄出身という設定で、沖縄県警vs警視庁という対立とともに、刑事vs公安の軋轢も読み応えあります。第3作の佐方検事は警察や検察の黒星になっても正義を追い求める姿に相変わらず感動させられます。第4作の鍋島刑事は、関西人の私から見ても、大阪弁での会話がとてもテンポよく心地よい響きを持っています。最後の東京湾臨海署の安積警部補羽目の前の事件から昔の記憶をたどりますが、安積警部補の若いころの活躍が読めるという意味で貴重な作品だという気がします。
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2016年11月26日 (土) 14:19:00

今週の読書も経済書をはじめ10冊!

今週も10冊を読み切ってしまいました。新書が3冊含まれているのが多読の原因ではないかと想像しています。来週こそペースダウンしたいと思います。

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まず、ベンジャミン・パウエル[編]『移民の経済学』(東洋経済) です。編者はテキサス工科大学の経済学教授であり、移民に関する研究の第1人者です。英語の原題は The Economics of Immigration ですので、邦訳のタイトルはそのままです。基本は、チャプターごとに専門の著者が執筆している学術書です。しかし、必ずしも経済学的な観点からの分析ばかりでもなく、加えて、なぜか、移民に対する賛否も分かれていて、必ずしも移民に賛成とか反対とかの統一性はありません。国際労働移動の経済効果から始まって、財政への影響、市民的・文化的な同化政策の評価、米国を念頭に置いた移民政策の改革に関する議論、国境開放=オープン・ボーダーの議論などが収録されています。最終章で編者自身がいくつかの議論を取りまとめていますが、米国のボルハス教授や英国のコリア教授などの慎重論、カード教授やハンソン教授などの積極論が紹介されています。私自身の見方は慎重論の中でも慎重であり、第7章の意見に近く、第6章の移民政策への市場原理主義的な政策の導入には真っ向から反対です。そもそも、エコノミストの間には移民に関する極めて大雑把なコンセンサスがあるものと私は受け止めており、移民の受け入れ国の経済効果はプラスで、移民の供給国の経済効果はもっとプラスです。でも、財政効果は年金や医療などの社会保障を含めてほぼネグリジブルであり、問題は経済以外の移民のあり方であろう、というものです。そして、私は移民の経済効果がプラスであることを認めつつも、文化的あるいは社会的な観点から移民には反対に近い慎重な立場を取っています。そもそも、経済に限らない移民の全般的な効果、というか、評価関数についてはいろんな議論があり、受け入れ国だけで考えるか、供給国も含めた世界的な評価を視野に入れるべきか、もちろん、経済だけでなく文化や社会その他の観点をどう入れるか、などで議論が絶えません。現状ではほぼ米国への移民流入の経済効果に限られた議論が進んでおり、例えば、トランプ次期米国大統領のような議論です。でも、少なくとも私が日本について考える限り、かつてのマルサス的な過剰人口論は過去のお話となり、現在では日本は移民を受け入れる側でしょうから、中国という人口超大国しかも華僑などの人口流出(ディアスポラ)超大国が隣国に控える限り、移民受け入れはヤメか制限的にしておいた方が賢明であると考えます。移民が過疎地域で農林水産業に従事してくれる保証はまったくなく、都市部でスラムを形成する可能性もあり、本書の第7章で議論しているようにギャング化する可能性すら排除できません。定量的ではなく直感的な私の理解ですが、企業が経済的なチープレーバーの恩恵を受ける以上のマイナスが広く市民社会一般にありそうな気がします。

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次に、ロベール・ボワイエ『作られた不平等』(藤原書店) です。著者はフランス独特のレギュラシオン学派の重鎮です。翻訳者による解説を読んでもイマイチ理解がはかどらなかたんですが、どうも、この邦訳書に対応する形で原書が出版されたものではないようです。すなわち、5章構成のうち、4章までが既出の論文のコンピレーションであり、最後の第5章が新稿となっています。翻訳者の方で編集して1冊の本にまとめ上げたというもののようです。ですから、必ずしも書籍としての統一性はないんですが、第1章で米国における経営者報酬の高騰を取り上げ、第2章は我が国でも話題をさらったピケティ教授の『21世紀の資本』の書評、第3章では中国、米欧や中南米における不平等レジームの世界的多様性と相互依存性について論じ、第4章では欧州福祉国家の典型としてデンマーク型フレキシキュリティからの教訓を汲み取り、最後の5章では日本型不平等レジームの変容と独自性にスポットを当てています。第5章の体系的かつ歴史的な我が国の不平等については、戦前期の不平等について主として土地所有という資産の不平等に基づいた所得というフローの不平等が生み出されたと正確に分析しています。終戦直後はこの土地資産については農地解放という形で占領軍が強権的に不平等を解消し、かつ、インフレという形で実物資産意外の金融資産を無価値にして金利生活者の安楽死を招来したわけです。そして、レギュラシオン学派独特の用語ながら、蓄積レジームというのがあり、人口に膾炙しているのはフォーディズムなる製造業をテコとした資本蓄積のレジームなんですが、21世紀に入って米国では金融資本による蓄積レジームが開始されたと指摘します。そして、経営者のメチャクチャな高収入やそれに基づく不平等はフォーディズムの蓄積レジームとは明らかに異なると指摘されています。というものの、私はよく理解していなかったりします。他方で、中南米では1990年代以降に明らかに不平等が緩和されてきており、また、日本の不平等はフラクタルだそうです。要するに、不平等レジームは国ごとに様相が異なっており、一様ではないということだそうです。ある意味では当然です。でも、一様に経済学的な解釈を下そうと試みているエコノミストも少くなさそうな気もします。

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次に、スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした?』(早川書房) です。著者はジャーナリストで、本書の英語の原題は How Music Got Free ですから、ほぼそのまま邦訳された、というカンジです。今年のノーベル文学賞は、意表をついてボブ・ディランに授賞されたんですが、その彼の本来の活躍の場である音楽業界の内幕を取材したルポルタージュです。訳者あとがきにもある通り、主要な登場人物のカテゴリーは主として3つあり、音楽などのファイル形式のデファクト・スタンダードであるmp3を作ったドイツ人のオタク技術者、そして、音楽業界で大企業を渡り歩きいくつかの大音楽企業のCEOを歴任した経営者、最後に、インターネット上の海賊版のウラ世界をほぼ支配した違法な音楽リーク・グループ、おまけで、最初のカテゴリーに属するのかもしれませんが、ビットトレントの開発者にも軽く触れられています。最後の音楽リークの海賊界で本書に取り上げられている中心人物は、まあ、米国の田舎の工場で発売前のCDを盗んでいた労働者だったりします。というのは、組織の頂点に立っていたと思われる人物は著作権侵害にかかる裁判で無罪になっているからです。いや、とても面白いストーリーです。よく、「事実は小説よりも奇なり」といわれますが、まったくその通りで、音楽産業を牛耳る大企業や著作権団体がいろいろと考えを進めて来た中で、海賊版製作者やアップローダーたちはこういった脱法行為を繰り返して来たのか、ということが明らかにされています。すでに有罪判決を受けて解散したナップスターのあたりから、音楽にとどまらず動画、というか、映画も含めて、大量にネット上に著作権侵害と思しきファイルがアップされているのは事実で、それを支える形でmp3のファイル形式が開発されたり、あるいは、P2Pの技術としてビットトレントが実用化されたりしたのは、もちろん、その通りなんですが、何らかのソースがあるわけでしょうから、そのソースを裁判記録などから明らかにしたジャーナリストの慧眼は素晴らしいと思います。何度か、米国連邦準備制度理事会(FED)の議長を務めたグリースパンが登場し、コンサルタントのころに音楽の不正コピーに対する価格戦略を考えた挙句に、結論として適正価格は産出されず違法コピーを取り締まるしかない、と主張し、資本主義的な成功の裏には政府の積極的な市場介入が必要だと認めている、と引用されていたりします。最後の最後に、本書を原作として、そのうちに音楽業界と違法コピーのイタチごっこの裏幕が映画化されるような気がしてなりません。

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次に、クリスチャン・ラダー『ビッグデータの残酷な現実』(ダイヤモンド社) です。著者は米国ハーバード大学の数学科を卒業後、4人の仲間といっしょに出会いサイトを創業した起業家です。そして10年後、世界最大級の出会いサイトとなったOkキューピッドにおいて明らかにされている膨大なデータの分析に取り組み本書に取りまとめられています。従って、本書は男女関係のビッグデータを基に、普段は目にすることができない人間の本質をあぶり出しています。最初はいわゆるウッダーソンの法則から始まります。すなわち、女性の恋愛対象は30歳くらいを境にして、若いころはやや年上を、30歳くらいを超えてからはやや年下も含めて、自分自身と似通った年齢層の男性を恋愛対象としているのに対して、男性は何歳になっても20歳くらいか、それを少し超えたくらいの年齢の女性に魅力を感じます。よく判ります。数年前に深田恭子が30歳になったとの報道に接して、私はとても大きなショックを覚えた記憶があります。そして、年齢とともに米国ですから人種の関する偏見もほの見えてきます。すなわち、黒人、特に黒人女性は人気がないと本書では分析しています。根深い潜在意識を感じさせます。ただ、本書で分析されているLGBTに関しては、現在でもかなり流動的な分野であって、統計的に何らかの有意な結果が出て分析したとしても、現時点で確定的な結論を引き出すのは困難ではないかと私は受け止めています。当然ながら、出会いサイトだけでなく、雇用などにおいても見た目がそれなりに重要であることは暗黙の了解とすら考えるべきです。ただ、出会い系のデータの最大の弱点は、本書で著者も認めている通り、出会ってからリアルで交わされる会話やインタラクティブなコミュニケーションを追跡できない点です。そここそ知りたい、とは思いませんか?

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次に、藤田庄市『修行と信仰』(岩波現代全書) です。著者は国際宗教研究所の研究員にして、フォトジャーナリストとしても著名であり、本書ではタイトルの前半に重きがあって、神道、仏教各派、山岳修験道、江戸末期の天理教と同じころに成立した禊教、そして、日本では少数派のキリスト教カトリックの修行を取り上げています。神道の修行といえば、禊で滝に打たれたりするのを連想しがちですが、いわゆる荒行や苦行の修行は神道にはないようです。仏教では座禅と考案の禅宗と、二月堂のお水取りの東大寺、さらに、即身成仏の真言密教などが取り上げられています。我が家の進行する浄土真宗は他力本願で修行はありませんが、なぜか、浄土宗の念仏三昧は取り上げられていたりします。やっぱり、浄土宗と浄土真宗はビミョーに違うんだろうと思います。私自身が宗教的な修行に否定的なのは、そういった修行のない他力本願の浄土真宗の信者だから、というのもありますが、奈良時代や平安時代の国家護持仏教で、国家の平安のための修行ならともかく、利己的な目的で修行するのは少し違うんではないか、と思わないでもないからです。おそらく、仏教各派や修験道では、いわゆる悟りを開いて解脱する、すなわち、輪廻から抜けて仏になるのを目的とした修行がほとんどではないかと想像していますが、見方を変えれば利己的な目的による修行と見えなくもありません。それから、修行とはみなされませんが、お祈りや感謝もどこまで必要か、は私自身は疑問です。一神教ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教などが典型ですが、全知全能の神ですから、信者が祈ったり感謝したりする必要がどこまであるんでしょうか。信者の肉体的先進的な状態は神はすべてご存じのハズです。日本の神様のように分業制ならば、信者が何を望んでいるのかは明言する必要があるような気もしますが、一神教では信者の側からの神への何らかの働きかけは不遜なだけであって、何ら必要ないような気もします。私のような煩悩の塊のつまらない凡夫の出来ることには限りがあり、修行したところで得るものは少なそうな気がします。「南無阿弥陀仏」の念仏で極楽浄土に往生できる宗教を信じていてよかったと思う次第です。

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次に、宮内悠介『スペース金融道』(河出書房新社) です。作者は日本SF界期待の新星で、短編「盤上の夜」で第1回創元SF短編賞山田正紀賞を受賞しデビューした後、デビュー作品『盤上の夜』で直木賞候補にノミネートされるとともに、第33回日本SF大賞を受賞し、さらに、第2作品集『ヨハネスブルグの天使たち』でも直木賞候補にノミネートされています。私もこういった作品はおおむね読んでいたりします。ということで、この作品はタイトルから理解できるように、宇宙における消費者金融をテーマにしています。すなわち、人類が最初に移住に成功した太陽系外の星、通称、二番街を舞台に、主人公は新生金融なる街金の二番街支社に所属する回収担当で、大手があまり相手にしないアンドロイドが主なお客になっています。直属の上司で相棒のバディであるユーセフはなぜかイスラム教徒で、飲酒しないとかいろいろと行動上の制約があったりします。とてもコメディの要素の多い作品です。長編ではなく連作短編集の趣きであり、次々と正体を変えて逃げ続けるアンドロイド債務者を追い続けて二番街の首相にたどり着いたり、仮想空間の人工生命を相手に取り立てたり、カジノ宇宙船に捕らわれ脱出するために主人公の臓器をかたに借金をして博打を始めはシャトルの船賃を稼ごうとしたり、タックスヘブンとなっている風光明媚なサンゴ礁で取り立てに向かいナノマシンの暴走でミトコンドリア病になったり、債務者が連続殺人鬼に消された事件を追う取り立て屋コンビだが、主人公が差別と排外主義を掲げる極右政党の党首に祭り上げられて、不自由な思いをするとか、いろいろと趣向に飛んだ連作短編集です。私もそうですが、この作者のファンなら読んでおいた方がいいような気がします。

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次に、有川浩『アンマーとぼくら』(講談社) です。タイトルの「ぼくら」は主人公のぼく=リョウとその父親です。作者は売れっ子のライト・ノベルないしエンタメ小説の作家で、私は放送を見たわけではありませんが、この作品は8月6日放送のTBS「王様のブランチ」のブックコーナーに出演した作者自らが「現時点での最高傑作」と発言したといわれています。それから、かりゆし58の名曲「アンマ―」に着想を得たともいわれていますが、誠に不勉強ながら、私は沖縄には馴染みがなく、この曲も知りませんでした。ということで、相変わらず、私はこの作家の作品はそれほど評価しないんですが、人気作家でもありますし、一応、新作が出るとかなり遅れつつもフォローしていたりします。この作品は32歳の主人公リョウが郷里の沖縄に帰省して母親と3日間を過ごす、その際に過去を振り返る、という形式になっています。その主人公は小学校高学年まで札幌で過ごし、母親の死の後で父親が沖縄の人と再婚したため沖縄に引っ越し、大学入学とともに東京に上京する、という人生を送っています。ですから、3日間を過ごす母親とは生さぬ仲であり、古い言葉で表現すれば継母ということになります。しかし、実の父親が独特の人物であり、自然風景を題材とする写真家として、それ相応に有名なフォトグラファーであったものの、精神的には小学生のような幼さ、というか、メンタリティの持ち主で、それはそれなりに可愛げがあります。むしろ、この作品の隠れた主人公ということになります。タイトルのアンマーとは沖縄言葉で母親を意味するらしいんですが、もうかなりの古語に近いと見なされているようです。ラノベに近いエンタメ小説ですから、読み方によるんでしょうが、修行の足りない私の目からは、作者が何を訴えようとしているのか、読者に何を伝えたいのか、ややピンボケに読めてしまいました。私は登場人物があざといのは大いに評価しますが、作者があざといのはそうでもありません。まあ、森絵都が直木賞を受賞した際には、「文学賞メッタ斬り!」のサイトで、「直木賞対策も万全」と陰口をたたかれていた記憶があるんですが、この作家もそのうちに直木賞を受賞するのかもしれません。最後の最後に、アマゾンのレビューの評価が大きく割れているのも、この作者の作品の特徴かもしれません。

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次に、佐藤伸行『ドナルド・トランプ』(文春新書) です。今夏の出版で、米国大統領選挙前の情報に基づいていますが、まずまず参考になるような気がします。著者はジャーナリストのキャリアが長いようです。冒頭で、トランプ次期米国大統領を政治経験や共和党の予備選での下馬評などから、レーガン元大統領になぞらえていて、やや極端ではないかという印象もありましたが、実際に大統領選挙の結果を見ると、それなりの相似性も期待できるような気がしてきたわけで、私の政治観のいい加減さを示しているのかもしれません。冒頭から第4章くらいまでは祖先をドイツにまでさかのぼったり、3度の結婚について概観したりと、やや個人的な側面が強くて私は適当に読み飛ばしたんですが、第5章のビジネス、第6章の政治家、第7-9章の宗教観などは、本書のオリジナルではなくて別のリファレンスから取り入れているとはいうものの、なかなか参考になる気がします。ビジネスでは男性的なフェロモンも含めて、人間としてのそれなりのオーラを発しているのは明らかでしょうし、メディアには無視されるよりも悪評を流される方がビジネスにはプラス、というのも理解できるような内容です。というのも、私が若いころには、私のような若いキャリアの官僚が事務次官候補と確実にメディアに流れるのは、例えばハレンチ罪を犯した時ではないか、といわれていました。具体的には、電車で痴漢をして逮捕されると、「将来は事務次官候補といわれたエリート官僚だった」なんぞと報じられたりする可能性があるわけで、実際にアラ還に達してみると、事務次官ポストは遠い彼方に消えてしまった気がします。ただ、さすがに政治家としては未知数としかいいようがなく、先日の動画にあったTPP脱退はともかく、排外的、反移民や反イスラムなどは、米国の現状、すなわち、左右に人心が両極化するワイマール現象の中で、新たな移民や新規参入者に対する反感や恐怖に対して、米国人の喪失感や白人の反乱によって特徴つけられると指摘しています。もう一方で、米国は political correctness 大国となっていて、その行き過ぎを指摘する意見もあります。私は喫煙しませんが、かつての日本における「禁煙ファシズム」の論調も思い起こしてしまいました。私はキリスト教原理主義的な宗教的側面はよく判りませんが、いろいろとコンパクトな新書版でそれなりの情報は得られるような気がします。

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次に、日本財団子どもの貧困対策チーム『徹底調査 子供の貧困が日本を滅ぼす』(文春新書) です。今年1月13日付けのこの私のブログでも取り上げましたが、日本財団による「子どもの貧困の社会的損失推計」に関して、明解に推計方法を開示し、より詳細な結果を提示しているのが本書です。試算の推計に加えて、トピック的にいくつかのケース・スタディの結果も盛り込まれています。単なる数字だけでなく、より具体的な子どもの貧困の実態が理解しやすくなっています。さらに加えて、米国でのランダム化比較実験(RTC)の方法論に基づく研究成果の紹介もあります。ペリー就学前計画、アベセダリアン・プロジェクト、シカゴ・ハイツ幼児センターの3つの研究です。前2者は私もそれなりに概要くらいは把握していますが、最後のプロジェクトは知りませんでした。そして、こういった米国での先行研究も含めて、本書で何よりも重視しているのが教育の効果です。特に大学進学の効果は大きいと私も考えています。教育政策に関しては、学校が塾に負けているのはかなり前々からの現象でしたが、昨今ではセイフティ・ネットに関しては、福祉政策が風俗産業に負けているとの指摘も本書で見られますし、フィクションの小説では自衛隊が最後の雇用先としてセイフティ・ネットの役割を果たしているかの如き作品も私は読んだことがあります。そして、最後の最後の「おわりに」の6ページには極めて重要な指摘がいくつも盛り込まれています。すなわち、子どもの貧困は人々の心の持ちようとかの精神論や観念論で解決できることではなく、引退世代の高齢者ばかりを優遇する現在の日本のシルバー・デモクラシーを打破して、子どもの貧困や家族の問題に政府が積極的に取り組む必要があります。そして、本書で指摘されていない部分を私が付け加えると、引退世代の高齢者の貧困はかなりの程度に自己責任の部分がありますが、我が国には「親の因果が子に報い」という表現があるものの、子どもの貧困は自己責任を問えない、という点です。子供の貧困を考える上で、とても重要な指摘がいくつか詰まった良書です。多くの良識ある日本人が手にとって読むことを私は強く願っています。

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最後に、エドワード・ルトワック『中国4.0』(文春新書) です。「中国」の漢字には、「チャイナ」のルビが振ってあります。著者は米国の軍事外交史や安全保障論の専門家です。本書は、訳者のインタビューに対する著者の口述記録を基に書籍化したものらしく、最後の第6章は訳者の解説となって構成されています。そして、タイトル通り、2000年代に入って以降の現在の国際社会における中国をいくつかのバージョンに分け、2000年以降の中国1.0は鄧小平の韜光養晦に基づく「平和的台頭」、2009年に大転換して中国2.0では「対外強硬」になり、我が国との尖閣諸島紛争を起こしたりもします。ただし、強硬路線をマイルド化させて2014年秋以降は中国3.0として「選択的攻撃」に転換したと主張しています。そして、来たる中国4.0に関する予言を試みようとしているのが本書なわけで、もちろん、それに対する我が国の対応も大きな眼目となっています。「大国は小国に勝てない」という逆説的論理をもっとも重要なキーワードのひとつとして、中国との外交や安全保障を読み解き、特に強調しているのは尖閣諸島を中国が占領する可能性であり、その場合は、日本は米国や国連に相談することなく自らの戦力で速やかに領土を回復する必要がる、としています。そうしなければ、クリミア半島の二の舞いになると警告されながらも、私のようなシロートからすれば、逆に、そんなことをすれば日中間の武力衝突、というか、戦争状態に近くなり、かえってマズいんではないかと思いますが、スピード感がもっとも重視されるべきという意見なんでしょう。また、本書で指摘されている通り、日本から見た外交政策や安全保障上、中国がとても不気味に感じるのは、意志決定のプロセスが極めて不透明であり、従って、方針が中国1.0から4.0まで、短期間に何度も変更される点です。加えて、これも本書の指摘通り、すでにほとんど独裁者となった習近平国家主席に正しい情報が伝えられているかどうか、とても不安です。本書では指摘されていませんが、習主席が進めている現在の反腐敗の動向は、それなりに格差に苦しむ民衆の精神的な鬱憤晴らしにはいいのかもしれませんが、所得の増加とか、お腹が膨れる方向にはつながりません。ですから、反腐敗が単なる権力闘争だと一般民衆に見透かされる可能性もあるような気がして、私はそれも気がかりです。
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2016年11月19日 (土) 16:13:00

今週の読書はハズレの経済書や愛読のミステリのシリーズ最新刊など計10冊!

今週は、いわゆるFinTechや人工知能(AI)の金融業界における活用などの経済書に加えて、米国大統領制度に関する教養書、人気のミステリのシリーズ最新刊などなど、以下の通りの計10冊です。

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まず、城田真琴『FinTechの衝撃』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルタントであり、私はその昔に同じ著者の『ビッグデータの衝撃』という本を読んだ記憶があります。2012年8月1日付けの読書感想文のブログで取り上げています。その他、『xxの衝撃』と題する本も何冊か出版しているようです。ということで、米国などでは、金融業、特に銀行に対する顧客からの評価が低い一方で、ハイテクのIT企業は好かれており、そういった後者のテクノロジー企業が銀行業などの金融分野に進出してきた現状をリポートしています。銀行では支店での取引ではなく、スマートフォンなどのモバイル機器を使った取引が多くを占めたり、いわゆるIT化がインターバンクの決済などのバックエンドではなく、顧客とのインターフェイスとなるフロント業務で生じていると指摘しています。その背景としては、米国では1980-2000年生まれのミレニアル世代が多数を占めつつある人口動態の中で、デジタル・ネイティブ、あるいは、スマート機器の使いこなしなどでFinTechとの相性のよさを示している点が追加的に上げられています。そして、FinTechそのものについては、クリステンセン教授の『イノベーションのジレンマ』でいうところの破壊的技術革新であろうと示唆しています。そして、銀行業界だけではなく、証券業や保険業などのFinTechも視野に入れ、幅広くその技術や影響について解説を加えてくれていますが、私のようなシロートにも配慮して、というか、何というか、詳細な技術的な解説はありません。ですから、まさに、私のような専門外のシロートが「四角い部屋を丸く掃く」ように、キーワードを理解しつつ深入りせずに、何となく判った気になれる、という意味で、とても良書だと思います。おそらく、コンサルとしては第4章の金融機関のフィンテック戦略のあたりが眼目のような気もしますが、私はそれほど興味もなかったのでスラッと読んでしまいました。最後に、人工知能(AI)などが金融業界でどのように活用されているかについては、次に取り上げる『人工知能が金融を支配する日』でも同じようなテーマに取り組んでいるんですが、ビットコインで有名になったブロックチェーンの将来性については正反対の結論となっています。すなわち、本書では時間も手間もかかるだけに偽造に対する障壁となる、という評価なのに対して、次に取り上げる『人工知能が金融を支配する日』では時間と手間がかかって実用的ではない、との結論です。まあ、考え方次第なんだろうという気がしますが、総合的に、金融業界における新たなテクノロジーについて1冊だけということであれば、本書の方をオススメします。

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次に、櫻井豊『人工知能が金融を支配する日』(東洋経済) です。私はよく知らないんですが、著者は金融市場・金融商品・金融技術の専門家だそうです。私のようなシロートにも判りやすいように、金融市場や金融商品についても簡単に解説した上で、人工知能(AI)がいかにして金融取引、特に、ヘッジファンドで利用されているかを概観しています。リーマン・ショック以降の金融取引でのAI利用の様相が大きく変化したと著者は指摘しています。私から見て興味深いのは2点あり、第1に、IBMやGoogleといったハイテク企業の人工知能(AI)研究者が、次々とヘッジファンドに引き抜かれているという事実です。最新のAIテクノロジーを金融取引で駆使し、驚異的な分析能力と取引速度を有するロボ・トレーダーを開発することを目標としているといいます。そうなれば、まさに勝者総取りの世界で、金融取引の利益が独占されかねませんが、容易に想像される通り、我が国ではこういったハイテク金融取引の技術が米国に比べて遅れに遅れており、グローバル化する金融取引の恩恵にあずかれない可能性があります。なお、こういった金融技術の遅れについて、著者はかつての護送船団の影響と分析しています。第2に、英国オックスフォード大学のマーティン・プログラムなどで推計し、Frey & Osborne の論文が明らかにしたように、AIの進歩により失われる雇用がいっぱいあって、このブログでも今年2016年1月7日付けのエントリーで取り上げたとことですが、実は、大規模かつ急速に雇用が失われるのは金融界の雇用と予想されています。米国のように、バイサイドのヘッジファンドなどにパワーバランスが傾くのではなく、日本では証券会社などのセルサイドに圧倒的な影響力があって、バイサイドの投資運用会社は見る影もないんですが、こういった運用におけるAIの活用などはバイサイドに影響力アップにつながるんでしょうか、それとも、証券会社などのセルサイドがAIの活用でも先行するんでしょうか、私には少し興味あるところです。

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次に、宮川重義『世界の金融危機とバブルの分析』(中央経済社) です。著者は京都学園大学の研究者です。亀岡かどこかにあった大学ではないかと記憶していますが、京都出身の私でもよく判らなかったりします。本書は著者も明け透けに書いているように、ナラティブでバブルや金融危機について分析しようと試みた部分が多く、かなりの限界を感じます。ハッキリいって、物足りません。一応、米国発の世界大恐慌から始めて、北欧、米国のサブプライム・バブル崩壊後の危機、1997-98年のアジア通貨危機、日本のバブル崩壊と1997年ころの金融危機、バブル期の日本銀行の対応や量的金融緩和政策等の金融政策を分析しようとしているんですが、目新しい観点や分析はまったく見られません。例えば、米国発の世界大恐慌については、p.30において、貨幣ストックの減少、デフレによる銀行貸し出しの減少、金本位制の足かせの3点を原因として上げていますが、経済学者としての特段の見識は感じられません。みんながいっていることを取りまとめて結論にした、というカンジでしょうか。ナラティブだけでなく、VARプロセスを応用したインパルス応答関数による時系列分析も見られるんですが、p.181やp.271のグラフでは、ほとんどが信頼区間の幅にゼロが含まれてしまっており、かなり強引に結論を引き出していると私は考えざるを得ません。中でもひどいのが第7章の我が国の1980年代後半のバブル経済の内幕を見ようとした部分で、ほとんどがジャーナリストの著作の切り貼りで済ませており、著者みずから当該章の冒頭で「屋上屋を架す」と称しているのには苦笑せざるを得ませんでした。いくつかネットで文献を探していたら、アマゾンのオススメに出て来たところ、都内の区立図書館ですぐに借りられたので読んでみましたが、期待外れでした。タイトルにひかれたんですが、今年7月の出版で3か月後にすぐ貸し出しが可能となっているという点が、本書の内容の薄さを物語っている気がします。なお、アマゾンのカスタマ・レビューはまだありませんでした。最初のレビューは星いくつでしょうか?

