2017年05月06日 (土) 13:58:00

今週の読書はゴールデンウィークでサボって計6冊!

今週はゴールデンウィークということもあり、ボケボケと過ごしています。読書は以下の通りで、計6冊です。

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まず、エステル・デュフロ『貧困と闘う知』(みすず書房) です。著者はこのブログの読書感想文でも2012年7月13日付けで取り上げた『貧乏人の経済学』の共著者であり、米国マサチューセッツ工科大学の開発経済学を専門とする研究者であり、同時にフランス開発庁の資金供与による「貧困と闘う知」講座の初代教授でもあります。本書はその講義録であり、フランス語の原題は LE DÉVELOPMENT HUMAINLA POLITIQUE DE L'AUTONOMIE となっていて、副題がともに Lutter contre la pauvreté のⅠとⅡです。原書は2010年の出版です。副題を邦訳書のタイトルとし、第1部が人間開発、第2部が自立政策と題されていますから、メインとサブのタイトルを逆転させつつも、ほぼ直訳といえます。邦訳された本書の第Ⅰ部では教育と健康が、第Ⅱ部ではマイクロファイナンスとガバナンス・汚職がそれぞれ取り上げられています。『貧乏人の経済学』でも注目されたランダム化比較実験(RCT)を駆使して、低開発国における経済発展の方策を探っています。第Ⅰ部の教育と健康については、まあハッキリいって、常識的な結論が得られています。いずれも外部性のある分野であり、政府の援助プログラムの有効性を検証しています。メキシコのPROGRESAの成功などを取り上げ、イースタリー教授らの政府援助を廃してインセンティブに基づく制度設計ではなく、サックス教授のようなビッグプッシュに至る前に政府開発援助が有効であることを確認した結果となっています。常識的というか、今さら感すらあって、特に目新しくもない一方で、興味深いのは第Ⅱ部です。特に、第3章はマイクロファイナンスを問い直す、と題され、金融へのアクセスについて分析が進められていて、元祖ともいうべきグラミン銀行の連帯責任の下での女性に原則特化した融資制度について検証を行い、取りあえず、現在のところ、男性と女性にランダムに融資した実験というものはなく、逆から見て、女性への融資が特に効果的であるというエビデンスはないと主張しています(p.117)。ただ、本書の著者に表現では「信頼できる評価を利用することができない」ということであり、本書でも認知されているように、女性に対する教育の充実が経済発展のゴールデンルートであることは多くの開発経済学者で共有されており、何らかの性差はあるのかもしれない、と私は考えないでもありません。当然ながら、マイクロファイナンスは開発経済学の実験材料を提供するために実施されているわけではありません。加えて、元祖のグラミン銀行とともにメキシコのコンパルタモスの例を引きつつ、逆選択、モラル・ハザード、情報の非対称性などの金融サービスにつきものの問題点についても考察を進めており、さらに、金融に限らないテーマとしてソーシャル・キャピタルの形成や取引費用についても論じていますが、結論はそうクリアではありません。

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次に、J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社) です。米国のいわゆるラスト・ベルト=錆びついた工業地帯に生まれ育ち、高校卒業後に海兵隊からオハイオ州立大学とイェール大学ロースクールを出て弁護士となり、現在はシリコンバレーで起業した会社の社長を務めるいかにもアメリカン・ドリームの立志伝中の人物が自伝的に自分自身の生涯、イェール大学のロースクールを出るあたりまでを綴っています。ヒルビリーとか、レッドネックなどと呼ばれる米国の白人貧困層の赤裸々な生活実態が明らかにされています。作者は自分自身について、白人にはちがいないが、ニュー・イングランドなどのアメリカ北東部のいわゆるワスプ=WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)に属する人間ではなく、スコッツ=アイリッシュの家系に属し、大学などの高等教育を受けることのない労働者階層の一員として働く白人アメリカ人の家系で出であると位置づけています。そして、何がヒルビリーをヒルビリーたらしめているかという点については、経済社会的な雇用の質の低下などではなく、本書の著者はヒルビリーたち自身の思考パターンや行動原理を問題視しています。見栄っ張りで自分たちが上流階級にいるかのような金の使い方、あるいは、我慢ができずにすぐに暴力に訴えるやり方、また、社会的な秩序を軽視ないし無視し力による支配を目指したり、教育の価値を理解せずに女々しいことと捉えたり、などなどといた個人レベルの問題点をいくつか本書の中で指摘しています。もちろん、成功したアメリカン・ドリームの体現者が上から目線で評論家のように指摘しているという嫌いはありますが、ひとつの見識かもしれません。昨年の米国大統領選挙のトランプ大統領誕生の背景となる米国経済の一面を垣間見ることができるかもしれません。

