2015年11月14日 (土) 09:54:00

今週の読書は経済書と専門書・教養書を合わせて小説なしで7冊ほど!

今週の読書は経済書を中心に、専門書・教養書を合わせて7冊ほどです。誠に残念ながら、小説はありません。以下の通りです。

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まず、マーク・ブライス『緊縮策という病』(NTT出版) です。経済書の扱いで読書感想文の最初に置きましたが、著者はスコットランド生まれの国際政治学者であり、現在はアイビー・リーグのブラウン大学政治学部の教授を務めています。しかし、中身は経済書ですので、解説はリフレ派エコノミストの早大若田部教授が書いていたりします。原題はそのまま Austerity です。原書は2013年に刊行され、本書は2014年に「あとがき」を加えたバージョンが翻訳されています。エコノミストではないので理論的な正確性は少し雑な気がしますが、財政政策や金融政策における緊縮策=引締め政策に対する否定的な見解を歴史と理論の両面から取りまとめています。特に、ひとつの視点として緊縮策は経済社会の構成員に平等に引締め効果を及ぼすわけではなく、上位30パーセントには引締め効果が及ばず、経済の不平等化を促進するという視点があります。この点については私はやや疑問視していますが、ほかについてはほぼ賛同するばかりです。緊縮策のひとつの発現形態であるワシントン・コンセンサスも他のリベラルな論調と歩調を合わせて否定的な見方を提供していますし、その昔の金本位制下における各国の金融政策の独立性の否定にも私は大いに同調しています。また、現在の欧州における共通通貨ユーロの導入については、離脱する選択肢がないという意味で、金本位制よりもより緊縮的な効果を及ぼす可能性を指摘しています。リーマン・ショック後の金融危機において、緊縮策を取ったアイルランドと清算主義を取ったアイスランドの違いも明瞭です。また、今後の政策のあり方についても p.322 以下で明らかにしており、金融抑圧と高所得者層への累進的な課税を論じています。最後に、イタリアのボッコーニ学派のいわゆる非ケインズ効果の実証については、本書でも2010年10月の国際通貨基金(IMF)の「世界経済見通し」World Economic Outlook 第3章分析編における研究成果を紹介していますが、実は、このブログでもこの分析結果は取り上げており、2010年10月4日付けのエントリーで、財政再建について論じています。最後の結論は「先進国の中で財政破綻する確率が最も高い国のひとつは日本なのかもしれません。でも、需要不足の現在の日本にどこまで財政再建が必要かどうかは疑問なしとしません。私はそういうタイプのエコノミストです。」で締めくくっています。本書に極めて近いスタンスを感じ取っていただければ幸いです。

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次に、モルテン・イェルウェン『統計はウソをつく』(青土社) です。表紙に見える通り、副題は「アフリカ開発統計に隠された真実と現実」となっています。著者はノルウェイ出身で、英国で学位を取りカナダの大学で経済史の研究を行っている准教授だそうです。開発経済学に関するアフリカ経済統計、特にSNAとして知られるGDP統計や日本でいう国勢調査に当たる悉皆調査の人口統計、センサスなどを徹底的な「上から目線」でやり玉に上げています。ということで、アフリカ諸国政府の統計局で努力しつつも十分に精度の高い統計を作成できないでいる行政官やエコノミストからすれば、不愉快な主張かもしれませんし、ハッキリ言って、本書 p.194 で提示されている「数字の有用性を評価し、主張するためには質的研究の技術が必要」とか、p.210 「数字を解釈するのに統計以外の技術が必要」との解決策は極めてお粗末なものであり、統計の不正確さをあげつらっている本書のその他の部分における論調とは釣り合いません。読者からしても、前者のアフリカ諸国の努力に重点を置く人ならば不愉快な書と感じるでしょうし、後者の制度の低い統計に重点を置けば、あるいは、痛快な告発の書と受け止めるかもしれません。私は前者に近いんではないかと考えています。最近におけるハード・ソフトのコンピュータの技術進歩に伴って、軽量分析手法は大きく進んだんですが、それを用いる統計の信頼性が追いついていないというのは事実ですし、特に、発展途上国におけるマクロ統計の信頼性が高くないことは本書の指摘する通りですし、私がこのブログの2012年7月13日付けのエントリーで取り上げたバナジー/デュフロ『貧乏人の経済学』などでも、マクロ指標ではなくランダム化対照試行(RCT)によるマイクロな検証が可能な開発手法に注目が集まっているのは本書でも取り上げられている通りです。しかし、国連のミレニアム開発目標(MDGs)でも明らかな通り、マクロの定量的な開発目標は途上国の経済開発に大いに促進するものであり、本書の主張する解決策よりもすぐれて重要であると私は主張したいと思います。それから、学術書ではないかもしれないんですが、p.283 で翻訳者に得々とミスを指摘される本も困ったものです。私も明らかなミスを指摘すると、結論の p.202 のバローの論文として引用元が p.272 注の(19)で示されている "On the Mechanics of Economic Development" はルーカス教授の論文だであって、本文で引用されているアフリカにダミーを入れたバロー教授の論文は "Economic Growth in a Cross Section of Countries" だと思います。開発経済学にたずさわるエコノミストであれば、空で言えるような論文の著者名にミスがあるのは、本書全体の信頼性を損ないかねないので、それなりの注意が必要かもしれません。

