2017年01月28日 (土) 14:49:00

今週の読書はかなりがんばって9冊!

今週の読書は経済書に教養書や専門書など合わせて9冊です。それほどでもない気もしますが、1冊1冊がかなり難しくて分厚かったので、強烈に大量に読んだ気になりました。来週もそれ相応にありそうな予感です。

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まず、鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』(東洋経済) です。副題が「あいりん改革 3年8か月の全記録」となっており、大阪のあいりん地区の改革の記録となっています。「改革の記録」ですから、ある程度は、上から目線の自慢話であることは覚悟すべきですが、読む前に覚悟したほどひどくはなかったと思います。でも、所轄の警察署に対して府知事から府警本部長を通じたルートで協力を迫るなど、かなり露骨な自慢話も散見されることは確かです。ただ、上から目線も自慢話もひどくはありませんので、その点は評価しています。もっとも、私の読み方が浅くて不足しているのか、何がポイントなのかは不明でした。おそらく、マイクロな経済学の応用分野なんだろうと思いますが、やり方としては小泉内閣のころの経済財政諮問会議を運営した竹中大臣の手法を自慢げにまねているようです。役所や抵抗勢力を恣意的に設定し、ムリなくらいのビーンボールを投げて、落としどころに落とすという手法です。そのなかで、最終章や本書の結論部分がまちづくり会議の運営と改革の方針決定で終っているのも理解不能です。とても意地悪な見方をすれば、要するに、あいりん地区の改革案について会議を開催して、直接民主主義的に作文した、というのが成果というわけではないのだろうと思いますが、私の読解力が不足しています。薬物取引の取締りや不法投棄ごみの削減などの成果が冒頭に出て来ますが、それと改革方針の作文との関係も私は読み取れませんでした。誠にお恥ずかしい限りです。私の直感として、極めて単純なマクロ経済学的にいえば、途上国の経済開発・発展は、すべてではないとしても、ルイス的な2部門モデルに基づき資本蓄積を進めて生存部門から資本家部門に労働移動を進めつつ、資本家部門での生産性を向上させるため労働の質の向上のために教育や職業訓練を行う、という一方で、本書の対象とするような先進国での貧困政策は再分配が大きな役割を果たします。本書でも住宅局だったかどこだったかで、「100億200億持って来なはれ」との断りだった、という部分があったように記憶していますが、ある意味では正当です。加えて、一般的な貧困対策と異なり、あいりん地区改革などの場合は、いわゆるルンペン・プロレタリアートと称される反社会的な組織、ハッキリいえば暴力団などへの対応が全記録たる本書から抜け落ちているのはやや気がかりです。さらに、私の直感ですから、どこまで正しいかは必ずしも自信がないんですが、マイクロにインセンティブを設計しつつ貧困対策を進めるのは、場合によっては合成の誤謬を生じる場合もあります。本書でも、役所の役人を動かすためのインセンティブを分析し、縦割り行政についてはコラムで取引費用から説明を試みたりしていますが、著者や著者とともにあいりん地区改革に取り組んだ、本書でいうところの「7人の侍」のインセンティブ分析はスルーしているのも、私には少し違和感を持って受け止めました。この「7人の侍」のインセンティブを役人と同様に分析し、さらに、コラムで現状維持バイアスについて解説すれば、本書の評価はさらに高まりそうな気がします。でも、このままでも十分に貴重な記録だと私は受け止めています。