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次に、待鳥聡史『アメリカ大統領制の現在』(NHK出版) です。著者は我が母校の京都大学の研究者です。タイトル通りに米国の大統領制を論じていますが、もちろん、現在だけを歴史的に切り取っているわけではなく、250年近い米国の歴史から現在に至る大統領制を概観しています。そして、その最大の特徴を国権の最高機関である議会への抑止力と位置づけています。すなわち、「分割政府」という言葉を著者は使っていて、私は「分割権力」の方がいいような気もしますが、いわゆる三権分立の政治体制の中で、大統領は議会の暴走を抑止する役回りであり、19世紀には奴隷解放を宣言して南北戦争を戦い抜いたリンカーン大統領くらいしか歴史には残らず、米国における大統領の憲法上の権限が小ささを指摘します。その流れが変化したのは1930年台のローズベルト大統領のニューディール政策であり、大恐慌からの本格的な復帰は戦争経済を待たなければならなかったものの、米国大統領の政治経済に占める重要性を浮き彫りにしたと指摘します。ただし、本書では何の言及もないんですが、ニューディール政策の実行に当たっては、ローズベルト大統領の意向に沿って、議会民主党幹部が数多の法律を通しまくったのが背景にあり、大統領と議会における与党幹部に緊密な協力体制、というか、大統領の強力なリーダーシップの基での議会運営という観点は見逃せません。法案についていえば、大統領は署名を拒否する権限はあるものの、議会でオーヴァーライドされればどうしようもありませんし、そもそも日本の内閣のような法案提出や予算案作成といった権限は米国大統領にはまったくありません。こういった制約の大きな米国大統領なんですが、これも本書は指摘していないものの、政治任用が幅広く存在する米国で政府をはじめとする公職3000人の人事権があるという面も見逃せません。ただ、人脈にも限りある中で、トランプ政権では人事は共和党主導になりそうな雰囲気が見られるものの、限りある権限で何が出来るのか、メキシコ国境に壁は築けるのか、イスラム教徒の入国は阻止できるのか、トランプ次期米国大統領の手腕の見せどころかもしれません。

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次に、大越匡洋『北京レポート』(日本経済新聞出版社) です。著者は日経新聞の記者で、今春まで北京駐在だったそうです。少し前から中国経済が変調を来たして、新興国経済に波及してさらに世界経済の下押し圧力となっています。基本的には極めて古典的な過剰生産恐慌のひとつと私は受け止めていますが、そういった構造要因も含めて本書では幅広く中国内部の「暗部」について取り上げています。すなわち、民主主義のない社会における統制過剰、隠蔽、縁故、拡張主義、国際規律無視、あるいは、絶対的で憲法の上に位置する共産党の存在、などなど、書き出したら切りがないんですが、その中でも私の印象に残ったのは経済的格差の拡大です。経済成長に伴って国民が平均的に豊かになって行き、むしろ、経済的な不平等が縮小する方向に向かうのは、戦後の西側経済でも観察された事実であり、経済学的にはクズネットの逆U字仮説と呼ばれて、ほぼ戦後期には成立が確認されたんですが、今世紀の中国には当てはまらないのかもしれません。それから、民主主義がない中での政府の横暴については、本書では中央政府というよりは無数にある地方政府や実際に政府と同じ役割を果たしている党組織や国営企業でこそ広く見られると指摘していますが、そうなのかもしれません。その意味で、私はまだまだ中国の国内で開発余地が残されているように感じないでもないんですが、本書でも慎重な表現ながら、中所得国の罠に中国が陥っている可能性が示唆されています。加えて、国際面では、経済的には人民元の国際化については一定の成果を得たものの、安全保障や外交では韜光養晦を棄てて、いかにもムチャな大国意識に基づく拡張主義、横暴な国際ルールの無視により、日本などの周辺国や米国をはじめとする先進国との国際協力にも影響が及びかねません。高成長のころにアフリカなどで資源を高値で買いに走りはしたものの、もしも、国際社会で孤立することとなればさらに成長を阻害する可能性すらあります。でも、本書はジャーナリストの手になる優れたルポルタージュながら、さすがに、解決の処方箋はジャーナリストの手に余るのかもしれません。それだけが残念です。

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次に、秋田浩之『乱流』(日本経済新聞出版社) です。副題は『米中日安全保障三国志』となっています。著者は日経新聞をホームグラウンドとするジャーナリストで、2008年には同じようなタイトルで『暗流 米中日外交三国志』という出版もあるそうですが、10年近くで状況が大きく変化しているでしょうから、私は読むつもりもありません。ということで、日本を取り巻く安全保障に関するルポルタージュです。爪を隠して力をナイショで蓄える鄧小平的な韜光養晦の路線を現在の習近平政権が放棄し、海洋進出の意図を隠そうともせずに、海底油田やガス田があり、また、シーレーンとしても重要な南シナ海や東シナ海に勢力を伸ばそうとする一方で、米国は中東のイラクやアフガニスタンに兵力を割かれ、日本は古色蒼然たる吉田ドクトリンのままで、中曽根内閣の当時に防衛費のGDP1%枠を放棄したにもかかわらず、相変わらず、自衛隊はそれほど頼りにならない、といった中で、安全保障について議論し、中国のしたたかな外交や安全保障政策が明らかにされています。7月10日付けで取り上げた『帝国の参謀』の主役を務めるアンドリュー・マーシャルについての言及もあり、私には興味深く仕上がっているように見えます。本書では、バランス・オブ・パワーの論理に基づいて世界を解釈するのをリアリストとし、私のように、あるいは、フリードマンの『レクサスとオリーブの木』のように、通商の盛んな間では武力紛争は起きないと考えるのをリベラリストとしていますが、現在のわが国では嫌韓論や嫌中論の本ばかり賑やかな中、本書は冷静に米中の駆け引きを明らかにしつつ、4つのシナリオを提示しています。日米同盟を主軸としつつも、米国が主導する現状維持のシナリオ、米中がせめぎ合うシナリオ、米国との軍事同盟ではなく中国との協商関係を強化するシナリオ、日本が自立する弱肉強食のシナリオ、です。私のような安全保障に関するシロートの知らない事実をいっぱい詰め込んだ上に、知っている事実まで含めてウラ事情をていねいに解説してくれていて、ある意味で、私には関係ないだけに面白く読めました。ただ、中国で群に対するガバナンスがどこまで確かなのかは不安が残ります。かつての我が国の関東軍のようにシビリアン・コントロールがまったく効かずに、軍が独断専行してしまうリスクはどこまであるんでしょうか?

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次に、近藤史恵『スティグマータ』(新潮社) です。自転車レーサーの白石誓を主人公とするサクリファイスのシリーズ最新刊の長編です。私はこのシリーズはすべて読んでいると自負しています。なお、この作品のタイトルとなっているスティグマータ stigmata とは「聖痕」、すなわち、十字架に磔にされた際のイエス・キリストと同じ傷跡、という意味のラテン語だと理解しています。どうでもいいことですが、傷はたくさんあるんでしょうから複数形です。ということで、主人公の誓が欧州に移住した後、日本でチームメートだった伊庭も渡欧して来て、グラン・ツールの中でももっとも日本で人口に膾炙したツール・ド・フランスが舞台となります。伊庭のチームにはドーピングの発覚で名声を失墜した世界的英雄のロシア人メネンコが復活して所属し、ツール・ド・フランスにも参戦します。なぜか、誓はこの伊庭を仲介としてメネンコから同じチームのスペイン人の動向をマークするように依頼されてしまいます。そして、不穏な空気が漂う中、誓と伊庭とメネンコと、そして、これも復活したニコラも加わって、いよいよ、ツール・ド・フランスが始まります。別途、誓が前のチームに所属していた時にアシストしたエースのミッコ、また、前年総合優勝のレイナ、ミッコと同じチームから現れた新星などなど、三つ巴、四つ巴のレースが展開します。メネンコとニコラとミッコはチームのエースとして、そして、誓はそのニコラのアシストとして、伊庭はアシストなしの単騎のスプリンターとしての出場です。しかし、最初のタイムトライアルでニコラが3年前に死んだはずのドニを見たといっていきなり調子を崩します。3年前、ドニはニコラがツールを去るきっかけとなったわけで、チームのエースの心理的な動揺はアシストの誓にも影響します。また、最後の方ではメネンコのレース参加の真の目的がほのかに浮かび上がり、それを阻止しようとする誓が逆に脱落したりします。相変わらず、とても面白いミステリです。次回作も大いに期待して私は待っています。ドーピングに対する作者の姿勢にとても共感しました。

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次に、上田早夕里『夢みる葦笛』(光文社) です。作者は中堅どころの売れっ子SF作家であり、私も『華竜の宮』や『深紅の碑文』などのオーシャンクロニクルのシリーズを愛読していたりします。私はSFよりもミステリなんですが、円城塔や宮内悠介などどともに、好きなSF作家のひとりです。この作品集は短編10篇で編まれており、収録順にタイトルだけ羅列すると、「夢みる葦笛」、「眼神」、「完全なる脳髄」、「石繭」、「氷波」、「滑車の地」、「プテロス」、「楽園(パラディスス)」、「上海フランス租界祁斉路320号」、「アステロイド・ツリーの彼方へ」となります。最初の4編は光文社文庫の『異形コレクション』のシリーズに収録されており、「プテロス」のみが書き下ろしとなっています。なお、最後の「アステロイド・ツリーの彼方へ」は創元SF文庫の2015年の年刊SF傑作編のタイトルに採用されており、SF短編の傑作といえます。創元SF文庫の『アステロイド・ツリーの彼方へ』は私も読んでおり、ほぼ3か月前の今年2015年8月20日付けの読書感想文で取り上げています。広く知られた通り、というか、ガンダムなんかでも出て来るように、アステロイド・ベルトとは火星と木星の間に存在し、そこの探索用に猫型の情報端末をごく一般ピープルが最後の仕上げをする、そして、その猫型端末はアステロイド・ベルトを越えてさらに先に探索に進むことを希望する、というストーリーです。短期間に2度読んだからかもしれませんが、この短編集に収録されている中で、私にはもっとも印象的な作品です。その直前の「上海フランス租界祁斉路320号」は昭和初期の上海を舞台にしたパラレルワールドをテーマにした作品ですが、これも印象的でした。どうでもいいことながら、タイムトラベルにまつわるパラドックスにはどのように対処されているのだろうか、と気にかからないでもありませんでした。ほか、最初の『異形コレクション』に収録されている4編は、オカルト的というか、ホラーの仕上げにもなっており、少し気味悪く感じる読者もいるかもしれませんが、人間に憑依するのがオカルト的というか、霊的なものではなく、3次元の我々から見た高次元の存在、というのもSF的な仕上げになっています。その他に順不同ながら、最近流行りの人工知能(AI)ならぬ人工知性、宇宙探索、地下都市、パラレルワールド、人の夢などなど、必ずしも従来のSFの枠に捉われず、ホラーやオカルトの要素も取り入れて、作者の力量が十分にうかがえる短編集です。

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次に、中沢新一『ポケモンの神話学』(角川新書) です。本書は1997年に出版された単行本、また、2004年に新潮文庫で出版された内容にまえがきやあとがきを加えただけの内容であり、決して、ポケモンGOなどの2016年におけるポケモンについて論じているわけではありません。1996-97年ころのポケモンですから、本書でも明らかにされている通り、ゲームボーイでプレーするゲームであり、『コロコロ・コミック』などではマンガになっていたのかもしれませんが、少なくともテレビのアニメの放送は1997年4月からですから、本書では考慮されていません。映画は1998年夏休みからです。ということで、著者はニョロボンになぞらえて、オタマジャクシを取っていた子供時代と重ね合わせて、ポケモンをゲットして図鑑を完成させるゲームについて、子供らしい虫取りやオアマジャクシ、あるいはザリガニ取りなどとの連想を膨らませます。まあ、そうなんでしょうが、フランスポスト構造主義でどこまでポケモンを解明できるかは私には不明です。私の感触では、極めて大雑把に、現時点での20代から17-18歳くらいまでがポケモンとハリー・ポッターで育った世代だと思います。2008-10年の2年間、私は地方大学の経済学部で教員をしましたが、その時の学生諸君の世代がポケモン第1世代のような気がします。現在だと20代後半ということになります。個々の学生によってポケモンの評価が大きく異なり、まったくのムダだったとしか評価しない学生もいれば、友人関係や家族での楽しみ方などでそれなりに評価する学生もいました。それにしても、今年はポケモンGOで大きく復活した気がします。私は最初の海外勤務から帰国した1994-95年くらいにゲーム機を買い求めた際、ハードウェア的にすぐれているという観点からセガサターンを買ってゲームをしていましたが、ビデオのVHSとベータマックスの競争と同じで、マシンとしてのハードの完成度よりもソフトのバリエーションなどのほうが勝負の分かれ目だということをすっかり忘れていて、プレステの天下となった折には悔しい思いをして、その後はゲームには手を出しませんでした。結婚して子供ができ、我が家の倅たちが小学校4年生と2年生の時に、ニンテンドーDSを買い与えた記憶があります。常日ごろの私の主張ですが、ゲームやアニメは我が国が世界に誇る文化だという気がします。

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最後に、阿古真理『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(NHK出版新書) です。著者については、私はよく知らないながら、関西方面でご活躍の食に関する著述業の方のようです。ですから、いきなり、「炊く」という言葉は標準語ではおコメに対してしか使わないとあって、「水炊き」という言葉はどうなんだろうか、と不思議に思ったりしました。それはともかく、パンについて幕末あたりから日本に入ってきた歴史をひも解いています。個別には、アンパン、バゲットやバタールなどのフランスパン、カレーパンなどを取り上げ、銀座の木村屋、神戸のフロインドリーブなどのパン屋さんも紹介しています。ただし、メロンパンだけは起源、というか、由来というか、発祥については不明だそうです。誠に残念ながら、日本だけではページを埋め切れなかったのか、本場本元の西洋までさかのぼってパンの由来などにも触れています。私は何といっても、戦後米国の過剰小麦粉を供与されての学校給食の影響が大きいと思います。その後、コメ余りの中で学校給食に米飯が持ち込まれたりして、結局、余った食料を小学生に食べさせているような気がしなくもありません。パンという一種の食文化を通しての日本文化論というほどの広がりでもなく、本書はどちらかというと、グルメ雑誌の延長線上に位置して、雑誌情報よりはやや詳しめに手広く情報を集めた、というカンジの本かと思います。でも、それなりに流行っていることも確かで、人によっては一読の価値はあると考える向きもありそうです。私はグルメでも何でもなく、ついでにいうなら、おしゃれでもなんでもないんですが、食べ物に関しては興味あるものですから図書館で借りました。なお、本書の冒頭に2011年の統計でパンに対する支出がコメを上回って話題になった、とあって、時期的に間違いなく私が統計局の担当課長として記者発表したんだろうと思うんですが、誠に残念ながら、まったく記憶にありません。
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2016年11月12日 (土) 15:11:00

今週の読書は経済書や教養書など計10冊!

今週の読者も、経済書や教養書などを中心に、小説や新書も含めて計10冊、以下の通りです。

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まず、渡辺努[編著]『慢性デフレ 真因の解明』(日本経済新聞出版社) です。編者は日銀OBの東大教授で物価動向などに詳しい研究者です。上の表紙画像に見られる通り、チャプターごとに著者が論文を持ち寄った書籍なんですが、日銀職員がかなり含まれています。そういう本だということを理解した上で夜も進むと、あるいは、いろんな面が見えて来るかもしれません。ということで、本書は3部構成となっており、第1部で慢性デフレの特徴とそのメカニズムを、第2部で企業の価格設定行動を、そして、第3部で家計の購買価格と賃金を分析しています。しかしながら、第1部ではデフレの長期化について、マイナスの自然利子率と自己実現的デフレの2つの仮説を置きながら、結局、デフレの原因は解明されずに終わり、トレンド的なインフレ率の低下とGDPギャップという毒にも薬にもならない結論の周囲をウロウロするに終わっているような気がします。期待インフレ率の低下は日銀による期待のアンカリングの失敗であろうと私は考えていて、本書でもその可能性は示唆されていますが、それが決定的な要因とはみなされていません。なお、1990年代のバブル崩壊後の「失われた20年」はいうに及ばず、現時点でも日銀は2%インフレ期待のアンカリングには失敗し続けているのは明らかで、先週の金融政策決定会合で2%目標の先送りを決めましたが、まさにそういうことです。ただ、私もリフレ派の経済学を正しいと考えているものの、ここまで金融政策当局が期待インフレ率のアンカリングに失敗し続けるということは、決して白川総裁とそれ以前の日銀の金融政策の失政だけではなく、何か、日本経済に根本的なインフレ期待に関する別のアンカーがあるのかもしれない、と考えないでもありません。第1部の結論がこんな感じですから、後のチャプターでも目を見張るような分析はなく、賃金はデフレの原因ではないとか、どうも判然としない結論が並んでいるような気がします。ただし、ひとつだけ感じるのは、物価統計はあくまでマイクロな個別の価格を総合して一般物価たる物価指数を作成するわけで、私も統計局に勤務していたころには、それなりに消費者物価指数にも慣れ親しんでいたつもりですが、経済学的にマクロの一般物価を本書に収録された諸論文のようにマイクロな積み上げで分析するのは限界があるような気がします。GDPギャップがいくつかの論文で現れますが、マクロの一般物価に対して何らかのマクロの指標を対応させて、相対価格の変化ではない一般物価水準の分析が求められているような気がしてなりません。パス・スルーが復活してきているとの分析が第5章にありますが、これあたりが何かのヒントになりそうな予感がします。

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次に、カウシック・バスー『見えざる手をこえて』(NTT出版) です。著者はセン教授の指導で博士号の学位を取得し、コーネル大学で開発経済学や厚生経済学を専門とする経済学者であるとともに、世銀の上級副総裁兼チーフエコノミストとして開発経済学を実践しているインド出身のエコノミストです。英語の原題は本書は Beyond the Invisible Hand であり、邦訳のタイトルはそのままです。2011年の出版で、前著『政治経済学序説』の続編である旨、はじめにで著者自身が明らかにしていますが、私のような不勉強で前著を読んでいない無精者に配慮して、本書だけで独立して読めるように工夫されています。ということで、アダム・スミスの『国富論』に由来する見えざる手に導かれ、利己的な個人主義に基礎をおく現代経済学、特に市場原理主義やリバタリアンに近い経済学について、グローバル化で拡大する格差・不平等の一因として、バスー教授は強く批判しています。本書では、第7章までが長い長い前置きというか、本論を始める前のファウンデーションのようなもので、第8章から第10章がバスー教授の本来の説が展開されているように私は読んだんですが、その第8章冒頭には、明確に、規範的な公理として貧困や不平等は悪いと考えている旨が記されています。エコノミストとしては数段の格落ちながら、私と基本的に同じ考えであることを心強く感じます。もちろん、グローバル化によって激化させられた貧困や拡大した不平等などについては、経済学を中心にしつつも法律や政治システムも包含したより幅広い社会科学の理論的枠組みを構築する必要があり、その方面への目配りも忘れられていません。ただ、最後の第10章の結論は、突き詰めた処方箋としては、フローの所得やストックの資産に何らかの上限を設けて、それを超える部分にはいわば100%の限界税率をかけて政府から貧困層へ再分配する、というかなりシンプルな提言だけであり、アトキンソン教授の『21世紀の不平等』などと比べるのは不合理かもしれませんが、もう少し何とかならなかったものかという気もします。著者は本書の冒頭で明確にマルクス主義的な「革命」を否定し、市場経済の漸進的な改革を訴えますが、マルクス主義的な「革命」はともかく、社会民主主義的な方向性についても、もう少し論じて欲しかった気がします。

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次に、ナサニエル・ポッパー『デジタル・ゴールド』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ニューヨーク・タイムズをホームグラウンドとするジャーナリストで、本書の英語の原題は DIGITAL GOLD ですから、邦訳タイトルはそのまま直訳というカンジです。原初の出版は2015年で、その年のFT&マッキンゼーによる「ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤー」年間ビジネス書大賞の最終候補作に残っています。取り上げているのはビットコインであり、その揺籃期から記憶にまだ新しい2014年初頭のマウント・ゴックスの破綻くらいまで、ビットコインの歴史を人物名を大いに盛り込んで解説しています。例の原著論文を書いたとされるサトシ・ナカモトこそ特定されず、インタビューなどは当然になされていませんが、世界中のビットコイン関係者に直接取材したようであり、ビットコインの実相について掘り下げたルポルタージュとなっています。未だにそうなのかもしれませんが、マネー・ロンダリング、ドラッグや児童ポルノなどのご禁制品取引、サトシ・ダイスなるサイトもある賭博サイト、などなど、アウトロー的な存在も含めて、さまざまな異端児たちが主役を演じた初期から、いわゆるブロック・チェーンによる認証などのフィンテックの中核をなす技術として産業化されていくまでの様子を克明に記録しています。そして、そのバックグラウンドが政府に挑むリバタリアンだったり、ウォール街の巨大銀行と戦おうとする無謀な試みだったり、そのあたりのバックグラウンドは私はまったく知りませんでした。リバタリアンのバイブルとなっているアイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』では、自由を求めてロッキーかどこかの田舎に引っ込む企業家を小説にしていますが、ビットコインであればそういったリバタリアンもサポートできそうだと思いつつ読み進みました。地理的な制約を受けないネットの出来事ですので、マウント・ゴックスが渋谷に事務所をおいて、たどたどしい日本語の記者会見を我々日本人も間近に見たわけですし、エコノミストや金融の専門家でなくても、ビットコインの動向には当分目を離せそうもありません。

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次に、庄司克宏『欧州の危機』(東洋経済) です。著者は慶応大学の研究者で、EU法の専門家です。英国のEU離脱=BREXITを中心に据えつつも、それだけでなく、EUの危機全般について論じています。すなわち、EUの危機は3点に現れているとして、ギリシアのソブリン危機、BREXIT、そして難民問題と指摘しています。もっとも、最後の難民問題はほとんど何も触れられていません。当然に、欧州統合の歴史を踏まえていますが、必ずしも古い歴史にこだわらずに、現代的な欧州の課題を列挙して議論を進めています。すなわち、欧州の統合は先発グループと後発グループに分かれての2段階方式であるとか、共通通貨のユーロや外交や安保政策なども含めて、メニューを選択可能なアラカルト方式であるとかの説明も丁寧です。また、その昔のトリフィンの国際金融のトリレンマに似せたダニ・ロドリックの国際統合のトリレンマ、すなわち、経済統合と民主主義と国家主権の3つを同時に達成することは不可能で、どれかを諦めねばならない、というロドリック仮説も紹介し、英国の選択は経済統合の放棄に当たると位置づけています。まあ、当然です。そういった基礎的な議論の後に、まず取り上げるのはギリシアのソブリン危機なんですが、そもそも、欧州統一通貨のユーロには脱退の法的規定がなく、他方で、ドイツなどが指摘する通り、ユーロ圏内における債務減免は制度的に不可能である主張もその通りであり、問題がほとんど袋小路に入っている現状を浮き彫りにしています。BREXITについては、英国の問題なのか、EUの問題なのか、必ずしも決め打ちはしていませんが、喧嘩両成敗ではないものの、勝手に離脱しようとする英国の問題と一方的に決めつけてはいません。その意味でもバランスが取れている気がしますし、英国のEU離脱後のシナリオがp.178から数多く示されていて、p.184のテーブルで各モデルの評価が一覧できるように工夫されており、とても判りやすい気がします。経済統合のあり方についても、豪州とニュージーランドの ANZCERTA (Australia New Zealand Closer Economic Agreement) + TTMRA の例を引いて、欧州とは違う統合のあり方のモデルを提示するなど、欧州やプラス米国に偏らない広い世界で議論している気がします。私は問題は基本的にEUの側に多く残されており、誤解を恐れず極めて単純にいえば、統合が拡大し過ぎて必ずしも同質とはいい切れない国の経済を含むようになってしまったのがEU危機の一側面だと考えています。その意味で、本書はかなり私に近い考えだと受け止めています。

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次に、細谷雄一『迷走するイギリス』(慶應義塾大学出版会) です。著者は慶応大学の研究者で、英国外交史の専門家です。当然ながら、今年2016年6月の国民投票によりEUをリダする英国を中心に据えて、戦後の英国と欧州の関わりの国際関係史をひも解いています。もちろん、欧州とはいいつつ、在りし日のソ連や共産圏はスコープの外であり、逆に、大西洋を挟んだ姉妹国のような存在である米国はスコープの範囲内だったりします。その米国は西半球に位置して、20世紀の2度に渡る世界大戦では少なくとも欧州における開戦からしばらくは参戦を控えていましたが、同じような傾きが英国にもあるんではないかという気が私はしています。すなわち、大陸欧州とは一線を画して、必ずしも同一行動を取ることもなく、そうかといって、まったく別というわけにも行かず、ということで、日本語で「付かず離れず」という言葉がありますが、そういったカンジがしなくもありません。英国とEUの関係については、少し前まではロンドンにシティという巨大な金融街を抱える英国はユーロに参加することを控えてきました。もちろん、今世紀に入ってからの後半部分の労働党ブレア政権はユーロ参加にチャレンジしましたが、官界と金融界の反対で英国へのユーロ導入はかないませんでした。戦後史の中では、英国と欧州は基本的に経済的な関係を強化しつつも、政治的には経済ほどの緊密化には至らない、ということなのではないかと私は考えています。特に、東西冷戦下でソ連が存在感を示していた当時であればともかく、現在、ロシアの軍事的脅威はソ連当時からは桁違いに低下しているんではないかと認識しています。それに代わって、イスラム国などのテロ勢力がむしろ安全保障上の脅威になりつつあるわけなんでしょう。ただ、英国と欧州の関係については、先日の米国大統領選挙もそうですが、単に内向きに英国の政治や外交がシフトしている、だけでは物足りません。フランスのルペン、米国のトランプ、などなどの歴史的にも成熟した民主主義国で内向きで右派的で排外主義的な潮流が生じ始めていることについて、世界的なコンテクストで考える必要があります。その意味で、本書はそれなりの水準に達した学術書ながら、英国と欧州とせいぜい米国までしか視野に入れていないという意味で、少し物足りない気がします。加えて、トッドの議論ではありませんが、「迷走』しているのは英国とア・プリオリに決めつけている気がして、実は「迷走』しているのはEUなのではないか、との議論に有効に対処できていないような気がしてなりません。欧州問題でどちらか1冊となれば、本書よりも先に紹介した庄司先生の『欧州の危機』の方をオススメします。

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次に、大黒岳彦『情報社会の<哲学>』(勁草書房) です。著者は明治大学の哲学教授であり、NHK勤務の経験から情報社会の動向にも詳しいかもしれません。何で見たかは忘れましたが、廣松渉のお弟子さん筋に当たるのかもしれません。未確認です。ということで、本書では情報社会の本質とは何かを正面から哲学しようと試みます。最近2010年代の具体的現象をもとに、その存立構造とメカニズムを明らかにするため、マクルーハンの「これまでの人類史とは、主導的メディアが形作ってきたメディア生態系、メディア・パラダイムの変遷の歴史であった」とする「メディア史観」を基に、Google、ビッグデータ、SNS、ロボット、AI、ウェアラブル、情報倫理といった具体的で個別的な現象を「露頭」と呼び、これらをはじめとして種々の現象を情報社会の分析の俎上に載せ、メディア生態系を暴き出そうと試みています。ただし、電気メディアが声の共同体を地球規模で実現させると考えたマクルーハンの時代的な限界を踏まえて、非人称的なコミュニケーションの自己生成こそ「社会進化」の原動力と考えたルーマンの社会システム論と組み合わせて、情報社会の自己組織化メカニズムを論じる枠組みを基に、情報社会の哲学を展開します。もっとも、マクルーハンやルーマンについて詳しくない私のような読者にはかなり難解な議論が展開されるんですが、情報社会のひとつの特徴的な事象であるビッグデータについてはその無価値性とデータマイニングによる数少ない価値の取り出しなどはまったく同意するんですが、モデルが不要になるという点については私には異論があります。むしろ、ビッグデータでモデルの複雑化がサポートされ、より正確になるんだろうと私は受け止めています。それから、情報社会を素材に哲学を論じながら、なぜか、ハードウェアに近い人工知能とロボットを論じ津第4章は本書の中でも異質であり、2045年シンギュラリティ説のバカバカしさから説き起こし、最後の情報社会における人間に関する節のみあればよく、それ以外は本書に必要とも思えない。むしろ、ない方が本書全体としての論旨が通るような気がしないでもない。「蛇足」そのものであろう。

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次に、マット・ リドレー『進化は万能である』(早川書房) です。著者は英国エコノミスト誌のジャーナリストであり、いくつかある著書の中で私は『繁栄』上下を読んでいて、2011年1月29日付けで読書感想文をアップしています。英語の原題は The Evolution of Everything であり、2015年の出版です。ということで、本書の主張は、設計や計画が成功の秘訣ではなく、ダーウィン的な生物学における「特殊進化論」を社会システムなどを含めて一般化した「一般進化論」的な方法、というか、自然のままに任せた発展や進歩が好ましく、トップダウン思考を破棄してボトムアップな偶然で予想外の方がものごとが上手く行く、との結論なんだろうという気がします。逆から見て、多くの場合は政府ということになるんでしょうが、政府などの公的な機関が制度設計したり、事前に計画を立てたりする必要はない、というよりも、そういった設計や計画はすべきではない、ということです。経済学の分野では、本所でも明確に記している通り、ほぼほぼハイエク的な感覚です。その場合、今日の最初の読書感想文で取り上げたバスー教授の貧困や不平等といった問題意識が抜け落ちる可能性が大きい、と私は危惧します。本書の議論も精粗区々、というか、極めて大雑把で、そもそも、変化とか発展とか進歩というべき歴史を一括して「進化」と言い換えているだけで、しかも、著者本人も認識しているように、進化はかなりゆっくりした長期間の変化である一方で、人類や社会システムなどの歴史では一夜にして大きな変更が加えられることもあり得るわけで、やや議論が大雑把かつ我田引水に過ぎる気がします。もちろん、少なくとも方向としては正しい議論も少なくなく、それだけにやっかいとも見えますが、例えば、エコノミスト的な歴史でいえば、マルサスの「人口論」はまったく大きくハズレにハズレたわけです。他方で、経済につきものの景気循環については、人類の歴史ではマルクスの社会主義とケインズのマクロ経済学が景気循環の影響を和らげようと試みて、先進各国ではケインズ経済学が設計や計画に近い形でそれなりに採用されていて成果を上げているわけですが、ケインズについてはまったく触れられていません。よく判らないんですが、それなりに眉に唾をつけて批判的に読み進むべき本だと私は考えます。