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次に、小木津武樹『「自動運転」革命』(日本評論社) です。著者は慶応大学出身で群馬大学の工学研究者です。ですから、ソフトウェアかハードウェアか知りませんが、自動運転に関する工学的な専門家といえます。ただ、本書では社会経済的な影響についても考察しています。工学的なソフトとハードの解明については、私は専門外でどこまで理解できたのかは自信がないんですが、第3章の自動車産業への影響、最終章第7章の自動運転の未来像については、私でもとても興味深く読めました。自動車産業については、コストカットの低価格路線かニッチな市場の探索か、という二極化の方向が示されていますが、少し物足りません。というのは、自動車産業に限らず、製造業や付加価値の低いサービス産業など、かなり多くの産業セグメントが、少なくとも日本においては、この両極化の方向をたどる可能性が高いからです。自動運転の専門家としては、工学の専門外かもしれませんが、こういった一般論ではなく、もう少し突っ込んだ議論を展開して欲しかったところです。最終章については、あくまで工学的な可能性に基づく推論としても、とても興味深かったです。すでに公務員の定年の60歳に手が届こうかという私にとっては、およそ平均寿命の先の未来も含まれていたりしますが、確かにこういった方向かもしれないと思わせるものがあります。ただ、2点だけ異論をさしはさむと、ユーザの年齢層を考えると、本書の著者が主張するように、運転技能の低下を自覚した高齢者層から自動運転車が普及するのではなく、自動車を単なる移動手段としか考えないミレニアル世代から普及しそうな気がします。というのは、高齢者はあくまで運転技能の低下を自覚しなさそうだからです、最後まで手動運転にこだわって事故を頻発させるのは、現状でもそうですが、高齢者ではなかろうかという気がします。もう1点は、手動運転を喫煙に例えていますが、高齢者が自分の運転技能に対する誤った評価に基づく手動運転にこだわる例を別にすれば、私は逆だろうと思っています。すなわち、洋服に対する着物のような位置を占める可能性が高いと私は想像しています。例えば、いつの時点かは忘れましたが、ポルシェのCEOがポルシェのオーナーなら自分で運転したいだろう、と発言して、自動運転の技術開発に消極的な姿勢を示したことがあります。こういったカンジではないでしょうか。いずれにせよ、ここ何週間かで自動運転に関する本を何冊か読みましたが、いよいよ時代の流れがそうなっていることを実感させられました。

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次に、吉田修一『犯罪小説集』(角川書店) です。作者は我が国を代表する小説家の一人です。それにしても潔いタイトルです。『怒り』や『悪人』に連なる系譜の作品と私は受け止めています。すなわち、犯罪に関連する短編集であり、「青田Y字路」、「曼珠姫午睡」、「百家楽餓鬼」、「万屋善次郎」、「白球白蛇伝」の5篇が収録されています。何らかの意味で、実際にあった犯罪行為を作者なりにデフォルメしているんではなかろうかと思いますが、オモテの世界の公務員である私には、3話目の「百家楽餓鬼」が大王製紙のギャンブル事件であるとしか判りませんでした。少し違うかもしれませんが、最終話の「白球白蛇伝」は清原なんでしょうか。ただ、こういった実際の事件とは無関係に読む方が、自由にイメージを膨らませて読む楽しみがあるのかもしれません。簡単に5話を要約すると、女児が行方不明になったことで揺れる小さな村の夏、三角関係のもつれで店の客に内縁の夫殺しを依頼したスナックのママ、バカラ賭博で何億もの借金を重ねる大企業の御曹司、老人たちの集落で孤立した60代の「若者」が振るう凶刃、華やかな生活から抜け出せなかった元プロ野球選手の借金の末の凶行、と並びます。犯罪や罪の行為に関する作者の鋭い、鋭すぎる目線を通じて、犯罪を犯してしまう人間とその犯罪者を取り巻く周囲の人間たちが浮かび上がってきます。何ともいえない哀情あふれる哀しい行為とその犠牲となった人々のさらなる哀しみが胸を打ちます。