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次に、ピーター・レイシー/ヤコブ・ルトクヴィスト『サーキュラー・エコノミー』(日本経済新聞出版社) です。著者も訳者もアクセンチュアというコンサルタント会社に勤務しているようです。英語の原題はそのままであり、直訳すれば「循環型経済」ということになりそうな気がします。その趣旨は、家電や自動車のような耐久消費財が典型なんでしょうが、今までのように、短いサイクルで製品をグレードアップさせて買い替え需要を生み出そうとするんではなく、日本的な表現なら「静脈系」までを視野に入れて製品作りを行い、廃棄物を最小化させようとする生産活動や経済活動のことを指しているんだろうと理解しています。例えば、「耐久性が高く、モジュール化され、再生産が容易な製品」(p.256)といった視点です。そして、その発想の基をなしているのは、どうも、ローマ・クラブ流の「限りある資源」とか、マルサス的な経済学ということのようなんですが、逆から見て、そういった循環型社会に適した製品やサービスの方が、地球環境保護や何やといった関心を高めた消費者から支持されており、需要が見込めるという事情もあるような気がします。また、シェアリング・エコノミーとの親和性も悪くなく、例えば、その昔はステータス・シンボルの意味もあった自動車の稼働率は決してよくないことから、本書でも、消費者はドリルが欲しいのではなく、穴を開けたいのである、と表現しています。ただし、本書ではシェアリング・エコノミーによって収入が不安定デメリットの少ないワーキング・プアが生み出されるという指摘は正当である、としており、主としてウーバーの運転手側の利用者をタクシー運転手になぞらえているような気がしますが、それなりに正確な見方をしているように私は受け止めています。そして、もっとも私が評価するのは、著者が本書で指摘している循環型経済を実現するために重視する政策手段として、第12章で課税対象を労働から資源に転換することを上げています。ここはいかにもローマ・クラブ的という気もしますが、明記しておらず、著者自身も認識していない可能性が高いものの、現在の市場経済における資源へのプライシング(価格付け)が循環型経済やサステイナビリティの観点から「市場の失敗」を生じていることを直観的に理解しているんだろうという気がします。それを税制によって相対価格を変化させて、循環型経済やサステイナブルな方向に持って行こうという発想なんだろうと、多くではないにしても、一部のエコノミストは理解するだろうと私は考えます。こういった本書のエッセンスのほかは、いかにもコンサルタント会社らしく、延々と海外企業や政府の循環型経済実践例が並んでいます。それはそれで悪くないのかもしれません。

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次に、猪木武徳『自由の条件』(ミネルヴァ書房) です。著者は大阪大学の名誉教授であり、やや古い時代を代表するエコノミストです。出版社の月刊誌に連載されていたコラムを単行本にして出版されています。副題に見える通り、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を中心に、民主制化の自由と平等を論じています。ただ、本書のタイトルの自由論について、J.S.ミル張りの議論を期待すると少し違和感あるかもしれません。そうではなく、本書の最初の方では民主制下の公共善を成す基礎的な条件をトクヴィルの著書を借りて米国に探りつつ、後ろの方では少し論点を変更して、逆に、民主制が学問・文化や尚武の精神にどのような影響を及ぼすか、という反対のルートについて論じています。ただ、この逆ルートについては著者は特に意識していないようにも見受けられます。いくつかの議論はあると思いますが、米国における民主制を補完する制度的な要件としてトクヴィルが上げている地方自治、結社、裁判の陪審制については、私は専門外ながら興味ある観点と受け止めました。また、メディアの役割も極めて常識的というか、ある意味ではありきたりの議論ながら、当然の筋道といえます。もっとも、英国や我が国では全国紙と地方紙が併存している一方で、米国にはほとんど全国紙は存在せず、ラジオやテレビの時代になって初めて全国レベルのメディアが誕生した点はもう少し議論されて然るべきかという気もします。また、トクヴィルにとって米国がかなり宗教的であったのが意外感を持って紹介されていますが、米州大陸は、主として中南米を念頭に置けば、カトリックにとっては宣教師による布教先であり、しゅごちて米国を念頭に置けば、清教徒にとっては本国における宗教的迫害からの避難先であったわけですから、欧州よりも宗教的な色彩が強いのは当然です。商業の拡大による国民性の違いに及ぼす影響もさることながら、製造業の発展によるマルクス的な規律が強化された国民性の進化、なども本書の視野に収めて欲しかった気がします。また、米国における学問の発展に寄与したのは英語という英国の下でかなりの程度に世界の共通語になった言語的な素地も見逃すべきではありません。そのあたりは、どうも行き届いていない印象があります。最後に、月刊誌の連載を単行本化したので致し方ない面もありますが、文章が荒っぽくて理解が進みにくくなっているような気がします。民主制とデモクラシーは使い分けているのか、それとも同義の言い換えなのか、ほかにも、月刊誌で月ごとに読んでいるのであればともかく、単行本にするに際しては編集者がもう少しキチンと修正すべきではないかという気もします。誤植も散見されます。「陸相」はその昔の陸軍大臣であって、自衛隊の階級は「陸将・陸将補」であろうと思います。