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次に、日本経済新聞社[編]『こころ動かす経済学』(日本経済新聞出版社) です。国内の経済学者12人によってマイクロ経済学の観点から、倫理観や道徳、幸福度などについて取りまとめています。構成が巧みで、個人や家族の倫理観や幸福などから始まって、職場での仕事上の組織やモティベーションに進み、最後はメンタルヘルスで終わっています。なかなか鋭い実証分析結果が内外の研究成果からいくつか示されており、p.127 では女性を対象にした幸福度の研究結果から、結婚後の幸福度については結婚1年目がもっとも高く、その後は次第に低下することが明らかにされています。女性だけでなく、男性もそうではないかと勝手に想像しているんですが、低下の仕方についても興味があるところです。線形に低下するのか、ロジスティック曲線のような低下を見せるのか、あるいは、その昔にマリリン・モンローが主演した映画で「7年目の浮気」というのがありましたが、クリティカルに急に幸福度が下がる年次があるのかどうか、それは男女で違うのか同じか、などなど、といった点です。他方、私のような経済政策との接点がそれなりにあってマクロ経済を対象にするエコノミストから見て、本書のようなマイクロな経済研究の限界も露呈しているように見えます。すなわち、幸福度研究の最後の p.137 にありますが、「幸福度の高い社会を目指すには、個々人がしっかりと所得を得られる基盤が必要」と指摘されています。マイクロな選択の問題で、合理性を論じたり、実験経済学で限定的な合理性を分析することなども当然に必要ながら、合理的あるいは限定合理的な選択できるようなマクロ経済の環境整備の必要性を忘れるべきではありません。戦争や動乱のような異常事態では合理性もへったくれもないでしょうから、所有権を保証する治安が維持されていて、その上で経済的には、個人の能力意欲に従って安定した職を得て社会に参加し、個人もしくは家族の生活に必要な所得を得ることが出来て、しかも、社会全体として生産活動が活発に行われて個々人やそれぞれの家族に必要な物資が行き渡り、あるいは、医療活動などの健康維持にもリソースを回す余裕が社会にあり、同時に、むちゃくちゃなインフレで人生の将来計画の設計が不可能になったりすることない経済社会の基盤の上で、その上で初めて合理的あるいは限定合理的な選択の問題や幸福度の計測などを論じることが出来るのだということは忘れるべきではありません。決して、マイクロな経済学がマクロ経済学より些末な問題を扱っていると主張するつもりはありませんが、リーマン・ショックによって、マイクロな合理的選択の理論と市場の合理性の問題は大きな疑問さらされたことも事実であり、マイクロな経済社会の基盤としてのマクロ経済学の重要性も十分に認識しておく必要があります。