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次に、青谷真未『ショパンの心臓』(ポプラ社) です。今週の読書の中では唯一の小説です。ミステリに仕立ててあります。主人公が勤務する、というか、アルバイトするのが「よろず美術探偵」なる古美術商だったりします。著者は私はよく知りませんが、若手のミステリ作家で、ポプラ社小説新人賞出身作家らしいです。ということで、この作品は、無名の画家ながら美術館で回顧展を開催するので、その画家の最高傑作と目される作品を、就活に失敗して大学を卒業して古美術商でアルバイトを始めた新卒生が探し当てる、というストーリーです。ただ、謎解きとしてはいたって面白みに欠け、平凡かつどうでもいい内容に終わっています。ショパンの心臓というタイトルについては、私は知りませんでしたが、身体と心臓を分けて埋葬されていて、心臓はワルシャワにある聖十字架教会の柱に埋納されていることから、2014年年央にショパンの死因究明のために調査が開始された、という報道があったのも事実です。私は統計や経済モデルに関する国際協力でワルシャワに2週間近く滞在したことがありますが、お土産にはショパンの手をかたどった石膏像を買い求めた記憶があります。すっかりご無沙汰になりましたが、当時はまだピアノを諦めていなかったのかもしれません。本題に戻って、ミステリとしては貧弱極まりないため、というか、何というか、登場人物、特に、主人公である古美術商のアルバイト、そして、回顧展で作品を探している、すでに物故した無名の画家の2人の生い立ちが、極めて複雑怪奇に仕上げられていて、主人公の語り手の生い立ちのパーソナリティから、シリーズにはなりそうもない気がします。タイトルから音楽の薀蓄が得られるかという気もしましたが、まったくそうではありません。ほとんど、音楽やピアノは出てきません。従って、スラッと読むと物足りない気がしますが、そこはそれなりに、新人に近い作家の初期の作品ということで割り引いて考える必要があるかもしれません。でも、次の作品を読みたくなるかどうかは、私についてはビミョーなところです。

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次に、佐和隆光『経済学のすすめ』(岩波新書) です。著者は長らく京都大学教授を務めたエコノミストであり、滋賀大学学長に天下りしています。最初の書き出しから明らかな通り、2015年6月の文部科学省から国立大学への通達で、教員養成系と人文社会系については「組織の廃止や社会的要請の高い領域への転換」を求められたのを受けた反論で始められています。それは別としても、現在のように論文の引用数で評価が決まるのは、日本語で論文を書く機会の多い日本人経済学研究者には不利であるという言い訳が延々と続き、私の目から見るとついでの議論のように見えるんですが、米国流のジャーナル論文重視の研究や教育を批判して、スミス、マルクス、ケインズなどの古典を読むべし、という方向性が示されたりします。しかし、最後の最後、あとがき直前のパラグラフでは、現在の日本の経済学教育もよろしくなく、モラル・サイエンスとしての経済学を学ぶことが重要ということのようです。文部科学省の通達のように、経済学部の廃止や転換までは視野に入れないとしても、日本の大学の経済学教育はこのままでいいのか、それとも、何らかの改革が必要なのか、どうも、本書自体の論旨が大きく飛んだりクネクネとうねっていたりして、私もよく判らず、従って、どこまでホンキで読めばいいのか、それとも、単なる愚痴として聞き流すべきなのか、判断に迷うところです。pp.170-171 あたりで、経済学を学ぶ意義として、言語リテラシー、数学的リテラシー、データリテラシーの3つを身につける一番の近道、といいつつ、さまざまな社会現象を理解する上で経済学の知識は不可欠、という程度の結論しか導き出せないのは、やや物足りない気がします。私が大いに同意するのは大きなくくりで2点あり、モラル・サイエンスと同義かどうかは自信ありませんが、経済学における正義を重視する点と、もうひとつは、論文ではなくスミスやマルクスやケインズなどの古典を読む重要性を協調している点です。いずれにせよ、著者はかねてより市場原理主義的な右派の経済学に対して批判的で、リベラルな見方を示すとても常識的なエコノミストでしたし、リベラルであるがゆえに岩波書店から岩波新書などを出版しているんでしょうが、逆に、岩波新書だからどうしようもなく、ほとんど何の関係のない「安倍政権の憲法改正」が盛り込まれていたりして、でも、本書の大きな弱点は、大学教員の身分や業績評価などについて、論理性に欠ける議論がなされているように見受けられる点です。すなわち、文部科学省の通達では、職業としての経済学部教授が不要といわれているのに近いわけで、それをムキになって反論しようとしているように見る人もいそうな気がします。国立大学の法人化にも反対だったようですので、かなり強い現状維持バイアスをお持ちなのかもしれませんが、本書のようなタイトルの下で、余りにも、こういった議論を展開し過ぎると、一時の特定郵便局長や私クラスの小役人みたいに、高邁なる学者先生が「保身」に走っているとの意地の悪い見方をする人も現れかねない危険があります。それはとっても残念です。

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最後に、氏家幹人『古文書に見る江戸犯罪考』(祥伝社新書) です。著者は歴史研究家ということで、江戸期の著作が何点かあるようですが、私は専門外で詳しくは存じません。本書では、 それなりに信憑性ある史料をひも解き、江戸時代の犯罪と刑罰について夜話ふうに14話に取りまとめて紹介しています。テーマは、児童虐待と児童の犯罪、介護の悲劇、夫婦間トラブル、通り魔殺人、多彩な詐欺などなどですが、何といっても江戸期の犯罪のハイライトは鼠小僧次郎吉でしょう。その前座で、ショボい盗みばかりの田舎小僧を解説し、鼠小僧についてはp.243に100件余りの犯行暦をテーブルに取りまとめています。捉えられてから処刑されるまでの所作振舞も詳しく紹介されており、織豊期を代表する石川五右衛門とともに、江戸期を代表する怪盗の面目躍如なのかもしれません。専門外である私の不確かな記憶によれば、徳川政権や地方の大名の権力基盤がかなりしっかりしていたので、江戸時代には膨大な史料が残されています。幕府や各藩の調査も権力あるだけに詳細に渡っていたりもします。その中でも、現代に移し替えれば新聞などのメディアの社会部が担当しそうな犯罪に関しては、特に詳細な記録が残されていることと推察しますが、逆に、その膨大な史料を読み解くのもタイヘンそうな印象もあります。テーマが犯罪ですので、被害者に思いを寄せると気の毒なケースも少なくないんでしょうし、血なまぐさかったり、見るに堪えない犯罪も少なくないながら、その時代の社会性をうかがわせる史料も少なくないことと思います。特に、窃盗に関して、現代との隔絶ぶりに驚かされます。
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2016年11月06日 (日) 10:17:00

先週の読書は経済書も専門書も小説もいろいろあって計10冊!

今週はやっぱり10冊の大台に達してしまいました。以下の通りです。

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まず、井堀利宏・小西秀樹『政治経済学で読み解く政府の行動』(木鐸社) です。著者は財政学や公共経済学を専門とする研究者です。本書では基本的にモデル分析に終始していて、第4章のサーベイを別にすれば、数学的な解を求める研究書・学術書といえます。ですから、数式を解いたり、第8章の前半だけながら、グラフで示したりしています。もちろん、数学付録はそれなりに充実していますが、それほど親切ではなく、特に第7章の数学付録は私ですらついて行くのが少し難しかった感があります。というころで、本書は狭義の政府、すなわち地方政府は含むが中央銀行は対象としない政府の政治経済的な行動分析を主としてモデルを用いて行っています。ゲーム理論の応用もいくつかの章でなされています。単に、財政支出と税収だけでなく、最初の第2章は財政支出の物価理論から始まっていますし、社会保障や中央政府と地方政府の関係はいうに及ばず、自由貿易協定や資本移動に関する政府の行動、あるいは、選挙や選挙の際の献金活動までカバーしています。公共投資についてはかつての高度成長期から生産誘発効果が落ちているのはその通りでしょうし、消費税が引退世代の消費も捕捉して社会保障財源として好ましいのも事実です。ただ、井堀先生、あるいは、井堀先生のお弟子さんである慶応大学の土居先生なんかのバイアスがあって、政府の財政赤字に対して厳しい態度を持って臨んでいるような気がします。私のようなユルいエコノミストからすれば、少なくともマーケットが考える政府の予算制約式は財政支出と税収の均衡ではなく、財政支出と潜在的な課税可能性や徴税能力の均衡ではないかという気もします。TPPやアベノミクスの新たな3本の矢についてはかなり最新の情報まで盛り込まれているものの、地方政府に関する議論では「三位一体改革」で止まっていて、平成の大合併に触れていないのも不思議な気がします。ただし、法人税率の引き下げなどのグローバルな底辺への競争に関する危惧については私も共有します。いずれにせよ、一般のビジネスパーソン向けではなく、学術書で数式の展開がいっぱい盛り込まれているのは覚悟してから読み始めるべきだという気がします。

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次に、ダヨ・オロパデ『アフリカ 希望の大陸』(英治出版) です。著者はナイジェリア系米国人ジャーナリストです。英語の原題は The Bright Continent であり、2014年の出版となっており、かつては先進国から「暗黒大陸」と称されたアフリカの現在を明らかにし、「暗黒」とは反対になっている様子をタイトルに象徴させています。ということで、アフリカ大陸は民族紛争による内戦、政治や官僚の腐敗、気候の厳しさや広範に残る貧困などから、ビジネスをするにしても、国際機関やNGOが援助などの活動をするにしても、難しい場所という印象は依然として強いものの、最近では、豊富な資源と今後の発展の可能性から、特に、2000年国連ミレニアム目標の策定や2005年のグレンイーグルズ・サミットでも最後のフロンティアとして、それなりに注目を受けています。加えて、ここ数年ではよきにつけ悪しきにつけ、中国の進出が世界の目に止まっているのも事実です。さらに、本書では著者が先進IT起業家からごく普通の村人や農家、あるいは、政治家まで、ジャーナリストとしての豊富なインタビューと最新の知見を基に、これまでのネガティブな印象を覆すような、新しいアフリカの見方を提示しています。本書の章別構成に見る通り、家族、テクノロジー、商業、自然、そして若さという5つの切り口から現在のアフリカとその未来を集約しています。ただ、太った国と痩せた国の表現はともかく、冒頭に出てくる「カンジュ」の精神は、まあ、あるとしても、こういった生命力の強さのような要素はアフリカだけでなく、アジアでも中南米でも、途上国ではどこでも見られるという点で、少し私の見方は異なります。従来から、日本がアジアに、欧州がアフリカに、米国が中南米に、それぞれ援助の中心を置くという政策的な方向性が大きく変わったわけではありませんし、中国をはじめとするアジアがここ20-30年で大きく経済発展を遂げただけに、アフリカがやや取り残された感があって、それだけにアフリカに対する援助政策やビジネスの眼が向きがちであることも事実です。私のような開発や援助に興味あるエコノミストだけでなく、ビジネスマンも含めて広くアフリカへの関心が高まることを期待しています。

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次に、バスティアン・オーバーマイヤー/フレデリック・オーバーマイヤー『パナマ文書』(角川書店) です。著者は2人とも南ドイツ新聞のジャーナリストです。パナマ文書解明のために南ドイツ新聞で始められたプロメテウスなるプロジェクトの中心となるジャーナリストです。同じ姓なので何か姻戚関係があるのかという気もしましたが、上の表紙画像を見れば明らかな通り、スペルが違っていますので赤の他人なんだろうと理解しています。ただ、本書の中では「オーバーマイヤー・ブラザーズ」として2人1組でのご案内があったりもします。原題はそのままに Panama Papers で、副題はドイツ語ですので私は理解できず割愛します。今年2016年の出版です。ということで、話題の書です。オフショアのタックスヘイブンとしても有名なパナマにある大手の法律事務所であるモサック=フォンセカ(モスフォン)からのリークを受けたジャーナリスト本人によるドキュメンタリーです。匿名のリークは、最終的には、2.6テラバイトに及ぶそうで、画像や動画が入っていればともかく、もしもテキストだけでこの容量ならば、とてつもない文書量だという気がします。リークを受けた南ドイツ新聞のジャーナリストは、米国首都のワシントンに本部を置く非営利団体である国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)の協力を求め、最終的には70か国、400人にも及ぶジャーナリスト達が調査活動に加わることとなったそうです。214,000の架空会社が関係する1,150万件にも上るデータに多数のジャーナリストが格闘し、今年2016年4月に明らかにされたのはまだ記憶に新しいところです。この4月にさかのぼること3か月ほどの前にアイスランド首相が辞任に追い込まれニュースも記憶にある人は少なくないことと思います。やや民主主義の怪しげなロシアや中南米や中国、特にアフリカなどの途上国の独裁者はもちろん、トップに近い政界や官界、スポーツ界のスーパースター、その他、あらゆるスーパーリッチ、ハイパーリッチがこのパナマ文書に名を連ねています。特に、アフリカを取り上げた第18章が私には印象的でした。それから、第29章で著者自身が認めている通り、本書では個人だけが対象として取り上げられており、アマゾンやアップルやスターバックスなどの法人企業の租税回避活動については触れられていません。それから、アジアの極東に住むものとして、北朝鮮がまったく登場しないのは、結局、裏が取れなかったのか、あるいは、あまりにも数字が小さいので重要性が低いと判断されたのか、やや残念な気もします。また、同じ第29章では解決策らしき提言がないでもないんですが、国境を超える金融取引に課税するトービン税についても言及が欲しかったところです。でも、話題の書ですし、とても面白いです。読んでおいてソンはありません。

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次に、ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』(みすず書房) です。著者はブルガリア生まれでフランス在住の研究者であり、文学の構造批評や一般人類学などの専門だそうです。私はよく知りません。フランス構造主義ですから、フォーディズムを資本主義のあり方の一部と解釈し、マルクス主義の影響を強く受けています。ソーカル事件のような難解かつあまり意味を汲み取れない文章ではなく、それなりに私なんかにはスラスラ読めましたが、まあ、難しい文章と感じる読書子も少なくないかもしれません。ただ、それほどの中身はありません。フランス語の原題は Les ennemis intimes de la démocratie ですから邦訳のタイトルは直訳そのままです。2012年の出版ですから、米国大統領選挙のトランプ候補のお話はまったく出て来ません。ということで、本書の立場は王権神授説に基づく絶対王政からフランス革命などを経た民主主義の特徴を平等と自由と捉えつつ、その民主主義下での個人の自由意思が暴走して民主主義を脅かす、という見方をしています。私はこれがまったく誤った見方だと受け止めていますので、それ以降は論評にならないかもしれませんが、著者はその防法の一形態としてポピュリズムを捉えています。しかも、ポピュリズムが排外主義的な外国人排斥を伴って現れている、として、そこらあたりまでは米国のトランプ候補などの前触れとして予見的な意見かもしれませんし、第6章などで、現在のポピュリズムはファシズムの再出現ではなく(p.173)、右派だとも左派だともいえず、「下に」属している(p.178)、と喝破する分には爽快でいいような気もしますが、第7章で、民主主義はその行き過ぎによって病んでいて、自由が暴政と化し、人民は操作可能な群衆となってしまっている(p.220)というあたりは、まったくの謬見としか思えません。結論として、こうした一連の「行き過ぎ」を戒め、「中庸」の徳を説くということになるわけですが、民主主義とはひとつの統治システムという観点が抜けているような気がします。そして、民主主義は統治システムとして、歴史上で初めてそのシステム自身を否定する思想を内部に許容するシステムなわけで、それを行き過ぎとか暴走というのは、私には見識不足としか見えません。民主主義そのものを否定しかねない思想の自由を許容するのが民主主義のひとつの特徴ですから、それを弱点としてとらえて主権を有する国民の良識で修正しようとするのが著者の立場といえますが、私には、それは弱点ではなくひとつの特徴に過ぎず、そういった著者が「行き過ぎ」と呼ぶ変動を経て何が正しいかを主権を有する国民が選択するのが正しい民主主義のあり方だと理解しています。長らく国家公務員をしてきた者として、主権を有する国民は長期的には正しい選択をするのであるから、その選択や当地のシステムとして民意が反映される民主主義を活用すべき、というのが私の考えです。ワイマール憲法下の授権法などの特異な冷害や現在のポピュリズムに対して、これらを民主主義の弱点と捉えて「中庸」の必要性を主権者に要請し、修正の必要を議論するべきではありません。それが出来ないならば、ワイマール時代のドイツではありませんが、何らかのきっかけにより主権者でなくなる可能性があるのが民主主義だと考えるべきです。

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次に、小川忠『インドネシア イスラーム大国の変貌』(新潮選書) です。著者は国際交流基金職員として、2度に渡ってインドネシア勤務の経験があります。私自身は2000年から3年間、家族を伴ってインドネシアの首都ジャカルタで暮らした経験を持っています。そのインドネシアは、いうまでもなく、世界で最もイスラム教徒人口が多いという意味でイスラムの大国となっています。ただ、中東などでイスラム教徒の自爆テロなどの報道がなされ、我が家がジャカルタにいたころでさえ、2002年10月にはバリ島で爆弾テロが起こったりしていました。私は経済モデルの専門家として、バリ島のテロの経済的な影響について、"Preliminary Estimation of Impact of Bali Tragedy on Indonesian Economy" として簡単なりポートに取りまとめたりしました。ということで、本書の著者はインドネシアの現状について分かれ目と捉え、欧米や日本などと協調しつつイスラーム国家の模範となるか、あるいは、テロの温床と化すか、と論じています。もちろん、インドネシアが国家を上げてテロの温床となる可能性はほぼほぼないんですが、なにせ、人口規模が大きいだけに、国民に占める比率は小さくとも、人数では一定数のテロリストを生み出してしまう可能性があるわけです。私の個人的な記憶からしても、インドネシアは飛び切りの親日国であるとともに、資源も豊富で経済成長も著しい東南アジアの一員として、スハルト後の民主化も進み、地政学的な位置取りからも、我が国にとってばかりでなく、地域的にも世界的にも重要な国であることはいうまでもありません。そのインドネシアについて、経済面ではやや物足りないものの、政治、文化、宗教、教育などの面から東南アジアのイスラム大国の現状に本書は鋭く迫ります。私の少し前にジャカルタに駐在していた同僚のエコノミストが読んでいたので、私も強い興味を持って借りてみました。

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次に、楊海英『逆転の大中国史』(文藝春秋) です。著者は南モンゴル生まれで、現在は静岡大学勤務の文化人類学の研究者です。タイトル通り、中国の首都北京から視点を逆転させてユーラシアに着目すれば、東アジアの歴史がどう見えるかを検証しています。序章を一通り読めば、著者の考えは明らかで、第1章以降はそれを補強するような材料を取り上げているに過ぎないんですが、要するに、中国史というのは漢人の王朝史では決してなく、典型的には元や清のように漢人ではないという意味で征服王朝が少なくなく、地球規模で最初のグローバル化が進んだは唐の時代でしょうが、唐王朝も漢人ではない可能性を示唆しています。時に、第1章で展開されるんですが、著者は「漢民族」という言葉は使わず、「漢人」と称していて、どう定義するかといえば、漢字を使う人々という意味だそうです。なかなか秀逸な定義だという気がします。その意味で、本書に貼りませんが、私の趣味の書道の知識として、役所の公用語として漢字の中の楷書が成立したのが北魏から隋の初頭くらいで、漢字文化をもっとも強烈に感じさせる人物が唐初頭の王羲之です。著者の主張は私の直観にも合致するといえます。また、中国は人口が多いので合議制には向かない可能性が高く、皇帝専制政治になるとの著者の示唆にも、なるほどと感じさせられました。ですから、中国の王朝史では辺境から入り込んだ戦闘にだけ長けた匈奴やモンゴル人に対比して、戦闘には向かないが文化のレベルが段違いに高い漢人、という歴史観を否定されると、それはそういう見方もあるかもしれないと思わないでもありません。特に、明初頭の大航海時代を先取りするような海外遠征の放棄については、漢人の大きな弱点を露呈した可能性はあると思います。ただ、さすがに、本書で展開されるのはモンゴル人の著者の歴史観であって我田引水ははなはだしく、例えば、匈奴に送られた王昭君が不幸ではなくそれなりに幸福だったかどうかは疑問です。現在の共産党政府が中国の王朝市の伝統に立って正当性を主張しているのか、あるいは、先行きの易姓革命の発生を恐れて否定しているのか、私は詳細には知りませんが、東アジア史の中で中国、著者のいうシナの占める位置は圧倒的であり、モンゴルや日本、他の漢字文化圏と考えられる朝鮮半島やベトナムなどはいうに及ばず、ユーラシア大陸中央部に占める遊牧の民の重要性は、中国中原には及ばない、と私のように常識的に考えるのが普通ではないかという気がします。

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次に、吉田修一『橋を渡る』(文藝春秋) です。人気作家の最新作です。ようやく図書館の予約が回って来ました。春夏秋冬の4章構成と非常にシンプルながら、特に最終の第4章を含めると、とても複雑なストーリー展開で、私のような頭の回転の鈍い読書家は最終章はよく読まないとついて行けません。第1章の春ではビール会社の営業課長と絵画ギャラリー経営の夫婦が、親戚の商社マンの海外赴任で日本に残された甥っ子の高校生を預かったのはいいんですが、恋人の女子高生を妊娠させてしまいます。第2章の夏では都議会議員の家族を中心にストーリーが進み、都議会議員がワイロを受け取ることをその妻が知ってしまいます。第3章の秋では香港の雨傘革命や生殖医療を取材するTV会社のディレクターが、短くいうと、痴情のもつれから2か月先に迫った結婚式を前に婚約者を絞殺してしまいます。そして、第4章の冬では一気に70年後の2085年に舞台が飛びます。その未来では、「サイン」と呼ばれる生殖医療の発展により生み出された新しい生殖方法により誕生した人類が差別を受けていたり、第3章の殺人犯がワームホールを通ってタイム・スリップして来たりします。私もこの作者の作品はかなり好きですのでそれなりに読んでいるつもりなんですが、何だか、今までになかったパターンです。SFといってもいいのかもしれません。違和感がないといえば嘘になるんですが、さすがの表現力と筆力でキチンと書き切ってありますので、よく読めばそれなりに70年前の出来事との関連は理解できます。そして、70年後にタイム・スリップする登場人物にも同じことをいわせているんですが、70年後の未来は決してユートピアではない一方で、ディストピアでもありません。私自身はこの作者の作品でもっとも高く評価しているのは『横道世之介』であり、割合とノホホンとしたストーリーだったりするんですが、ここ10年ほどのこの作者の作品、特に、映画でもヒットした『悪人』以降の、『平成猿蟹合戦図』、『太陽は動かない』など、特に最近作の『怒り』なんかでは、少し暴力的な要素が入って来たような気もします。そして、村上春樹にもこういった暴力的な要素を含む作品を発表していた時期があったようにも記憶しています。大作家とはこういうものなのかもしれません。最後に、作者がこの作品を通して一貫して訴えたいのは、自分を信じることの大切さ、そして、自分を信じて行動する意味です。幾つかの新聞で書評を見ましたが、その中では読売新聞の青山七恵の書評がもっとも私の感想に近かった気がします。以下の通りです。


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次に、平野啓一郎『マチネの終わりに』(毎日新聞出版) です。芥川賞作家の最新作品です。私がこの作者の作品を読むのは『決壊』以来かもしれません。でも、好きな作家のひとりであることはいうまでもありません。出版社を見ても理解できる通り、毎日新聞に連載されていた小説を単行本に取りまとめた作品です。なお、私自身のこれだけ大量に読む読書でも、久し振りの恋愛小説です。しかも、ほぼほぼプラトニックな純愛小説です。でも、時代背景を基に、20代男女の純愛ではなくアラサー男女の恋愛小説です。「大人の恋物語」と表現することも出来るのかもしれませんが、少子高齢化というか、人口減少というか、そういった社会現象の背景にある晩婚化を私は改めて認識させられました。ということで、序の冒頭にある通り、クラシック音楽の世界的なギタリストである蒔野聡史と著名なイタリア人映画監督と日本人妻の間に生まれ、国際的な場で活躍するジャーナリストの女性である小峰洋子の2人の人間の物語です。ひょんなことから知り合って恋に落ち、そして、結局は結ばれずに別の伴侶と結婚して、それぞれのカップルに子供も誕生しながら、分かれるハメになった偽メールの真相にたどり着いて、それでも、若い恋人のように駆けつけて元のように結ばれることもなく、マチネーの終わりに示唆されたニューヨークはセントラル・パークの池のほとりで再会して小説は幕を閉じます。繰り返しになりますが、20代男女の燃えるような恋物語ではありません。私の年齢のせいかもしれませんが、何とも切なく儚くも、とても充実した恋愛小説です。ただし、指摘しておかねばならないのは、普通のサラリーマンの恋愛ではありません。とても特殊な国際人、有名人の間の恋愛です。恋愛相手は音楽CDを出していたり、テレビや新聞などのメディアに出て来るような人物であり、一般ピープルとは異なります。加えて、とても政治経済社会的な動向を作品に反映させています。共産主義体制の崩壊、イラク戦争などの中東情勢、サブプライム・バブルの崩壊、東日本大震災などです。もちろん、こういった事象に関する見方が読者と作者で一致するかどうかは判りませんが、読み進む上でそれなりの注意点かもしれません。それから、私のようなアラ還の読者ではなく、40手前から40代の読者が想定されているような気がして、まさに作者自身の世代かもしれません。アラフォーの恋をどのように考えるか、人それぞれなんですが、とても示唆に富んだ小説です。なお、この作品内で蒔野が演奏するギター曲を収録したタイアップCD「マチネの終わりに」が発売されています。ギタリストは福田進一なんですが、私は不勉強にして演奏を聞いたことはなく、単に、村治佳織の師匠としてしか知りません。作品中に架空の映画で、小峰洋子の父親の監督作品として登場する「幸福の硬貨」のテーマ曲が林そよかによるオリジナル曲として再現されていたりします。今年、私が読んだ小説の中では文句なしのナンバーワンです。作者ご本人と毎日新聞の特設サイトはそれぞれ以下の通りです。


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次に、柴田哲孝『Mの暗号』(祥伝社) です。私は著者についてはよく知らないんですが、私と同じアラ還の世代の作家で、下山事件に関する論評でデビューしたような紹介が本書の奥付にあります。この作品でも下山事件に関する言及が何か所かあったりします。ということで、タイトルからも明白な通り、戦後の闇の世界で噂話のレベルながら謀略的なコンテクストで語られてきたM資金に関する暗号を解くという小説です。そして、ややネタバレに近いんですが、主人公たち4人はそのM資金そのものである金塊ほかを暗号を解いて入手します。主人公は4人いて、東京大学で講義を持っている歴史作家の浅野迦羅守のところに、弁護士の小笠原伊万里が訪ねて来て、殺害された父親がその父親、すなわち、祖父から預かっていた謎の地図と暗号文を解読して欲しいと依頼を受けます。そして、浅野迦羅守の2人の親友、数学の天才であるギャンブラーとCIAのエージェントも経験した情報通が加わって、4人で暗号を解きつつM資金の金塊へアプローチします。もちろん、何の障害も妨害もないというハズもなく、小笠原伊万里の父親を殺害したと思しきフリーメイソンの一派が執拗に主人公たちを追跡しつつ、さらに、殺人事件の捜査に当たる警察官も加わって、3つどもえの宝探しとなります。殺人事件の方の謎解きはほとんどなく、もっぱら暗号解読とM資金の金塊の在りかの解明、タイトル通りの暗号の解読に力点が注がれますが、何せ70年前のものですので、暗号そのものがさして高度な処理をなされているわけではなく、また、フリーメイソンとのバトルについても、さしたる見どころもなく、ミステリとしてはかなり凡庸な仕上がりとなっています。M資金や金塊の宝探しにワクワクする人向けかもしれませんが、ミステリとしてはあまりオススメできる作品ではありません。

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最後に、田中経一『ラストレシピ』(幻冬舎文庫) です。2年前に出版された『麒麟の舌を持つ男』を改題して文庫化しています。文庫の方の副題は『麒麟の舌の記憶』とビミョーに違えていたりします。作者はテレビのバラエティ番組「料理の鉄人」を手がけたディレクターであり、それだけに多くの一流料理人との接触があったものと想像しています。また、この作品は2017年夏に東宝配給による映画化が決まっており、監督は滝田洋二郎、主演は嵐の二宮和也だそうです。ストーリーは時代を隔てて2部構成が入り混じっており、昭和1ケタの満州国成立直後から終戦にかけてと大雑把に2014年、すなわち、この作品の単行本が発行された年です。昭和初期の主人公は山形直太朗、21世紀の主人公は佐々木充、ともに「麒麟の舌」を持つ料理人であり、実際に料理として完成した食べ物を味わうことなく、レシピを見ただけで音楽の絶対音感のように味や触感が判る、という設定です。そして、昭和初期の山形は満州国にて当時の天皇陛下の行幸を待ち、その際に提供する大日本帝国食菜全席のレシピを作り上げるべく満州軍から指示されます。大日本帝国食菜全席は、いわゆる満漢全席を超える204品から成るフルコース料理であり、春夏秋冬51品目ずつに分けられています。本書の最後にタイトルだけは収録されています。この料理が、実は、歴史を揺るがしかねない陰謀が込められていた、ということになっています。他方、21世紀の佐々木は中国の釣魚台国賓館の料理長からこの大日本帝国食菜全席のレシピを入手するように依頼され、山形の縁戚などを当たりながら以来事項を進めます。ということで、私は実はこういった料理や食通の小説とかノンフィクションが大好きで、基本的には食べることが好きなんだろうと自覚しているんですが、この作品も、ハッキリいって、ミステリとしてのプロットはまったく評価しませんが、料理についての詳しい薀蓄は素晴らしいと思います。同じような方向性として、高田郁のみをつくし料理帖のシリーズがありますし、今は、小説では松井今朝子の『料理通異聞』を、ノンフィクションでは『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』を、それぞれ図書館で予約待ちしているところです。私は麒麟の舌を持っていませんので、料理は文字で読むよりも画像で見た方が何倍も理解しやすいような気がしますから、映画が封切られた際には見に行くかもしれません。
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2016年10月29日 (土) 14:11:00

今週の読書は相変わらず経済書など計9冊!