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次に、村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP研究所) です。著者は私はよく知りませんが、童話や児童文学やファンタジー小説などを出版しているようで、私はこの作品で初めて接しました。主人公の月原一整は地方都市にある老舗の百貨店のテナントである銀河堂書店に勤め文庫本を担当する物静かな青年であり、人づきあいが苦手なものの埋もれていた名作を見つけ出して光を当てるケースが多く、店長から「宝探しの月原」と呼ばれ信頼されていたんですが、ある日、店内で起こった万引き事件の犯人の中学生が百貨店を飛び出したところに自動車事故にあい、万引き犯とはいえ配慮を欠いた行動として銀河堂書店を辞めて、ネット上のSNSでのお付き合いから、この作品のタイトルとなっている桜風堂書店に勤務します。そして、銀河堂書店から桜風堂書店にかけても、テレビドラマなどのシナリオライターが初めて挑み、最初から文庫本で発行される小説の販促に力を入れる、というストーリーです。小説に登場する人物相関図が出版社の特設サイトにあるんですが、とてもキャラの作りが平板で、しかも、「小説は事実よりも奇なり」というカンジで、ご都合主義的に出来上がっていて、読んでいて感動がないというか、少なくとも、ビジネスを経験した大人の読者には感情移入が難しいような気がします。要するに、おままごとのような書店経営が透けて見えます。というか、経営者ではない書店員の受け止めはこんなものかもしれませんが、1か所だけアマゾンが登場して、登場人物もSNSなどで盛んに情報交換・交流したりする一方で、なぜか、書籍販売だけは出版社の営業も含めて超アナログだったりします。このあたりの矛盾に気づかずに書き進んだり読み進んだりする神経が私にはよく理解できません。しかも、本を売る側のセルサイドの主張がいっぱいある一方で、バイサイドの読者側の感想がなくはないものの乏しいような気がします。顧客のニーズを書店員が作り出すという昔懐かしい発想の営業活動なのかもしれません。いずれにせよ、ストーリーといい、登場人物のキャラといい、私の読みたい小説のレベルには達していなかった気がします。楽しく読めましたが、児童文学っぽい平板な印象でした。もっとも、中村文則のようなノワール小説も私には理解できませんが、その逆の児童小説っぽいこの作品も評価しません。

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最後に、深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書) です。著者は東洋英和女学院大学の研究者であり、専門分野はドイツのプロテスタンティズムのようです。ということで、今年2017年はルターが95か条の提題により宗教改革の幕を切って落とした1517年からちょうど500周年に当たります。その宗教改革によって発生したキリスト教の新派であるプロテスタンティズムについて本書は論じています。一般的に、カトリシズムがバチカンの法王や法王庁を頂点とするピラミッド型の宗教である一方で、プロテスタントについては聖書が何よりの拠り所ですから、その解釈によっていろんな派閥に別れるとされています。また、私のような仏教徒には理解し難いんですが、本書でも取り上げられている通り、アウクスブルクの宗教平和により領主の信ずる宗教がその領土・領民の宗教となります。その最も典型的な例が英国国教会であることは言うまでもありません。王権神授説もさることながら、ヒストリアンとしての私の解釈によれば、領主裁判権が神の名の下に実行される影響ではないか、と考えているんですが、日本の江戸期などの封建制よりも農奴としての土地への緊縛の度合いが高かった欧州における宗教的特徴のひとつといえます。本書の最後の2章は保守としてのプロテスタンティズムとリベラルとしてのプロテスタンティズムを論じていますが、当然ながら、後者の典型例がヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』となっています。二重の予定説として、神の祝福を受ける人は現世で成功しているから、しっかり働いて社会経済的に成功することが天国への近道、という見方です。そして、本書では、私もほのかに感じていますが、ルターの信仰義認と浄土真宗の他力本願がとても似ていると指摘しています(p.63)。
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