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次に、円堂都司昭『戦後サブカル年代記』(青土社) です。著者は文芸評論家、音楽評論家であり、本書の内容としてはタイトルそのままなんですが、実は、さかのぼっても1964年東京オリンピックまでであり、「戦後」とはいっても実体的に追えているのは1970年台からです。もっとも、副題に見える通り、「終末」と「再生」がテーマのようですから、終戦直後の再生はともかく、1960年代までの高度成長期には「終末」はサブカル的にはあり得ないのかもしれません。少なくとも「終末」については世界的に考えてもローマ・クラブの『成長の限界』が出版されたのが1972年、その直後に第1次石油危機が生じていますので、そのあたりからなのかもしれません。いくつか不満はあるんですが、ひとつは活字メディアを中心に追っており、音楽や映画は余り重きを置かれていません。ですから、ウルトラマン、ポケモン、ドラえもんといったテレビ文化は「終末」とも「再生」とも関係ないと判断されたのか、ほとんど触れられていません。音楽もほとんどありません。それから、サブカルとはあるいは知的でもいいんですが、もっと軽やかなムーブメントだと私なんかは捉えていたんですが、どうも、著者の目からすれば反戦平和とか反原発とかが重点になるようです。それにしては、山上たつひこの「光る風」が出て来ません。「光る風」に焦点を当てつつ、「がきデカ」を無視する、というのが本書の立場ではないかという気もしないでもありません。どうでもいいことながら、私は朝日ソノラマの『光る風』上下巻を今でも持っていたりします。いずれにせよ、反戦平和とか反原発というのは、サブカルではなくてメインストリームのカルチャー、日本的にいえばハイ・カルチャーではないかという気がします。それから、ネトウヨについても触れられていますが、総理大臣官邸近くを通ることも少なくない私の観察では、左翼的な集団と右翼的な集団では年齢の差があるような気がします。すなわち、少なくとも私が観察した総理大臣官邸周辺で何らかの政治的な表現をしている人々の平均年齢を見ると、右翼的な表現をしている人のほうが圧倒的に左翼的な表現をしている人よりも若いような気がします。サンプルに偏りがある可能性は残りますが、ひょっとしたら、そうなのかもしれないと思ったりもします。

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次に、ダン・ジュラフスキー『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』(早川書房) です。原書は昨年の出版で、著者はスタンフォード大学の言語学やコンピュータ・サイエンスの教授だそうです。私が本書を読む限り、著者本人はユダヤ人的な風習・風俗に詳しく、著者の配偶者は中国系の血を引いているという事実が強く示唆されているような気がしました。なお、英語の原題は The Language of Food すなわち、食事の言語学的な解明を試みた本だと言ってよさそうに思います。ですから、ケチャップが中国語に由来するという事実から解き明かし始め、ます。曰く、今ではケチャップはトマト味に決まっているのに、どうして「トマト・ケチャップ」というのか、すなわち、トマト以外の原料を用いたケチャップが歴史的な原点であるということなんでしょう。ほか、花の flower と小麦粉の flour あるいは、マカロンとマカロニの語源とか、宣伝文句としては否定表現を用いるのが、例えば、「天然素材使用」というよりも、「人工素材不使用」といった方が、他の製品では人工的な素材を用いているような印象を与えやすくて効果的とか、言語学的な食品に関するペダンティックな知識が満載です。極めつけは、p.215 以下で音象徴の現象から、前舌母音よりも後舌母音を用いたブランドや商品名の方が、大きく重厚で濃密などのイメージをもたれやすい、というのがあります。また、本書には随所に料理のレシピが掲載されており、私のようにキッチンには入らず料理はしないという不調法者よりも、実際にお料理を楽しんでいる人により説得力ある議論が展開されているのかもしれません。最後に、英語の中で翻訳しにくい語として、物知り顔で "serendipity" という人造語を上げる人がいますが、私は前々から "gastronomy" を上げていたところ、本書 p.196 では「料理学」の訳を当てていました。「食道楽」くらいかと私は思っていたんですが…