今週も経済書や小説など9冊読みました。特に、小説は話題の書や好きな作家でしたので3冊に上りました。来週は土曜日に米国雇用統計が割って入りますので、読書感想文のブログのアップが日曜日となり読書日が1日多いため、ひょっとしたら10冊の大台に乗りそうな予感もあります。これから自転車で図書館に行って予約しておいた本を収集します。

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まず、ハリー G. フランクファート『不平等論』(筑摩書房) です。著者はプリンストン大学の目お伊代教授で、専門は道徳哲学です。私は本書を読むまでよく知りませんでした。英語の原題は On Inequality ですから、邦訳はそのまま訳されたカンジです。基になっているのは1987年と1997年に学術雑誌に掲載された2つの論文、"Equality as a Moral Idea" と "Equality and Respect" です。短い学術論文2編が基になっている2部構成ですので、本書も決して長くなく、訳者の解説がページ数的には3割超を占めます。本書の主張は、現代の米国の経済社会におけるもっとも基本的な課題のひとつは格差や不平等ではなく貧困や欠乏である、という点に尽きます。格差や不平等を問題にするのは、他人との比較という観点が入ることから、自己自身の問題を考える場合にむしろ有害ですらある、と結論し、加えて、平等主義への代替案として「充足ドクトリン」を提唱し、お金について道徳的に重要なのは不平等ではなく、各人が十分にお金を持つということである、と指摘しています。経済学的な視点にも目配りがなされていて、限界効用逓減法則はかなり強く疑問視され、やや牽強付会ながら反例もいくつかあげられています。また、行動経済学的な観点で、プラスの効用をゲットすることよりも、マイナスを避けようとするカーネマン・ツベルスキー的なプロスペクト理論への言及もあります。それはそれとして、議論の場ではこういった道徳哲学が成立する余地があるかもしれないんですが、翻訳者の解説にもある通り、実践の場ではなかなか国民一般の理解を得にくいのが難点かという気はします。哲学者の机上の空論といえばそれまでですが、こういった議論は成り立たないわけではありませんから、例えば、経済政策を考えたり、道徳を論じたりする際、頭の片隅に置いておく必要があるのかもしれません。もちろん、まったく無視して実践論を進める論者もいるかもしれません。

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次に、早川英男『金融政策の「誤解」』(慶應義塾大学出版会) です。著者は日銀の調査統計局長から理事も務めたエコノミストです。当然、リフレ派を目の敵にしていて、かなりエゲツナイ批判を繰り返している日銀旧習派といえます。ただ、いくつかのポイントで主張はもっともで、耳を傾けるべき点もあります。まず、岩田ほか[編]の『マイナス金利政策』の後追いですが、現在の黒田総裁の下での日銀の量的緩和政策、マイナス金利がつく前の量的緩和政策ですが、これは短期決戦であった、という主張です。基本は、日銀が国債を買い切ってしまうから、という極めて単純な理由なんですが、それはその通りです。そして、もうひとつの批判で私が許容すべきと考えるのは、2014年10月のハロウィン緩和に典型的に見られるように、市場との対話よりもサプライズを狙った緩和が見受けられることです。この点に関しては、最近の日銀も反省が見られる、というか、市場との対話を積極的に展開しているような気がします。でも、ほかの批判はとても恣意的な設定の下に、あり得ない敵に向かって弾を撃っているような気もします。第3章のリフレ派への批判については、特にそういう気がします。大昔の福井総裁が就任した際、「魔法の杖はない」と発言し、私はこりゃダメだと感じたことがありました。誰も魔法の杖を要求していないにもかかわらず、批判をすり替えて反論するのはどうかという気がします。特に、リフレ派が政策実行の際の気合いを強調しているという謎の見方が示されていますが、速水総裁時代に量的緩和は効果ないとたびたび総裁自身が発言して、政策効果を大きく減殺した点は忘却の彼方なのかもしれません。また、第4章のデフレ・マインドの形成についても、「失われた20年」における「学習された悲観主義」、特に、エレクトロニクス産業の苦境に関して、一部なりとも、日銀のデフレ志向の金融政策による円高がもたらした、との認識は全く欠如しているらしく、これくらいの鉄面皮でないと大きな組織では出世しないんだろうという気がします。他方で、旧日銀の作り出したデフレについては、▲0.3%くらいのデフレは何でもない、決して「失われた20年」の主因ではない、との見方がたびたび示され、コチラには反省の態度は見られません。いずれにせよ、黒田総裁就任から3年半を経て、「失われた20年」のころから攻守所を代えた批判が生じる素地が出来上がっていることも確かですし、市場との対話よりもサプライズを狙った政策運営がその批判の対象になっていることも事実です。黒い日銀と白い日銀のどちらのトラック・レコードがよかったのか、現在の内閣支持率に反映されている部分が少なくないような気がするのは私だけでしょうか。加えて、現在の黒田総裁の日銀やリフレ派に対する批判で、例えば、2014年10月のハロウィン緩和を戦時中のミッドウェイ海戦になぞらえるなど、旧日本軍を引き合いに出す方法は、ネット上の論争に関するゴドウィンの法則の日本版かもしれないと感じてしまいました。最後に、日経ビジネス誌の10月17日号p.103で、第一生命経済研の永濱氏による本書の書評が取り上げられており、「白川方明日銀総裁以前の日銀の伝統的な考え方が理解しやすくなる」と結論されています。今さらという気もしないでもありませんが、ご参考まで。

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次に、フィリップ・ボール『ヒトラーと物理学者たち』(岩波書店) です。著者は英国のサイエンスライターであり、ネイチャー誌のエディターも務めています。英語の原題は SERVING THE REICH: The Struggle for the Soul of Physics Under Hitler となっており、邦訳副題の「科学が国家に仕えるとき」を含めて、ほぼ邦訳タイトルと同じです。そして、タイトルから理解できるように、ヒトラー支配下のドイツ第3帝国における物理学者の活動を追っています。もちろん、ついでながら、第3帝国を追放したり、逃げ延びたりしたアインシュタインなどのユダヤ人をはじめとする物理学者の動向の把握も忘れられているわけではありません。でも、特に、スポットを当てられているのは、デバイ、ハイゼンベルク、プランクの3人のノーベル賞受賞者です。でも、タイトルに反して、というか、何というか、デバイはノーベル化学賞受賞者だったりします。それはさておき、物理学者と化学者両方の科学者たちがナチスにどう抵抗しようとし、あるいは、受け入れられようとし、そのリソースを利用しようとし、長いものにまかれる状態をどう正当化しようとしたのか、という古くて新しい科学倫理の問題を、いかにもジャーナリストらしく、あらゆる証拠を提示・吟味しながら執拗に論じています。特に、デバイについては、2006年に出身地オランダで『オランダのアインシュタイン』と題された本が出版されて評価が一変したという歴史的事実があります。というか、ノーベル賞受賞の輝かしい評価は根底から覆され、唾棄すべき「ナチスのスパイ」だったという評価が下されたりします。『アンネの日記』ではないですが、ユダヤ人をはじめとして世界中の多くの民族人種に寛容なオランダらしい対応かもしれませんが、逆から見て、米国に逃れたアインシュタインが徹底して反ナチスの態度を貫き通したわけですから、それを基準に考えると許容範囲が大きくシフトするような気もします。最初の疑問に戻って、化学者を含む「科学者」というタイトルではなく、英語の原題もあくまで「物理学者」となっていますので、焦点は化学兵器ではなく、当然、核兵器です。第10章から12章が該当します。本書の読ませどころでしょう。

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次に、マイケル・ブルックス[編]『「偶然」と「運」の科学』(SBクリエイティブ) です。編者は量子力学で博士号を取得するとともに、サイエンス・ライターとして活躍しているそうで、本書は英国の一般向け科学雑誌「ニュー・サイエンティスト」に掲載された偶然や不確実性やランダム性に関する23人の27編のコラムを編んでいます。英語の原題は Chance となっています。確率論と竿の基礎となる統計学に関して、それなりの基礎知識あればかなり楽しめる気もしますが、量子物理学や進化生物学などの専門用語も少なくなく、私には半分も理解できなかった気がします。物理学と統計力学に限って考えれば、ニュートン的な力学の決定論から、アインシュタイ的な力学の確率論まで、物理学は進化した一方で、そのアインシュタイン自身が「神はサイコロを振らない」といったとかで、初期の時点では物理学においてすら確率的な振る舞いは受け入れにくかったんだろうと思います。私の専門分野である経済学における確率や不確実性やランダムネスは本書には一向に現れませんが、経済学でもデータ生成過程は確率的であると考えられており、特に、私の知る限りでは時系列データの生成過程は確率的です。他方で、昨日取り上げた雇用統計や物価上昇率やGDP成長率などは決定論的に幅のない統計で示されており、扱いが難しいところです。なお、量子物理学で確率を論ずる際に必ず出てくる「シュレーディンガーの猫」のお話は本書には取り上げられていません。私が理解できる数少ない量子力学の確率に関する有名なトピックですので、少し残念な気がします。最後に、単なる宣伝なんですが、私もエコノミストの端くれとして地方大学に出向していた際にランダム・ウォークについて簡単な紀要論文を取りまとめています。ご参考まで。


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次に、綿矢りさ『手のひらの京』(新潮社) です。作者はご存じの通りの芥川賞作家です。京都出身かと記憶していますが、私のように宇治出身で洛外もいいところではなく、紫野高校ご卒業ですから京都大学の私の同級生にも同じ高校卒業生がいたりしました。ということで、出版社のキャッチ・コピーでは、奥沢家三姉妹の日常に彩られた、京都の春夏秋冬があざやかに息づく、綿矢版『細雪』、だそうで、私でなくともそそられる宣伝文句ではないでしょうか。小説の出だしが北大路橋ですから、出雲路橋のひとつ北にかかる橋だと思うんですが、その近くに居を構える奥沢家の三姉妹が主人公となり、それぞれの視点から物語が進みます。どうでもいいことながら、出雲路橋の近くには、その昔は、京都市交響楽団の練習場があったりしました。北大路橋近くには広大な府立植物園があり、映画「オリヲン座からの招待状」では宮沢りえが自転車に乗っていました。近くには地下鉄が通っており、駅もあるようです。北山通りから地下鉄は大きく西に曲がります。京都市地下鉄は、私が大学を卒業して京都を離れてから開業しましたので、実はよく知りません。本題に戻って、三姉妹は、おっとりした30過ぎの長女の綾香、恋愛に生きる次女の羽依、羽依とは1つ違いで大学院に進んで東京での就職を目指す三女の凛です。どうでもいいんですが、何となく赤川次郎の三姉妹探偵団の三姉妹の相似形のような気がしなくもありません。またまた、脱線から本題に戻って、20代半ばからアラサーまでの人生のステージから、恋愛や就職といった人生の転機を迎えつつある三姉妹の考えや行動を軸に、もうひとつの軸が京都の鮮やかな四季=春夏秋冬として彩られています。もちろん、京都だけでなく夏のシーズンではお近くの琵琶湖が舞台になったりもします。もちろん、祇園祭や五山の送り火といった夏の京都の風物詩、秋の紅葉に春のサクラ、冬の嵐山の星空などなど、尽せぬ興趣とともに小説を色彩豊かにしています。気の強い次女の羽依の存在がやや京都らしくないような気もしますが、みごとな二重人格を演じていますし、p.140から羽依が凛に男性観を語っているのは、作者自身の思いなのかもしれませんが、一読の価値あると受け止めています。本屋さんでこの部分だけ立ち読みするのも一案です。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『煽動者』(文藝春秋) です。著者は売れっ子のミステリ作家であり、私はニュー・ヨークを舞台にしたリンカーン・ライムを主人公とするシリーズとカリフォルニアで繰り広げられるキャサリン・ダンスを主人公にしたシリーズの両方を愛読していますが、この作品は後者のキャサリン・ダンスのシリーズ最新刊です。英語の原題は Solitude Creek であり、パニック事故・事件は最初に起こるナイトクラブの名称です。ということで、ストーリーは、2つの事件が同時並行で進行します。すなわち、ひとつはギャングの追跡・殲滅作戦であり、もうひとつはパニックを人為的に起して混乱の中で事故死を誘う凶悪犯の事件です。まず、キネクシスの活用によりすべての嘘を検知するキャサリン・ダンス捜査官が「無実」の太鼓判を押して釈放した男が、実は、ギャング組織の殺し屋だとする情報が入り、殺し屋を取り逃がしたとして、ダンスは麻薬組織合同捜査班から外され、民間のトラブルを担当する民事部に異動させられて、捜査官バッジを取り上げられ、銃器の携行も禁止されてしまいます。しかたなく、事件性があるかどうかも未確定な事故扱いで、ナイトクラブでライブ中に火事らしいニセ情報から観客がパニックになり、しかも、非常口に大型トレーラーが駐車されていて死者や重症者まで出た事件が、同じような状況で、作家のサイン会兼朗読会でもパニックによる死者が出て、さらに、アミューズメント・パークでも同様の事件が起こり、パニックを人為的に起して事故を起こし死者・重症者を出す手口と判明し、その犯人をダンス捜査官が追います。ダンス捜査官のプライベートでは、上の男の子が暴力的なゲームの影響もあって無茶な行為に走ったり、下の女の子が小学校の発表会で歌を歌うのを嫌がったりと、さまざまな障害も生じます。でも、最後は読者も「エッ」と驚く解決がすべての事件・事故や出来事に示され、作者のプロットに見事に騙されます。私はかなり注意して読み進んだんですが、2度読みする愛読家もいそうなきがします。ダンス捜査官の勤務するCBIの同僚のチームワークも抜群で、キャサリン・ダンスのシリーズ4作目にしてシリーズの最高傑作と私は考えています。この作者の作品のファンであれば、何としてでも読んでおくべき1冊でしょう。でも、ひょっとしたら、次で終わるんじゃあないのか、という気にすらさせられます。なお、最後にネタバレに近いんですが、パニックを起こした大参事を誘発する手口は、動画を配信して売りさばくのが目的と判明するんですが、同様の動画の収録目的なのが貴志祐介『クリムゾンの迷宮』です。我が国の作家がジェフリー・ディーヴァーの先読みをしたような気がして、私は誇らしい気分になっています。まったくどうでもいいことながら、貴志祐介は京都大学経済学部の出身ですから、私の後輩ということになります。

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次に、中山七里『ヒポクラテスの憂鬱』(祥伝社) です。著者は私も好きなミステリやエンタメ小説の作家で、実は、この作品はシリーズとなっていて、第2弾です。第1作目は『ヒポクラテスの誓い』とのタイトルで、この10月からWOWOWにおいて北川景子主演でドラマ化されています。最終話は10月31日(月)夜11時からだそうです。誠に残念ながら、私は原作の小説の方しか読んでいません。ということで、その昔に、海堂尊のチーム・バチスタのシリーズで、不審死した死体は解剖ではなくオートプシー・イメージング(Ai)=死亡時画像病理診断を行うべしという主張があったように記憶しているんですが、このシリーズは徹底して解剖を主張し、解剖により死因の究明と犯罪の立件に役立てようとの姿勢が鮮明です。例えば、前作の『ヒポクラテスの誓い』ではAiも話題になったんですが、クモ膜下出血などの場合には出血が引いてしまうとAiではダメと主任教授が主張したりします。ドラマでは北川景子演ずる主人公の新人女医が助教として勤務する医大に埼玉県警から次々と不審死、あるいは、不審死でなくても死体が持ち込まれて、口が悪くて横柄な態度のじいさんが主任教授で解剖をこなします。准教授はこの主任教授をしたって来日した紅毛碧眼の女医さんですが、さすがに、WOWOWのドラマでは人材を得られず日本人で代用しているようです。本書では、収集者ではなく「修正者」の方のコレクターが埼玉県警のホームページにある掲示板に次々と書き込みをした結果、不審死ではないと検視官が判断した遺体まで解剖することとなり、検視官の見立てと異なる犯罪性の高い事実が次々と明らかにされる、というストーリーです。もちろん、最後は「修正者」の方のコレクターの正体も極めて意外な形で明らかにされ、そのコレクター自身の犯罪も断罪されます。なかなか興味深く読めます。ミステリとしてもよくできています。『おやすみドビュッシー』以来、私はこの作者のファンなんですが、私と同じようにこの作者の作品のファンであれば読んでおくべきかという気がします。

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次に、日本推理作家協会[編]『ザ・ベストミステリーズ 2016』(講談社) です。2015年に発表されたすべての短編推理小説の中から、日本推理作家協会が選び抜いた至高の作品だけを収録しています。新鋭からベテランまでキャリアは関係なく、とにかく面白くて優れた短編ばかりを集めてあります。作家のアイディアと技とたくらみが詰まっている、との出版社と編者の宣伝文句なんですが、惜しむらくは本格や新本格が少ないです。殺人事件が少ないのは、私はいいと思うんですが、解決策、というか、方法論的にただひとつに論理的に決定されるというわけではありません。蓋然性が高い、たぶん、そうなんだろう、というレベルの解決策が多いような気がします。長くなりますが、収録短編は12作品であり、大石直紀「おばあちゃんといっしょ」、永嶋恵美「ババ抜き」、秋吉理香子「リケジョの婚活」、芦沢央「絵の中の男」、伊吹亜門「監獄舎の殺人」、大沢在昌「分かれ道」、小林由香「サイレン」、榊林銘「十五秒」、永瀬隼介「凄腕」、日野草「グラスタンク」、南大沢健「二番札」、若竹七海「静かな炎天」です。このうち、「監獄舎の殺人」は明らかに記憶に残っていて既読ですので、別のアンソロジーに収録されているんだろうと思います。それぞれに個性的で優れた作品ばかりですが、「グラスタンク」と「二番札」が私の印象に残りました。また、出版社ではミステリの入門書としても売り出すつもりのようです。そういった観点もいいかもしれません。

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最後に、松尾匡『自由のジレンマを解く』(PHP新書) です。著者は神戸大学の置塩先生のお弟子さんらしく、現在は立命館大学の研究者です。実は、それまでの不勉強を恥じていますが、今年2016年5月にこの著者の『この経済政策が民主主義を救う』を読んでとても感激して、おそらく、左派のエコノミストとしてはもっとも実学的に正しい主張をしているような気がして、最新刊の新書を読みました。ただ、本書の冒頭に同じPHP新書から出版されている『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の続編である旨が明記されていましたので、誠に二度手間ながら同書を借りて先に読みました。ということで、前書ではリスクと決定と責任の3つが一致する必要を指摘し、ケインズ政策が行き詰った転換点を「転換X」と表現して、それでも、小さな政府が誤解だったとかの正論を基に、ベーシック・インカム論やインフレ・ターゲティングを論じています。本書では、固定的な人間関係を前提にした経済構造から、資本主義の爛熟によるグローバル化の進展などにより、流動的な人間関係に移行したのが「転換X」であると定義し直し、そのグローバル時代に関する論考を進めています。例えば、固定的な人間関係の時代には、雇用では日本的な雇用慣行として、終身雇用、年功賃金、企業内労働組合のシステムが有効だったわけですが、流動的な人間関係では非正規雇用がドッと増えたりするわけです。そして、流動的な人間関係の世界では、マルクス主義的な疎外により人間が普遍化されると結論します。私の考えに基づけば、労働力として資本に対して普遍化されるというべきです。そして、最後の方で、アマルティア・セン教授のニーティとニヤーヤが本書でも持ち出されるんですが、私は著者とは少し見方が異なります。すなわち、資本主義的な疎外の中では、おそらく、ニーティが正義になるんですが、セン教授の見方では資本主義を越えて、というか、克服して、というか、人によっては、社会主義革命で転覆させて、というかもしれませんが、それはともかく、資本主義の制約にとらわれないという意味で、ニヤーヤが重要になる世界を目指す、ということなんだろうと思います。タイトル通りの自由論なんですが、とても難しいです。リバタリアンの自己矛盾など、私は十分に理解したとは自信を持てません。覚悟して読み始める必要があるかもしれません。
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2016年10月22日 (土) 15:54:00

今週の読書は経済書を中心にまたまた大量9冊!

もう何も申し上げることはありません。今週も経済書を中心に9冊です。

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まず、アマルティア・セン『インドから考える』(NTT出版) です。著者はインド出身の経済学者であり、厚生経済学や開発経済学の功績によりノーベル経済学賞を受賞しています。本書は最近十数年のエッセイを取りまとめたもので、英語の原題は The Country of First Boys ということで、同じタイトルのエッセイは「1位の男の子たちの国」と訳出されています。反対側にいるのは Last Girls であり、格差や不平等を象徴しています。いろんなエッセイから編まれており、やや取りとめないんですが、p.109 からの自由論「自由について語る」に着目すると、当然といえば当然ながら、セン教授は自由なき経済発展を否定します。私がどうしてこの点に着目したかというと、1990年代前半に私が大使館の経済アタッシェの外交官として滞在したチリのピノチェット政権の時代が、まさに自由なき経済発展の象徴であると私が考えているからです。いわゆるシカゴ学派的な新自由主義経済の「実験」がチリで実践されたといわれており、お隣のアルゼンティンが低迷していたこともあって、それなりに経済発展は感じられて国民の支持も得られたようなんですが、セン教授的なケイパビリティの観点からはまったく評価できない経済成長であった、と私は受け止めています。本書でも指摘されている通り、「開発というのは単に、都合のいい命のない物体を増やすプロセスだと見ることは本当はできない」(p.115)という点に尽きます。有名なニーティとニヤーヤを展開した「本当に憂慮すべきものとは」も収録されています。セン教授は形式的なニーティよりも、生活に根ざすニヤーヤを重視するのはよく知られた通りです。私のような開発経済学を専門とするエコノミストはもちろん、多くの途上国経済の力になりたいと考えている日本人に手に取って読んで欲しいと願っています。また、セン教授の系列に連なるバスー教授の『見えざる手をこえて』も話題になっています。私も図書館に予約を申し込んであり、今から楽しみです。

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次に、ケヴィン・ケリー『<インターネット>の次に来るもの』(NHK出版) です。著者は雑誌の編集者などのジャーナリズムの世界の経験を基に、著述業などをしているようです。英語の原題は The Inevitable 避けられない流れ、とでも訳すんでしょうか、今年2016年の出版です。ということで、この先30年ですから、2045年ともいわれるシンギュラリティ=特異点の時期に向けての潮流を探っています。ロボット、人工知能(AI)、仮想現実(VR)、拡張現実(AR)、ロボット、ブロックチェーン、 IoT、などなど、この先のテクノロジーの進歩にはさまざまな用語が使われるんでしょうが、本書でもキーワードは何と12もあり、becoming, cognifying, flowing, screening, accessing, sharing, filtering, remixing, interacting, tracking, questioning, and beginning と邦訳書では整理されています。というのは、英語版の本書のサイトでは、確かに副題の通り、12 Technological Forces なんですが、interacting, cognifying, flowing, screening, accessing, sharing, filtering, remixing, tracking, and questioning の10に取りまとめられていたりします。特に、訳者あとがきにも解説はないので、私にはよく判りませんが、大きな違いはないということなんだろうと理解しています。この先2045年のシンギュラリティまで、モノからコトへの非物質化、リアルタイム化、クラウド化などの流れがあり、著者はこれらの傾向をデジタル社会主義(p.181)と呼んでいますが、1月23日付けの読書感想文で取り上げたジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』にとても近い考え方なんではないかと私は理解しています。そして、そういった限界費用がゼロに近くてモノが潤沢に供給される社会にあって、もっとも希少なのは人間のアテンションかもしれないと本書では結論しています。そして、社会はプライベート=一般からパーソナル=透明に移行する可能性を示唆しています(p.347)。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界に近いかもしれません。最後に蛇足ながら、こういった流れにもっとも鈍感でトンチンカンなことをやっているのが、我が役所や学校・病院などなんですが、一所懸命に個人情報保護に取り組んでいるのは、後の時代から見ればバカげたことだった、ということになるのかもしれません。

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次に、アリエル・ルービンシュタイン『ルービンシュタイン ゲーム理論の力』(東洋経済) です。著者はイスラエルの経済学者であり、容易に想像される通り、専門は経済理論のほかゲーム理論などです。英語の原題は Economic Fables、すなわち、経済学的な寓話、という意味でしょうか。経済学、特にゲーム論の学術書というよりは、著者の半生を振り返った自伝的な記述とともに、ゲーム理論、交渉、合理性、ナッシュ均衡、解概念、経済実験、学際研究、経済政策、富、協調の原理などの基礎概念が明らかにされるエッセイとして受け止めるべきではないかと私は考えています。印象に残ったのは2点あり、第1に、第1章では経済理論における合理性の前提を強く推奨しつつも、非合理性や限定合理性に基づく行動経済学についても幅広い理解を共有している点です。私も基本的には同様で、完全合理的なホモ・エコノミカスを前提にしたモデル構築と理論解明は、第1次アプローチとしてはとても有用だと考えています。その上で、限定合理性などの行動経済学の成果を取り入れつつ、現実に即したモデルの変更が考えられるべきであり、行動経済学的な非合理性を前提したモデルが第1次接近になるとは考えられません。第2に、現実に役立つかどうかは、経済学を評価する重要な基準ではないという点がとても強調されています。確かに、知的好奇心の対象として現実社会、というか、経済を見て、今年のノーベル賞を受賞した大隅先生のように基礎的研究の重要性を指摘するのは、理論研究の必要性を強調する上で大切な点だと思うんですが、経済学については、特に、私のように政府の経済政策セクションで官庁エコノミストをしている身としては、もう少し表現を何とかして欲しいという気もします。まあ、「ただちに政策運営につながることを重視するのは…」とかにならないものだろうか、という気がします。最後に、どうでもいいことながら、このエコノミストのひとつの特徴なんですが、無宗教に近い日本人としては、かなりユダヤ色が強く、拒否反応を示す人がいるかもしれません。もちろん、私が懸念するほどはいないかもしれません。

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次に、 スティーブ・ケース『サードウェーブ』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者は米国の起業家であり、AOLのCEOなどを務めた実業家です。英語の原題も日本語と同じであり、本書の中でもアルビン・トフラーの『第3の波』へのオマージュと明記していたりします。ということで、本書はハワイ生まれの著者の少年時代からの人生も振り返りつつ、インターネット黎明期からのビジネスを回顧して、パソコンがインターネットに接続する「第1の波」、スマートフォンの普及によるソーシャルメディアやアプリが台頭した現在の「第2の波」、すなわち、グーグルやファイスブックなどが全盛の現時点からさらに、単なるモノのインターネット(IoT)を超えて、あらゆるものがインターネットにつながる(Internet of Everything)「第3の波」の時代を迎えようとしている、との前提で、さまざまなビジネスや社会の変容を解き明かしています。すなわち、インターネット接続は電気の接続とおなじように日常生活に不可欠になり、いくつかの産業が根本から変貌するわけです。「第三の波」の時代には、米国のイノベーション中心地以外の地域が台頭する、という意味で、Rise-of-the-Rest が生じ、従来型のビジネスとフィランソロピー、さらに、投資収益とソーシャル・グッドをつなぐインパクト投資が重要な役割を果たし、最後に、市場の見えざる手ではなく、政府の見える手による産業育成や規制、あるいは、産業と政府のパートナーシップが重要となる、と主張しています。特に、米国のビジネスシーンでは既存の大企業などよりもいわゆるスタートアップ企業がイノベーションや雇用の創造などで重要な役割を果たす時代が到来しつつあることを指摘しています。長らく官庁エコノミストとして経済を見てきただけの私にはいわゆる起業家の心理や経済に果たす役割などは適正に判断できない可能性もありますが、それなりに心に響くものがありました。日本にそのまま応用できる部分は少なそうな気がしますが、「第2の波」で米国企業のみならず韓国企業などからも後塵を拝して来た日本企業にとって、「第3の波」の時代の到来は大きなチャンスなのでしょうか、それとも、差が大きくなる可能性の方が高いんでしょうか?