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次に、町田祐一『近代都市の下層社会』(法政大学出版局) です。著者は日大教員であり、歴史の研究者です。この著者の著書については『近代日本の就職難物語』を昨年2016年8月7日付けの読書感想文で取り上げています。本書もやや似通った分野であり、タイトルとは違って、あとがきのp.279にあるように、近代東京の職業紹介事業について取りまとめた学術書です。チャプターごとに基になる既発表論文が明らかにされています。ということで、口入れ業から始まって、浄土真宗や救世軍あるいはYMCAなどの宗教団体による職業紹介、そして、最後に、欧米を手本とした公的機関による職業紹介まで、明治末期から大正期にかけての近代東京における職業紹介の概要につき、各事業の成立と展開、国や自治体の政策などを体系的に検討し学術的に分析しています。ただ、現代のハローワークでもそうですが、こういった職業紹介事業では必ずしもステータスの高い職業が紹介されるとは限りません。本書が対象としている時代では、事務員や官吏などの紹介ではなく、人夫や女中の紹介などが中心を占めています。ですから、本書のタイトルのように、職業を紹介される前は下層社会を形成していたと考えるのもムリないところかもしれません。もともと、口入れ業と呼ぶのであればともかく、手配師と言えばほぼヤクザの世界ですし、本書の冒頭でも、ほぼ詐欺そのものといった桂庵=口入れ屋の実態が明らかにされています。ですから、かなり貧民対策に近い形で職業紹介が公的部門でなされたように考えられ、おそらく同時に職業訓練も提供されているような気がしますが、本書では職業訓練についてはスコープに入っていません。また、本書で少し残念に思うのは、経済社会の時代背景がまったく無視されていることです。短期的な景気循環に伴う労働需要の変動とともに、中長期的な経済発展に伴う需要される労働の質の高度化、それと同時並行的に進む教育制度の発達などの職業紹介の背景をなすような情報と切り離して職業紹介だけが単独で歴史的に跡付けて分析されていますので、読み物としては、すなわち、知らない時代の知らない事業ですから、新たな情報を得るための読み物としては、まずまずなのかもしれませんが、もっと職業紹介事業について広がりを持った政策論を展開するにはやや物足りない気もします。

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次に、ノミ・プリンス『大統領を操るバンカーたち』上下(早川書房) です。私が見た限りなんですが、今週日曜日の日経新聞で書評に取り上げられていました。著者は銀行勤務の経験もあるジャーナリストで、英語の原題は All the President's Bankers であり、2014年の出版です。タイトルから理解できる通り、ここ100年くらいを時間的視野に収めて米国大統領と米国の銀行・銀行家との関係を解き明かそうと試みています。巨大な金融機関の破綻はシステミック・リスクを引き起こしかねませんから、世界のほぼすべての国で銀行は強い規制を受ける産業であり、逆に、銀行は規制緩和によってより自由な経済活動を求める傾向があります。本書の上巻は第2次世界対戦くらいまでの期間を、下巻は戦後を対象としており、上巻の読ませどころは1929年からの世界恐慌なんですが、やはり、本格的に銀行業界が政治家を取り込み始めるのは戦後であり、下巻の展開がとても面白かったです。ケネディ大統領は銀行活動よりも国際収支の赤字によるドル流出に懸念を持ち、銀行業界との関係は必ずしも良好ではなかったとされており、暗殺との関係が記述ないものの、ニクソン大統領のドル兌換停止などの強い規制的な措置も銀行には評価されず、いずれもその後任者の銀行からの評価と比較対照されています。また、いわゆる米国の政府とビジネス界の「回転ドア」についても、政府と銀行の関係の深さを中心に取り上げられています。ジャーナリストの手になる本書ですから、どうしても人脈的な分析が中心になり、かつては、J.P.モルガンに代表されるような大金持ちの名望家層にほぼ独占されていた銀行経営者が、今ではそのような家系を必要としなくなった一方で、ストック・オプションをはじめとして従来では考えられないような高額の報酬を手にするようになった経緯なども明らかにされています。ただし、いくつか物足りない点もあり、いわゆる転換点における逆転の原因については、かなり原因は明白ではあるんですが、それだけに、もう少し丁寧に情報を収集して欲しかった気がします。第1に、英国と米国の逆転です。第1次大戦後に経済力の逆転があったのが背景になっていて、原因は明らかなんですが、英国側の情報も欲しい気がします。第2に、米国内の商業銀行と投資銀行の逆転です。本書にもある通り、ここ20年くらいはゴールドマン・サックスの天下となっており、かつてのモルガンなどの商業銀行から投資銀行に銀行業務の中心が移っていることは明らかです。本書でも明らかにされているレギュレーションQによる銀行預金金利の規制があった一方で、株式市場の発達とともに、日本的な用語で言えば「貯蓄から投資へ」米国家計の行動がシフトする中で、株式や債券への投資が厚みを増し、また、同時に当たらな資金調達手法のイノベーションもあって、銀行業務が商業銀行から投資銀行に移行しつつあるわけですが、すでに廃止されたとはいえ、グラス・スティーガル法の下で分離されていた商業銀行と投資銀行の思考や行動の様式の違いなどについても情報が欲しい気がします。