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次に、フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』(海と月社) です。著者は知る人ぞ知るスタンフォード大学の心理学教授であり、心理学の実験としてはミルグラム実験とともに「残酷な心理学実験」として人口に膾炙したスタンフォード監獄実験の主宰者です。スタンフォード監獄実験が1971年ですから、本書の原書が2007年に刊行されているとはいえ、まだご存命だったとは知りませんでした。ということで、原注の手前までの本文750ページ余りの大ボリュームの書物ですが、そのうちの約420ページが11章構成でスタンフォード監獄実験に費やされています。このスタンフォード監獄実験については、かのエーリッヒ・フロムがジンバルドー教授からの資料提供を受けて1970年代半ばに『破壊 人間性の解剖』の中で論じています。そして、第12章と13章の2章で100ページに渡ってミルグラム実験などの他の悪をめぐる心理実験を取り上げ、第14-15章の2章170ページでイラク戦争後のアブグレイブ刑務所における米国軍人の残虐行為に焦点を当て、最後の1章60ページで本書を取りまとめ、悪につながらないための方策、英雄的行為などを論じています。主宰者としてのスタンフォード監獄実験の教訓については2点あり、「状況こそが重要」(p.350)と「状況はシステムによってつくられる」(p.373)ということです。要するに、個人の資質は否定されているわけで、状況やその基となるシステム次第で、どんな人も悪に染まる、ということです。そして、最終章ではそうならないための逆ミルグラム実験について論じられていたりします。また、悪を実行する場合、ブーバー的な用語を用いて「我-汝」ではなく、非人間的な「我-それ」から、「それ-それ」と非人間化が進むと p.368 で論じていますが、マルクス主義的にいえば疎外の問題だという気がします。殺人まで行かなくても、例えば、ポルノなどでは対象は人格を持たない、もしくは、否定された「モノ」化しているんですが、典型的なマルクス主義の疎外と言えます。ただし、疎外には有用な場合もあり、例えば、盲腸炎などの際に外科医が病巣を摘出するのは、少なくともその部位に人格の名残りを認めていない、とも考えられます。いずれにせよ、悪一般だけではなく、スタンフォード監獄実験について興味ある向きには、何せ、主宰者自らの著作ですので、それなりの知的好奇心が満たされる可能性があるんではないかと思います。

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最後に、玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』(ちくま新書) です。著者は文学部の歴史学科を卒業して、現在では経済学部の経済史の研究者となっています。そして、タイトルからは判然としないんですが、本書では、欧州内部の覇権の歴史ではなく、というか、それも含むのかもしれませんが、世界史の中で欧州が覇権を握った理由について分析や考察を加えています。何度か、このブログで私が主張した通り、少なくとも20世紀初頭の第1次世界大戦の前においては、欧州が世界的な覇権を握っていたと言いつつも、せいぜい18世紀中葉からの産業革命の結果であり、その産業革命がどうして欧州の辺境の地であるイングランドで生じたかは、不明とは言わないまでも、多くの歴史家やエコノミストの同意を集める見方、あるいは、仮説はまだ提示されていない、といったところだろうと私は認識しています。そして、言うまでもなく、第1次世界大戦後から、より明確には20世紀中葉の第2次世界大戦後、世界の覇権は欧州から米国に移っており、現在でもパクス・アメリカーナが続いていると私は考えています。ところが、本書では極めて特異な見方が示されており、欧州が世界に覇を唱えたのは軍事革命の結果であるとの見方を提供しています。ですから産業革命は脇に追いやられており、例えば、「イギリスが輸入した綿花がイギリスで綿製品となり、産業革命を引き起こしたのは、例外的現象であった。」(pp.120-21)とか、「イギリスは、確かに世界で初めて産業革命を成し遂げた、世界最初の工業国家であった。しかし、イギリスが世界経済のヘゲモニー国家となったのは、おそらくそのためではない。」(pp.186)との主張が繰り返され、英国がヘゲモニーを握ったのは地方分権的なオランダと違って集権国家であったために財政基盤が堅固で戦争遂行に適していた点を上げています。本書はおそらく欧米中心史観ではなく、中国やアジアを視野に収めたという意味で、グローバル・ヒストリーの学派に流れをくむのだろうと私は受け止めていますが、それにしても、ここまで産業革命を軽視する史観には初めて接しました。しかも、大学の刑事ア学部で経済史を講義している研究者の著書なんですから、軍事革命による欧州の覇権確立なんて見方も初めてで、私はちょっとびっくりです。新たな刺激が欲しい読書子向けの新書かもしれません。トンデモ経済史の本なのかもしれません。
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