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次に、野口真人『あれか、これか』(ダイヤモンド社) です。私はよく知らないんですが、著者は企業価値評価のスペシャリストだそうです。それを目的とした企業の経営者であり、同時に、いくつかの大学や大学院で講義もしているようです。ということで、本書は選択のためのファイナンス理論の解説書であり、副題は『「本当の値打ち」を見抜くファイナンス理論入門』となっています。前半の4章で基礎的な概念を解説しています。マルクスまで持ち出して、交換価値と使用価値の違いを説き、キャッシュフローの考えを明らかにし、時間とリスクと金利の関係から現在価値を見て、不確実性やリスクについては標準偏差、というかその二乗項である分散でバラツキを説明しようとしています。その上で、後半の3章ではそれぞれノーベル賞を受賞したファイナンス理論を取り上げています。すなわち、企業価値は資産そのものの価値で決まり、負債=資金調達には関係しないとしたモディリアーニ・ミラーのMM理論、分散投資により投資のリスクを軽減させるとするマーコウィッツの現代ポートフォリオ理論、市場の変動との関係で決まるβでマーケット・ポートフォリオとの相関で個別銘柄の収益率を求めようとするCAPMモデル、そして、オプション価格を導出するブラック・ショールズ式、の4点について取り上げつつ、その中にも、オークションの勝者の呪いとか、行動経済学のプロスペクト理論などを織り交ぜていたりもします。特に、投資とギャンブルを同一視する見方については、現代ポートフォリオ理論との対比で、ギャンブルはやればやるほど分散効果が仇となり確実に損をする構造になっていると指摘しています。まったく、その通りです。いわゆる投資指南書のたぐいではなく、かなり平易にファイナンス理論について、数値に基づく実例も取り混ぜつつ解説し、なかなか興味深い構成となっています。ただ、この種の本に求められる実用性については、逆に、十分ではないと判断する読者もいるかもしれません。私はむしろこういった理論的に難しい話題を平易に解説している本はそれなりに評価すべきだと考えています。私のように東京の端っこに住んでいたりすると、通勤電車の行き帰りで読んでしまえるくらいのボリュームです。

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次に、高嶋哲夫『日本核武装』(幻冬舎) です。著者は天下国家の大きな問題、台風や津波などの天災、あるいは、富士山噴火、また、パンデミックなどのてーまで、私の解釈によればパニック小説の名手だと理解しています。この作品では我が国を取り巻く国際情勢の最近の大きな変化、例えば、中国との尖閣諸島の領有権紛争、北朝鮮の核開発、形骸化する日米安保のもとでの米国による抑止力の低下などなど、東アジアの国際情勢の変化を踏まえて、直接には尖閣諸島問題から日本が核武装に踏み切る、というストーリーです。ただし、ネタバレになりますが、実際に核兵器を保有して実戦配備するハズもなく、いろいろと諸事情あって、我が国が潜在的な核保有国であるという事実を秘密裏に米中両国首脳に理解させ抑止力として活用する、というオチになります。ですから、基本的なトーンとしては、ゴリゴリの右派路線で軍備拡大の末に核武装がある、というわけではなく、中国とベトナムの間で武力衝突を生じた南沙諸島の問題に鑑みて、尖閣諸島の問題で同様に我が国と中国が武力で衝突するのを避けるための抑止力、しかも、日米安保が形骸化してオバマ大統領が尖閣諸島も日米安保の範囲内と明言したにもかかわらず、中国の購買力に期待して米国第7艦隊が出動を控え、むしろ、日本よりも中国寄りの暗黙の姿勢を取り、しかもしかもで、中国の核ミサイルの照準が東京や大阪などの我が国の主要な都市に向けられる、という極めて切迫したシチュエーションで、東京サミットで中国首脳も招かれていることから、実際に組み立てた核兵器を米中首脳に見せて、日本の潜在的な核保有能力を明らかにするわけです。大きな疑問は、まったく専門外のエコノミストながら、私の知る限り、核兵器の製造はそれほど技術的なハードルが高くないんではないか、という点です。中学校か高校の科学の授業のレベルと聞いたこともあります。どこまでホントかウソか知りませんが、すでに我が国の潜在的な核兵器製造能力は先進各国や近隣諸国の間で認められているような気もします。よく判りません。いずれにせよ、防衛省の中もこの作品で描かれた通り、制服と背広だけでなく、それぞれの中でも一枚岩でも何でもなく、もちろん、与野党入り乱れて諸説飛び交う中で、何が国益なのかの見極めがとても難しそうな気がします。その部分は私の理解を超えているのかもしれません。

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次に、長江俊和『東京23区女』(幻冬舎) です。著者はよく知りませんが、『出版禁止』という作品があるらしいです。本書は東京23区のパワースポットなどを巡るオカルト小説です。板橋区の縁切り榎、渋谷区の渋谷川の暗渠、港区のお台場、江東区の埋め立て地「夢の島」、品川区の大森貝塚を取り上げ、連作短編として5話を収録しています。舞台回しはフリーライターの原田璃々子であり、なぜか、先輩で民俗学の講師だった島野仁と東京23区を巡り取材をおこないます。しかも、彼女は霊感が強く、そういった異界の存在が出る場合には、それを感じ取ることが出来る一方で、島野は合理主義者でありオカルトを信じません。私の記憶が正しければ、イヤミス作家の真梨幸子のブログ記事「東京二十三区女」を見て、絶賛されているのでついついその気になって図書館で予約したんだと覚えています。オカルトというか、ホラーというか、それぞれの区の過去の因縁が現代の事件にリンクする形式のホラーなんですが、どちらにせよ、ホラー、あるいは、モダンホラーとしてもインパクトは望むべくもありませんでした。主人公の原田璃々子は取材に当たって、それほどの下調べはしていないんですが、さすがに、同行している島野仁は専門分野ですので、オカルトは信じないといいつつ、かなり民俗学的な見地からもパワースポットや過去の出来事などには詳しく、不要な事柄まで詳細にしゃべりまくりますので、読者が準備万端で臨んでしまって、ホラーのサプライズにはどうかという気もします。もっとも、島野のおしゃべりに限らないものの、「なぜお台場におをつけるか?」とか、「渋谷の地名に橋が多いのはなぜか?」とか、「なぜこの場所は深川と呼ばれるのか」などなど、各区の過去の蘊蓄の鋭さには感心しないでもありませんでした。いろいろとしゃべらせるのは、良し悪しかもしれません。何となく、あくまで私の直感ですが、ドラマには適している、あるいは、少なくとも「実際にあった怖い話」系の単発ドラマや深夜枠系の短いドラマには適している気がします。でも、最終話の結末が結末ですので、本書で取り上げられていない残りの区のストーリーから成る続編は出版されそうもない気がします。そういった残りの区の関係者には残念ですが、まず、無理だろうという気がします。とても強くします。

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次に、吉田徹『「野党」論』(ちくま新書) です。著者は北海道大学在籍の政治学の研究者です。副題は「何のためにあるのか」となっており、特に、政治や政治家に対する信任の薄い我が国において、政府を構成しない野党のあり方や役割について考察を進めています。すなわち、私のようなシロートなどには、野党は無責任で声高に反対を唱えて対案も示せず党利党略ばかり、といたふうに感じる人も少なくないような気もします。でも、本書では、野党は民意の残余を政治的に表出するものであり、民主主義をよりよく運営する上で不可欠の存在である、と示されています。特に、かつての中選挙区制ではなく、現在の小選挙区制ではいわゆる死票が多くて、代議制民主主義で汲み取れない民意がかなり残されているわけですから、それらを何らかの意味で政治的な舞台に上げることも必要です。単純多数決ではなく、少数者の意見も政治の場に反映させるために野党の果たす役割はそれなりに重要かもしれません。株式会社などのシステムでは過半数を握ればOKなのかもしれませんが、政治の場ではできるだけ多くの国民の民意が反映されるシステムが求められるわけで、野党がそれをある意味で汲み取るシステムも悪くありません。特に、その昔の野党は、本書でも昔の社会党は衆議院の過半数に満たない候補者しか擁立せず、政権交代が視野に入っていなかった点を指摘していますが、現在では、当時の民主党がヘマをやったとしても、政権交代がありうるとの潜在的なプレッシャーは常に与党は感じているわけで、政権交代の潜在的可能性だけでも私は民主主義のあり方が改善されそうな気がします。タイトルの野党論にとどまらず、ちょっとした我が国の戦後政治史や欧米の政治システムの初歩的な理解にも役立つ良書だという気がします。

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最後に、玉木俊明『<情報>帝国の興亡』(講談社現代新書) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者です。といっても、文学部の出身ですので経済よりも歴史の方に重点があるような気もします。副題は「ソフトパワーの500年史」ということで、情報に関して、ちょうどグーテンベルクの活版印刷のころに覇権を握ったオランダ、というか低地地方、そして、電信のころに帝国を築いた英国、そして、特に情報とは関係ないような気もしますが、電話からインターネットのころの米国、の3国を対象にその経済史を、ウォーラーステインの近代世界システムを参考にしつつ、情報の観点から概観しています。なお、論者によっては覇権国と帝国を区別する向きもあるようですが、本書では区別されていません。要するに、世界のトップ国、というカンジで見ています。一つだけ、とても興味深かった視点は宗教と経済発展の関係です。著者は初期資本主義では遠隔地、もっといえば、世界の辺境=フロンティアとの商業や交易の果たす役割が重要と考え、その意味で、大航海時代なんかではカトリックのスペインやポルトガルが世界に覇を唱えたわけでプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神がマッチングがよかったというわけではない、と、ウェーバー的な見方を否定します。必ずしも、私も賛同するわけではありませんが、まあ。ひとつの見方かという気もします。また、市場とは情報の塊であって、その意味で、情報の流通とは実は市場の形成なんだという見方を私はしているんですが、著者はどうも違うようです。従って、私の情報=市場の観点からは流通の背景にある製造業が重要なんですが、本書の著者にはそういった「流通するモノ」の観点はないように感じています。あと、米国が戦後に国際機関を用いた経済発展を遂げたかの如き歴史観が示されていますが、まったく逆ではないでしょうか。米国がとてつもない帝国を形成し世界の覇権国となったため、米国に国連や世銀やIMFなどの国際機関本部が置かれている、という因果関係だと私は理解しています。
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2016年10月15日 (土) 15:12:00

今週の読書は大いに積み上がって9冊!

今週の読書はもう少しで10冊の大台に乗りかねない9冊でした。3連休で月曜日が休みだった上に、週半ばで年休消化のためにお休みして、かなり時間的な余裕があり、加えて、ブックレットや新書などの薄くてすぐに読み終わる本が3冊もあった点が大量読書につながった気がします。来週は図書館の予約次第ではありますが、もっとペースダウンしたいと強く希望しています。でも、来週も年休消化を試みようかと考えています。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ『ユーロから始まる世界経済の大崩壊』(徳間書店) です。著者はノーベル経済学賞も受賞した著名なエコノミストであるとともに、世銀のチーフエコノミストを務めたこともあり、研究者としてだけでなく実務家の面も有しています。本書の英語の原題はズバリ The EURO であり、今年2016年の出版です。欧州の経済的な停滞が続き、ギリシアのソブリン危機はまだ解決に至らず大幅な景気後退を招き、英国のEU離脱、いわゆるBREXITが国民投票によって決着した後、今年の年央からはドイツ銀行をはじめとする大陸欧州の銀行の健全性が疑問視され、もう欧州は何が起こるか判りません。加えて、来年2017年はフランス大統領選挙、ドイツ総選挙があり、欧州分裂とユーロ瓦解が一気に進む可能性も指摘されていたりします。スティグリッツ教授はユーロ・システムの致命的欠陥を指摘し、歪んだ通貨制度の末路と改革への道を示そうと試みています。細かくて私の理解がはかどらないいくつかのポイントを別にして、ユーロ圏最大の問題は独立した金融政策が運営できないと指摘しています。かつての金本位制と同じ問題です。独立した金融政策が可能であれば、金利と為替の2つの政策手段により、米国の連邦準備制度理事会(FED)と同じように、完全雇用と物価安定の2つの政策目標が達成されるとスティグリッツ教授は考えているようです。私は1985年のプラザ合意以降の円高局面にもかかわらず、まったく我が国の貿易黒字・経常黒字が減らず、米国の体外赤字も縮小しなかった経験から、かなりの弾力性ペシミストになったんですが、為替の力も現在の我が国を見ていると無視できないような気がします。いくつか、頭の回転の鈍い私には理解できなかったポイントもありますが、左派リベラルの経済的な思考を理解する上でも必読の書だという気がします。ここ数年の著書を読んでいると、スティグリッツ教授は、ちょうど50年前くらいのガルブレイス教授に近い存在になったような気がします。

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次に、トーマス H. ダベンポート/ジュリア・カービー『AI時代の勝者と敗者』(日経BP社) です。著者はコンサルタントから研究までこなす男性と編集者の女性の2人で、英語の原題は Only Humans Need Apply、すなわち、カプランの『人間さまお断り』 No Humans Need Apply の逆というわけです。カプランの著書の方は私は図書館予約がまだ巡って来ず、未読のままなんですが、人工知能AIに対して受容の高い姿勢、というか、AIの積極的なビジネス利用の方向を示しており、かなりあからさまにAIの軍事利用まで許容しているとして本書では批判しています。他方、本書では、AIについては拡張的な利用に努め、逆に、本書では「自動化」と称しているんですが、私の用語に従えば、人間労働の代替的な使用を目指す使い方を批判しています。そして、代替的なAI利用を廃して、拡張的な利用に基づく5種類の仕事を示しています。すなわち、自動システムの上を行くステップ・アップ、マシンにはできないステップ・アサイド、ビジネスと技術をつなぐステップ・イン、自動化されることのないステップ・ナロウリー、新システムを生み出すステップ・フォワード、です。このうち、ステップ・アップとステップ・インとステップ・フォワードが少し入り組んでいる印象なんですが、ステップ・インがAIシステムの設計や構築に携わる上級管理職、ステップ・インは企業や組織の自動システムへのニーズとシステムの出来ることを把握してそのギャップを埋めたり、新たなシステム開発をするエンジニア、ステップ・フォワードはコーディングを行うプログラマ、といったのが私の理解です。そして、ステップ・アサイドは自動化されにくい分野の仕事、例えば、非認知能力や非計算能力を必要とする職業です。このひとつにベビー・シッターがあると私は認識しているんですが、まさに、ドラえもんはベビ・シッターの役目をするロボットであり、とても先進的な科学技術の産物であるといえます。最後に、ステップ・ナロウリーとは自動化出来る仕事であるものの、需要が小さいことからコストが見合わなかったりする職業です。本書にはありませんが、私は直感的に、お寺や神社の建築に携わる宮大工さんを想像していしまいました。ということで、本書の内容の紹介だけでスペースを費やしてしまい、感想文がほとんどないんですが、2点だけ指摘しておくと、第1に、本書のp.24から解説されているデスキリングの問題です。本書では、仕事が簡易化すると労働者のスキルが低下する、の両方を指す言葉として「デスキリング」を紹介しています。私はこれは雇用に関してあり得るし、重要なポイントだと認識しています。すなわち、特に現状の日本の雇用について考えるに、非正規雇用として簡易というか、未熟練の雇用ばかりが増加すると、マクロで日本全体の雇用者がデスキリングされて、マクロで生産性が落ちるような懸念があります。第2に、ケインズの「孫たちの経済的可能性」(山形浩生訳はコチラ)に本書でも触れていますが、要するに、労働時間は週30時間にはなっていませんし、今後も労働時間が劇的に短縮される可能性は低そうです。これはまったく私には理解できません。ひょっとしたら、あくまで、ひょっとしたら、なんですが、マルキスト的あるいはシュンペタリアンな意味で資本主義の限界なのかもしれない、と考えないでもありません。根拠はありません。

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次に、ゲルノット・ワグナー/マーティン・ワイツマン『気候変動クライシス』(東洋経済) です。著者は2人とも米国ハーバード大学の研究者なんですが、専門分野が違っていて、ワグナー教授は環境工学、ワインツマン教授は経済学です。英語の原題は Climate Shock であり、昨年2015年に出版されています。地球温暖化をはじめとして気候変動のショックを解説し、その対策を考察しています。その昔にゴア元副大統領が『不都合な真実』 An Inconvenient Truth を出版しましたが、印象としてはかなり似通っています。ハーバード大学の研究者だからといって、それほど論理的というか、学術的な仕上がりになっているわけではありません。いろいろな論点があるんですが、気候変動問題への対処について著者の提案は炭素税に尽きます。1トン当たり40ドルという具体的な数字も出しています。そして、私が不思議に受け止めたのは、不勉強だから知らないだけかもしれませんが、ゲオエンジニアリングに対する警戒感をにじませています。ゲオエンジニアリングとは、成層圏に硫黄ベースの微粒子を注入して太陽光を跳ね返す、というのがもっとも大規模なもので、そうでなくても、屋根を白く塗るとか、であり、ピナツボ火山が噴火した際の火山灰により太陽光が遮蔽された経験に基づくようです。誠に不勉強ながら、私はこういった議論があることすら知りませんでした。エコノミスト的な議論としては、将来に渡る気候変動ダメージの分布がファットテールであれば、現在価値に引き直す割引率をどうとってもかなり大きなダメージと認識される、とかでしたが、何といっても私の印象に残ったのは、個々人が気候変動問題に関して何らかの正しい行動を取る必要性を強調していることです。第7章で取り上げていて、「重要なのは正しい行動をするということ」(p.202)と指摘しています。先週の読書感想文で橘木先生の格差論に私が意義を申し立てたのは、格差を是正するのは正義の観点から必要、ということでしたが、まったく同様に、地球温暖化や気候変動に対応するのは、それだけではないにしても、正義の問題なんだと私は認識しています。もちろん、正義の問題だけでなく、大いに効率の問題でもあることは認めますが、サンデル教授の本にあるように、1人を助けるか5人を助けるか、といった難しい議論ではなく、地球環境問題や気候変動問題を解決するのは人類としての正義であり、正しい行いで対応する必要があると私は考えています。

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次に、フレッド・ピアス『外来種は本当に悪者か?』(草思社) です。著者は環境、科学、開発などを専門とするジャーナリストです。本書の英語の原題は The New Wild であり、昨年2015年の出版です。本書の主張はとてもクリアで、在来種を残すために外来種を駆逐するのが正しい生態系保護かどうかを強く問うています。従来は、侵入してくる外来種を「敵」とみなし、外来種を根絶して自然をもとに戻すことを大目標としていた環境保全のあり方に警鐘を鳴らしているわけです。著者がジャーナリストなものですから、膨大な生態系保護や環境保全などに関する事実関係を本書に詰め込んでおり、私のような専門外のエコノミストにはすべてを理解する能力はないんですが、少なくとも、自然の生態系とか環境とかは、決して静学的な状態にあるわけではなく動学的、すなわち、ダイナミックに変化しており、加えて、氷河期などの気候変動も変化を生じさせるひとつの要因となっている上に、大昔よりも現代ではその変化のスピードがかなり速くなっているではなかろうか、ということは理解しているつもりです。ということで、本書は外来種を単純な「悪者」に見立てるのではなく、例えば、本書冒頭では、南大西洋のアセンション島グリーン山はかつてはだか山だったが、外来種が持ち込まれてうっそうと生い茂る雲霧林を形成しているという事実から始まって、また、本書では、外来種の侵入が原因で在来種が危機に陥った、あるいは、絶滅した、と主張されている多くの例で、実は、外来種の侵入以前から環境変化が生じており、外来種は「悪者」ではない、という可能性を示しているわけです。そして同様に、いくつかなされた外来種の侵入に対する経済損失の試算に対しても疑問を呈しています。具体的には、ガラパゴス諸島に例を取るまでもなく、孤島の生態系は外来種の絶好のカモだという思い込みには根強いものがあえいますが、島嶼グループを対象にした調査では在来種に重大な影響を及ぼしたものはほんのひと握りで、ほとんどの外来種は多様性を高め生態系を豊かにしていたという事実を、著者は、オーストラリア、ヴィクトリア湖、エリー湖などの実例を丹念に検証し、思い込みとは逆に、人間が破壊した環境に外来種が入り込み、むしろ自然の回復を手助けしている例も少なくないと結論しています。人間の現状維持バイアスに基づいて、時計の針を逆回しにするような自然保護観を転換させてくれることは間違いありません。新聞などでも私の見る限り好意的な書評が少なくないような気がします。以下の通りです。


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次に、スコット・リチャード・ショー『昆虫は最強の生物である』(河出書房新社) です。著者はハーバード大学に在籍していた時にウィルソン教授やグールド教授などの生物学の大先生から薫陶を受け、いまではワイオミング大学の研究者であるとともに、昆虫博物館のキュレータを務めています。要するに、世界を股にかけて昆虫を集めて回っているわけです。英語の原題は Planet of the Bugs であり、「昆虫」に限らず虫を対象としています。2014年の出版です。口絵のカラー写真も美しく、本文中にもモノクロながら、とてもワクワクするような写真を満載しています。p.176のヘラクレスオオカブトなんて、我が家の子供達がその昔にムシキングに夢中だったころに聞いた覚えがある、と思い出したりしてしまいました。ということで、本書では4-5億年の昆虫の進化の歴史を追っています。有名な三葉虫なんかも出てきます。冒頭は、いわゆるスノーボール・アースの後の「カンブリア爆発」と称される生物多様性が一気に「爆発」して、生物分類上の門が激増した時期から話が始まります。植物は別にしても、当然、水生の動物から始まり、著者独自の見解として、海岸線から陸上に進出したのは植物よりも動物の方が早かった、と主張します。このあたりはやや手前味噌な気がしないでもないんですが、我々が生物進化を考えると、これまた手前味噌で、ついつい脊椎動物ないし哺乳類中心の進化史観になってしまいますところ、著者のような昆虫好きの学者さんからすれば、本書の原題の通り、地球は虫の星であり、極めて多種多様な虫が繁栄を謳歌しているようにみえるんだろうという気がしますし、それはその通りなんだろうと思います。変態や擬態、寄生、社会性など、驚くべき形態や生態をもつ理由を示し、進化を押し進め、あらゆる生命を支える昆虫の驚異の世界を明らかにする、かつてない進化の物語といえます。最後に、後記の中で、英国の生物学者であるホールデンの言葉を引いて、生物という神の創造物の研究から、神は並外れた甲虫好きだったと指摘するなど、ユーモアのセンスにあふれ学術的にも一定の水準をクリアし、それでも一般読者に判りやすい良書といえます。

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次に、上杉聰『日本会議とは何か』(合同ブックレット) です。著者はどういう人かよく判らないんですが、少なくとも改憲に賛成したり、日本会議を支持するサイドではなさそうです。ということで、またまた日本会議の研究本です。いくつかの同種の本を共通して、日本会議の改憲志向に警戒感を露わにし、その宗教的な組織に対して嫌悪感を隠そうとはしていません。元号法制化の運動の成功が日本会議結成のきっかけという点も共通しています。ただ、私の目から鱗が落ちたのは、安倍内閣で推し進めた18歳選挙権なんですが、これは世界で徴兵制をしいている国の多くが18歳で兵役義務を課しているから、というのが理由だと本書では指摘しています。まったく私は知りませんでした。ただ、私も官庁街に勤務するキャリアの国家公務員ですから、国会議事堂や総理大臣官邸の近くを通ることもあり、日比谷公園から国会へのデモ行進の通り道にも我がオフィスは面しており、少なくとも私の観察する限りで、いわゆる左派はかなり年齢のいった団塊の世代などが中心であるのに対して、いわゆる右派の方が年齢的にはグッと若いのは実感しています。ただし、私は大久保通りに面した統計局に勤務した経験もありますが、幸か不幸か、いわゆるヘイト・スピーチのデモを目撃したことはありませんから、ヘイト・スピーチをするようなネトウヨ的な人々がどんな年齢層なのかは実感がありません。それから、例の教科書問題などでも、右派的な教科書を採用する自治体が大阪府に多いらしく、特に東大阪に最大の日本会議の支部があると本書で明らかにしています。私は中学高校と6年間の長きに渡って奈良に通った経験があり、菊水会の本部が奈良にあるのは知っていますし、改憲に賛成している維新の会が大阪で根強い支持を得ているという情報にも接しています。東大阪あたりにも友人が何人かいて、高校時代の同級生のうちフェイスブックでつながっているうちの1人は布施の近くの出身だったように記憶しているんですが、東大阪がそういう地域だったとは知りませんでした。18歳選挙権と東大阪情報以外は、特に目新しい点はなかったかもしれません。

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次に、今野敏『去就』(新潮社) です。今週の読書で唯一の小説、フィクションです。人気作家の隠蔽捜査シリーズ第6弾です。警視庁大森所長の竜崎と警視庁刑事部長の伊丹を主人公とするシリーズです。私はこのシリーズはすべて読んでいると思っていたんですが、改めて調べるとシリーズ5.5の短編集『自覚』は読んでいませんでした。2014年の出版で、今の時点では多くの図書館で借りられるようですので、そのうちに読んでおきたいと思います。ということで、昨今の犯罪で注目されるストーカー事件になぞらえた作品です。すなわち、竜崎が署長を務める大森署管内で女性の連れ去り事件が発生し、さらに、その関係者が死体で発見されるという殺人事件が勃発します。同時進行形で、竜崎の家庭でも娘と婚約者の間がギクシャクして、婚約者が娘に対してストーカーまがいの行動に出たりと、私的な騒動も発生してしまいます。殺人事件から立てこもり事件に進んだ件に関しては、ストーカーによる犯行が濃厚になる中、捜査の過程で竜崎は新任の上役である方面本部長と対立してしまいます。キャリアで刑事畑の竜崎に対して、新任の方面本部長はノンキャリで警備畑と、いかにもありそうな設定なんですが、指揮命令系統に関して問題が発生し、上の表紙画像にある通り、またまた、竜崎が監察にかけられ処分か懲罰人事か、というピンチも最後に発生したりして、予想不能の事態が公私に続発してしまいます。なかなかスピード感があって、いつもの通り、一気に読ませるんですが、竜崎については相変わらずの合理主義者で、虚礼やムダを廃した態度で自らの信念を貫いて、まあ、一面では警察官らしからぬ捜査に臨みます。大森署の戸高刑事も相変わらずの傍若無人振りを発揮しつつ、実力を発揮して大きな手柄を立てたりもします。逆に、この作品では警視庁刑事部長である伊丹の登場する場面があまりなく、刑事畑vs警備畑の対立の中で、当然ながら刑事部長として前者の立場を強調したりするだけで、熱心に現場に臨場する割りには、捜査の方には特に存在感を示せずに終わったんではないかという気もします。なお、ミステリですから詳しくは書きませんが、作品中で竜崎をはじめとする登場人物たちが指摘したりもするところ、この隠蔽操作シリーズ第2弾の『果断』と同じ立てこもりで、犯人側と被害者側がホントはどうなっているのかがキーポイントになります。少しジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムのシリーズとは違いますが、それなりのどんでん返しのツイストの作品です。また、私の勝手な観点ですが、竜崎署長と第2方面本部の野間崎管理官との人間関係がシリーズ1作ごとに改善していく、というか、野間崎が竜崎の味方になって行くのが面白く読めます。

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次に、ヴァレリー・アファナシエフ『ピアニストは語る』(講談社現代新書) です。クラシック音楽界の鬼才ピアニストとして存在感を示しているヴァレリー・アファナシエフのインタビュー本です。対談者は音楽評論家・ライターの青澤隆明です。対談場所は、東京目白の松尾芭蕉ゆかりの日本庭園である蕉雨園で、昨年2015年にアファナシエフ来日の際に行われています。アファナシエフにはいくつか著書もあるんですが、これまでの人生と芸術を振り返った貴重な証言の書籍化なのかもしれません。ただ、ページ数の過半はソ連時代の修行期のお話を無理に聞き出したきらいがあり、冒頭にアファナシエフはソ連時代のことを話すのを嫌がっている印象なんですが、当時のソ連から西側に亡命したピアニストですから、どこまで真実なのか脚色されているのかは不明です。それよりも、p.228からわずか2ページで終っているピアノという楽器についてとか、あるいは、フルトヴェングラーやカラヤンなどの指揮者だけでなく、ほかの楽器の演奏者などについても語らせて欲しかった気がします。私もピアノをやっていたことがありますが、ピアノだけは楽器の中でも独特の立場に置かれている印象があり、例えば、ヴァイオリンなどは自分の愛器を持って運べて、コンサートなどではそれを演奏しますが、ピアノだけはそこにある楽器を演奏しなければなりません。それでも音色に演奏者の個性が出ます。クラシックではないんですが、例えば、ジャズのピアニストではチック・コリアが明らかに硬い音を出すのに対して、キース・ジャレットは柔らかい音色です。そして、チューニングは他人に任せます。『羊と鋼の森』の世界です。ですから、本書でも、曲に対するひらめきのようなものが生じる機会があって、それは練習中ではなくコンサートの演奏の場合が多い、とアファナシエフが語っているのは理解できる気がします。また、ほかの楽器では純粋にソロで演奏する機会は少ない、もちろん、少ないだけで、ヨーヨーマなどはコダーイの無伴奏曲をレコーディングしていたりしますが、ピアノは他の楽器に比べてソロの演奏がかなり多い気もします。お子さんのピアノ教室の発表会などもそうではないでしょうか。私自身もピアノに対するそれなりの思い入れはあるんですが、それを長々と書き止めるのもなんだという気がしますので、最後に、アファナシエフの演奏はベートーヴェンしか聞いたことがありません。どちらかといえば、アファナシエフよりもフリードリッヒ・グルダのベートーヴェン演奏の方が私には心地よく聞けた気がします。

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最後に、辻田真佐憲『大本営発表』(幻冬舎新書) です。著者はよく判りません。著述業ということらしいです。本書はタイトル通りに、現在ではデタラメと捏造情報の代名詞となった「大本営発表」について歴史的な情報を集めています。冒頭の数字を紹介すると、大本営発表では日本軍は連合軍の戦艦を43隻沈め、空母も84隻沈めたと公表したそうですが、実際には戦艦4隻と空母11隻に過ぎなかったそうです。逆に、日本軍のダメージは戦艦8隻が3隻に、空母19隻が4隻に、それぞれ圧縮されているそうです。ただ、本書でも指摘されている通り、その当時の日本のジャーナリズムも戦果を報じれば新聞の部数が伸びるなど、単なる時局便乗ビジネスに過ぎなかったという面があり、本書では指摘されていませんが、当時の日本人のレベルがそんなもんだったという点も見逃せません。もっとも、さすがに民度の低い国民でも戦争半ば辺りから事実に気づきはじめ、さらに、戦争終盤には本土の空襲が始まりましたから、外地の前線の情報までは入手できない国民にも、目の前の空襲の被害は明らかなわけで、でたらめ情報を流す大本営もごまかしようがなかったかもしれません。ほかにも、お決まりの陸軍と海軍の対立、さらに、高松宮が大本営発表について「でたらめ」と「ねつぞう」である、などと日記に書いているとか、興味深い事実も発掘されています。また、本書で実に的確に指摘しているように、大本営がデタラメな発表を繰り返していたのは、情報の軽視、インテリジェンスの軽視であり、それは一貫して日本軍の姿勢であり、敗戦につながるひとつの要因であった点もその通りかという気がします。でも、先の戦争で米国などの連合軍に勝っていたりしたら、ベトナムなんかとは違って、我が国の場合、もっと悲惨な国になっていた可能性もあるんではないかという気もします。強くします。
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2016年10月13日 (木) 21:49:00

ノーベル文学賞はボブ・ディランが受賞!