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次に、アダム・ロジャース『酒の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、ワイアード誌の科学部門の編集者です。英語の原題は Proof: The Science of Booze であり、2014年に出版されています。酵母や糖をタイトルとする章から始まり、人類がまだ地上に現れる前から酵母が糖を分解して酒を造っていた点を強調するとともに、そのアルコール分を蒸留して別の酒にするのはごく最近の人類の発明であるとしています。その後、樽に詰めて熟成させブラウン・リカーを作り出し、香味をつけ、酒を飲んだ人間の体と脳がどうなるかを論じ、最後は二日酔いで締めくくっています。実は、個人的な生活の範囲ながら、私は職場の歓送迎会や忘年会などを別にすれば、家庭外で酒を飲むことはほとんどしません。ここ10年以上はないような気がします。また、家庭内でもほとんど酒は飲まなかったんですが、数年前に地方大学で教員をした際に飲むようになってしまいました。1年生から4年生まで少人数のゼミナールをそれぞれ担当していたところ、1年生向けの「教養セミナー」と称する授業だけがどうにも苦手で、昼食時に当時の経済学部長も同じだと言っていましたが、その教養セミナーの授業があった日はビールを飲むようになってしまいました。明らかにストレス解消を目的としていました。そして、東京に戻ってから、ここ3-4年で夏の間にナイターを見ながら缶ビールを飲む習慣がついてしまいました。まあ、専業主婦と学生の子供2人を養うに足るお給料を働いて稼いでいるんですから、ナイターをテレビ観戦して、ひいきの野球チームを応援しながら、350㎖か500㎖の缶ビールを飲んでいます。そして、この正月にも飲むようになってしまいました。このまめ酒を飲む機会が増え続ければアル中になってしまうかもしれないと危機感を持って本書を読み始めた次第です。でも、酒については科学的にも社会的にもまだまだ解明されていない点がたくさん残されており、ワインのテイスティングがいかに根拠ないものか、二日酔いに関する科学的な解明がまったくなされていない現状、などなど、それなりに勉強になりましたが、本書をちゃんと読みこなすには化学や生物学に関するそれなりの知識も必要かもしれません。次の『カフェインの真実』とは異なり、酒を否定したり批判したりする内容ではありません。むしろ、酒をそれなりに肯定的に評価する本だと受け止めています。

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次に、マリー・カーペンター『カフェインの真実』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストであり、アストロズのホームグラウンドが近いそうですから、」ヒューストン在住ではなかろうかと想像しています。英語の原題は CAFFEINATED であり、2014年に出版されています。タイトルから容易に想像される通り、カフェイン摂取に関してかなり批判的な内容となっています。まあ、いずれにせよ、「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉がありますが、カフェインにせよ、先ほどのお酒=アルコールにせよ、もちろん、塩や砂糖に至るまで、個人差があるとはいえ、ほどほどに取る分にはいいんでしょうが、摂取し過ぎると害をなすわけですし、おそらく、食べ物や飲み物については米国では摂取過多となっている場合が多いんではないかという気がします。特に、役所のオフィスでも、若い研究者が厳しい残業の後にエネジー・ドリンクのカンやビンが転がっていることもありますし、必要な時は必要だという気がするものの、依存し過ぎるのもよくないのは明らかです。本書でも戦時の米国の兵隊さんがコーヒーを大量に飲用してカフェインを摂取していた事実が跡付けられていますが、日本はもっとひどくて、戦時中から戦後の一時期まで覚醒剤を推奨していたかのごときノンフィクションも私は読んだことがあります。例えば、すべてではないにしても、特攻隊で死にに行く若い飛行兵に覚醒剤まがいの薬物を与えたり、銃後ですら現在のブラック企業も真っ青の軍需工場などで工員さんに眠気を克服するような薬物を与えて作業させていたような調査結果も見たりしたことがあります。戦後でも、「ヒロポン」と称された覚醒剤のような薬物が広く出回っていたとの記録もあるやに聞き及んでいます。フィクションですが、『オリンピックの身代金』なんかはそういった過酷な作業現場を舞台にしていたりするんではないでしょうか。というような脱線はここまでにして本書に戻ると、カフェイン含有飲料で大儲けする食品飲料会社と、それを規制しようとする政府当局の攻防戦も取り上げられていますが、少なくとも、肥満をはじめとする米国の保健・健康問題や医療問題、あるいは、食品問題に関しては、カフェインに矮小化することなく、さりながら、カフェインも忘れることなく、バランスを取った総合的なケアを必要としている気がします。もうひとつは、特許や知財関係の問題なのかもしれませんが、これだけ乱立しながらも、カフェイン含有飲料でここまで大儲けできる経済とは何なのか、が気にかかります。砂糖の摂取方なども含めて、消費者の意識が低いということなんでしょうか。それともうひとつは、日本でもノンアルコール・ビールが売れ始めているようですが、米国でもカフェイン抜きのいわゆるデカフェが国際会議などで出されるようになっています。タバコはもはや「悪役」として立派な地位を占めているようですし、これでカフェインが槍玉に上げられるとすれば、次は何なんでしょうか。私は食品行政などはトンと知りませんが、やや気にかかる点だったりします。