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今年のノーベル文学賞はボブ・ディランに授賞されました。音楽の作詞家ということで、めずらしい受賞かもしれません。来年こそ村上春樹に期待します。でも、70歳を超えないとダメなのかもしれません。
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2016年10月09日 (日) 10:01:00

先週の読書は経済書を中心に教養書や小説や新書も含めて計8冊!

先週は、経済書を始めとして、教養書や小説や新書も含めて、以下の通りの計8冊です。まだまだ多いように見えますが、米国雇用統計で1日読書感想文がずれて、しかも、新書が2冊含まれていますので、何となく少しペースダウンしたような気になっています。この3連休で図書館を回って、来週も大量に読みそうな予感がしています。

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まず、クライド・プレストウィッツ『近未来シミュレーション2050日本復活』(東洋経済) です。英語の原題は邦訳そのままで Japan Restored です。著者は米国のコンサルタントですが、長らく国務省や商務省などの米国政府で勤務しており、いわゆる日米貿易摩擦の際には対日本交渉担当官を務めたこともあります。その著者が、35年くらい先の日本について近未来シミュレーションを行い、日本復活の可能性を示唆しています。現時点から考えると来年の2017年に、パクス・アメリカーナの終焉やアベノミクスの失敗から、日本は大きな危機に陥り、特命日本再生委員会が組織され大改革が始まる、というストーリーです。現実とシミュレーション結果が書き分けられておらず、なかなか、戸惑う部分も少なくないんですが、その改革キーポイントは何点かあり章別に書き連ねると、まず、パクス・パシフィカとして米国のプレゼンスなき後に安全保障政策が転換されます。ここは私の専門外ですのでパスします。そして、第4章では女性の活躍をクローズアップし、第5章では英語習得による日本のバイリンガル化、第6章でイノベーションの活発化、特に破壊的イノベーションの隆盛、第7章で再生可能エネルギーを含め送配電部門の改革によるエネルギー面での独立、第8章でコーポレート・ガバナンスや労使関係などで日本株式会社のリニューアル、第9章でインサイダー重視の旧来の体制から農業や医療分野で自由な競争を展開する社会への脱皮、最後に中央集権的な官尊民卑の現地方自治制度の分権化などなど、縦横無尽に日本活性化のためのシーズが展開されています。とても興味深く、どこまで実現可能か疑問に思わないでもありませんが、こういった改革が出来なかったからこそ現在の日本になっている気もしますし、ひとつの参考意見としては目を見張るアイデアではなく、普通にどこかで誰かがいっているような改革案ばっかりを並べていますので、それが実行されるかされないかが問題なのだろうという気もします。

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次に、白井さゆり『超金融緩和からの脱却』(日本経済新聞出版社) です。著者は今春まで日銀審議委員を務めていたエコノミストです。でも、ホントは金融論のご専門ではなく、開発経済学を専門として国際通貨基金(IMF)に勤務していたりしたエコノミストで、私も政府開発援助(ODA)に関する会合でお見かけしたことがあったりしました。私は本書はタイトルが少しおかしいと考えているんですが、少なくともタイトルに合致した内容ではありませんから、それほど気にする必要はないのかもしれません。むしろ、売れそうなタイトルにしたというのがホントのところなのかもしれません。まず、タイトルについて、私は超金融緩和からの脱却、ということになれば、米国や欧州はともかく、我が国についてはデフレからの脱却と、少しタイムラグはある可能性は否定しないものの、ほぼほぼ同義だと感じています。ということで、本書はとてもバランスよく著者の勤務時の日銀金融政策について取りまとめています。ひょとしたら、日銀事務局からの説明メモをそのまま編集すれば、こんなカンジなのではないかと思ってみたりしないでもないんですが、ここまできちんと編集して取りまとめることが出来るのも立派な能力だろうという気がします。日銀公式見解通りとはいえ、そのまま標準的な経済学の理解に基づいていますので、人口動態の物価への影響を疑問視したり(p.48)、日銀が目標としているのは生鮮食品を除くコアCPIではなく、ヘッドラインCPIであると確認したり(p.54)、我が国のMRFや米国のMMFなどについても低金利化での元本割れのリスクを指摘したり(p.154)、とても目配りが行き届いています。特に、最近話題のヘリコプターマネーについては、フリードマン教授の議論を引いて、p.254からていねいに、1回限り、中銀バランスシートの拡大は永続的、中銀による無利子に永久債の買いオペ、の3点を指摘し、需要創造の可能性を示唆しています。ただ、それだけに、惜しむらくは著者自身の主張がまったくではないにしても、あまり見られません。繰り返しになりますが、事務局から日銀審議委員への説明メモをていねいに編集すれば本書が出来上がる、ということなのかもしれません。

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次に、ポール・オイヤー『オンラインデートで学ぶ経済学』(NTT出版) です。英語の原題は邦訳に近くて、Everything I ever Needed to Know about Economics I Learned from Online Dating となっています。著者はスタンフォード大学の研究者ですが、エコノミストというよりも、ビジネス・スクールの教授ですので、経営学系の研究が中心ではないかと私は想像しています。その著者がオンラインデートのサイトに登録して実際にデートしたり、いろいろと経済学的な考察をめぐらしています。すなわち、雇用研究でノーベル経済学賞受賞者も出たサーチ理論から、オンラインデート市場におけるサーチ・コストの問題を論じ、オンラインデートに限らず、ついつい身長は高めに体重は低めに申告するバイアスを含めて、軽く自己を偽るチープトークを取り上げ、フェイスブックなどのSNSに典型的に見られるようなネットワーク外部性がオンラインデートにも観察される点を解説し、チープトークではなく行動や属性で自己を表現するシグナリングの例を示し、特定の人物的な属性において、いわゆるステレオ・タイプとして統計的差別が生じる場合を考察し、厚い市場の利点と薄い市場の長所短所について論じ、情報の非対称性によるレモンの市場の出現や逆選択による市場の不成立を考え、同僚や交際範囲に同じタイプの人物が多い正の同類交配を提示し、教育の結果とルックスのよさは報われるという能力や属性の観点を説いています。オンラインデートといえば、米国では男女のマッチングのひとつのあり方として一定の地歩を占めているように聞き及んでいますが、我が国ではまだまだ「出会い系」や「援助交際」との連想に基づいて、一定の胡散臭い目で見られているサービスですから、こういった経済学的な分析がどこまで可能なのか、あるいは、受け入れられるのか、については疑問が残りますが、本書の冒頭のサーチ理論から始まって労働経済学的なマイクロ経済学の理論がある程度は当てはまりそうな気もします。でも、行動経済学的な非合理性も多く観察されそうな気もします。強くします。

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次に、ニコラス・ウェイド『人類のやっかいな遺産』(晶文社) です。著者は科学ライター・科学ジャーナリストであり、「ネイチャー」や「サイエインス」の科学記者や編集者の経験もあるようです。英語の原題は邦訳にほぼ近くて A Troublesome Inheritance であり、2014年に一度出版された後、専門外の私でも知っているほどのものすごい批判が集中し、昨年2015年に改定版が出版されています。訳者解説に改定版での変更についてやや詳しく取り上げてあるものの、どこがどう変更されたのかは私は知りませんが、批判が生じるのは、本書が過去5万年くらいの人類の進化の歴史をかえりみて、人種や民族に関して進化上のもしくは遺伝子上の違いがあるのではないかと指摘していて、人種差別、場合によっては、ナチスばりの特定人種・民族の優位性の主張とその裏側での別の人種や民族の排斥につながりかねない主張ではないか、と受け止められたからです。この邦訳を読んでもその恐れを払拭することが出来ない気がします。ひとつのキーワードは、攻撃性に関するMAO-A酵素の制御に関する遺伝システムであり、この遺伝システムの上に構築される社会制度を考え、後は、ノーベル経済学賞を受賞したノース教授などの制度学派の経済史の理論が展開されています。そして、MAO-A遺伝子は人種や民族によって大きく異なっていると本書では主張しています。また、従来から、私は経済史の理解について、西洋ないし西欧が経済的に台頭して現在の地位を占めたのは産業革命に起因し、どうして産業革命が18世紀のイングランドで生じたかは不明である、と指摘して来ましたが、本書では、人口増加の圧力によるとの説を取っていて、私には到底納得のできる議論ではありません。私は本書でいうところの「学界左派」に当たるのかもしれませんが、「やっかい」Troublesome なのは遺伝子ではなく、その遺伝子の違いを受け入れるに際しての人類の未熟さではないか、という気がしています。ナチスのユダヤ人ホロコーストを引くまでもなく、ホンの数十年前まで我が国や西欧先進国で優生学なる「科学的根拠」に基づく「断種」のような行為が容認されており、さらに100年さかのぼれば、米国では黒人を奴隷として使役するのが当然と考えられていたわけです。私は進化論や遺伝子における人種や民族の違いを研究することは学問の自由の観点から、当然に許容されるべきであり、研究そのものを禁止するのは、逆に、批判的に考えているんですが、その研究成果の取り扱い、というか、実務的な活用については慎重であるべき、と考えています。しかし、現在時点での人類の寛容さは、例えば、今年の米国大統領選挙の論戦を見ていたりすると、まだそのレベルに達していないんではないか、とも危惧しています。

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次に、小野俊太郎『ウルトラQの精神史』(彩流社) です。著者は1959年生まれのアラ還で、私とほぼほぼ同世代の文芸評論家だそうで、同じ出版社の同じフィギュール彩のシリーズで一昨年2014年に『ゴジラの精神史』を出版し、別の講談社現代新書で『モスラの精神史』という著書もあるようですが、なぜか、「ガメラの精神史」はないようです。いずれにせよ、私は読んでいませんし、それなりに限られた範囲の「オタク文化」ではないかという気がします。私は『ゴジラの精神史』だけは少し興味がないでもなく、三島由紀夫がどうしてゴジラに感激したかは知りたい気もしますが、今後の課題としておきます。ということで、本書では1966年に放送されたテレビ番組である「ウルトラQ」全28話について、戦後社会を破壊する力、日本にやってくる怪獣たち、見慣れぬ怪物へと変貌する、の3部9章に分類し直して論じています。なお、全タイトルはpp.18-19のリストに網羅されています。いうまでもなく、本書にもある通り、「ウルトラQ」は「オバQ」とともに午後7時台のゴールデンアワーにTBSが放送し、子供達を主たる視聴者層としていました。私はさすがにもうほとんど記憶にないんですが、いくつかの印象的な放送は断片的に覚えています。それほど熱心に見ていたわけではないように思います。戦後直後から高度成長期まっただ中の日本を時代背景とし、直前の1964年には東京オリンピックを成功させ、その準備として新幹線や首都高などが整備され、名実ともに日本が先進国の仲間入りを果たしたころです。放送では現実からかけ離れた超近代的な装いの鉄道や道路や建築物が流される一方で、まだ都市と地方の格差は大きく、農閑期には東北から東京に出稼ぎがあったりした時代背景も取り込まれており、そこに、UFOや宇宙人といったSF的な要素、ほかにはホラーの要素や伝統的な怪物や伝承の要素などを織り込んだ番組作りに加えて、円谷プロの特撮が生かされた動画、さらに、ゴジラ・モスラなどが映画であったのに対して、テレビで毎週放映されるという高頻度なインパクト、などなど、目新しい要素が満載だったテレビ番組であり、いうまでもなく、その後はウルトラマンのシリーズに引き継がれることとなるテイクオフのころの番組でもありました。単に懐かしがるノスタルジーだけでなく、そうかといって、当時の時代背景や技術的限界だけを考えるのではなく、本書を読めば現代に通ずる何かを見出すことが出来るかもしれません。画像がまったく掲載されていないのは、著作権の関係か、あるいは、鑑賞に耐える画像がないのか、仕方ない気もしますが、東京MXで昨年2015年1-3月に放送された「ネオ・ウルトラQ」にまったく言及がないのはやや不思議な気がします。単に、著者が知らないだけ?

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次に、石川智健『エウレカの確率 経済学捜査員VS.談合捜査』(講談社) です。今週の読書の中で、これだけが小説です。著者は若手の作家であり、医療系企業勤務の傍ら執筆活動を続けている、と紹介されています。このシリーズは3冊目であり、すべて『エウレカの確率』をタイトルにし、サブタイトルを付して、1話目が『経済学捜査官 伏見真守』、2話目が『経済学捜査員とナッシュ均衡の殺人』、この3話目が『経済学捜査員VS.談合捜査』となっています。私はすべて読んでいたりします。経済学捜査官を称する伏見真守をシャーロック・ホームズたる探偵役の主人公にして、面白いことに、語り手のワトソン博士役は毎回異なっています。第1話はいっしょに捜査に加わった神奈川県警の女性捜査官、第2話は事件の場である製薬会社のコンプライアンス課長、そして、この第3話では中国から短期で派遣された女性捜査官、ということになっています。そして、毎回登場するのは科学警察研究所勤務の関西弁丸出しのプロファイラー、主人公と同じ警視庁捜査2課の捜査官となります。主人公自身が、殺人事件の70%はプロファイリングで解決の糸口を見つけることが出来るが、残りの30%は合理的な殺人事件であり、経済学の視点で解決できる可能性がある、と何度も繰り返して発言している通りです。ということで、本書ではサブタイトル通りに、建設業界での談合事件を主たるモチーフにしつつ、実は、建設業界のもうひとつの汚点を捜査してあばく、ということになります。上の画像で見る通り、表紙は数式でいっぱいなんですが、私の直感では、小説版ではなくテレビのドラマ化された東野圭吾の「ガリレオ」シリーズで、湯川准教授を演じる福山雅治が事件解決の直前に数式を展開しまくるのが基になっているような気がします。なお、前作の第2話では製薬会社が舞台でしたので、その表紙では亀の子のベンゼン環がいっぱいあったように記憶しています。

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次に、橘木俊詔・参鍋篤司『世襲格差社会』(中公新書) です。経済的格差や成長不要の論陣を張る橘木先生と、あとがきによれば、そのお弟子さんによる共著のようです。内容はタイトル通りと考えてよさそうです。冒頭はアラン・クルーガーなどの提唱によるグレート・ギャッツビー曲線から始まります。親子の所得の相関と親世代の不平等度合いをプロットしたもので、右上がりの正の相関が示されていますので、結果の不平等が機会の不平等につながりやすいことが示されています。個人の努力よりもどの親の下に生まれたかで経済的な豊かさが決まりかねないわけです。個人の努力でコントロールできない要因により、経済的な豊かさや人生そのものが決まるとすれば、どこまで社会的に許容されるかは興味あるところです。ただ、「世襲」の意味にもよります。すなわち、本書にも国会議員のいわゆる「二世議員」が取り上げられていますし、3代に渡る外交官のコラムも見かけますが、選挙や採用試験という明確なハードルが設定されており、そのハードルが決して容易なものでないならば、親の職業を子が選択することをもって「世襲」と呼ぶべきかどうかは疑問が残ります。もちろん、私もそれなりの進学校に通っていましたので、医者の息子が医者になる例をいっぱい見て来ており、医師国家試験にパスする必要があるとはいえ、高額の私大医学部に通えるような家庭に私は育ちませんでしたから、たくさん医師という職業の「世襲」を見て来ました。それでも、むしろ、「世襲」かどうかを問うことなく世代を超えて不平等や格差が受け継がれる弊害を考えた方がスンナリと受け入れられるような気がします。また、どうでもいいことながら、本書冒頭p.12では「格差が拡大すると、国の経済成長率は低下していく」との格差観を著者は示しており、橘木先生はゼロ成長論者ではなかったのかと疑問を感じました。あくまで効率の面から格差を論じる限界を見た気がします。私は格差や不平等は、社会的に受け入れられるかどうかの一定の閾値を超えると正義の問題になるんだと認識しています。ご参考まで。

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最後に、高木久史『通貨の日本史』(中公新書) です。著者は人文科学系の歴史学の研究者であり、社会科学系ないし経済学系のエコノミストではありません。ですから、市場における資源配分なんぞは関係なく、我が国の歴史上に通貨というものが現れて、交易に使用され始めたところから記述が始まります。すなわち、都の建設のため国産の銭が作られた古代、中国からの輸入銭に頼った中世、石見銀山の「シルバーラッシュ」が世界経済をも動かした戦国時代、財政難に苦しめられた江戸の改革者たち、植民地経営と深く関連した帝国日本の通貨政策、そして、戦後の通貨政策、でも、ブレトン・ウッズ体制という言葉は出てきません。また、現在の法律に基づく通貨=紙幣と補助通貨=コインの区別も関係ありません。いくつか興味深い写真もあります。銭高=デフレと、物価高=インフレに関して、フリードマン的な「いつでもどこでも貨幣的現象」というエコノミスト的な視点はありませんが、庶民の感覚も含めて、生産・流通と通貨の残高の関係が判る人には判るように、ほのかに浮かび上がるようになっているのかもしれません。中世以前にさかのぼると、エコノミストの私には理解がはかどりませんが、江戸時代の「上方の銀遣い、江戸の金遣い」は本書にも出てくるところ、世界的な銀本位制と金本位制、中国の銀本位制などなど、我が国の金銀と通貨の関係と世界とのつながりがあったのかなかったのか、そのあたりを知りたいと思いますが、どうも著者のスコープの外のようで残念です。特に、江戸開幕前後の京都の後藤家による金貨の大判の製造については、おそらく、貨幣というよりは戦国大名などが家臣への褒美的な用途だったんだろうと思いますが、世界的な金が貨幣になる動向と何か関係があるのか、それとも欧州と日本はそれぞれ独立に金を貨幣にしたのか、私はとても興味があります。
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2016年10月01日 (土) 14:09:00

今週の読書もいろいろあって計8冊!

今週も、話題の書や私の関心事項の経済書を中心に全8冊読みました。なお、どうでもいいことながら、来年1月からWOWOWにおいて仲間由紀恵主演でドラマ化される予定で、大いにリマインドさせられた宮部みゆき『楽園』も借りて読みました。大きなインパクトあった『模倣犯』と違って、すっかり忘れていたんですが、ほぼ思い出しました。

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まず、佐藤仁『野蛮から生存の開発論』(ミネルヴァ書房) です。著者は東京大学東洋文化研究所の教授であり、開発論を専門にしているようですが、誠に申し訳ないながら、私の専門である開発経済学ではなく、社会科学の開発論よりは人文科学の開発論に近いようです。私の知る限りでも、例えば、経済開発や発展・成長が進むと複婚から単婚に移行するなど、文化や習俗の観点から開発を論じる分野は確かにあります。その意味で、本書の最初の方で著者が「正義」の問題を持ち出しているのに私は強く共感します。ノーベル経済学賞の受賞者であるセン教授のケイパビリティ論やロールズ教授の「基本財」の概念に基づく議論を展開しています。私もそもそも経済学を志したのは貧困の問題であり、まさに、我が母校の先達である河上肇教授などの視点から貧困撲滅などの政策目標実現のために開発経済学を専門としており、途上国で経済開発を進めるのは、先進国で格差を是正するのと同じように、一定の正義があると考えています。まあ、どこまで開発を進めるかとか、格差をまったくなくした完全な平等が目標とされるべきか、などの議論がありますので、あくまでも一定の正義としかいいようがありませんが、それでも、近代的な経済学を学んだエコノミストには価値判断を嫌う人も少なくありません。ということで、第Ⅰ部と第Ⅱ部はセンやソトに基づく開発論を議論していて、ハッキリいって、そう面白くもないんですが、第Ⅲ部は日本の開発政策や行政について論じていて、それなりに面白かったです。でも、どうも議論の出発点が違っていて、我が国の援助行政が戦後賠償から始まったかどうか、なんてことは開発経済学を専門とするエコノミストは気にもしないんではないかと私は受け止めています。政府に米国のUSAIDのような包括的な援助組織があるかどうかも、あまり援助の本質とは関係ないと見なすエコノミストもいっぱいいそうです。ただ、日本の援助行政、特に円借款が商業ベースで進んでいるのを苦々しく見ているエコノミストは多そうな気がします。また、日本の経済発展の経験が途上国の発展モデルになるかどうかは的確なポイントを突いていますが、それが明治維新までさかのぼるのか、高度成長期なのかは議論のあるところでしょう。著者は前者の明治維新を重視しているようですが、私は先月の研究成果で公表した通り後者の高度成長期がいいんではないかと考えています。

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次に、東京新聞・中日新聞『人びとの戦後経済秘史』(岩波書店) です。大雑把に昭和初期の1940年ころから20世紀いっぱいを対象にして、オモテの正史ではなく、東京新聞と中日新聞の経済部記者が取材した秘史を収録した本です。なかなか面白く読めます。終戦までは統制経済とか、暗い話題で満載なんですが、戦後の経済史では何といっても1950年代半ばからの高度成長期がオモテの正史のトピックとなり、大衆消費文化や耐久消費財の普及、特に、三種の神器と呼ばれたテレビ・洗濯機・冷蔵庫にスポットが当たったりするわけですが、秘史では即席ラーメンとか回転寿司とかの大衆に受け入れられた日本独特のイノベーションが取り上げられたり、経済成長のウラ側で深刻さを増した公害などの環境問題にも光が当てられています。まあ、秘史ですから、それほど系統的な歴史観が示されているわけではなく、トピック的な個別の歴史的事情が取り上げられているわけですが、その中でも面白かったと感じた点をいくつか上げておきたいと思います。まず、p.39に株価の推移のグラフがあります。株式市場は現在ほど東京中心ではなく、大阪はもとより名古屋などの株式市場もそれなりの重要性はもっていたことと想像していますが、それでも、東証株価は一見するところ1945年春ころから反発に転じており、終戦を見据えつつ市場が反応していた可能性が示唆されている、との解説はやや牽強付会ながら、そうかもしれないと思わせるものがあります。それから、1956年昭和31年の「経済白書」の名文句である「もはや戦後ではない」をしたためた当時の担当課長である後藤課長が、p.114ではテレビの黎明期にあって、「テレビは将来、壁掛け形になる」と見通していたとされています。官庁エコノミストの大先輩ながら、ここまで先が読めるというのも、ある意味で、恐ろしいことだという気がしました。なお、本書でもチラリと紹介されている中日新聞の「記者たちの戦後経済秘史」のサイトは以下のとおりです。


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次に、白井聡・内田樹『属国民主主義論』(東洋経済) です。読んでいて、本書がこの2人による対談2冊目で、1冊目は『日本戦後史論』というタイトルで昨年の出版らしいです。アマゾンのレビューによると典型的な逆U字カーブで、5点のフルマークも多いが、真ん中の3点よりも1-2点の方が多い結果となってます。どのサイトか忘れましたが、ブログで「居酒屋談義」と形容している例もあったりしましたので、まあ、そんなカンジで受け取る読者も多いのかもしれません。著者は2人とも関西にある女子大学系のホームグラウンドを持つ研究者であり、中身を読んでいて、少なくとも学生時代くらいまではいわゆる全共闘系のトロツキストなのではないか、と想起させられる部分もあったりしました。本書は「名は体を表す」といいますか、要するに、戦後の日本は米国の従属国である、ということに尽きます。かなり明確に講座派的な歴史観であり、私も本書の第1章については大いに同意する部分があります。しかし、その後の従属国論から展開される第2章以降の霊性とか、コスパ化とか、消費者化とか、幼稚化などをキーワードにした議論の展開はどこまで対米従属と関係しているか、私には大いに疑問です。まあ、確かに安全保障政策や、特に沖縄の基地などは存在先にありきで後付けで論理を構成しているところがあり、論理的なほころびを見つけたところで何の解決にもならないのは同意しますが、本書ではおそらく米国の属国を脱しないといけない、という問題意識があるんではないかと勝手に推測するものの、方法論としては民主主義で解決するのか、そうでなく、極論では暴力革命的な実力行使で解決するのか、といった観点は見受けられません。もっとも、世界一の軍隊を有する米国相手に暴力革命的な実力行使はどこまで実効性あるかの疑問が大きく、プラグマティックには「暴論」でしかあり得ません。エコノミストとして興味深かったのは「コスパ化」なんですが、どうも価格理論の理解が私と違うらしく、著者2人の需要曲線はフラットなのかもしれません。最後に、私が従来から胡散臭いと受け止めている「地産地消」に似た考えがヒトラー・ユーゲントの発祥であり、自分の身体を形作って養っている大地をどこかに特定することにより、容易に排外主義やレイシズムに陥る危険がある、という指摘は、それなりに納得できる論理だったような気がします。現状で、本書のアマゾン・レビューは前著の『日本戦後史論』と違って、まだ逆U字形になっておらずベルカーブに近いんですが、私の評価はやや低い方かもしれません。

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次に、リチャード・スティーヴンズ『悪癖の科学』(紀伊國屋書店) です。著者は英国の心理学研究者であり、「悪態をつくことにより苦痛を緩和する」研究により、イグノーベル賞を受賞しています。英語の原題は Black Sheep だったりします。ということで、本書では世間一般で悪い行いとされていることに、何らかの効用があるんではないか、という視点で書かれています、でも、ノッケから「この本に書いてあることは、頭から信じこまないほうがいいだろう」(p.13)と著者自身も宣言してます。8章から成っており、セックス、飲酒、悪態、スピード狂、恋愛、ストレス、白昼夢やサボり、臨死体験や死後の世界、となっています。セックスでは実在の米国大統領名から命名されたクーリッジ効果、すなわち、相手を返れば性欲が増進される、というのが実証されていますし、飲酒では常識的な結果でしょうが、まったく飲酒しないと多量の飲酒の間のほどほどの飲酒が健康にいいとの結果が得られています。また、私が音楽を聞く時に求める適度な緊張感という意味で、ストレスには善玉と悪玉があるという説も取り上げられています。でも、とりわけ私が感銘をうけたのが悪態の章で、悪態を4種類に分けて、社会的悪態、不快表現の悪態、侮蔑的悪態、様式的悪態とした上で、卑猥語などは仲間内の親密な間柄ではOKだとか、いろいろと実証されています。日本のサラリーマンの間でも、酒を飲みながら上司の悪口をいう、というのは適度なストレス解消に成っていると考えられなくもないですし、それなりの効用もあろうかと思います。アイスバケツ・チャレンジでは悪態をつくほうが有意に長くバケツの冷水に耐えられたとの結果が示されています。実は、私も海外生活ではついつい冗談半分に日本語で悪態をつくことが多かった気がします。例えば、レストランに入ってウェイターを呼ぶ時に、「おーい、ハゲ、こっちに来い」とか、日本語でにこやかな表情で呼びつけたりすると、チリ人は日本語を理解しませんので、ウェイターの方もにこやかに「シ、セニョール」とかいって注文を取りに来たりするわけです。まあ、海外生活もストレス満載ですから、こういった半ばジョークの悪態で紛らわしてたのかもしれません。来週からノーベル賞各省の受賞者の発表が始まりますが、それに先立ってすでに明らかにされているイグ・ノーベル賞にご興味ある向きにはオススメです。

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次に、海部陽介『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋) です。著者は国立科学博物館(科博)に勤務する研究者です。タイトル通りの疑問に最新の研究成果で答えようと試みています。上の表紙画像にもある通り、日本にホモ・サピエンスが入ったルートのうちの沖縄ルートについては実証実験まで試みられたようです。ということで、日本、というか、日本の国が成立するずっと前の時代の現在の日本の地域、極東に10万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスがいかにして到着したかについて、本書で著者はいくつかの仮説を提供しています。短く表現すると、本書のp.202-203にかけての2パラ、ということになりますが、それをまるごと引用しては著者に失礼そうな気もします。本書では、3万8千年前から日本列島において突如としてホモ・サピエンスの人類遺跡が爆発的に現れたことから、そのころにいくつかのルートをたどってホモ・サピエンスが日本に到着したと考えています。かつては、インドからインドシナ半島などの海岸域を陸上で移動してきたと考えられていたんですが、著者はインドで整合的な遺跡が発見されないことから、この海岸線移動説ではなく、対馬ルート、沖縄ルート、北海道ルートの3ルートが並立して存在し、それまで原人や旧人のいなかった日本に定着し、それ以降も弥生人などの渡来人を次々と受け入れて来た、と結論しています。天孫降臨のような馬鹿げた神話ではなく、日本人が様々なルーツをもっていて、アジアの兄弟たちと同じ遺伝子DNAを共有している仲間だということが実感されます。私のように経済成長率や物価の上げ下げに一喜一憂しているエコノミストと違って、とても雄大で歴史のロマンを感じるテーマです。こういった読書は私のような貧相な者でも人格に余裕を与えてくれそうな気がします。

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次に、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』上下(河出書房新社) です。著者はイスラエルの歴史学者です。歴史の研究者ですから人文科学系だと思うんですが、本書の第1部と第2部は進化生物学的な解説となっています。英語の原題はほぼ邦訳と同じで、2011年の出版です。第1部が認知革命、すなわち、ホモ・サピエンスの誕生というか、動物ではなくヒトとしての現生人類の誕生です。第2部が農業革命、これはスンナリと理解できると思います。第3部の人類の統一を経て、第4部の科学革命で締めくくられています。大雑把な印象としては、ジャレド・ダイアモンド教授の『銃・病原菌・鉄』をはじめとする一連の著書に似通ったカンジで、ハッキリいって、二番煎じの感を免れません。でも、問題設定は少し違っていて、人類においては「虚構」が他人との協力を可能にし、他人との絆が文明をもたらした、と結論し、その「虚構」とは国家、貨幣、企業などなど、ということになります。では、その虚構に基づく文明は人類を幸福にしたのかどうか、ということになれば、主観的な幸福感で考える限り、脳内化学物質のセロトニン、ドーパミン、オキシトシンの分泌で決まってしまいかねず、かといって、本書ではアリストテレス的なエウダイモニアや生活の質(QoL)への言及はありません。歴史学の観点からは突っ込み過ぎともいえますし、歴史学を離れては突っ込み不足にも見えます。化学ではなく物理学で考えて、人間の脳のバックアップをハードディスクで取れるとすれば、それは何なのか、という問いかけは本書にもありますが、2011年というやや中途半端な出版時期のせいか、人工知能(AI)はどこにも触れられていません。繰り返しになりますが、歴史の研究者が歴史学のスコープを超えて、進化生物学も含めた人類の進歩について振り返っているんですが、ジャレド・ダイアモンド教授の二番煎じですし、こういったテーマは人文科学系でもいいのかもしれないものの、進化生物学を含めた自然科学系の著者の方が解説がスムーズな気もします。すなわち、本書では歴史の法則性のようなものは見当たりませんし、歴史学の方法論ではスコープを外れるトピックを扱っている気がします。前評判の割には、読み終えて少し物足りなさが残りました。

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最後に、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(東京創元社) です。私はこの作者の短編集の『犯罪』と『罪悪』、さらに、長編の『コリーニ事件』は読んだ記憶があり、たぶん、このブログでも読書感想文をアップしていると思います。その最新刊ではないかと思います。2015年の出版です。ということで、いろんなメディアに取り上げられているのでネタバレではないと思うんですが、本書は2013年7月26日にドイツ上空でハイジャックされた旅客機が、テロリストにより7万人の観客が詰めかけるサッカースタジアムに墜落させようとされたところ、スクランブル発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜するという結末を迎えます。乗客164人を殺して7万人を救った彼は英雄なのか、それとも、犯罪者なのか。本書ではこの旅客機の撃墜場面はなく、裁判場面しか収録していません。一般人が審議に参加する参審裁判所に委ねられ、空軍幹部の証言のほか、検察官の論告、弁護人の最終弁論ののちに、なんと両論併記で有罪と無罪の2通りの判決が用意された衝撃のラストに続きます。日本とは法体系が明らかに異なるとはいえ、憲法以下の法治国家という原則を遵守すべきならば有罪でしょうし、超法規的措置、というか、自然法体系を認めて、かつ、功利主義的な判断を下すのであれば、という二重の前提の下では、あるいは無罪の可能性もあり得るのかもしれません。人間の尊厳を原理に据えるカントと利害を可算と考えて比較考量するベンサム的な功利主義との哲学上の対立とも読めます。私ごときに結論を出せるハズもないんですが、なかなか興味深い視点を提供してくれる小説です。
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2016年09月24日 (土) 15:11:00

今週の読書も盛り沢山にペースダウンできず!

今週の読書は、月曜日にアップした話題の小説3冊を別にしても6冊でした。経済書と教養書と小説と新書です。新書はなぜか、日本会議についてでした。月曜日にアップした3冊の小説を含めると計9冊になります。シルバー・ウィークでお休みが多いとはいえ、少しこれからはペースダウンしたいと思います。

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まず、藤井聡『国民所得を80万円増やす経済政策』(晶文社) です。現在の安倍総理は民主党政権から政権交代した際に、いわゆる「3本の矢」で有名なアベノミクスを提唱しましたが、昨年9月に自民党の総裁に再選された際、「新3本の矢」として、その最初に名目GDP600兆円を打ち出しました。その名目GDP600兆円を労働分配率などを無視して、国民1人あたりの所得で引き直すと、本書のタイトルのように1人当たり80万円の増加、ということになります。そのための提案として、本書冒頭のはじめにのp.7で5項目上げられています。すなわち、消費増税の延期、所得ターゲット政策、デフレ脱却、デフレ脱却までの財政拡大、デフレ脱却後の中立的な財政運営、の5点です。そして、昨年の国際金融経済分析会合に招かれたスティグリッツ教授とクルーグマン教授の説を援用しています。ほぼ金融政策が無視されていて、実物経済における財政政策だけが重視されているのがやや不思議ですが、かなりイイ線行っていると私は思います。本書でも指摘されているように、自国通貨建ての国債発行はかなり膨らんでも、ソブリン・リスクとしては破綻の懸念は極めて低いと私は考えています。その昔から、私は財政再建には否定的な財政に関しては能天気なエコノミストだったんですが、本書の指摘はこの点だけはかなり正しいと受け止めています。我が国が財政破綻するリスクは極めて小さいのは確かです。ただ、金融市場のボラティリティが急速に高まる場合もありますから、一定の収束点は追求する必要があります。いずれにせよ、デフレを実物経済現象に偏って分析している点が気になるものの、本書はかなり正鵠を得た政策提案ではないかと私は考えています。なお、今年2016年5月28日付けの読書感想文で立命館大学の松尾匡先生の『この経済政策が民主主義を救う』を取り上げましたが、基本的な主張は同じです。この経済政策を左派が実行して憲法改正を阻止しなければならない、というのが松尾先生の主張でした。

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次に、譚璐美『帝都東京を中国革命で歩く』(白水社) です。今年2016年5月8日付けの読書感想文で岩波新書の『京都の歴史を歩く』という歴史書を取り上げましたが、よく似た趣向だという気がします。でも、本書は地図こそ豊富に紹介していて、どうも著者自身はホントに歩いたような気配がうかがえるんですが、「歩く」ことは重視されていないようで、そういった本文中の記述はほとんどありません。ということで、明治維新の成功と日清・日露戦争の勝利という目をみはるような日本の躍進の一方で、1905年には中国で科挙制度が廃止され、こういった事情も手伝って、明治・大正の東京では中国から多くの亡命者や留学生を受け入れていたようです。特に、近代的な軍制を重視する中国ながら、欧米では軍学校、すなわち、陸軍士官学校や海兵学校に中国人を受け入れる日本が海外留学先として選ばれたようですが、本書では早稲田大学をはじめとする高等教育機関に受け入れた留学生や亡命者だけを取り上げています。解像度はかなり低くて、特に古い地図は同じようなのばっかりですが、かなり多くのカラー写真が取り込まれていますし、章ごとに関連する中国人留学生や亡命者の住まいの地図が示され、それなりにビジュアルに仕上がっています。でも、例えば、p.58の蒋介石の下宿先周辺地図など、どうも南北の上下が反対ではないかと疑わしい地図もあったりします。肩も凝らずに、気軽に読める教養書かもしれません。

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次に、エドワード O. ウィルソン『ヒトはどこまで進化するのか』(亜紀書房) です。著者は米国の生物学者であり、ドーキンス教授やグールド教授などとともに、現在正靴学界でももっとも影響力の大きい大先生ではないかと思います。生物学の世界は私の大きく専門外ですので、実はよく知らないんですが、この3人くらいは私もご尊名を存じ上げています。物理学会のホーキング教授やかつてのカール・セーガン教授などと同じランク、と私は考えています。本書は The Meaning of Human Existence の原題で2014年に出版されており、本書には長谷川眞理子先生の解説が付け加えられています。なお、著者のウィルソン教授は社会生物学の創始者とされており、本所でも狭い意味の生物学にとどまらず、人文科学も視野に入れた議論が展開されています。例えば、最近の心理学などの知見からは、人類が進化したのは、社会的知能を身体的能力とともに進化させ、集団の生存率を高めたためだといわれており、要するに、人間は人間に魅力を感じるからこそ、物語やゴシップやスポーツを好むということになります。ですから、同族意識があるからこそ仲間内で協力もするが、その同族意識は集団外への攻撃、つまり現在も頻発するテロや紛争の源泉ともなる可能性があるというわけです。それを難しい生物学の用語で表現すると、包括的適応度の限界から、データ本位の集団的遺伝が取って代わるべきである、ということになります。補遺に収録されているPNAS論文はそれを明らかにしており、原著論文へのリンクは以下の通りです。


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次に、門井慶喜『ゆけ、おりょう』(文藝春秋) です。作者は前作の『家康、江戸を建てる』が第155回直木賞候補にもなった新進気鋭の時代小説作家です。この作品はタイトルから判る通り、おりょうを主人公にしていて、そのおりょうとは坂本龍馬の妻なわけです。もちろん、上の本書の表紙画像から連想される通り、有名な日本で初めてのハネムーンとか、京での寺田屋事件なども詳しく取り上げられています。ただ、おりょうが主人公ですから、龍馬との出会いの前から、軽くおりょうの人生が振り返られており、まるで、終盤に差しかかったNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」のように、気丈に家族や幼い弟妹を守る姿が描かれています。おりょうはいうまでもなく京女なんですが、その昔の男についていくタイプの女性としては描かれていません。たぶん、東山彰良だと思うんですが、何かの小説で「中国の女性は気が強い」といった旨の評価を見た記憶があるんですが、その東山流の「中国女性」のような気の強さをおりょうは見せています。口が達者で、ものすごく酒に強く、したたかに生きる幕末の女性がここにいます。龍馬に対するおりょうの評価は厳しく、最初のころは頼りないと思いつつも結婚した龍馬が、実は、日本を動かす英雄と成長していく中で戸惑いながらも、自分なりのやり方で龍馬を愛し、また、夫を支える姿は共感を呼ぶんではないでしょうか。最後に、おりょうと龍馬が結婚していた期間はそう長くはないわけで、龍馬が死んだ後の落魄したおりょうの後半人生についても著者は温かい目で描き出しています。でも、残念ながら、デビュー作を超えるものではありません。

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最後に、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書) と山崎雅弘『日本会議』(集英社新書) です。急に思い立ったわけでもないんですが、日本会議に関する新書を2冊ほど読みました。日本会議とは現内閣を支える勢力のひとつであり、憲法改正や靖国神社問題などでウルトラ右派の活動を続けている団体です。私は明確に自分を左派だと認識していますので、こういった団体には馴染みがなく、それなりに新鮮な情報が多かった気がします。『日本会議の研究』はほぼ人脈情報に限定して情報収集している雰囲気なんですが、何といっても扶桑社からの出版というのに驚きます。扶桑社とはメディアの中でももっとも右派的なフジサンケイ・グループの出版社です。集英社の方は人脈や組織を始めとして、広範な情報を網羅していますが、全体的にやや薄い気がしないでもありません。ということで、前にもこのブログで私の考えを明らかにしたことがあるような気がしますが、保守主義とは歴史の進歩に棹さす勢力であり、フランス革命の前後では民主主義を否定して王政を擁護し、社会主義・共産主義に進もうとするマルクス主義を否定します。ですから、保守主義の反対は進歩主義であり、もっとイってるのが急進主義です。逆に、歴史の進歩を否定するだけでなく、逆行させようとするのが反動ないし懐古主義・復古主義です。日本会議はこの最後のカテゴリーかと受け止めています。もう少し踏み込んで、人脈だけでなく、金脈、というか、資金源なども明らかにして欲しいところです。
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2016年09月19日 (月) 20:37:00

3連休に読んだ小説3冊の読書感想文!

土曜日に阪神のBクラスが確定し、ついつい、この3連休はまたまた読書にいそしんでしまいました。最近の人気作家の小説を3冊読みました。とてもめずらしいことなんですが、3冊とも買い求めました。図書館から借りたわけではありません。

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まず、池井戸潤『陸王』(集英社) です。この作者の作品は私もかなり読んできたつもりで、ほぼいつものパターンの作品といえます。まあ、『下町ロケット』のシリーズと構図は変わりません。それなりに技術力ある中小企業とライバル企業、そして銀行とか技術の提供者やサプライヤーの人間関係とか、経済合理性とか、日本的な経営を持ち上げて、米国的なMBA流の経営を否定せんがごとき仕上がりになっています。最初は、創業100年超の足袋メーカーが地下足袋のようなランニング・シューズを開発するところから始まります。ランニング・アドバイザー、大手ライバル企業をクビになったシュー・フィッター、さらには、シューズのソールの素材を提供する起業家、もちろん、地元の取引銀行も相まって、独特の「池井戸節」のようなものを奏でています。それにしても、やっぱり、中小企業で新規事業が成功するのは、この作品くらいの極めてありえないような幸運が何重にも重ならないとなし得ないんだと、しみじみと感慨にふけってしまいました。諸条件が有利だったとはいえ、ソニーやホンダやパナソニックやといったカリスマ経営者が立ち上げて大企業に発展するのは、極めてまれな例外的ケースなんだろうと思います。でも、それをこういった形で小説に取りまとめると、それなりに感動が生まれます。でも、こういった中小企業の成功談はまれな例であって、小説は事実よりも奇なんではないか、という気がしないでもありません。終わり方がスッキリしているわけではないので、続編があるのかもしれません。

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次に、東野圭吾『危険なビーナス』(講談社) です。殺人事件があって名探偵が謎解きをするという形ではないものの、さすがに、一種のミステリですので、この作品は従来の東野作品と同じというわけにはいきません。そのあたりが、池井戸作品と東野作品の違いかもしれません。というわけで、獣医の兄が行方不明になった異父弟を彼の妻とともに探すミステリです。大金持ちの病院経営一族の遺産相続がからんで、失踪事件は複雑怪奇な展開を見せますが、最後は極めて論理的に解決されます。特に、延々と謎解きを展開する名探偵役はいないんですが、半分を少し過ぎたあたりから玉葱の皮をむくように、少しずつ新装が明らかになる方向に向かいます。でも、出版社のサイトかどこかで「どんでん返し」であるといった紹介を見た記憶があるんですが、私はジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムとアメリア・サックスのシリーズを読んでいますので、それほど大きなどんでん返し、すなわち、事件が解決したと考えられる段階に達してから、さらにカウンター・ファクトが発見されたり、被害者と加害者が実はまったく入れ違っていたり、というような強烈などんでん返しではないように受け止めいました。でも、最後の最後に、それまで謎とされていて、解釈のつかなかったいくつかの事実が解明され、とても読後感は爽やかです。『陸王』と違って、キャラ立ちがとても鮮やかです。

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最後に、宮部みゆき『希望荘』(小学館) です。杉村三郎シリーズの最新作です。前作で今多コンツェルンの妾腹の令嬢と離婚し、一時は郷里の山梨に戻っていた杉村三郎が、いろいろな経緯を経て東京に戻って探偵事務所を解説し、さまざまな事件を解決するというストーリーです。いままで、このシリーズはすべて長編だと記憶しているんですが、この作品は連作短編集です。4編の短編ないし中編から編まれています。必ずしも時系列で陣番に並べてあるのではなく、3番目に置かれている「砂男」が山梨のころの物語です。砂男とは本書でも言及されますが、メタリカの「エンター・サンドマン」のことで、まあ、怪物です。サイコパスとして描き出されています。メタリカの曲はヤンキースの21世紀の黄金時代にクローザーを務めたリベラ投手の登場曲でした。ということで、いかにも宮部作品らしく細部に渡ってビッチリと記述されており、今回の作品では、杉村三郎の置かれた境遇が前作から大きく変化し、山梨での事件も収録されていますから、特に長くなっています。読後感のいいミステリだけではないんですが、この宮部作品のシリーズは1作目の『名もなき毒』の姉妹の関係から、どうしても毒々しいイヤミスに近い作品が多くなっています。でも、宮部ワールドは全開です。私のような宮部ファンはぜひとも読んでおくべき作品です。
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2016年09月17日 (土) 14:02:00

今週の読書は重厚な経済書をはじめとして計8冊!

今週の読書はかなり重厚な経済書をはじめとして計8冊です。まったくペースダウンできません。8冊ということになれば、1日1冊を少し上回るペースで読んでいることになり、土日なんぞがそうなっているわけですが、いくらなんでも、もう少しペースダウンしたいと思いますし、特に今週は経済書、それもボリュームもあれば、内容も高度で専門性高く重厚な経済書が何冊かあり、それ以外にも一般教養書とかで、とうとう図書館の予約の巡りのせいで小説が1冊もありません。この連休には少し小説を読みたいと予定しています。

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まず、岩田一政ほか[編著]『マイナス金利政策』(日本経済新聞出版社) です。著者は日経センター理事長で前の日銀副総裁です。きちんとした金融政策の解説書です。サンフランシスコ連銀のLaubach-Williamsモデルに基づく自然利子率の計測も示されています。日銀のマイナス金利につては、日銀のサイトの「5分で読めるマイナス金利」がそれなりによく出来ているんですが、さすがに、多くのビジネスパーソンやエコノミスト向けには本書の方がむしろ判りやすい気がします。上の本書の表紙画像にある通り、3次元で量と質とマイナス金利なんですが、私自身はマイナス金利は量的緩和が必ずしも想定通りに物価目標を達成できなかったためであると、やや厳し目に見ています。というのは、現在の日銀執行部が国会での質疑を受けた際に、現在の岩田副総裁が2年で目標を達成できなければ辞任すると大見得を切りましたが、まさに、兵力の逐次投入をヤメにして一気に短期間で勝負を決めるべきだったにもかかわらず、言葉の綾ですが、量的緩和での物価目標達成に「失敗」したわけで、もちろん、国際商品市況における石油価格の大幅下落という想定外の海外ショックが大きな要因ではあるものの、2年間の期間が量的緩和としてはいっぱいいっぱいだったような気がします。というのは、現在は年間80兆円で国債を買い上げているんですが、これだけのペースでオペを進めると、かなり短い期間で支柱の国債ストックが大きく減少するからです。そして、量的緩和で「失敗」すれば、後はマイナス金利しか残らないのは欧州の経験から明らかです。国債ストックがなくなりそうだという議論との関係で、量的緩和の国債買い入れペースをスピードアップするのはムリですので、来週に開催される日銀の金融政策決定会合で追加緩和措置がとられるとすれば、マイナス金利の深掘りであろうと私は予想しています。それから、長期停滞論 secular stagnation との関係で自然利子率が推計されています。状態空間モデルを組んでカルマン・フィルターで解くようです。私も何度かカルマン・フィルターは用いたことがあり、それなりにプログラミングも出来たりします。何かやってみようかという気にならないでもなく、いくつか基礎的なペーパーを読み始めたりしています。出足の遅い研究者であることは自覚しています。

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次に、 スティーヴン D. レヴィット/スティーヴン J. ダブナー『ヤバすぎる経済学』(東洋経済) です。著者は『ヤバい経済学』Freakonomics で一躍有名になった経済学者とジャーナリストです。シリーズとして同様の書籍が何冊か出版されているようですが、本書は2人が運営しているブログの記事をテーマ別に編集し直して章立てしてあります。英語の原題は When to Rob a Bank であり、本書の第9章と同じとなっています。ブログ記事そのままですから学術論文とは違って定量分析はなく、社会経済的な出来事、特にマイクロな分野の経済学的な解釈を行おうとするもので、いくつか仮説を立てて理論的な説明を試みようとしています。それが伝統的なマーケット分析だけではなく、というか、マーケット分析では決してなく、環境問題への対応などはまだしも、テロやタイトルにも取っている銀行強盗を含む犯罪行為の原因やその応用たる防止策の考察、また、その他の幅広い社会経済現象に対して、いわゆるインセンティブへの反応を合理的な人間行動の原理として解き明かそうと試みています。しかしながら、本書でもセイラー教授やカーネマン教授などの行動経済学者の説も取り入れつつ、レヴィット教授の勤務するシカゴ大学の合理学派一辺倒ではなく、それなりの広がりを見せた仕上がりとなっています。まあ、そろそろこのシリーズも、少なくとも経済学の専門家でない一般読者には飽きられつつあるような印象もあり、このラインで10年はよくもった気もします。経済学そのものが、『ヤバい経済学』が出版された以降のこの10年でかなり進歩したと私自身は実感していますので、このシリーズもおそらく何らかの進歩を取り入れるんだろうという気がします。行動経済学の要素なのかもしれません。

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次に、中澤克佳・宮下量久『「平成の大合併」の政治経済学』(勁草書房) です。著者はともに公共経済学の分野を専門とする研究者であり、まえがきにある通り、本書の特徴は、「意思決定」、「合意形成」、「財政規律」という3つのキーワードに基づいて「平成の大合併」を定量的に分析している点にあります。そもそも、平成の大合併とは明治の大合併と昭和の大合併に続く第3の市町村合併を中央政府が促進したムーブメントであり、明治や昭和に比べて市町村数の減り方が少なかったのは強制性が大きく低下しているからであると分析されています。その上で、中央政府が目指したスケール・メリット、規模の経済が結果として得られたかどうか、また、合併に至る経緯で、どのような属性の市町村が合併に前向きだったのか、などを定量的に分析しています。分析結果は多岐に渡るんですが、少なくとも財政状態に関しては、フローの財政とストックの財政で整合性ない結果が示されているなど、現状で平成の大合併がどこまで定量的に評価できるのか、疑問に感じる点も存在します。他方で、上位政府出身者の市町村長、すなわち、国家公務員や県職員などが市町村長を務めている場合は合併を選択する確率が高かったり、合併前に地方債を発行して合併後の規模を大きくした自治体に返済をつけ回すフリーライダーの傾向が見られたりと、いくつかの点では世間一般の評価と一致する分析結果も定量的に得られています。また、格差の点では、本書で初出というわけではないものの、市町村ごとにジニ係数を算出した細かな評価も試みられており、それなりに政治経済学的な分析としては受け入れられる結果だという気がします。ただ、いかんともしがたいのは現時点でここまで焦り気味に早期の評価を下す必要があるかどうかです。本書では、書き下ろしの冒頭第1部に比べて、第2部からは学術雑誌などに投稿された本格的な論文の体裁となっていて、データやモデルの提示などが詳細に渡っているんですが、第4章からのモデル選択の赤池情報量基準(AIC)を見ても、不勉強にして、私はここまで大きなプラスのAICは経験ありません。いろいろな研究には諸事情あることと思いますが、やや研究としてはいわゆる「生煮え」の部分が残されているような気がしてなりません。もちろん、著者たちも「中間報告」的な研究成果との位置づけを受け入れているようで、今後の議論の土台としては貴重な分析結果と評価することは出来そうです。

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次に、 ロバート F. ブルナー/ショーン D. カー『金融恐慌1907』(東洋経済) です。著者2人はともにバージニア大学ビジネススクールの研究者で、本書は英語の原題も邦訳そのままに2007年に我が国でも訳書が出版されています。その後、サブプライム金融危機のパートを書き加えて、今年新たに訳出されているようです。タイトルの通り、米国における1907年10月からの金融危機、ユナイテッド銅社に端を発する金融危機について、ジョン・ピアモント・モルガンを中心に、最後の貸し手たる中央銀行が存在しなかった米国金融界のパニック収拾についてドキュメンタリーを構成しています。英国の中央銀行であるイングランド銀行の創設が17世紀末で、バジョットが『ロンバート街』で中央銀行に関するルールを確立したのが19世紀後半ですから、米国の中央銀行たる連邦準備制度理事会(FED)が創設されてまだ100年ほどというのは意外ですが、その米国に中央銀行がない時代、しかも、製造業に加えて農業の収穫も金融に大きな影響を及ぼした時代の恐慌の歴史を明らかにしています。その際に、著者たちがモデルとして考えているのが「完璧な嵐」 perfect dtorm であり、以下の7点を要素として想定しています。すなわち、(1)複雑極まりない体系的構造、(2)バブル的な急速な経済成長ととの反動、(3)不十分な銀行資本バッファー、逆から見て、高いレバレッジ、(4)不確実性の高い政策を採用するリーダー、(5)金融システムを源とする実体経済へのダメージ、(6)過度の恐怖や極端な行動による負のスパイラル、(7)不十分な集団的アクション、あるいは、集団的アクションの失敗、ということになります。ただし、別のところで著者たちも認めている通り、1907年恐慌の最大の要因は流動性供給に融通が利かない金本位制に起因する部分も決して少なくないことから、2007-08年ノサブプライム金融危機とどこまで同じか、異なるかについては議論の別れるところだという気もします。もちろん、流動性供給に融通の利くフィアット・マネー・システムでもあれだけの金融危機が生じたわけですから、金融システムというものの脆弱性は筋金入りで折り紙つきかもしれません。

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次に、竹中平蔵[編著]『バブル後25年の検証』(東京書籍) です。一応、今年3月だか、4月だかの出版ですが、2013年に慶応大学で連続セミナーを実施した折のメモを起こしたものであり、章により最新情報にアップデートされているものと、まったくそうでないものがあります。アップデートされているかどうかは別にして、特に読んでためになるのは第2章の金融政策と第10章の消費者行動ではないかと思っています。おそらく、短期的には景気循環への影響がもっとも大きいのは金融政策であり、バブル崩壊後に日銀が金融政策を誤って不況を大きく長くした「罪と罰」は、こういったタイトルに関して議論する場合に大いに考えておくべきポイントです。バブル経済やバブル崩壊と関連する金融政策の選択肢はいくつかあるわけですが、当時の日銀のように、ともかくバブル経済を招かないという点に最優先のプライオリティを置くのは、政策運営としては簡単で、金融政策を引き締め気味にして、ギューギューに経済を下押ししておけばいいわけです。まさに、そのために長期不況が続き、日本経済はデフレにまで陥ったわけです。ですから、私の考えるバブル対応の要諦としては、バブルを招かないギリギリまで成長率を引き上げるか、あるいは、本書でも何人か主張している通り、バブルがステルスで認識されないとすれば、バブル崩壊が認識されると時を置かずに大規模な金融緩和に踏み切る、ということだと認識しています。それから、バブル経済の時点あたりから消費のあり方が変化したという主張も興味深く読みました。それまでの「三種の神器」とか、「3C」などの大衆消費社会の横並び的な少品種大量の消費ではなく、個性化した消費に移行したのがバブル経済のころである、という主張はそうかもしれないと納得させられるものがありました。さらに現在では、消費のサービス化やソーシャル化が進み、従来の感覚では「消費」とはみなされない消費がそれなりの割合を占めている、というのもなるほどと思わせるものがありました。最後に、慶応大学での連続セミナーの取りまとめペーパーは以下のリンクの通りです。それほどよく確認したわけではありませんが、勝手ながら本書と中身は大きな違いがないんではないかと想像しています。