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最後に、マーチン・ボジョワルド『繰り返される宇宙』(白揚社) です。自然科学に関する白揚社の刊行物を今週は3冊も読みましたが、その締めくくりです。物理学、特に宇宙論については、生物学の進化論とともに経済学との親和性が高いと私は勝手に見なしているんですが、その宇宙論を展開しており、特に量子力学のひとつであるループ量子力学理論に基づく宇宙論を論じています。この理論を使うと何かいいところがあるのかといえば、ビッグバンやブラックホールなどの宇宙論における特異点を使うことなく、整合的に宇宙論が展開できる点にあります。とても昔の2010年3月23日付けの読書感想文で、モファット教授の『重力の再発見』を取り上げていますが、『重力の再発見』ではダークマターやダークエネルギーの存在が不要になり、同時に、本書と同じように特異点の仮定も不要となると記憶しています。経済学と物理学の親和性というか、勝手にエコノミストの方から親近感を持っているだけなんでしょうが、やっぱり、現実に即しながらもやや簡略化したモデルを用いて、モデルも含めて数学を多用した解法を用い、そして何よりも情報の生成される過程を決定論的ではなく確率論的に考えるという点で、一定の共通点はあるような気もします。他方で、物理学に特段の知識のない私のようなシロートにとっては、ビッグバンやブラックホールなどの特異点とか、ダークマターやダークエネルギーの方が惑星の重量よりも1-2桁多い、とか言われてしまうと、何やら理解不能なだけに、関西弁で言うところの「気色悪い」気がしてしまいます。そういった仮定を置かなくても宇宙を理解できるのであれば、その方が望ましいような気もしますし、他方、私も何度かこのブログで歴史観を披露していますが、歴史とはかなり一方的に進歩し、それを食い止めようとするのが保守で、さらに逆戻りさせようとするのが反動と呼ばれ、歴史の進歩はある程度は確率論的に微分法的式に乗りつつも、完全に微分方程式に従うのであれば、初期値さえ決まってしまえばアカシック・レコードやラプラスの悪魔のように、未来永劫までも決定されかねないので、歴史の流れに中には微分不可能で何らかのシフトとかジャンプと呼ばれる特異点のようなものがある、と考えています。その意味で特異点も私自身は容認しています。でも、時間の流れである歴史観と空間的な把握である宇宙論は、物理学的には同一で、例えば、ブラックホールでは時間と空間が入れ替わると言われており、また、私のようなシロートは、ビッグバンは時間の中の特異点で、ブラックホールは空間における特異点と考えていましたが、実は、本書を読めば、どちらも時間軸における特異点であることが理解できます、いや、理解できるというか、理解できないまでも、そう宣言されていて、物理学的には時間と空間はそれほど区別すべき要素ではないのかもしれませんが、やっぱり、私にとっては時間と空間は違うわけで、その意味で、歴史観と宇宙観の統合を図るべく、こういった物理学の宇宙論についても今後ともひも解きたいと思います。本書については、ほとんど中身が理解できなかったので、適当にごまかしています。悪しからず。
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