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次に、米澤潤一『日本財政を斬る』(蒼天社出版) です。著者は大蔵省・財務省のOBで、本書は、よく判らないんですが、少なくとも出版社は自費出版の取り扱いで有名な出版社だと私は認識しています。国債や財政についての歴史を中心とするエッセイであり、それほどボリュームはないので、国債発行を国民感情一般とも通じる見方で「うしろめたい」と表現しています。マクロ経済学に関する知識はバックグラウンドにあるんだろうと思いますが、主として予算平成上の実務の面から、いわゆる「財政の硬直化」として解説を加えています。統計を基にした定量的な解説ではなく、歴代大蔵大臣の発言などを中心に構成するエピソード分析ですから、まあ、それなりのバイアスはあるものと考えるべきです。ただし、そもそも1965年度の本格的な国債発行の原因として、経常収支で大きな黒字を上げていた当時の我が国に対する国際的な内需拡大要求の一環として捉えており、それはそれなりに正しい面を含む認識だと私は受け止めています。加えて、ここまで公債依存が膨らんだのは、予算や財政の制度に欠陥があったからではなく、問題は運用にあったと指摘しており、これもおそらくそうなんだろうと思います。もっとも、読み進むうちに、どうしてうさん臭さはぬぐい切れず、本書の最後にある「財政はだれのものか」に対する回答について、著者は国民のものと明記していますが、「財務官僚のもの」と読み取りかねない読者がいそうな気もします。でも、国際的にも見ても、ここまで公債残高を積み上げた国は21世紀の平和な現代ではほぼなく、それにもかかわらず、政府にも国民の間でもそれほどの危機感は見られず、公債依存が常態化しているのは少し怖い気がしなくもありません。ところで、アマゾンのレビューで3人ともフルマークの5ツ星なのは、偶然でしょうか、ホントにそうなのでしょうか、それとも何かウラがあるんでしょうか。

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次に、ジョン・マルコフ『人工知能は敵か味方か』(日経BP社) です。著者は米国ニューヨーク・タイムスをホームグラウンドとし、ビジネス部門でテクノロジーを追うジャーナリストです。1988年入社とありますので、かなりのベテランです。なお、英語の原題は The Quest for Common Ground between Humans and Robots であり、2015年の出版です。ということで、お決まりの枕詞なんですが、ここ数年で人工知能(AI)やロボットの技術はかなり進歩し、いわゆるシンギュラリティといわれる技術的な特異点が2045年、すなわち、AIが人間の能力を上回る当たりに来るんではないか、ともいわれていたりします。私のような文系の経済学部を卒業した専門外の人間でも、グーグルの自動運転車やアップルのiPhoneに搭載されたSiriなどは耳にする機会も少なくありません。ただ、英語の原題が「ロボット」となっていて、私の直観的な認識では、ハードがロボットでAIはそれに搭載するソフト、と考えているんですが、タイトル的には混乱があるようにも見えます。そのあたりをゴッチャにして、本書では、1950年代から米ソの技術開発競争、特にスプートニク・ショックなどを含めて、軍事的な分野も包含する形で米国の技術開発が進み、それくらいまで時代をさかのぼってAIやロボットの歴史をひも解いています。その意味で、どこかの新聞の書評でAIやロボットが神話だった時代からの超有名人が実名で次々と登場する点を特記していた評者がいましたが、誠に残念ながら、専門外の私にはノーバート・ウィーナとか、フォン・ノイマンとか、ごく限られた人しか判りませんでした。エコノミストとして念頭にあるのは雇用の問題であり、ロボットやAIは人間労働と補完的な関係にあるのか、それとも、代替的な関係にあってロボットやAIが人間の雇用を奪うのか、という極めてステレオタイプかつ単純な疑問なんですが、本書ではロボットやAIと人間の関係を雇用や労働との関係だけでなく、より幅広く、将来我々はマシンをコントロールするのか、それとも、マシンに我々はコントロールされるのか、という趣旨の問いを投げかけており、最終的に、その回答を決定するのは開発者や研究者ではなく、我々ユーザーであると本書は結論しているように見えます。私レベルではなく、もう少し専門的な基礎知識があれば、もっと面白く読めそうな気がします。

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最後に、池内恵『サイクス=ピコ協定百年の呪縛』(新潮選書) です。今年5月にNHKが締結100年を記念して、報道特番を組んでいたらしいです。私は興味ないので見ていません。「サイクス=ピコ協定」とは英国とフランスが、第1次世界大戦後のオスマン帝国解体と勢力圏の確保をにらんで、秘密裏に合意した取り決めであり、現在の国境線に近いといわれていて、さらにバルフォア宣言とか、イスラエル建国に関する英国のいわゆる二枚舌外交なども含めて、このあたりまでは、まあ、高校とはいわないものの、大学の1-2年生の教養レベルのお話で、本書はほぼそのレベルといえます。西欧列強が自分たちの価値観や利害で勝手に植民地などの国境線を引いてしまう例はいくらでもあり、アフリカはほとんどそうですし、アジアでもニューギニア島なんぞは不自然な直線ラインの国境で分割されていたりします。私は3年間インドネシアに駐在しましたが、北部はボルネオと呼ばれるマレーシア領で、南部はカリマンタンと呼ばれるインドネシア領、という大きな島もあります。しかし、中東が注目され、紛争も多いのは、なんといっても石油が出るからです。本書は新潮選書の中東シリーズの劈頭を飾る1冊らしいので、今後石油に関する本も出るので本書では石油の「せ」の字も出て来ませんが、まさか見逃しているわけではないでしょう。さらに加えて、18-19世紀の帝国主義に時代の西欧列強的な国家観が、民族や地域を超えて世界的に普遍に成立するかどうかも問われるべきです。すなわち、国連では領土と国民と統治機構が国家の3要件となっていると聞き及んでいますが、中東あたりで砂漠の民がラクダなどの家畜とともにアチコチに移動する際に、その昔であれば、国境とか国籍は気にしていなかった可能性が高いんではないか、と私は想像しています。加えて、私の知っている範囲でも、過激派組織「イスラム国」(IS)は「サイクス=ピコ協定以前の状態に戻せ」との主張を繰り返していますが、本書ではまったく触れられていません。まあ、この1冊では最終章でアラビアのロレンスの映画に言及してお茶を濁すくらいですから、とてもモノになりそうな気はしません。
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2016年09月10日 (土) 13:58:00

今週の読書はペースアップしてしまって何と8冊!

ここ2-3か月、やや読書が過剰な気がしていましたが、先週末のペースダウンの固い決意にもかかわらず、今週も8冊読んでしまいました。7月、8月と研究成果のペーパーを取りまとめ、特に、8月末に取りまとめたリサーチノートは90ページを超える大作でしたので、仕事が一段落した雰囲気もあり、臨時国会が始まる前の今の時点でせっせと読書に励んでしまいました。来週もこうなるかもしれませんが、出来る限り、徐々にペースダウンしたいとは予定しています。

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まず、リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』(早川書房) です。著者はここ数年以内にノーベル経済学賞を受賞してもおかしくないクラスの経済学者です。特に、専門分野は本のタイトル通り、行動経済学であり、時折、実験を行ったりするので実験経済学にもかかるかもしれません。本書はセイラー教授の研究に関する半生を自伝的に行動科学とともに取りまとめています。英語の原題は Misbehaving であり、まあ、合理的でない経済行動という意味だと理解していますが、不具合のあるプログラムとか子供のイタズラなどの意味もあります。ということで、行動経済学ですから、経済合理的な行動をとるエコンの世界と、そうでなく、例えば、サンクコストにこだわったり、自分の持ち物に特に愛着を感じる保有効果などをもつヒューマンを例えとし、伝統的なアダム・スミス以来の合理的な経済行動・思考を前提とするモデルに対して、実験も行いつつより現実の経済活動に近い経済学を構築しようとする学問分野からの視点が提供されています。特に、合理性を前提とする伝統学派との対立や対決なども読ませどころかもしれません。もちろん、本書でセイラー教授が指摘する通り、合理的な経済モデルが間違っているとか、不要だというのは正しくなく、現実に対する第1次接近としては大きな意味があるんですが、行動経済学的な理論やモデルの構築も現実の経済を解明する上で役に立つような気もします。ただし、行動経済学に対して大きな疑問をかねてから私が持っているのは、マーケティングや広告などがすでに実務的に行動経済学の理論的な解明を大きく超えて実績を上げているんではないか、という点です。本書でいう超合理的なエコンは、私が想像するに、消費行動というか、商品選択に際して広告には一切影響を受けないような気がするんですが、実際には広告業界は高給取りであふれていますし、買い物客はそれなりにマーケターや広告から商品選択に関して影響を受けていそうな気がします。学問的には私の専門外ですが、どのような広告が販売促進に効果的なのかも一定の蓄積がありそうな気もします。おそらく、私の直観ですが、行動経済学の理論とモデルは、実際の広告代理店勤務の一般的なサラリーマンの実務的な能力にかなり劣っている可能性すらあるんではないかと危惧しています。そんな学問領域に関する本を有り難がって読む私もどうかという気がしますが、もう少し学問として学生に教育するに足るようなレベルに達して欲しい気がします。

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次に、スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』(文藝春秋) です。著者は米国の物理学の研究者であり、1979年にノーベル物理学賞を受賞し、すでに80歳を超えています。本書は英語の原題が To Explain the World であり、副題は邦訳本タイトルそのままで、米国テキサス大学における教養学部生向けの科学史の講義を基に出版されています。大学に進学したばかりとはいえ、いわゆる理系の大学生相手の講義を基にしていますから、読み進むとすれば、それなりの水準の基礎的な知識を必要とする科学書であると考えるべきです。そして、本書の最大の特徴としては、いわゆる「ホイッグ史観」に立っていることです。ですから、その特徴のひとつとして、現在の水準で過去を評価するという方法論ですから、現在の正当な歴史学には受け入れられそうもありません。また、「進歩を担った殊勲者」対「進歩に抵抗した頑迷な人びと」に分け、両陣営の戦いと前者の勝利として歴史を物語的に記述する歴史観ですから、ニュートンに至るまでは、常識的に偉大な科学の発見とか、歴史上の科学者とかであっても、容赦なく切って捨てられます。そして、だれよりもニュートンが高く評価されています。決してアインシュタイン的な相対性理論でニュートン力学が否定されたわけではなく、相対性理論の近似としてのニュートン力学が評価されているといえます。なお、どうでもいいことながら、最後に、本書では著者の専門分野である物理学、特に天文学を中心に議論が展開されますが、どこまでハード・サイエンスなのかエコノミストの私ですら疑問を持っている経済学に対して、著者がどのような見方を持っているのか、興味深くもありますが怖い気もします。

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次に、会田弘継『トランプ現象とアメリカ保守思想』(左右社) です。著者は共同通信のジャーナリストで、本書は、米国共和党の大統領候補に選出されたトランプ候補について、かなり批判的にその人物像や来歴などを解き明かしています。ただ、誠に申し訳ないんですが、本として中身が薄い気がします。第2章のトランプの生い立ちなんぞは、ビジネスマンとしての立身出世伝をほめたたえる内容になっていて、大統領候補としての思想信条の背景として何が重要なのかを大いにぼかしてしまう効果しかありません。むしろ、トランプとは関係薄そうな米国の思想史を取り上げた第3章で、ラッセル・カーク、ノーマン・ポドレッツらから始まり、ネオコン第2世代にいたる複雑な近代的なアメリカ保守思想の潮流を追った記述の方に筆の冴えが見られます。結論としては、単なるポピュリズムではなく、ワイマール化とその先にあるヒトラー的な独裁者の登場やファシズムの台頭などに対して警鐘を鳴らすのが本書の役割なんだろうという気がします。ただし、そこまで話を持って行くには本書はかなり力不足です。むしろ、トランプ現象が伝統的・正統的な米国保守勢力からどのように見られているのかについて、もう少し取材して事実を明らかにした方がいいような気がします。本書はジャーナリストらしいインタビューの結果ではなく、筆者の読書の結果に依存する部分の方が大きくなっており、「ジャーナリストの本」という前提で読むと物足りない可能性が高いと思います。それも含めて、私自身は余り大きな興味を持っていないので、何となくスルーしているんですが、世の中には多くの「トランプ本」が出回っているような気がしますので、本書がその中の1冊としてオススメできるかどうかは自信がありません。私が読んでいない中にもっとオススメ度の高い「トランプ本」がありそうな気がします。強くします。

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次に、今野敏『真贋』(双葉社) です。著者は売れっ子の警察小説作家であり、わが家でも上の倅と私なんぞはこの作者の「隠蔽捜査シリーズ」のファンだったりします。この作品も長編の警察小説であり、盗犯を担当する警視庁捜査3課第5係のベテラン刑事である萩尾秀一と、その部下の女性刑事の武田秋穂を主人公としているシリーズ2作目です。1作目の長編は『確証』で、2012年の出版となっており、私は読んだ記憶はありますが、中身はそれほど覚えていません。警視庁の中でも素人を相手にする捜査1課とプロの窃盗犯を相手にする捜査3課があり、このシリーズの主人公の刑事は捜査3課に所属しています。そして、前作『確証』ではこの捜査1課と捜査3課の確執を背景にストーリーが進められましたが、この作品では知能犯を担当する捜査2課の捜査官が、タイトルからほの見えるように、贋作を追って捜査3課と捜査を進めます。国宝の陶磁器、世界でも3作しか残されていない曜変天目のひとつをめぐって、所蔵美術館から百貨店の催事に貸し出された際に、ホンモノとレプリカが目まぐるしく入れ替わり、プロの窃盗犯、贋作つくり、故買屋に警備会社と警察がからんで、スピーディーな展開が楽しめます。前作の『確証』と同じで、とても想像できないような人的なつながりが明らかにされ、プロの犯罪テクニックの一端にも触れることが出来ます。細部のディテールを気にせずに、萩尾の見立てが不自然なくらい見事に当たっている点についても不問とし、流れるようなストーリーを楽しむべき作品です。あまり、本格推理っぽく論理を追い求めるべき作品ではありません。その意味も含めて、みごとなエンタメ小説です。

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次に、佐藤究『QJKJQ』(講談社) です。今年の江戸川乱歩賞受賞作です。西東京市の西武新宿線沿線の東伏見駅から連なる家に住む17歳の女子高校生が主人公で、ストーリー・テラーを務めます。両親も兄も、そして彼女自身も殺人鬼という猟奇殺人一家で育ち、彼女自身もナイフで人を刺し殺す場面から始まります。読み進むうちに、明らかに整合性に欠ける部分が現れ、その昔の『クラインの壺』のように、現実と虚構が入り交じる構成になり、しかも、それがメタ構造を形成していますので、かなり読み手にも読解能力を要求します。ただし、その割には、登場人物のキャラがかなり平凡、というか、ありきたりな気もしますし、エピローグ直前のバウンダリーキラーのパートで、主人公とその父を含む何人かがバトル・ロワイヤルよろしく殺し合いをしまくるのが、私には何がなんだかよく判りませんでした。控えめにいっても、ストーリー上は殺し合いに発展する必然性はないように私は受け止めました。加えて、登場人物がやたらと少なく、これだけ人が死ぬのに警察はまったく登場せず、少し常識から外れた視点を提供しているのも、読み進むうちに気にならなくなるようです。それから、この作品を離れて、最後の数ページで江戸川乱歩賞選考委員の選評が一挙掲載されています。有栖川有栖は本書を「平成の『ドグラ・マグラ』」とかなりの高評価を下していますし、辻村深月なんかは他の候補作には目もくれずに、本作だけを延々と論評していたりします。この選評も併せて読むと、この作品の面白さがさらに増すような気がします。加えて、『QJKJQ』というタイトルも凝っています。これは本書を読んで解き明かしていただくほかありません。

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次に、吉川洋『人口と日本経済』(中公新書) です。マクロ経済学の第一人者による人口と経済成長に関するエッセイです。200ページ足らずの新書ですから、通常の学術論文よりはボリュームあるものの、どうしても物足りなく感じてしまいますが、要するに、学術論文チックなメモにすれば5ページほどで終わりそうな気もします。すなわち、吉川教授の主張は経済成長と人口は関係なく、その根拠は第2章p.74の図表2-6で見る人口と実質GDPの乖離である、ということになります。根拠薄弱、という意見も出そうです。逆に、吉川教授は成長の源泉はイノベーション、特に新しい商品・サービスを生み出すプロダクト・イノベーションであると指摘します。量的な拡大である人口の増加と、質的なイノベーションを対比させようとしているんですが、そのように明記すればもっと判りやすいのに、と思わずにいられません。そして、幕間で人口減少について考察を加え、豊かになるに従って消費の選択肢は増えて、子育ての機会費用が高まる、という議論です。私が記憶するに、私の勤務する役所で官庁エコノミストの3条件、というのがその昔にありました。官庁エコノミストになるには、マージャンをしない、ゴルフをしない、子供を作らない、という3条件です。そして、誰から聞いたかは忘れましたが、マージャン、ゴルフ、子育ては極めて労働集約的で時間がかかることから、この3条件に時間を使うのではなく、ひたすら勉強しないとエコノミストにはなれない、という趣旨だと私は心得ています。私自身についていえば、さすがに今はマージャンやゴルフはせず、少なくとも人とするマージャンはしなかったんですが、30代から40代にかけて、海外勤務が多かったこともあり、せっせとマージャンやゴルフに励んだ時期があり、子供は2人もいたりしますので、3条件すべてに反していたりします。ということで、本書の読書感想に戻ると、 最後の第4章では消費の飽和やいわゆる定常状態について詳しく触れて、いかにもゼロ成長論を擁護するような雰囲気もあったりしますが、我が国では進歩史観が決して主流ではなく、円環史観というか、循環史観というか、グルッと回って元に戻る、といった史観が決して無視できないことから、本書のように、進歩史観が志向する成長を前面に押し出したエッセイはとても貴重な気がします。1点だけ、p.184において「長期停滞」をわざわざ "long stagnation" と英語で示しているところ、サマーズ教授らの用語の "secular stagnation" を避けたのは、後者の言い回しに人口や技術の停滞に伴う自然利子率の低下があるので、これを嫌った、と私は想像しているんですが、ほかにも何か意味があるんでしょうか?

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次に、宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書) です。著者は東大社研の研究者です。本書では、フランス革命に対峙したエドマンド・バークを保守主義の嚆矢と位置づけ、ロシアで革命に成功した社会主義に反対する保守主義としてT.S.エリオットや経済学者のハイエクなどを上げ、さらに、リベラル派の「大きな政府」に反対する保守主義として、ついつい、歴史上の偉大なエコノミストに目が行くんですが、ミルトン・フリードマンらの思想が、それぞれ取り上げられ、日本の保守主義の歴史や現状を概観した後、終章につながるという構成となっています。保守主義とは何かという本書のタイトルなんですが、本書の中でハイエクが自分自身を保守主義者でないとし、保守主義にはブレーキしかなくてアクセルがない、という趣旨のハイエクの発言を引いています。私はまったく同感です。保守主義の対立概念は進歩主義であり、さらにそれが強烈になると急進主義ということになろうかと私は考えています。ですから、本書の構成もそうなっていますが、王政の時代に民主主義的な方向を志向するフランス革命に反対し、民主主義の時代に社会主義に反対し、レッセ・フェールの政府の市場介入ない時代に政府の市場への介入に反対するのが保守主義です。ただし、それは歴史が進歩するという意味での進歩史観、その典型はマルクス主義ですが、進歩史観に立つ場合の見方であって、必ずしも進歩史観が主流ではない日本などでは保守主義というのが、本書でも取り上げられている戦後の吉田ドクトリンの系譜、ということになるんだろうという気がします。なお、進歩主義の強烈なのが急進主義としましたが、逆に、保守主義の強烈なのは懐古主義ということになり、社会主義に反対して民主主義を守ろうという方向をさらに強烈に逆回転させ、民主主義から王政に戻そうとするのが懐古主義といえます。そんな主張はホントにあるのか、と質問されれば、霞が関から永田町あたりを通って行く街宣車を見れば判ります。ということで、最後に、本書では右翼思想と保守主義を、左翼思想と進歩主義を結び付ける考えは希薄なような気がしますが、私はそのラインはアリではないかと考えています。どうしても、新書ですからボリューム的にも物足りない気がして、俗にいう「突っ込み不足」に感じてしまいました。

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最後に、本格ミステリ作家クラブ[編]『ベスト本格ミステリ 2016』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブ選・編の年刊アンソロジーであり、その名の通りの本格ミステリの短編9話と評論1編から成っています。今週もたくさん読み過ぎましたので、本書についての読書感想文は軽く済ませたいと思いますが、高井忍「新陰流"水月"」とか、松尾由美「不透明なロックグラスの問題」などのように読み慣れたシリーズものから再録された作品もある一方で、一田和樹「サイバー空間はミステリを殺す」がなかなか興味深く読ませてくれました。
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2016年09月04日 (日) 10:19:00

先週の読書はTPPのルポなど計7冊!

今週は僅かにペースダウンして、ジャーナリストによるTPPのルポをはじめとして、教養書や小説も含めて、以下の通り計7冊です。来週はもう少しペースダウンする予定です。

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まず、 山田優・石井勇人『亡国の密約』(新潮社) です。タイトルから明らかなように、昨年大筋合意されたTPPに関して、ジャーナリスト2人の手になるルポルタージュなんですが、実は、前半半分超のボリュームはウルグアイ・ラウンドでの国家貿易で輸入されるミニマム・アクセス(MA)米が、合理的な市場原理ではなく日米の密約により、米国産米のシェアが毎年47%と半分近くに達しており、米国産米の生産シェア1割程度からかなりかけ離れている、という主張を延々と繰り返しています。ややカンバンに偽りがあるんではないか、という気がしないでもありませんが、ウルグアイ・ラウンドからTPPに至る農産物貿易交渉を一括して取り上げる意図なのかもしれません。そして、著者たちの主張はp.236に見られる通り、TPPも骨抜きにされた、というものです。すなわち、聖域なき関税撤廃、金融・通信・知的財産権などの高度サービスを含めたルールの統一、といった新時代にふさわしい自由貿易協定であるべきTPPが経済学が主張するような最大厚生をもたらす自由貿易とはかけ離れた内容であり、中国が主導するAIIBに日米が対抗するTPP、という構図で経済よりも政治・外交の観点が優先した、との結論です。ということですから、著者のジャーナリスト2人はかなりエコノミスト的な観点に近く、自由貿易の利益を大いに肯定し標榜する視点からのルポといえるのかもしれません。また、日米同盟に関して、ビルマルクの言葉を引いて「同盟とは騎士と馬の関係」であるとし、日本は馬であって米国に従属する立場であることを示唆しており、日米関係についてかなり正確かつ講座派的な認識が示されていますし、ウルグアイ・ラウンド当時と今回のTPP交渉とで農水省のプレゼンスが大きく異なっている点について、小選挙区制の浸透・深化による農水族議員の凋落、と見ているのももっともだという気がします。いろいろと物足りない点もありますが、私のような貿易交渉に不案内なエコノミストには参考になる点もあって、それなりに興味深いルポでした。

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次に、上岡直見『鉄道は誰のものか』(緑風出版) です。著者は環境経済研究所代表という得体の知れない団体を主催しているようですが、化学関係のエンジニアを引退した方のようです。本書では、タイトルと大いに異なり、鉄道に対する期待の大きさとそれに比例した失望感が繰り返し何度も表明されています。基本はエンジニアの視点だという気もして、朝日新聞の書評で「理系の出身でありながら、問題意識はきわめて政治思想の研究者に近い」と持ち上げているのは少し理解できません。最初に、大都市圏の通勤・通学電車の混雑、あるいは整列乗車を評して、行列で有名になった旧社会主義国の商品出回り状況になぞらえているのは至極もっともとエコノミストの私も同感しますが、どうしてそうなったのかといえば、需要が供給を上回っているからであり、単純なエコノミストであれば価格=電車賃の引上げを提唱するのではないか、という気がします。あるいは、ラッシュアワーの電車の一定数を占める通勤サラリーマンの多くが交通費を定期券で実物支給もしくは実費支給されていて、事実上、価格メカニズムが働かなくなっているという点も見逃せません。ですから、著者のように混んでいる上に料金が高い、との指摘は矛盾しているわけで、本書でも取り上げているように、別料金を徴収して座れる電車、「ライナー」などと称されている特別列車などを利用するためには、あるいは、これをデフォルトにするためにはそれなりの運賃引き上げが必要そうな気もします。ただ、その背後には独占力というものがあり、東京をはじめとする大都会ではJRや民鉄の間である程度の競争がある一方で、ほとんど選択の余地ない地方では独占力を背景にサービスを低下させても需要は減少しないという事業者のおごりも垣間見えます。ただ、60歳過ぎというこの年齢の著者の見方ですから、第4章での障害者に対する見方は独特のような気がしますし、逆に、障害者の車いすにここまで着目しながら、ベビーカーには電車のドアに挟まれて事故を起こしたという以外の目が行き届かないのも悲しい気がします。もちろん、大都市圏においてもそれなりの独占力を持っている鉄道会社ですから、時折、こういった批判本が出てそれなりのプレッシャーをかけるのも社会的には必要なんだろうという気はしますし、最後のリニア新幹線に対する見方なんぞは私とかなり共通していることは否定しません。

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次に、栗山尚一『戦後日本外交』(岩波現代全書) です。著者は1990年ころのバブル期に外務省に事務次官を務めていた人物で、もちろん、キャリアの外交官です。天下り空いた後に、『アジア時報』なる刊行物に寄せていたコラムを取りまとめたものです。著者は2015年に亡くなっていますので、ひょっとしたら未完かもしれません。2部構成の計13章から成っているんですが、読む値打ちがあるのは第8章までです。戦後外交、というか、日本の方向を決定した吉田ドクトリン、すなわち、安全保障では米国の保護の下に入って、利用可能な政策リソースは経済発展に振り向ける、という外交政策から始まって、国連、自由経済研、アジアの外交三原則を踏まえつつ、安保条約改定、沖縄返還、日中国交正常化などの戦後外交の歩みを振り返っています。沖縄返還時の核密約など、私の腑に落ちない記述も決して少なくないんですが、第2部の最終章の憲法第9条の解釈、あるいは、明確に自衛隊は軍隊であると断定するなど、私の理解と共通する部分も少なくありません。著者は外交官試験の憲法に関する口頭試問で、自衛隊は軍隊であると明言した本書にと記しており、私も現在勤務している経済官庁に就職する際にマルクスの『資本論』全3巻を読了していると面接で述べたことを思い出してしまいました。著者が亡くなった後に編まれた書物であり、物足りない感は半端ないんですが、条約局勤務の長かった著者の外交感覚を伺える好著だという気がします。でも、繰り返しになりますが、大いに賞賛の的となっていた我が国のバブル期に国を背負った外務省事務次官ですから、すっかり先進国の中でも沈みきった我が国の現状を省みて、少し感覚的なズレがあるのは仕方ないような気がします。それから、評価はビミョーなところですが、外交はキャリアの職業外交官が担うべきか、国民から選ばれた選良たる政治家が担うべきか、そういった視点で読み進むのも一案かという気がします。

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次に、堀田江理『1941 決意なき開戦』(人文書院) です。エコノミストながら、それなりにヒストリアンを自負している私でさえ、馴染みのない著者が馴染みのない出版社から出した本ですが、ご本人が2013年に出版した Japan 1941 と題する本の日本語版らしいです。ボリュームの割には、どうということもない内容で、どこかの書評で「正統的な歴史」といった趣旨の表現を見たような気がしますが、極めてよく表現すればそうなりますが、逆からいうと凡庸極まりないともいえそうです。あとがきに、現時点で日米開戦の事情を記述するのも意味があるような著者の言い訳がありますが、賛同する読者がどこまでいるかは不明です。結局、天皇がxxしておけば…、とか、開戦反対だった海軍がxx…、とか、近衛総理がxxだったら…、とか、仮定のお話で開戦が回避できたような著者の見方には私はまったく賛同できません。これらは歴史家の語り口としてはやや奇っ怪な表現であり、どうして開戦してしまったのかを史料の解読を積み重ねて解明すべきところを、現実とは異なる仮定の話で開戦が回避可能だったようによそおうのは歴史家の態度としては疑問なしとしません。結局、結論としていえば、p.367にある通り、「結局は、誰も自らの身や組織を挺して、決定的に戦争に歯止めをかけることをしなかった結果が、開戦だった。」ということなんでしょうが、戦後70年を経てこの到達点かね、という気がしないでもありません。タイトルも英語タイトルと日本語とでビミョーに違っていて、決意のしっかりした開戦だったら、どうだったのかね? という疑問も湧いて来てしまいます。私個人としては欠のしっかりした開戦だった方が結果が怖い気がしないでもありません。いずれにせよ、終戦の日の前にはこういった本が出版されて、それなりに注目される歴史的経緯があるわけで、高校生の夏休みの読書感想文に好適なレベルの書物、という推薦は出来るかもしれません。ただ、何度か出て来る「同盟国」というのが英米の「連合国」らしいと私が気付いたのが、かなり読み進んでからでしたので、まあ、"Allies" の邦訳でしょうが、通常のヒストリアンや歴史研究者と少し違った用語が使われている点は注意が必要かもしれません。

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次に、ロビン・ダンバー『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト) です。著者はオックスフォード大学の進化心理学の研究者であり、私が知っているのは、強制的な規範や法を抜きに親しい安定した社会関係を維持できる人数の上限は150人、というもので、本書にも登場します。なお、本書は Human Evolution 、すなわち「人類進化」という現代で2014年に出版されています。要するに、本書ではヒトをケモノを分かつ点がいくつかあり、発声と会話、火を使った料理、社会的な集団形成などについて、何がこれらのヒト、というか、本書ではホモ属と呼ぶところのヒトの特徴をもたらし、それはいつごろなのか、という謎を解明しようとしています。その際のツールのひとつで重要な役割を果たしているのが pp.84-85 でアルゴリズムが示されている時間収支モデルです。エネルギーを得るために大量の時間を費やすのは非効率ですし、それを解決したのが火を使